第3話 取り残された補助兵
荷車の車輪が、ぬかるみへ深く沈み込んだ。
「もう一度、押して!」
リナは荷台へ肩を押しつけた。
隣にいた二人の補助兵も、歯を食いしばって力を込める。
しかし、木箱と麻袋を積み上げた荷車は、軋んだ音を立てるだけで動かなかった。
十六歳の少女には、重すぎる荷だった。
肩口で切りそろえた赤茶色の髪は、汗と泥で頬へ張りついている。
支給された灰色の上着も、裾まで土に汚れていた。
それでも、リナは弱音を吐かなかった。
「せーの!」
三人で押す。
片側の車輪が、泥の中からわずかに浮いた。
同時に馬が嘶き、荷車が大きく揺れる。
車輪はようやく抜けたものの、反動で荷台の木箱が一つ傾いた。
「危ない!」
リナは咄嗟に腕を伸ばした。
落ちかけた箱を、胸で受け止める。
中に入っているのは矢の束だった。
薬や食料ではなかったことに、少しだけ安心する。
「リナ、大丈夫?」
「平気」
問いかけてきた少女へ答え、箱を荷台へ押し戻した。
腕に鈍い痛みが残る。
それでも、顔には出さなかった。
「早く進め!」
街道の先から、ルミナス兵の怒鳴り声が飛んできた。
「日が落ちる前に野営地へ物資を運べ! 敵が待ってくれると思うな!」
「分かっています!」
リナは声を返した。
正規兵は振り向きもせず、自分の隊へ戻っていく。
その背中を見ながら、隣の少女が小さく舌打ちした。
「自分たちは馬に乗っているくせに」
「聞こえるよ」
「聞かせてるの」
「処罰されても知らないからね」
「補助兵を一人減らして困るのは、向こうでしょ」
確かに、そのとおりだった。
ルミナス王国は、戦争によって兵士も労働力も不足している。
だからこそ、フェルナから逃れてきた難民まで軍の仕事へ動員されていた。
表向きは強制ではない。
補助部隊へ入らなくても、難民居住区から追い出されることはない。
ただし、働かなければ食料の配給は減らされる。
寝床も、治療も、後回しにされる。
選べるように見せかけて、実際には選択肢などなかった。
リナも、その一人だった。
正規兵ではない。
剣の訓練も、隊列を組んだ戦い方も習っていない。
任されるのは、荷物の運搬。
炊事。
負傷者の手当て。
伝令。
そして戦闘が終わった後の、装備と遺体の回収だった。
「行こう」
リナは荷車の手綱を握った。
止まっている暇はない。
街道の左右には、焼けた草原が広がっている。
遠くには、黒い煙が何本も上がっていた。
フェルナの方角だった。
見ないようにしても、視界へ入る。
故郷があった方角。
父と母と弟がいるはずだった場所。
家族とは、避難の途中ではぐれた。
ガルディア軍が国境を越えてきた日。
町中へ避難を知らせる鐘が鳴り、人々が一斉に東へ逃げ始めた。
混乱の中で、リナは負傷した近所の老人を支えていた。
ほんの少し、家族から離れただけだった。
次に振り返ったときには、人の波に遮られ、姿が見えなくなっていた。
その直後、町の後方で炎が上がった。
あれから、家族の消息は分からない。
生きている。
きっと先に逃げている。
何度もそう言い聞かせてきた。
そうでなければ、ここまで歩いてこられなかった。
「リナ?」
呼ばれて、顔を上げる。
「何?」
「また、ぼんやりしてた」
「してない」
「してたよ」
隣を歩く少女は、何か言いたそうにリナを見た。
だが、結局それ以上は何も聞かなかった。
難民同士では、家族について深く尋ねない。
生きているかもしれない。
死んでいるかもしれない。
誰も確かな答えを持っていないからだ。
荷車は、街道沿いに設けられたルミナス軍の前線野営地へ入った。
布張りの天幕が並び、負傷兵の呻き声が絶え間なく聞こえている。
血と泥。
煮込み料理。
馬糞。
焼けた革。
あらゆる臭いが混ざり合っていた。
「矢は北側の倉庫へ!」
「食料は炊事場だ!」
「手の空いている者は治療天幕へ回れ!」
あちこちから命令が飛ぶ。
リナたちは荷物を降ろし終えると、休む間もなく治療天幕へ送られた。
中には十人以上の負傷兵が寝かされている。
寝台は足りず、地面へ敷いた布の上に横たわる者もいた。
「水を!」
「包帯が足りない!」
「誰か、この傷を押さえてくれ!」
リナは血で濡れた布を受け取り、兵士の脇腹へ押し当てた。
「痛いぞ!」
「分かってる。でも、手を離したらもっと痛くなる」
「そんな言い方があるか!」
「怒鳴れるなら、まだ大丈夫」
兵士は歯を食いしばった。
リナは傷口を押さえたまま、別の補助兵へ声をかける。
「新しい布を。あと、熱湯」
「今持ってくる!」
治療の知識は、母から教わった。
母は町で薬草を扱っていた。
小さな傷なら洗って縛る。
熱が出たら、薬草を煎じる。
骨が折れているなら、無理に動かさない。
専門の治療師ほどではない。
それでも、何も知らないよりは役に立った。
包帯を巻き終えたとき、外で警笛が鳴った。
一度。
二度。
続いて、三度。
治療天幕の中にいた者たちが、一斉に動きを止める。
「敵襲……?」
誰かがつぶやいた。
直後、外から叫び声が響いた。
「ガルディア軍だ!」
「西の林から騎兵が来る! 本隊も後ろにいるぞ!」
「総員、戦闘配置!」
正規兵たちが天幕から飛び出していく。
負傷兵が身体を起こそうとした。
「寝てて!」
リナが肩を押さえる。
「敵が来てるんだぞ!」
「その身体で何ができるの?」
「剣くらいは持てる!」
「傷が開いたら、その前に死ぬ!」
兵士が反論するより早く、大地が揺れた。
馬の蹄。
数十頭。
いや、それ以上。
叫び声が近づいてくる。
「補助兵は負傷者を連れて後方へ退避!」
天幕の入口で、部隊長が叫んだ。
「動ける者を優先しろ! 荷物は捨てて構わん!」
「動けない人は?」
リナが尋ねる。
部隊長は一瞬だけ黙った。
「後続が運ぶ」
「後続って誰ですか?」
「命令に従え!」
それだけ言い残し、部隊長は外へ走っていった。
後続など、いるはずがない。
動ける兵士たちはすでに防衛線へ向かっている。
補助兵も足りない。
ここにいる負傷者全員を運ぶことなどできなかった。
「リナ、行こう!」
先ほどの少女が、負傷兵一人へ肩を貸している。
「早く!」
治療天幕の奥を見る。
意識のない者。
脚を負傷し、立てない者。
先ほど脇腹の手当てをした兵士。
全員を連れていけない。
誰を置いていくかを選ばなければならない。
リナの足が止まった。
あの日と同じだった。
逃げる人々。
近づく炎。
助けを求める声。
家族の手を離し、負傷した老人を支えた。
老人は生き延びた。
その代わりに、自分は家族とはぐれた。
あのときの選択が正しかったのか、今も分からない。
「リナ!」
「先に行って」
「何を言ってるの?」
「この人を連れていく」
リナは脇腹を負傷した兵士の腕を、自分の肩へ回した。
「俺はいい」
兵士が言った。
「脚は動くんでしょ」
「だが――」
「歩いて」
立たせる。
兵士の顔が痛みに歪んだ。
それでも一歩を踏み出した。
天幕の外へ出る。
野営地は混乱していた。
西側の防柵がすでに破られている。
ガルディア兵が馬上から槍を振るい、逃げ遅れた兵士たちへ襲いかかっていた。
矢が飛び交う。
燃える天幕。
横倒しになった荷車。
ルミナス軍の正規兵は後方へ下がりながら隊列を組もうとしている。
だが、補助兵と負傷者は、そのさらに後ろへ取り残されていた。
「こっち!」
リナは負傷兵を支え、東側の細い道へ向かう。
十歩。
二十歩。
背後で馬の嘶きが聞こえた。
「伏せて!」
負傷兵を突き飛ばす。
頭上を槍が通り過ぎた。
リナは地面へ転がった。
顔を上げると、馬に乗ったガルディア兵がこちらを見下ろしている。
黒い鎧。
血で汚れた槍。
兜の隙間から見える目には、何の感情もなかった。
兵士が槍を引く。
次は外さない。
リナは腰の短剣へ手を伸ばした。
補助兵へ支給された、粗末な作業用の刃。
こんなもので騎兵に勝てるはずがない。
それでも、何もせずに殺されるつもりはなかった。
槍が突き出される。
その瞬間、横から小石が飛んできた。
石は馬の兜へ当たり、甲高い音を立てた。
驚いた馬が前脚を上げる。
騎兵の槍が大きく外れた。
「走れ!」
誰かが叫んだ。
黒髪の青年が、倒れた荷車の陰から飛び出してくる。
濃灰色の上着。
色あせた外套。
腰には、装飾のない古びた剣。
外套には煤と灰が付着していた。
森を抜け、戦場まで休まず歩いてきたように見える。
兵士には見えない。
傭兵にしては、装備が貧弱すぎる。
青年は馬の横へ滑り込み、剣を抜いた。
鈍い銀色の刃が、槍の柄へ当たる。
一撃。
木製の柄が中央から折れた。
続けて、青年は馬の手綱をつかみ、騎兵の身体を引いた。
兵士が馬上から落ちる。
地面へ叩きつけられた衝撃で、動かなくなった。
青年は倒れた兵士へ剣を向けなかった。
「立てるか?」
代わりに、リナへ手を差し出す。
リナはその手を取らず、自分で立ち上がった。
「後ろ!」
別のガルディア兵が剣を振りかぶっている。
青年は振り返らない。
わずかに身体を沈めるだけで、振り下ろされた刃を避けた。
相手の腕の下へ入り込み、剣の柄を打つ。
ガルディア兵の剣が宙へ舞った。
青年はそのまま足を払い、兵士を地面へ転がす。
三人目が槍を突き出す。
青年は古びた剣の腹で受け流した。
刃と槍が擦れ、火花が散る。
不思議な力を使っているようには見えなかった。
相手が剣を振るよりも先に動き、刃の通る場所から身体を外している。
強いというより、何をされるか最初から知っているような戦い方だった。
だが、その足元はわずかに揺れていた。
顔色も悪い。
技だけで身体の不調を補っているように見える。
「アルト!」
銀白色の髪をした少女が、少し離れた場所から声を上げた。
「力を使いすぎないで!」
「使ってない!」
「剣を振っているでしょう!」
「それは力に入らないだろ!」
「今のあなたには入るの!」
言い争いながら、青年は槍の穂先を斬り落とした。
ガルディア兵が後ずさる。
「何者だ!」
「通りすがりだ」
「ふざけるな!」
「よく言われる」
青年は踏み込み、相手の胸当てへ剣の柄を叩き込んだ。
兵士が息を詰まらせ、膝をつく。
その間に、銀白色の少女が片手を上げた。
風が吹く。
強い風ではない。
だが、地面の灰と砂が巻き上がり、ガルディア兵たちの視界を奪った。
「森を出てすぐに戦闘なんて、無茶よ」
「間に合ったなら、来た意味はあった」
青年は息を切らしながら答えた。
「今のうちに!」
リナは負傷兵のもとへ戻った。
彼は地面へ倒れたまま、傷口を押さえている。
「歩ける?」
「何とか……」
肩を貸して立たせる。
青年はガルディア兵たちの前へ立ち、追撃を防いでいた。
剣を奪う。
槍を折る。
足を払う。
鎧の隙間へ柄を打ち込み、気絶させる。
誰一人として斬っていない。
「何をしてるの……」
リナは思わずつぶやいた。
敵なのだ。
フェルナを焼いた国の兵士たち。
こちらを殺そうとしている。
それなのに、青年は一人も殺さない。
ガルディア兵たちは、武器を失っても立ち上がった。
何度も向かってくる。
青年はそのたびに、殺さずに倒した。
やがて、残っていた兵士たちは距離を取った。
「化け物め……」
一人が吐き捨てる。
「化け物なら、もう少し楽に戦ってる」
青年は荒い呼吸を隠すように笑った。
ガルディア兵たちは仲間を引きずり、西の林へ退いていく。
林の向こうに、本隊の姿が見えた。
しかし、すぐには進んでこない。
崩れた野営地の状況を確認し、隊列を組み直しているらしい。
わずかな猶予だけが残されていた。
青年は剣を下ろした。
次の瞬間、膝がわずかに揺れる。
銀白色の少女が腕を支えた。
「だから言ったでしょう」
「倒れてはいない」
「倒れる直前よ」
二人のやり取りを見ながら、リナは負傷兵を地面へ座らせた。
「助かった」
兵士は傷口を押さえながら、かすかに笑った。
「置いていかれると思ってた」
リナは答えなかった。
自分が家族とはぐれた日のことを、また思い出していた。
助けたことが正しかったのか。
今も分からない。
ただ、目の前の兵士が生きている。
それだけは事実だった。
周囲には、倒れた者が大勢いる。
ルミナス兵。
補助兵。
そしてガルディア兵。
青年は腰の剣を納めると、先ほど馬から落とした敵兵のそばへしゃがみ込んだ。
兜を外し、呼吸を確かめる。
「生きてる」
そう言って、兵士の首へ手を当てた。
「何をしてるの?」
リナは問いかけた。
「頭を打っている。動かさない方がいい」
「敵だよ」
「そうだな」
「今、私たちを殺そうとした」
「見ていた」
青年はガルディア兵の身体を横向きにし、呼吸しやすい姿勢へ変えた。
銀白色の少女も、少し離れた負傷兵へ歩み寄る。
傷口へ指を向けると、ごく弱い翠色の光が流れた。
裂けた額からの出血だけが止まる。
傷を治したわけではない。
これ以上血を失わないよう、一時的に傷口を塞いだだけだった。
「やめて」
リナの声が低くなる。
少女が振り返った。
「何を?」
「そいつらを助けるのを」
「放置すれば死ぬわ」
「死なせればいい」
口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
それでも、言葉を取り消す気にはなれなかった。
「ガルディアの兵士だよ。フェルナを焼いた。私の家族だって――」
最後まで言えなかった。
家族は死んだと決まったわけではない。
まだ生きているかもしれない。
そう思っていなければならない。
青年が、ゆっくりと立ち上がる。
「この兵士が、君の町を焼いたのか?」
「同じ軍の人間でしょ」
「そうだな」
「だったら同じだよ」
青年は否定しなかった。
怒りもしない。
ただ、地面に倒れている敵兵へ目を向ける。
「殺さなかったら、また追ってくる」
リナは言った。
「次は、こっちが殺されるかもしれない」
「そうかもしれない」
「だったら、どうして?」
「それでも、殺さずに済むなら、その方がいい」
あまりにも迷いのない答えだった。
リナは青年を睨んだ。
「戦争を知らないの?」
「知っているつもりだ」
「知っていたら、そんなこと言えない」
「そうかもしれないな」
「何なの、それ」
言い返されると思っていた。
自分の方が正しいと説教されると思っていた。
だが、青年は正しさを押しつけてこなかった。
「殺さなかったことが正しいかは、俺にも分からない」
青年は言う。
「ただ、今は殺さずに止められた。だから、そうした」
「次も止められるとは限らない」
「そうだな」
「誰かが死んだら?」
「後悔すると思う」
「それでも殺さないの?」
青年は少しだけ考えた。
「そのときにならないと分からない」
何も答えていないような言葉だった。
けれど、嘘をついているようには見えない。
自分は絶対に正しいとは言わない。
それでも、自分が選んだことから逃げようともしない。
リナには、その態度が理解できなかった。
「リナ!」
後方から補助兵の少女が駆け寄ってきた。
「無事だったんだ!」
「そっちも」
「正規兵が戻ってくる。負傷者を集めろって」
リナはうなずいた。
周囲を見回す。
先ほど助けた兵士。
倒れた補助兵。
動けないガルディア兵。
連れていける人数には限りがある。
青年はガルディア兵たちの武器を集め始めた。
剣。
槍。
短弓。
すべて一か所へまとめ、使えないように刃や柄を折っていく。
「何をしてるの?」
「目を覚ましても、すぐには戦えないようにしている」
「その後は?」
「ルミナス兵には、捕虜として扱うよう頼む」
「聞いてくれると思う?」
「聞かなければ、そのとき考える」
銀白色の少女が、わずかに眉を寄せた。
「あなたは、何でも話し合いで済ませようとするのね」
「最初から諦めるよりはいいだろ」
地面には、ガルディア兵が落とした短弓が転がっていた。
リナはそれを拾い、傷のない弓身と弦を確かめる。
故郷では、父に教わって小動物を狩ったことがあった。
人へ向けて使ったことはない。
それでも、リナは短弓を肩へかけた。
「それ、使えるのか?」
青年が尋ねた。
「少しなら」
「なら、持っていた方がいい」
「敵の武器だけど」
「使う人間が変われば、守るための道具にもなる」
リナは弓を見下ろした。
なら、故郷を焼いた聖剣も同じなのだろうか。
そう考えかけて、すぐに打ち消した。
弓と、町を一つ焼き払う剣を同じにはできない。
「あなたたち、何者なの?」
リナは短弓を肩へかけながら尋ねた。
「そういえば、名乗ってなかったな」
青年はリナへ向き直った。
「アルト・レイヴァンだ」
時間が止まったような気がした。
その名前を知らない者はいない。
百年前、三本の聖剣を手に魔王を倒した勇者。
教会の壁画。
兵士たちが掲げる旗。
子ども向けの物語。
ありとあらゆる場所で語られている英雄。
「……は?」
リナは青年の姿を改めて見た。
煤で汚れた外套。
傷んだ旅装。
黒髪。
腰には、木目の残った柄を持つ古びた剣。
勇者を示す紋章もない。
三本の聖剣のどれも持っていない。
「アルト・レイヴァン?」
「ああ」
「勇者の?」
「そう呼ばれていた」
リナは無銘の剣を指さした。
「勇者が、そんな古びた剣を持っているわけない」
「今作ったばかりなんだけどな」
「余計におかしいでしょ!」
「そう言われても、聖剣は他の人間が持っている」
「だからって――」
リナは言葉を失った。
青年の顔は、教会に描かれていた勇者の肖像と似ていない。
壁画のアルトは、金色の鎧をまとった大柄な男だった。
光り輝く聖剣を掲げ、その背後には三色の翼が描かれていた。
百年の間に、勇者の姿は国や教会の都合で何度も描き直されたという。
それでも、目の前の青年ほど頼りなく描かれたアルトを、リナは見たことがなかった。
「絶対に偽物」
「百年後の俺が、どんな姿で描かれているか知らないからな」
「本物なら証明して」
「どうやって?」
「聖剣を使うとか」
「だから持ってない」
「魔王を倒した技を見せるとか」
「そんなものをここで使ったら、周りが吹き飛ぶ」
「できないんでしょ」
「今はたぶん無理だな」
「やっぱり偽物じゃない!」
青年――アルトを名乗る男は、困ったように頭をかいた。
隣の少女が、深くため息をつく。
「信じてもらえないのは当然ね」
「フィオナまで」
「百年ぶりに現れて、本人だと言うだけで信じる方が危険よ」
「それはそうか」
二人とも、焦っている様子がない。
嘘をついているなら、もう少し上手く取り繕うはずだ。
それとも、相手を混乱させるために、わざと頼りなく振る舞っているのか。
「その子は?」
リナは銀白色の少女を指した。
「フィオナよ」
少女は短く名乗った。
「精霊の?」
「そう」
「精霊が、人間みたいに歩いてるの?」
「上位精霊は人の姿を取れるわ」
「そんな話、聞いたことない」
「人間へ説明する必要がなかったもの」
何を聞いても、常識外れの答えが返ってくる。
リナは頭が痛くなってきた。
「もういい」
信じる必要はない。
敵から助けられたことだけは事実だ。
それ以上、関わらなければいい。
そう思ったときだった。
空気が変わった。
風が止まる。
燃えていた天幕の炎が、一斉に同じ方向へ傾いた。
西。
ガルディア兵たちが退いた林の向こう。
地面の下から、熱が這い上がってくる。
息を吸うだけで、喉が焼けるようだった。
リナの身体が動かなくなる。
知っている。
この熱を。
故郷を包んだ炎。
国境砦を消し飛ばした赤い光。
人々が逃げ惑う中、空を焼いた聖剣の力。
「来るわ」
フィオナが西を見た。
先ほどまでの疲れた表情が消えている。
アルトも、腰の無銘の剣へ手をかけた。
「下がっていろ」
穏やかだった声が変わった。
低く、鋭い。
リナは返事をすることができなかった。
退いていった騎兵たちが、林の両側へ分かれる。
その奥から、黒い鎧をまとった兵士たちが現れた。
槍をそろえた歩兵。
弓を構えた射手。
先ほどの急襲部隊とは比べものにならない数だった。
その中央。
深紅の外套を揺らし、一人の大男が歩いてくる。
黒鉄の鎧。
短く刈られた暗い赤褐色の髪。
右手には、炎のように赤い剣。
刀身の核が脈打つたび、周囲の草が音もなく焦げていく。
第一聖剣、フレイムベルグ。
リナは、その男の顔を見たことはなかった。
それでも、その姿については何度も聞いていた。
深紅の外套をまとい、フレイムベルグを振るうガルディア軍の将軍。
フェルナから逃れてきた難民たちは、恐怖と憎しみを込めて、その特徴を何度も語っていた。
間違えるはずがない。
故郷を焼いた軍を率いる男。
「グレン……」
声が震えた。
怒りなのか。
恐怖なのか。
自分でも分からない。
手にした短弓の弦が、かすかに鳴った。
引いてもいないのに、指が震えている。
グレンの視線が、折られた槍と、刃を使わずに倒された兵士たちを順にたどる。
最後に、アルトへ目を止めた。
赤い聖剣が、低い音を立てて燃え上がる。
「我が兵を退けたのは、お前か」
アルトは無銘の剣を抜いた。
風へ呼びかけるように、刃を静かに構える。
「話をしに来た」
「名を名乗れ」
「アルト・レイヴァン」
周囲の兵士たちがざわめいた。
グレンの目が細くなる。
「勇者の名を騙るか」
「よく言われる」
アルトは、フレイムベルグを見つめた。
懐かしむように。
そして、悲しむように。
「その剣を返してもらいたい」
次の瞬間。
フレイムベルグから噴き上がった炎が、夕暮れの空を赤く染めた。




