契約も身分も失った日
三日という期限は、針を通すには短く、失うものを数えるには長かった。
一日目、リセラは異議申立ての書類を書いた。眠り街の測図、灯守の証言、公開工房で集まった署名。レオンは光脈の分岐を記した地図を清書し、局の規程と照らし合わせた。
けれど、受付の書記は書類の束を見て、首を横に振った。
「技術の正当性を争うなら、別の審査を申請してください。今回の判断は、契約の帰属についてです」
「その契約が偽造かもしれないと申し上げています」
「署名の真偽を証明する鑑定書が必要です」
「その鑑定を、誰が受け付けてくださるのですか」
書記は答えなかった。答えの代わりに、提出期限を記した紙だけを差し出した。
王都では、証拠が足りないのではなく、証拠を証拠として扱う窓口が足りなかった。
二日目の朝、セルディ家の屋敷に商会の使者が来た。
屋敷といっても、もう広間の絨毯は売り払われ、庭の噴水も止まっている。リセラが一人で暮らすには大きすぎる家だった。母が亡くなってから、壁に掛かった肖像画だけが、ここがかつて子爵家だったことを覚えていた。
「ローデン商会は、星糸資材の未払い分および契約違反による損害を請求する」
使者は封蝋のついた書面を読み上げた。
「支払いができない場合、セルディ家が灯路維持の功績によって得た子爵位を、王国へ返上する手続きに入る」
リセラは、紙に書かれた金額を見た。家財をすべて売っても届かない額だった。母が残した帳面には、商会から届いた星糸の本数と、実際に受け取った本数の違いまで記されている。それなのに、請求書では不足分の責任がすべてセルディ家に押しつけられていた。
「この家の爵位は、先祖が王都のために灯路を維持した功績で与えられたものです。商会の契約を破ったからといって、商会が返上を求められるものではありません」
「求めているのは王国です。商会は、規定に沿って事実を報告しただけです」
その言葉を聞いたとき、リセラはようやく気づいた。
商会は、灯りの流れだけでなく、紙の流れも握っている。局へ提出する報告書、家に届く請求書、家政院へ送る進言。そのすべてが同じ方向へ整えられれば、灯りを直した者のほうが、壊した者として記録される。
使者はもう一枚、別の契約書を差し出した。
「商会は寛大です。こちらに署名すれば、請求を取り下げ、あなたを商会所属の星縫い工として雇用する。子爵家の称号も、当面は維持できるでしょう」
契約書の末尾には、修復記録と針の使用権を永久に商会へ譲渡する、とあった。
リセラは母の針入れに触れた。
「私が断れば?」
「あなたは資格を失い、家も失うことになります」
「それは、もう決まっているのではありませんか」
使者の顔から、慇懃な笑みが消えた。
「後悔なさいますよ」
「後悔するなら、自分の手を売ってからにします」
リセラは契約書を押し返した。
三日目。異議申立ての審理は、驚くほど短かった。
母の署名を調べる正式な手続きは、今回の審理の範囲外。眠り街の証言は、契約の有効性を覆すものではない。レオンの地図は参考資料として受理するが、商会の管理権を否定する根拠にはならない。
ひとつひとつの言葉が、閉じた扉のように積み重なった。
「異議申立てを棄却する」
局長が告げる。
「あわせて、リセラ・セルディの星灯技術者資格を停止。セルディ子爵家については、灯路維持の奉仕義務を履行できない状態にあると認め、爵位および王都内の邸宅使用権を王国へ返上させる」
返上ではない。奪われるのだ。
けれど、ここで言葉を訂正しても、紙の上の結果は変わらない。
審査室を出ると、家政院の役人が待っていた。リセラの胸元から許可証を抜き取り、屋敷の門からセルディ家の紋章板を外す。金属が石壁に擦れる音は、母の食器を割る音に似ていた。
レオンは黙って、その場に立っていた。
「何か言ってください」
リセラが言うと、彼はしばらく考えてから答えた。
「君の仕事は、資格証の中にない」
「わかっています。でも、資格がなければ、私は誰かの灯路を直すこともできません」
「なら、資格がなくても君を必要とする人を探す」
「それは、あなたが探すことではありません」
思ったより強い声が出た。レオンの眉がわずかに動く。
「私を助けるために、あなたの地図の上へ置かないでください。私はもう、誰かの所有物として記録されるのは嫌です」
「助けるつもりではない」
レオンは、彼女の手にある針入れを見た。
「隣で仕事をするつもりだ」
胸の奥が痛んだ。身分も契約もなくした日に、そんな言葉だけが、やけにまっすぐ届いた。
屋敷を出ると、門の外に仕立屋の女と井戸番の老人が立っていた。公開工房で会った人々だった。誰も「かわいそう」とは言わなかった。代わりに、仕立屋の女が小さな布包みを差し出す。
「仕事場を借りられるまで、うちの店の奥を使えばいいよ」
「でも、私はもう星縫いをしてはいけないと……」
「灯りを直すなとは、灯りを待つ人間には言えないさ」
老人が低く笑った。
「それに、あんたの針は商会のものじゃない。暗い場所を見つける目もな」
リセラは布包みを受け取った。中には糸巻きと、古い灯守たちが使っていた合図札が入っている。
契約は失った。身分も失った。名前から爵位が消え、屋敷から紋章が消えた。
それでも、手のひらには針がある。
そして、暗闇の中で灯りを待つ人たちがいる。
「明日から、仕事を探します」
リセラは言った。
「誰の許可を取るかではなく、誰と灯りをつなぐかを、自分で決めるために」
その夜、彼女は初めて子爵令嬢ではない名前で、帳面の表紙に文字を書いた。
リセラ・セルディ。
その下に、震えない字で一行を足す。
――私の工房を、私の手で始める。




