母の名前が伏せられた理由
階段の底には、地下水の匂いと、古い紙の匂いが混じっていた。
壁に沿って並ぶ小さな灯が、リセラたちの足音に反応して順番にともる。淡い金色の光が、石室の奥まで伸びていった。そこには机が三つ、棚が六つ、そして中央に大きな測図盤が置かれている。
「誰かが、ここを使っているみたいですね」
ミナが鉛筆を握り直した。机の上には新しい蝋の跡があり、床には泥のついた靴跡が残っている。町長が語った昔話ではない。つい最近、ここへ来た者がいる。
レオンは測図盤のそばにしゃがみ、石床へ指を触れた。
「靴跡は二人分。ひとりは重い荷物を運んでいる。もうひとりは、こちらの棚を開けたようです」
「ローデン商会でしょうか」
「断定はできません。ただ、今夜のうちに調べる必要があります」
棚の大半は空だった。背表紙だけが残り、記録を抜き取られた跡が縦に並んでいる。リセラは奥の隅に、埃の積もり方が違う箱を見つけた。錆びた留め金に、星を二針で縫った印がある。
針先を差し込むと、留め金の中で光が弾けた。箱は音もなく開いた。
中には、薄い帳面と、折り畳まれた地図、それから黒い糸で縫いつけられた一枚の布が入っていた。布の中央には、何度も消されたような文字がある。
『第七灯路記録 担当 ――セルディ』
リセラの呼吸が止まった。
「お母さまの名前……」
レオンが灯を近づける。布の繊維に残った光が、消された文字の輪郭を浮かび上がらせた。姓の下にあった名は、刃物で削られ、さらに黒い糸で覆われている。
「隠したのは、商会ですか」
「たぶん、最初に消したのは母自身です」
帳面を開くと、母の筆跡があった。リセラが幼いころ、家の窓辺で見たことのある、細くて几帳面な文字だった。
『王都への臨時送光は、災害時のみに限るべきもの。常設化すれば、地方の枝脈は痩せ、井戸と街路の灯が先に失われる』
その下には、日付と数字が続いている。眠り街から王都へ送られた光量。契約に記された量。そして実際に抜かれた量。三つの数字は、どの頁でも一致していなかった。
さらに頁をめくったところで、筆跡が乱れた。
『異議を申し立てた灯守が、許可証を取り上げられた。私の資格も同じ扱いになるだろう。けれど、名を残せば、私だけでなく、記録を渡してくれた人たちまで処分される』
ミナが小さく息をのんだ。
「だから、名前を消したの?」
「ええ。母は、自分が責任を負う形にしたかったのでしょう」
リセラは黒い糸に触れた。糸は乱暴に絡められているようで、その実、布の裏側では別の縫い目と結ばれていた。ひとつをほどけば全体が崩れる。母は名前を隠しただけではない。証言者たちの名を、ひとつの記録の中へ縫い込んで守っていたのだ。
帳面の最後には、短い手紙が挟まっていた。
『リセラへ。もしあなたがこの場所に来る日があるなら、私はもう隣にいないのでしょう。ごめんなさい。あなたに星縫いを教えたのは、誰かに価値を認めてもらうためではありません。灯りを必要とする人のところへ、光を届ける手を、あなた自身が選べるようにするためです』
文字が滲んだ。母の顔を思い出そうとすると、いつも針を持つ指先ばかりが浮かぶ。厳しくて、優しくて、何も説明しない人だった。その沈黙の中に、こんなにも多くの人を守ろうとした意志があった。
「読むのを止めても構いません」
レオンの声がした。
「止めません。母が残したものを、今度は私が途中で置いていきたくないんです」
そのとき、石室の入口で小さな音がした。誰かが階段を下りてくる。
レオンはすぐに灯を消し、リセラを棚の陰へ導いた。ミナも口を押さえる。暗闇の中で、外から差す細い光が揺れた。
「……まだ残っているか」
男の声だった。続いて、革靴が石を踏む音。もうひとりの声が低く答える。
「台帳だけです。セルディの名があるものは、すべて上へ運べと」
リセラの胸が冷えた。母の名前を探している。つまり、商会はこの場所の存在を知っている。
レオンの手が、彼女の手首の近くで止まった。触れずに、そこにいると伝える距離だった。リセラは頷き、針箱から銀糸を一本抜いた。暗闇でも、星糸なら結べる。
棚の脚と古い測図盤をつなぐ。ほんの三針。光脈の余りを拾った糸が、床の下でかすかに震えた。
次の瞬間、入口の灯が一斉にともった。侵入者たちが目を覆う。その隙にレオンが扉へ走り、石の閂を落とした。
「今です!」
三人は反対側の狭い通路へ駆け込んだ。ミナが見つけた古い換気口を抜けると、丘の裏手へ出られた。地上では霧が晴れ、眠り街の三本の灯が朝まで消えずに輝いている。
リセラは帳面を胸に抱いた。
母の名が伏せられたのは、恥じる理由があったからではない。誰かに消されたのでもない。奪われる光の証拠を、奪われる人々ごと守るために、母が自分で選んだ沈黙だった。
「王都へ戻りましょう」
レオンが言った。
「はい。これを、隠されたままにはしません」
夜明けの光が、リセラの針先に触れた。母の残した記録は、もう過去のものではない。次に通すべき一針を、彼女は自分で選んだ。




