星縫いの権利を奪う判決
審査室の扉が開く前から、廊下には人が集まっていた。
王立灯路局の職員だけではない。昨日、公開工房に来ていた仕立屋や井戸番、外縁区の住人までいる。誰も大声では話さなかったが、ざわめきは壁の向こうまで届いていた。
リセラは胸元の針入れに触れた。中には母から譲られた星針と、眠り街で使った糸の切れ端が入っている。
「緊張しているか」
隣のレオンが尋ねた。
「はい。けれど、針を持つときの緊張とは違います」
「何が違う」
「自分の手ではなく、名前を調べられるような気がします」
レオンは少しだけ目を細めた。
「今日、調べられるべきなのは光脈の記録だ。君の家名ではない」
「そうなるように、話します」
扉の前に立っていた書記が、二人を呼んだ。
審査室の正面には、王立灯路局長と二人の許可審査官が座っている。その向かいに、ローデン商会の代理人とギルベルトがいた。彼は以前と変わらない仕立ての良い服を着ていたが、口元には勝ちを確信した笑みが浮かんでいる。
「リセラ・セルディ。ローデン商会より、星縫い技術の無断使用および修復成果の帰属について申立てがあった」
審査官が書類を読み上げた。
「第一に、セルディ家はローデン商会と結んだ資材供給契約により、商会が提供する星糸を用いた修復技術を商会の管理下に置いていた。第二に、故アマーリエ・セルディが残した修復記録は、契約に付随する技術資料である。第三に、リセラ・セルディは商会の許可なくその技術を地方都市で行使し、修復された灯路から利益を得ようとした」
「利益を得ようとした、ですって?」
思わず声が漏れた。
代理人が恭しく頭を下げる。
「依頼を受け、王立灯路局を通さずに作業をしたのは事実でしょう。技術を所有する者の許可が必要なのは、星灯を扱う者なら常識です」
「私が修復したのは、商会が長年放置していた灯路です」
「放置していたのではありません。安全上、修復に適さないと判断していたのです」
ギルベルトが初めて口を開いた。
「君は昔から、古い手法に執着しすぎる。たまたま灯りが戻ったからといって、それを商会の承認なしに仕事へしていい理由にはならない」
たまたま。
その言葉が、針先よりも鋭く胸に刺さった。
審査官はリセラへ視線を移した。
「反論はあるか」
「あります。母の記録は技術資料ではなく、個人の修復記録です。そこには、商会の資材を使った記録だけでなく、光脈の流れ、街ごとの違い、失敗した縫い目まで残されています。誰かに売るための書類なら、そんなものは書きません」
「契約書には資料の帰属も記されている」
「母は、その契約書を見せられたことがありません」
審査官が一枚の紙を掲げた。
「ここに署名がある」
見覚えのない母の署名だった。
筆跡は似ている。けれど、母がリセラに教えてくれた署名には、最後の文字を少し跳ね上げる癖があった。紙の上の名前は、形だけをなぞったように整いすぎている。
「偽造です」
リセラは言った。
「母の署名ではありません」
「証明できるのかね」
返す言葉が詰まった。
母はもういない。署名の癖を知っているのは家族だけで、セルディ家にはそれを調べる余裕も、味方になってくれる者も残っていなかった。
そのとき、レオンが一歩前へ出た。
「証明なら、光脈の記録でできます」
彼は地図を広げた。眠り街から王都へ伸びる光脈の線。その途中に、いくつもの細い分岐が赤く記されている。
「商会が提出した資料では、眠り街の主光脈は自然に弱まったことになっている。しかし実測では、王都側へ向けて流量を抜く分岐が三か所ある。リセラ・セルディの修復後、その分岐を閉じたことで街灯が復旧した」
「測図官殿。あなたは彼女の仕事を正当化したいだけでは?」
「俺は測った事実を述べている」
レオンの声は静かだった。
「彼女が商会の技術を使ったというなら、商会はなぜ同じ修復をしなかった。できなかったのか。それとも、しなかったのか」
廊下のざわめきが大きくなった。
代理人は眉をひそめ、ギルベルトはレオンを睨んだ。
「地方の一都市の灯りと、王都全体の安定を比べるのは短絡的です。資材を集め、光を配分するには費用がかかる。商会は王国のために必要な選択をしてきた」
「その選択で、誰が暗闇に置かれたかを記録したのが母です」
リセラは持参した帳面を開いた。
眠り街の少女ミナが覚えていた灯りの合図。古い灯守が語った分岐の位置。公開工房に来た人々が書いた証言。ひとつひとつは小さくても、同じ方向を指している。
「ここにあるのは、私ひとりの主張ではありません。灯りを失った人たちが、いつ、どこで、何を見たかです」
審査官は帳面を受け取ったが、すぐに閉じた。
「証言の多くは、許可を持たない者によるものだ。正式な技術者の検査報告には当たらない」
「ならば、正式な技術者に検査していただけますか。私の縫い目を、商会の記録と照合して」
「本審査は技術試験ではない。権利の帰属を判断する場だ」
リセラは、そこで初めて理解した。
ここでは、正しく直せるかどうかよりも、誰の名前が紙にあるかが重いのだ。灯りがともった事実さえ、所有者を決めるための証拠に変えられてしまう。
長い協議のあと、局長が立ち上がった。
「判決を申し渡す」
室内の空気が凍った。
「提出された契約書および王国星灯管理規程に基づき、リセラ・セルディが行った星縫いによる修復技術の使用権、ならびにそれによって得られた修復記録の管理権を、ローデン商会に認める」
耳の奥で、何かが切れる音がした。
「今後、リセラ・セルディは商会の書面による許可なく星縫いを行ってはならない。眠り街その他で修復した灯路についても、商会の管理下に置く」
審査官が判決書を机に置いた。
最後に、局長は淡々と続けた。
「違反した場合、セルディ家に付与された星灯技術者資格を停止する。なお、契約違反に伴う損害については、別途、商会から請求できるものとする」
ギルベルトが息を吐いた。勝ち誇った音だった。
「これで、君は針を持てない」
リセラは判決書を見つめた。
紙一枚で、母から受け取ったものを奪われる。そう思った瞬間、針入れの中で星針がかすかに震えた。
光は、紙に縫い込まれているわけではない。
「この判決に、異議を申し立てます」
リセラは顔を上げた。
声は震えていた。それでも、言葉はまっすぐ室内に響いた。
「私の手が行った仕事を、私の許可なく商会の所有にすることは認めません。母の署名が本物かどうかも、まだ調べられていない。私は、このまま黙って針を置くつもりはありません」
「異議申立ての期限は三日だ」
局長が告げる。
「その間、判決は有効とする」
書記がリセラの許可証を差し出した。そこには赤い停止印が押されている。
レオンが何か言おうとしたが、リセラは首を横に振った。今、彼に怒りを預けてしまえば、自分の選んだ声が他人のものになってしまう。
「行きましょう、レオン」
「ああ」
二人が扉へ向かうと、廊下にいた人々が道を開けた。誰も拍手はしなかった。けれど、仕立屋の女が黙ってリセラの手を握り、井戸番の老人が深く頭を下げた。
奪われたのは、権利を記した紙だった。
それでも、灯りを待つ人々の記憶までは、まだ商会の印を押されていない。
リセラは針入れを強く握りしめ、三日という期限を数え始めた。




