まっすぐな告白は夜明け前に
依頼書を整理し終えたころには、王都の鐘が三度鳴っていた。
王立灯路局の中庭はとっくに静まり返っている。昼間、門の外まであふれていた人々の声も消え、作業台の上では、冷めた茶の表面だけが月明かりを映していた。
リセラは最後の一枚を束に加えた。
外縁区の仕立屋。北門近くの宿。街道沿いの小さな村。どの依頼にも、同じ願いが書かれている。
灯りを戻してほしい。
その言葉は嬉しかった。自分の針を必要としてくれる人がいる。それは、婚約を解かれたあの日にギルベルトから浴びせられた「役立たず」という言葉を、少しずつ遠ざけてくれた。
けれど、胸の奥には別の不安も残っている。
依頼を受けるだけならできる。針を持ち、光脈を読み、綻びを結ぶ。それが自分の仕事だと、今は言える。
では、その仕事を誰と続けたいのか。
考えがそこへ触れるたび、隣で地図を広げる男の横顔が浮かんだ。
「まだ帰らないのか」
背後から声がして、リセラは肩を揺らした。局舎の柱にもたれていたレオンが、夜の地図を巻きながらこちらを見ている。
「レオンこそ。測図は終わったのではありませんか」
「終わった。君が終わっていない」
「依頼の順番を決めていただけです」
「それは明日でもできる」
「明日になれば、また門の前に人が並びます。先に決めておかないと、誰かを待たせることになるので」
レオンは返事をしなかった。
彼はいつも、必要なことだけを言う。だからこそ、その沈黙の中に何があるのか、リセラにはまだうまく読めなかった。
レオンは作業台の向かいへ歩いてきた。月の光が地図の上を滑り、彼の指が眠り街から王都へ延びる線を押さえる。
「昼間、局長が明日の審査について話していた」
「審査……ですか?」
「君の実演と資料を、商会の許可制度に照らして調べるそうだ。ギルベルトが、正式な申立てを出した」
やはり、とリセラは思った。
驚きより先に、冷たい水を浴びたような感覚が広がった。灯りを戻す仕事を始めれば、彼が黙って見ているはずはない。母の記録も、星縫いの技術も、商会にとっては利益を生む資材の一部なのだ。
「私の技術を、商会の所有物だと主張するつもりでしょうか」
「おそらくは。君がセルディ家の許可なく星灯を修復したことも、問題にする」
「セルディ家の……」
リセラは自分の手を見つめた。針を握る指には、細かな傷がいくつもある。家名を掲げて仕事をしたことなど、一度もない。母から受け取った針と、眠り街で交わした約束だけを頼りにしてきた。
「レオンは、どうしますか」
「明日の審査に出る。測図官として、記録を証言する」
「私のために?」
「違う」
即答だった。
リセラの胸が、ほんの少し縮む。
「君の仕事が正しいからだ。俺が見た光脈の流れと、君の修復結果は一致している。証言しないほうが、測図官として間違っている」
いかにもレオンらしい言い方だった。けれど彼は、そこで言葉を切らなかった。
「それだけではない」
夜気が、二人の間を通り抜ける。
「俺は、君と仕事がしたい」
飾りのない声だった。
「眠り街でも、今日の工房でも、君は誰かに価値を決められるたび、自分の手で答えを返した。俺はその隣にいたい。君が地図の上で見つけた光脈を、俺が道として残す。君が直した灯を、誰にも奪わせない記録にする」
リセラは息を吸った。
仕事の話なのに、胸の奥が熱くなる。隣にいたいという言葉が、何度も心の中で反響した。
「それは……測図官として、ですか」
問いかけると、レオンは少しだけ眉を寄せた。
「最初は、そうだった」
彼の目が、まっすぐリセラを捉える。
「だが今は違う。君が針を持つ手を、仕事の相棒として尊敬している。笑った顔を見ると、もっと見たいと思う。君が誰かに傷つけられたら、仕事の正しさとは別に腹が立つ。……俺は、リセラ。君を好きだ」
あまりにも率直で、逃げ道のない告白だった。
リセラの指先が震える。婚約を解かれたあの日から、誰かに選ばれることを怖いと思っていた。選ばれたあとで、役に立たないと捨てられるのが怖かった。
けれどレオンは、家名でも、商会とのつながりでもなく、針を動かす自分を見ていた。
「私は……」
声がかすれる。
レオンは急かさなかった。ただ、返事を待つように立っている。その姿が、リセラには嬉しかった。答えを奪わず、自分で選ぶ時間をくれることが。
「私も、レオンと仕事がしたいです」
「ああ」
「それだけではありません」
今度は自分から、彼の目を見た。
「あなたが地図を読む横顔が好きです。無口なのに、私の手が冷えていることは覚えていてくれるところも。私が間違えたときは、私の代わりに決めず、隣で考えてくれるところも。だから……私も、あなたが好きです」
レオンの表情が、わずかに揺れた。
やがて彼は、作業台の上に置かれたリセラの手へ、自分の手を重ねた。大きくて、測図用の紙で乾いた手だった。針を扱う指を傷つけないよう、力は慎重に加減されている。
「明日、何を言われても、君の隣にいる」
「私も、あなたの隣に立ちます。守られるだけではなく、同じ仕事をする者として」
「わかっている」
東の空が、わずかに白み始めていた。
そのとき、局舎の扉を叩く音が響いた。夜番の書記が青ざめた顔で駆けてくる。手には王立灯路局の紋章が押された封書があった。
「リセラ・セルディ様、レオン・ハルツ様。商会から正式な申立てが届きました。明朝、審査室へ出頭せよとのことです」
封蝋には、ローデン商会の紋章が刻まれている。
リセラは、レオンの手の温度を感じながら封書を受け取った。
「では、行きましょう」
「怖くないのか」
「怖いです」
それでも、手は震えなかった。
「でも、ひとりではありませんから」
夜明け前の空に、まだ星がひとつ残っている。
リセラはその光を見上げ、母の針入れを胸元で確かめた。明日、奪うと言われるものがあっても、ここまで自分で縫ってきた道筋までは奪えない。
隣には、同じ方向を見ている人がいる。
二人は封書を開くため、明かりの消えた廊下へ歩き出した。




