第2話 百年後の目覚め
最初に感じたのは、冷たさだった。
深い水の底へ沈んでいるような、身体の芯まで染み込む冷たさ。
手足は動かない。
目を開けることもできない。
そもそも、自分にまだ目や手足があるのかすら分からなかった。
音もない。
光もない。
時間さえ存在しない暗闇の中で、アルトは漂っていた。
ここがどこなのかは分からない。
だが、不思議と恐怖はなかった。
長い旅を終え、ようやく眠りについたような安らかさがある。
最後に見たものを思い出そうとする。
木々の間から差し込む、柔らかな朝の光。
風に揺れる銀白色の髪。
泣いているくせに、泣いていないふりをしていた友の顔。
もう休みなさい。
確か、そんなことを言われた。
それに自分は、何と答えただろう。
思い出せない。
思い出す必要もない気がした。
もう終わったのだから。
魔王は倒した。
三本の聖剣は封じた。
仲間たちも、それぞれの道を歩み始めた。
自分の役目は終わった。
だから、このまま眠っていればいい。
そう思ったときだった。
『――ルト』
遥か遠くから、声が届いた。
誰かが呼んでいる。
聞き覚えのある声だった。
『アルト』
穏やかで、少し冷たい。
それでいて、隠しきれない不安を含んだ声。
アルトは意識をそちらへ向けた。
暗闇の中に、淡い翠色の光が浮かんでいる。
小さな光だった。
手を伸ばせば届きそうなのに、どれだけ近づこうとしても距離が縮まらない。
『見つけた』
声が震えた。
『まだ、そこにいるのね』
フィオナ。
その名前を思い出した瞬間、翠色の光が強くなる。
暗闇の彼方に、三つの光が浮かんだ。
赤。
青。
緑。
どれも遠く、ひどくかすんでいる。
それでも、アルトには見覚えがあった。
かつて握った三本の聖剣。
炎のフレイムベルグ。
水のアクアレギア。
風のエアリアル。
三本の剣には、今も自分の魔力がわずかに残っているらしい。
翠色の光は、それらを目印にして暗闇の中を進んでくる。
『帰ってきて』
その声とともに、アルトの意識が引き上げられた。
静寂の中へ、無数の音が流れ込む。
木の爆ぜる音。
大地が震える音。
誰かが苦しそうに息をする音。
翠色の光の向こうで、フィオナが何かを差し出している。
胸を裂くような痛みが、一瞬だけアルトにも伝わってきた。
何を失おうとしているのかは分からない。
ただ、自分を呼び戻すために彼女が傷ついていることだけは分かった。
『もう一度だけ、力を貸して』
眠りを惜しむような、か細い声。
アルトは光へ手を伸ばした。
今度は、届いた。
◇
冷たかった暗闇へ、熱が流れ込んできた。
身体の輪郭が、少しずつ形作られていく。
腕。
脚。
胸。
失われていた感覚が、光の中で一つずつ戻ってくる。
続いて、左手首へ鋭い痛みが走った。
何かが皮膚へ刻み込まれている。
薄く開いた意識の中で、アルトは断片的な光景を見た。
石造りの天井。
揺らめく翠色の光。
こちらをのぞき込むフィオナの顔。
彼女の頬は煤で汚れ、銀白色の髪は乱れている。
両手の中では、古い腕輪が淡い光を放っていた。
やがて、腕輪の金属へ細い亀裂が走る。
一つ。
二つ。
それは音もなく崩れ、無数の光の粒へ変わっていった。
金属の輪郭が消える。
代わりに、腕輪へ刻まれていた蔦のような紋様だけが宙へ浮かんだ。
翠色の紋様が、アルトの左手首へ降りてくる。
触れた瞬間、光が身体の奥まで駆け抜けた。
何もなかった胸の内側で、一つの音が鳴る。
鼓動。
一度。
間を置いて、もう一度。
止まっていた何かが、百年ぶりに動き始めた。
◇
息を吸った瞬間、喉が焼けるように痛んだ。
「――っ!」
アルトは激しく咳き込んだ。
肺へ入ってきた空気は熱く、煙の臭いがした。
背中に硬い感触がある。
冷たい石の上へ寝かされているらしい。
重いまぶたを開く。
最初に見えたのは、薄暗い石造りの天井だった。
亀裂の入った天井から、土と細かな灰が落ちてくる。
視界の端では、翠色の光が不規則に揺れていた。
アルトは身体を起こそうとした。
だが、腕に力が入らない。
「急に動かないで」
聞き覚えのある声がした。
顔を向ける。
石台の横に、フィオナが座り込んでいた。
銀白色の髪。
淡い翠色の瞳。
人間離れした白い肌。
百年前と何ひとつ変わらない姿。
ただし、白と薄緑の衣は煤で汚れ、呼吸は明らかに乱れていた。
「フィオナ……?」
「ええ」
短く答えたフィオナの表情が、わずかに緩んだ。
「私よ」
アルトは何度か瞬きをした。
夢ではないらしい。
石台へ手をつき、ゆっくりと身体を起こす。
自分の手を見る。
指がある。
動く。
皮膚の感覚もある。
だが、何かがおかしい。
手の甲にあったはずの古い傷がない。
腕も、記憶にあるものより若い。
アルトは自分の頬へ触れた。
「どういうことだ?」
「説明するわ」
「その前に」
石室の外から、何かが崩れる音が聞こえた。
地面が小さく揺れる。
隙間から赤い光が差し込み、煙が入り込んできた。
アルトは石室の出口へ目を向ける。
「随分と騒がしいな。魔王でも戻ってきたのか?」
フィオナはしばらく黙っていた。
やがて、疲れ切った声で答える。
「戻ってきたのは、あなたよ」
「俺?」
「そう」
アルトは自分を指さした。
「俺は死んだはずだ」
「死んだわ」
フィオナは平然と言った。
「三十歳の春に、この森で」
「そこまでは覚えている」
「それから百年が経った」
アルトは動きを止めた。
「……百年?」
「ええ」
言葉の意味は分かる。
だが、実感がない。
昨日まで森で眠っていたようにしか思えなかった。
「今のあなたは、魔王を倒した二十三歳の頃の姿よ」
フィオナが言った。
「二十三……魔王を倒した頃か」
「三本の聖剣に最も強く残っていた、魔王討伐時のあなたの魔力を道標にしたの。結果として、その頃の姿になった」
アルトは自分の手を見下ろした。
魔王を討ったのが二十三歳。
その後も七年間、戦火で傷ついた土地を回り、復興を助け、三本の聖剣を封印した。
そして三十歳で、生涯を終えた。
今の身体からは、その七年間だけが抜け落ちている。
「七年分、若返ったわけか」
「死者が若返ったことを、そんな軽く言わないで」
「身体が重いから、あまり得をした気はしないけどな」
「蘇った直後なのよ。軽々と動ける方がおかしいわ」
アルトは自分の腕を見つめる。
見た目は確かに若い。
だが、血の通う人間の身体とは、どこか感覚が違う。
心臓が動くたび、淡い翠色の光が全身へ流れているように感じられた。
「それで」
石室の外から、再び炎の爆ぜる音が響く。
「どうして森が燃えている?」
フィオナの表情から、わずかな安堵が消えた。
「三本の聖剣は、もう封印されていない」
アルトは彼女を見る。
「三本とも?」
「百年の間に、三つの国がそれぞれ封印を解いた」
「何のために?」
「戦争よ」
その一言だけで、外の音の意味が変わった。
木が燃える音。
遠くから響く地鳴り。
わずかに届く、人々の叫び。
「フレイムベルグは、ガルディア軍事帝国が所有している」
フィオナが続ける。
「グレンという将軍がフェルナへ侵攻し、国境砦と町を焼いた。その炎が三日前から森まで燃え広がっている」
「この森を焼いているのは、フレイムベルグなのか」
「ええ」
「残りの二本は?」
「別の国々が所有しているわ」
フィオナは短く息を整えてから続けた。
「三本とも封印を解かれ、戦争へ使われている」
アルトは何も言わなかった。
百年前。
三本の聖剣を封印すると決めたのは、アルトたち自身だった。
破壊する案もあった。
だが、魔王のような脅威が再び現れた場合に備え、その力を残すべきだという意見が勝った。
アルトも、それに賛成した。
危険があることは分かっていた。
それでも、未来の人々なら正しく扱えると信じた。
「俺たちが残したものが、こうなったのか」
「あなた一人の責任ではないわ」
「分かっている」
アルトは静かに答えた。
「でも、見なかったことにはできない」
石台から降りようとした瞬間、膝から力が抜けた。
フィオナが腕を伸ばし、アルトの身体を支える。
「だから、急に動かないでと言ったでしょう」
「思ったより弱っているな」
「蘇った直後なのよ」
「少し休めば動けるか?」
「普通の死者なら、永遠に動かないわ」
「それは困るな」
「冗談を言っている場合?」
フィオナはアルトを石台へ座り直させた。
その動作だけでも苦しいのか、呼吸がわずかに乱れる。
アルトは彼女の顔を見た。
「フィオナも休んだ方がいいんじゃないか」
「森が燃えているのよ」
「俺を起こすのに、かなり力を使っただろ」
「誰のせいだと思っているの?」
「俺のせいではない気がする」
「あなたを起こした私のせいね」
「なら、一緒に休むか」
「そんな時間はないわ」
フィオナは立ち上がったが、すぐに石台へ手をついた。
彼女が弱っていることは明らかだった。
それでも、止まるつもりはないらしい。
「歩けるのか?」
「あなたよりは」
「それは答えになっていない」
「森を焼いている剣を止めれば休むわ」
アルトは反論しかけた。
だが、自分も同じ立場なら、きっと同じことを言う。
そう思い、口を閉じた。
石室の中を見回す。
石台の上には、古びた遺品が並んでいる。
小さな木彫りの駒。
傷だらけの銀貨。
色あせた布。
そして、一本の鉄剣。
聖剣を手にする前に使っていた、古い武器だった。
石室の隅には、保存の術を施された旅装と革の長靴が置かれている。
どちらも、アルトが生前に使っていたものだった。
「残していたのか」
「あなたの遺品だから」
フィオナは旅装へ目を向けた。
「百年経っても、捨てる理由はなかったわ」
「俺なら、もう少し新しいものを残してほしかったな」
「贅沢を言わないで」
アルトは黒い下衣の上へ、濃灰色の上着を重ねた。
動きやすい黒の長衣。
革の長靴。
最後に、色あせた外套を肩へかける。
七年分若い身体でも、着られないほどの違いはなかった。
装飾はなく、勇者らしさなど欠片もない。
「こっちの方が落ち着くな」
「百年前も、立派な鎧を嫌がっていたわね」
「重いからな」
「魔王の攻撃を受けるときだけは着ていたでしょう」
「死にたくなかったからな」
アルトは古い鉄剣へ手を伸ばした。
「懐かしい」
柄を握り、持ち上げる。
その途端、刃の根元から乾いた音がした。
鉄剣は耐えきれず、二つに折れた。
「……さすがに百年は長かったか」
「使えると思ったの?」
「少しくらい期待するだろ」
フィオナは折れた剣を受け取った。
そのとき、地上から枝の折れる乾いた音が響いた。
石室の入口から、淡い光を帯びた一本の枝が滑り込んでくる。
『持っていきなさい』
低く、穏やかな声が石室へ響いた。
アルトは入口を見上げた。
「久しぶりだな」
『百年ぶりです』
「その間、墓を守ってくれていたのか」
『フィオナとともに』
アルトは、光を帯びた枝を見つめた。
「ありがとう」
『長い眠りでした』
「起きる予定はなかったんだけどな」
大樹の精霊は、それ以上何も言わなかった。
フィオナは枝を受け取る。
「力を借りるわ」
折れた鉄剣と大樹の枝を重ね、両手で包み込む。
翠色の光が二つを覆った。
フィオナの呼吸がわずかに乱れる。
折れた鉄が光の中でつながり直し、大樹の枝が柄と刀身の芯を補っていく。
やがて、古い鉄の刃と、木目を残した柄を持つ一本の剣が形作られた。
宝石も、精霊文字も、華美な装飾もない。
三本の聖剣とは比べものにならない、粗末な剣だった。
光が消えた直後、フィオナの身体が傾いた。
アルトが咄嗟に腕を伸ばす。
だが、自分の足元も揺らぎ、二人そろって石台へ手をつくことになった。
「人のことを言えないな」
「あなたを支えようとしたのよ」
「俺も同じだ」
「どちらも支えられていないでしょう」
フィオナは息を整え、剣をアルトへ差し出した。
「急ごしらえよ。強い力には長く耐えられない」
アルトは剣を受け取った。
無理に振らず、重さを確かめる。
握った手から、フィオナと大樹の気配がわずかに伝わってきた。
「十分だ」
「名前は?」
「今作ったばかりだろ」
「剣には名前をつけるものじゃないの?」
「名乗るほど立派な剣でもない」
アルトは無銘の剣を腰へ差した。
そのとき、左手首に淡い光があることに気づく。
蔦のような翠色の紋様が、皮膚へ刻まれていた。
「これは……」
「契約印よ」
フィオナが自分の左手首を見せる。
同じ形の紋様が、淡く輝いていた。
「腕輪はどうした?」
「蘇生の触媒に使ったわ。金属は消えて、契約印だけがあなたの身体へ移った」
アルトが紋様へ指を触れる。
わずかに温かい。
「百年前と同じ契約なのか?」
「完全に同じではないわ。今のあなたの身体を安定させる役割も持っている」
「切れたらどうなる?」
「分からない」
フィオナは正直に答えた。
「今のあなたは、精霊力で作った仮初めの身体よ。契約が切れれば、身体を保てなくなる可能性がある」
「可能性か」
「死者を蘇らせた経験なんて、私にもないもの」
アルトは左手首の契約印を見つめた。
フィオナ自身にも、すべてが分かっているわけではない。
それでも彼女は、自分を呼び戻した。
「無茶をしたな」
「あなたにだけは言われたくないわ」
「それで、まずどこへ行く?」
「本気で行くつもりなのね」
「フレイムベルグを持っている将軍のところへ行く」
「行ってどうするの?」
「返してもらう」
フィオナは無言でアルトを見つめた。
「何だ?」
「国を支えるほどの力を、人間が話し合いだけで手放すと思う?」
「まずは話してみないと分からない」
「すでに一つの国を焼いているのよ」
「だからこそ、これ以上使う前に止める」
「相手が拒否したら?」
アルトはすぐには答えなかった。
腰の無銘の剣へ目を落とす。
「そのときは、そのとき考える」
「何も考えていないのと同じね」
「百年後の国の事情なんて、起きたばかりの俺に分かるわけがないだろ」
「開き直らないで」
「でも、放っておくわけにもいかない」
アルトは石室の出口へ向かった。
一歩踏み出した瞬間、視界が暗くなる。
身体が前へ傾いた。
左手首の契約印が強く光り、フィオナが腕を支えた。
「走るのは禁止よ」
「歩くのは?」
「倒れない程度なら」
「随分と曖昧だな」
「今のあなたの身体と同じね」
二人はゆっくりと石段を上った。
地上へ近づくほど、熱と煙が強くなっていく。
最後の石を押しのけ、外へ出る。
赤く染まった空。
黒煙に覆われた森。
焼け落ちた木々。
光となって消えていく小さな精霊たち。
百年前、アルトが眠りについたときに見た穏やかな森は、どこにもなかった。
その場に立ち尽くしたアルトの隣へ、フィオナが並ぶ。
「これが、百年後の世界よ」
アルトは燃える森を見渡した。
遠くから、人々の叫びと軍馬の音が聞こえる。
「残った精霊たちは?」
「森の中心へ避難しているわ」
フィオナは目を閉じ、森の気配を探った。
呼吸は浅く、長く意識を広げる余力は残っていない。
それでも、古い大樹の周囲に集まる小さな光を感じ取ることはできた。
「防壁も、あと半日ほどはもつ」
「その間に、フレイムベルグを止める」
「簡単に言うのね」
「ここで火を消し続けても、また剣を振るわれたら同じことになる」
アルトは遠くで揺れる赤い光を見つめた。
「使い手を止めない限り、この火は終わらない」
フィオナはしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
「そのとおりよ」
アルトは腰の剣へ手を置いた。
「フィオナ」
「何?」
「起こしてくれて、ありがとう」
フィオナの目が見開かれた。
「私は、あなたの眠りを奪ったのよ」
「起きたくなかったのは確かだけどな」
「なら――」
「それでも、起きなければ見過ごしていた」
アルトは燃える木々の向こうを見つめる。
「聖剣を残したのは俺たちだ」
「あなた一人で背負わないで」
「一人で行くとは言っていない」
アルトが隣を見る。
「一緒に来てくれるんだろう?」
フィオナはすぐには答えなかった。
アルトの左手首にある契約印が、淡く輝く。
それに呼応するように、フィオナの手首の紋様も光った。
「私はこの森に根づいた精霊よ。人間との契約がなければ、森の外では姿も力も保てない」
フィオナは、二人の左手首にある印を見る。
「でも、今はあなたとの契約がある。そのつながりを足場に、外へ出られるわ」
「なら、決まりだな」
「勝手に決めないで」
「来ないのか?」
フィオナは深くため息をついた。
「百年経っても、本当に変わらないのね」
「さっきも聞いた」
「これから何度でも言うわ」
森の向こうで、ひときわ大きな炎が上がった。
アルトは無銘の剣を抜く。
風へ呼びかけると、刃の周囲で空気がわずかに揺れた。
だが、すぐに光は散った。
「まだ契約が安定していないわ」
「少しずつ慣らすしかないか」
アルトは無銘の剣を鞘へ戻した。
まずフレイムベルグを取り戻す。
残る二本についても、自分の目で確かめなければならない。
百年前に自分たちが残したものが争いを生んだのなら、今度は目をそらさない。
「フレイムベルグのところへ行こう」
「将軍が素直に返すと思う?」
「思わない」
「では、どうするの?」
アルトは少し考えた。
それから、昔と同じように笑った。
「まあ、何とかなるさ」
二人は燃える森を背に、戦場の方角へ歩き出した。




