それでも灯を運ぶ人々
爵位を失った翌朝、リセラは仕立屋の奥にある物置を借りた。
窓は小さく、壁には去年の冬に売れ残った布地が積まれている。星灯を吊るすための金具もなければ、光脈を測る器具を置く台もない。それでも、屋敷の広すぎる応接間より、ここはずっと仕事を始める場所らしく思えた。
「まずは掃除だね。糸くずが多いと、星糸を落としたとき見つけにくいから」
仕立屋の女主人マルタが、箒を片手に言った。
「仕事場を貸していただくだけで、十分です。掃除までお願いするわけには」
「うちは針仕事の店だよ。場所を貸すなら、使いやすくするのも店主の仕事さ」
マルタは、リセラの返事を待たずに窓を開けた。朝の冷たい風が、布地の間にこもった埃を外へ押し流す。
リセラは小さな机を借り、母の針入れと帳面を並べた。資格証はもうない。商会との契約もない。けれど、昨夜書いた表紙の文字だけは、今も消えていなかった。
――私の工房を、私の手で始める。
その一行を見つめていると、店の表から声がした。
「星縫いの嬢ちゃんはいるかい」
入ってきたのは、眠り街から王都へ戻る馬車に同乗していた井戸番の老人だった。名をオルドという。手には、古びた木箱を抱えている。
「灯守仲間から預かってきた。古い合図札と、記録の写しだ」
木箱の中には、煤けた札が十数枚と、端の欠けた紙束が入っていた。紙には、街路ごとの灯の点検日と、光脈の流れが簡単な線で描かれている。王立灯路局の正式な台帳ほど整ってはいない。だが、数字の横には必ず、誰がどの灯を見たかという名前があった。
「これを、どうして私に?」
「お前さんが、灯の前で名前を聞いたからだよ」
オルドは椅子に腰を下ろし、節くれだった指で紙束を叩いた。
「局の役人は、何本直したかしか聞かなかった。お前さんは、誰がその灯を待っているのか聞いた。だから、これはお前さんの記録だ」
胸の奥に、細い熱が灯った。
そこへ、公開工房で星灯の下を歩いた人々が次々に訪れた。夜道で転びかけた子どもの母親。暗い井戸から水を汲んでいた若者。灯祭りのために紙飾りを作った少年。彼らはそれぞれ、覚えていることを書いた紙を持ってきた。
灯が消えた日。商会の荷車が来た時刻。王都へ向かう管路の弁が開いていたこと。誰がどの路地で、何日間、明かりを失っていたか。
証言は、最初はばらばらだった。
「この通りは、春の終わりから暗かった」
「いや、うちの角灯が消えたのは夏の初めだ」
「その二つは同じ夜だよ。雨が降って、子どもが熱を出した日だから覚えている」
マルタが証言を読み上げ、リセラが日付を照らし合わせる。オルドが合図札の印を説明し、若者が荷車の車輪跡を描いた。レオンは机の端に立ち、誰の話にも口を挟まず、地図の上へ印を置いていった。
やがて、点が線になった。
眠り街の灯が弱まった夜と、王都の大通りの星灯が急に明るくなった夜。その二つは、同じ弁の操作でつながっている。
「この記録は、証拠になります」
レオンが言った。
「正式な台帳ではない。だが、複数の人間が同じ事実を別々に記している。改ざんされた台帳より、現場の時間を正確に残している可能性が高い」
「可能性、ですか」
「裁定を覆すには、可能性を積み重ねる必要がある」
彼は地図の上に、新しい紙を置いた。王都へ向かう光脈の分岐を、赤い糸で結んだものだった。
「明日の朝、王宮の審議に提出する。局長は、資格を失った君が記録を扱うこと自体を問題にするだろう」
「だから、私一人の記録にしないのですね」
「そうだ。これは、灯を待っていた人たちの記録だ」
リセラは窓の外を見た。昼の王都は明るい。けれど、通りの先では昨夜も灯の消えた路地があり、そこを人々が手探りで歩いている。
資格がないから、針を持てないわけではない。爵位がないから、暗闇を暗闇だと言えないわけでもない。
ただ、今度は一人で灯を直すのではない。誰かが紙を運び、誰かが名前を貸し、誰かが地図を支える。リセラはその真ん中で、証言の束を一冊の帳面に綴じた。
「明日、王宮へ行きます」
彼女が言うと、マルタは針山から太い針を抜いた。
「なら、その服のほつれを直しておいで。王宮の床は、裾を引っかけるほど滑らかだからね」
「仕事の話をしているのに、服の心配ですか」
「仕事だからこそだよ。自分の足で立つ人間は、裾を踏まない」
マルタは笑い、リセラの外套の破れを手早く縫い始めた。
少し離れたところで、レオンが荷物をまとめている。リセラが視線を向けると、彼はいつもの無表情のまま、赤い糸の束を差し出した。
「王宮の大広間では、光脈を実演できるようにしておく」
「あなたの資格も危うくなります」
「すでに、局の命令に反した測図官だ。今さら一つ増えても変わらない」
「それは、軽く言うことではありません」
「軽くは言っていない」
レオンの目が、まっすぐにリセラを捉えた。
「君の隣で仕事をすると決めた。決めたことは、地図に書いた線より簡単には消えない」
リセラは赤い糸を受け取った。指先に残る微かな光が、冬の朝のように冷えた心を温める。
その夜、物置の小さな窓から、ひとつだけ星が見えた。
リセラは針を通し、持ち寄られた記録の束を、ほどけないように綴じた。
失ったものを数えるためではない。
誰が灯りを運び、誰が暗闇の中で待っていたのかを、もう誰にも消させないために。




