第6話 後継者の正義
グレンが生まれた村では、冬になると人が死んだ。
雪崩でも、魔物でもない。
飢えによってだ。
ガルディア北部の山間にある、小さな村。
土地は痩せ、夏でも作物は十分に育たない。
秋に収穫した麦は、冬の半ばには底をついた。
大人たちは一日に一度しか食べず、子どもたちへ残りを分け与えた。
それでも足りなかった。
グレンが七歳だった年。
隣家の老人が死んだ。
八歳の冬には、幼い子どもが二人死んだ。
九歳の冬。
グレンの妹も、朝になって目を覚まさなかった。
前の晩まで、空腹を訴えて泣いていた。
母は妹を抱いたまま、一日中動かなかった。
父は何も言わず、凍った地面を掘った。
幼いグレンには、どうすることもできなかった。
食べ物を作る力も。
病を治す力も。
雪を溶かす力もなかった。
ただ、妹が土の中へ埋められるのを見ていることしかできなかった。
その夜、村の老人が焚き火の前で話した。
かつて、この世界には勇者がいたのだと。
魔王軍に奪われた町を取り戻し。
人々を苦しめる魔物を倒し。
三本の聖剣を振るって、世界を救った英雄。
アルト・レイヴァン。
「勇者がいた頃は、こんな暮らしではなかったのか?」
幼いグレンは尋ねた。
老人は困ったように笑った。
「勇者がすべての村へ食べ物を配ったわけではない」
「でも、魔王を倒したんだろ?」
「ああ」
「強かったから?」
「誰よりも強かったと聞いている」
その言葉だけが、グレンの中に残った。
強ければ、敵を倒せる。
敵を倒せば、戦いを終わらせられる。
戦いが終われば、畑を焼かれることもない。
商人から食料を奪われることもない。
子どもが飢えて死ぬこともない。
力さえあれば、人を救える。
グレンはそう信じた。
◇
ガルディア軍の前線司令部には、占領したフェルナ領の地図が広げられていた。
赤い駒は帝国軍。
青い駒はルミナス軍。
フェルナを示す小さな駒は、すでに地図の端へ追いやられている。
国としてのフェルナは、ほとんど残っていなかった。
「北部の集積所から、山岳地域への食料輸送を開始しました」
副官が報告した。
「輸送隊が足りず、各村から住民を呼び寄せています」
「護衛をつけろ」
グレンは地図を見たまま命じた。
「少なくとも、占領地を出るまでは守らせろ」
「兵を民間人の護衛へ回せば、前線の警戒が薄くなります」
「荷車を奪われれば、山の村が飢える」
「帝国兵の損耗より優先すると?」
グレンは顔を上げた。
「兵は戦うためにいる。民を飢えさせないためにな」
副官はわずかに目を伏せた。
「承知しました」
グレンは再び地図へ視線を戻す。
フェルナから接収した食料は、帝国北部へ送られている。
あの山村へも届く。
昔の自分と同じように、空腹を抱えて眠る子どもたちへ。
奪った食料だということは分かっていた。
その麦を育てた者たちが、今も焼けた町の中で暮らしていることも。
だが、食料は限られている。
誰かへ渡せば、別の誰かが失う。
すべての人間を救えるほど、この世界は豊かではない。
ならば、守る相手を選ばなければならない。
グレンが選んだのは、帝国の民だった。
「将軍」
幕舎の外から、兵士の声がした。
「帝都より、皇帝陛下の使者が到着しました」
「通せ」
黒い軍装をまとった男が入ってくる。
戦場には似つかわしくない、汚れ一つない衣服。
胸元には、皇帝直属を示す金色の鷲章があった。
男は形式的に頭を下げると、封蝋された書状を差し出した。
「皇帝ヴァルガス陛下より、アルト・レイヴァンを名乗る者の拘束命令が出ています」
グレンは書状を受け取った。
赤い蝋には、帝国の紋章が刻まれている。
封を切り、中を読む。
文章は短かった。
アルト・レイヴァンを名乗る者を拘束せよ。
抵抗する場合に限り、殺害を許可する。
同行する銀白色の少女とフェルナ人の少女も、共犯者として拘束すること。
「拘束できなければ殺せ、か」
グレンの口から、低い声が漏れた。
「陛下は、その者が帝国内で反乱の旗印となることを懸念されています」
使者は淡々と答えた。
「正体が本物か偽物かを調べる間に、民衆が集まれば秩序が揺らぎます」
「奴は、帝国へ反乱を呼びかけてはいない」
「今は、でしょう」
使者の表情は変わらない。
「勇者の名には、人を集める力があります。陛下は、その芽を早いうちに摘むよう命じられました」
グレンは書状を机へ置いた。
先日の戦いを思い出す。
古びた剣を持った黒髪の青年。
フレイムベルグの力の流れを読み、水と風を使って炎をそらした。
兵士を殺さず。
敵味方を区別せず、負傷者を助けた。
そして、自分との決着よりも燃える町を選んだ。
戦い方だけではない。
剣を見る目が違った。
まるで、かつて自分が使っていた物を見るような目だった。
「捜索隊を出しますか?」
「私が向かう」
使者が眉を動かす。
「将軍自ら?」
「奴が本当にアルト・レイヴァンなら、普通の兵では拘束できない」
「本物だとお考えですか?」
「まだ分からん」
グレンは腰のフレイムベルグへ触れた。
鞘の内側で、剣が低く脈打つ。
怒りに似た熱と、かすかな揺らぎが掌へ伝わってくる。
それが剣の反応なのか、自分自身の迷いなのか、グレンには分からなかった。
「私が拘束する。その際に、正体も確かめる」
◇
フレイムベルグの封印解除部隊へ志願したのは、グレンが二十五歳の頃だった。
当時、帝国北部では三年続けて不作が起きていた。
食料価格は上がり、山村では再び餓死者が出始めていた。
フレイムベルグへ触れた者の多くが、手を焼かれた。
腕を失った者も、命を落とした者もいる。
グレンの身体にも、骨を焼くような炎が流れ込んだ。
それでも手を離さなかった。
空腹のまま眠った妹と、冬を越せなかった村人たちの顔を思い出したからだ。
この程度の痛みに耐えられず、何が救える。
炎が収まったあと、剣はグレンの手に残っていた。
皇帝は告げた。
「剣がお前を選んだ」
その言葉を、グレンは疑わなかった。
かつてアルトが振るった聖剣。
世界を救った力。
その剣が自分の手に残った。
ならば自分は、勇者の意志を継ぐ者なのだと。
◇
「将軍、発見しました」
斥候が馬を止めた。
「フェルナ北部へ向かう街道です。例の三人が、こちらへ進んでいます」
「護衛は?」
「ありません」
「ルミナス軍との接触は?」
「確認されていません」
グレンは馬の手綱を引いた。
連れてきた兵は三十人。
精鋭だけを選んだ。
大部隊で包囲すれば、周辺の村を戦いへ巻き込む可能性がある。
それに、アルトを名乗る男の力を確かめるなら、兵の数は意味を持たない。
「街道を封鎖する」
グレンは命じた。
「ただし、私が命じるまで攻撃するな」
「相手には、陛下から拘束命令が出ています」
「だからこそ、命令するまで動くな」
副官は一瞬迷ったあと、頭を下げた。
「承知しました」
帝国兵が街道へ展開する。
左右には、焼け残った麦畑。
少し離れた場所には、接収した食料を保管する石造りの倉庫がある。
倉庫の前では、帝国の村人たちが荷車を引き、北へ向かっていた。
グレンは兵へ合図を出し、村人たちが通過するまで待たせた。
幼い少年が荷車の後ろからこちらを見ている。
その手には、干しパンが握られていた。
グレンの胸へ、わずかな安堵が生まれる。
あの食料が届けば、一人は飢えずに済む。
それだけでも、この戦争には意味がある。
やがて、街道の向こうに三つの人影が現れた。
黒髪の青年。
銀白色の髪を持つ少女。
赤茶色の髪をしたフェルナ人の少女。
青年の左腕には包帯が巻かれていた。
先日の炎で負った傷だろう。
それでも足取りに迷いはない。
帝国兵の隊列へ気づいても、立ち止まらなかった。
「また会ったな」
グレンは馬から降りた。
アルトも数歩手前で足を止める。
「探していた」
「私をか?」
「ああ。フレイムベルグを返してもらっていない」
周囲の兵士たちがざわめく。
グレンは剣の柄へ手を置いた。
「前にも言ったはずだ。この剣は帝国のものだ」
「百年前に封印したときは、どの国のものでもなかった」
「百年前の話だ」
「だから、今の使い方を見て返してほしいと言っている」
「我々は、この剣で帝国の民を救っている」
グレンは、北へ遠ざかっていく荷車を示した。
「見ただろう。あの食料がなければ、山の村で子どもたちが死ぬ」
リナの表情が険しくなる。
「あれは、フェルナから奪った食料よ」
「そうだ」
グレンは否定しなかった。
「帝国が勝ち、手に入れた」
「そのために、私の国を焼いた」
「戦争とはそういうものだ」
リナの指が、腰の短剣へ触れる。
だが、アルトがわずかに腕を上げた。
止めたわけではない。
ただ、自分が前へ出ることを示しただけだった。
「フェルナの民が飢えても、帝国の民が助かればいいのか?」
アルトが尋ねた。
「まず、自国の民を守る。それが国の役目だ」
「そのためなら、他国の人間を殺しても?」
「あなたも殺したはずだ」
グレンの声が低くなる。
「百年前、魔王軍を打ち破った」
アルトの表情から、わずかに力が抜けた。
「敵の砦を落とし、軍を倒し、魔王を殺した」
グレンは一歩前へ出る。
「あなたも圧倒的な力で敵を倒し、人間を救った」
「……ああ」
「なら、私と何が違う?」
アルトはすぐには答えなかった。
グレンは確信を強める。
自分の問いは間違っていない。
勇者アルト・レイヴァンも、戦うことで世界を救った。
敵国を屈服させ、帝国へ従わせる。
すべての土地を一つの支配下へ置けば、戦争は終わる。
国境も争いもなくなる。
奪った土地で食料を作り、飢えた民へ分け与えられる。
「あなたが魔王軍を倒したように、私は敵国を倒す」
グレンはフレイムベルグを抜いた。
赤い刀身から、細い炎が上がる。
「帝国の下に三国を統一し、戦争を終わらせる」
「それが、あなたの正義?」
フィオナが静かに尋ねた。
「正義などという言葉で飾るつもりはない」
「でも、自分が勇者の後継者だとは思っている」
グレンの目がフィオナへ向く。
彼女はフレイムベルグを見つめていた。
剣ではなく、その内部にある何かを見るように。
「私は、この剣に選ばれた」
「皇帝に、そう言われたのではなくて?」
グレンの眉が動く。
「剣は私の手に残った」
「それだけで正しいと?」
「少なくとも、力を持つ責任は果たしている」
「町を焼くことが?」
「長い戦争を続けるより、短期間で敵を屈服させた方が死者は少ない」
「本当にそうだった?」
フィオナの問いに、グレンの手へ力が入る。
フェルナの砦。
町へ広がった炎。
味方の兵士まで巻き込みかけた熱。
制御できなかった力。
だが、それを認めるわけにはいかなかった。
「フレイムベルグがなければ、帝国兵はさらに多く死んでいた」
「それは答えになっていないわ」
「十分な答えだ」
剣の炎が強くなる。
怒りに呼応するように。
アルトが無銘の剣へ手を置いた。
だが、まだ抜かない。
「グレン」
「呼び捨てにするな」
「あなたは、帝国の民を救いたいんだな」
「当然だ」
「その気持ちは否定しない」
グレンの眉が動く。
「だが、フレイムベルグを使い続ければ、救う数より奪う数の方が多くなる」
「何を根拠に言う?」
「俺は、その剣を使っていた」
「百年前の話だ」
「百年前でも、剣の性質は変わらない」
アルトは炎を見つめる。
「フレイムベルグは、周囲の精霊力を吸い上げる。敵の怒りも、使い手の怒りも関係なく取り込む」
「力を得るためだ」
「取り込み続ければ、剣は使い手の感情まで増幅する」
「私が剣に操られていると?」
「そうは言っていない」
「同じことだ!」
グレンが剣を振る。
炎が街道の脇へ走った。
乾いた麦の残骸が、一瞬で燃え上がる。
帝国兵たちが身構えた。
リナが弓を取る。
フィオナの周囲へ、淡い風が集まる。
アルトだけが動かなかった。
「今の炎は、誰へ向けた?」
静かな問いだった。
グレンの動きが止まる。
「警告だ」
「俺たちへ?」
「そうだ」
「なら、後ろにいる兵士まで巻き込む必要はなかった」
振り返る。
熱風を浴びた帝国兵が、顔をかばっている。
一人の外套の端が燃え、副官が慌てて火を消していた。
グレンの胸の奥で、何かが軋んだ。
先日の戦いと同じだ。
敵だけを焼くつもりだった。
だが、炎は味方へも向かった。
「制御できている」
グレンは言った。
「今のは、私が加減を誤っただけだ」
「それを制御できていないと言うんじゃないのか?」
「黙れ」
ここで初めて、グレンの口調から敬意が消えた。
剣の炎がさらに膨れ上がる。
耳の奥で、声が聞こえた。
焼け。
奪え。
敵を殺せ。
すべてを炎へ変えろ。
誰の声なのかは分からない。
フレイムベルグに蓄積された者たちの怒りか。
それとも、自分自身のものか。
「私が間違っているというなら、答えてみろ」
グレンはアルトへ剣先を向けた。
「魔王軍と我々の敵国は、何が違う?」
アルトはすぐには答えなかった。
「魔王軍のすべてが、自分の意思で戦っていたとは限らない」
グレンは続ける。
「命令に従った者や、戦う以外の道を持たなかった者もいたのではないか?」
「ああ」
「それでも、お前は戦った」
「ああ」
「なら、私も同じだ!」
グレンの声が街道へ響く。
「敵国の兵を倒し、帝国の民を救う。それの何が違う!」
アルトは目を伏せた。
否定できない。
そう見えた。
グレンの中で、自分の正しさが形を取り戻す。
勇者も戦った。
勇者も敵を倒した。
自分は、その続きをしているだけだ。
「違いを説明できないのなら、私を止める資格はない」
「魔王軍は、この世界を滅ぼそうとしていた」
アルトが顔を上げた。
「だが、それで俺のしたことがすべて正しくなるわけじゃない」
グレンの表情が固まる。
「救えなかった者も、戦う以外の道を選べなかった者もいた」
「自分の戦いを後悔しているのか?」
「後悔していることはある」
アルトは静かに答えた。
「だが、戦わなければ世界が滅びていた。それも事実だ」
「ならば、やはり戦いは正しかったのだろう」
「正しかったと言い切ることも、全部間違いだったと言うこともできない」
アルトはグレンをまっすぐ見た。
「だから背負う」
「言葉だけだ」
「ああ。言葉だけで済まないから、ここにいる」
アルトの声は強くなかった。
それでも、街道へはっきりと響いた。
「俺の戦いを理由に、今の侵略を正しいことにするな」
「自分だけは特別だったと言うのか?」
「違う」
アルトは首を横へ振った。
「俺が間違ったのなら、お前も間違っていいことにはならない」
グレンは、フレイムベルグの柄を強く握った。
「ならば、私を止めてみろ」
「その前に、もう一度だけ言う」
アルトが無銘の剣を抜く。
装飾のない鈍い刃。
フレイムベルグとは比べものにならない、粗末な剣。
それでも、周囲の風がわずかにアルトへ集まっていく。
「フレイムベルグを返してくれ」
「断る」
「なら、力ずくで奪うことになる」
「ようやく勇者らしくなったな」
「勇者だからじゃない」
アルトは剣を構える。
「百年前に、あの剣を残した者として止める」
グレンもフレイムベルグを構えた。
炎が刀身を覆う。
背後で副官が声を上げる。
「全員、戦闘配置!」
帝国兵たちが武器を構えた。
「動くな!」
グレンは振り返らずに命じる。
「しかし――」
「この男には、兵の数など意味を持たん」
アルトの後ろでは、リナが弓へ矢をつがえていた。
その矢先は、まっすぐグレンへ向いている。
わずかに震えていた。
それでもリナは飛び出さず、アルトの背後に踏みとどまっている。
少女の目には、隠しきれない憎しみがあった。
故郷を焼かれた者の目。
家族を奪われた者の目。
かつての自分と同じ目だった。
それでもグレンは、剣を下ろさなかった。
自分がここで敗れれば、帝国はフレイムベルグを失う。
土地を守れなくなる。
食料を得られなくなる。
また山村で子どもたちが死ぬ。
それだけは許せない。
「私は、この剣で帝国を救う」
グレンは言った。
「そのために、他国から奪わなければならないとしてもだ」
アルトの表情がわずかに曇る。
「それでは、お前が憎んだ相手と同じになる」
「それでも、民が生きるなら構わない」
フレイムベルグが咆哮した。
赤い炎が空へ立ち上る。
アルトの無銘の剣を、薄い風が包む。
二人の間で、焼けた土が舞い上がった。
グレンは一歩踏み込む。
かつて憧れた勇者へ向かって。
自分こそが、勇者の意志を正しく継ぐ者だと証明するために。




