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百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する  作者: situ725


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第1話 勇者のいない世界

空が、燃えていた。


 西の地平を覆うように、赤黒い炎が立ち上っている。


 それは夕焼けではない。


 小国フェルナの国境砦と、その周辺に築かれた町が焼けているのだ。


 乾いた風が吹くたび、焦げた草木の匂いが森の奥まで流れ込んでくる。


 遠くから響く低い音は、砦の崩れる音なのか。それとも、人々の悲鳴なのか。


 森の最も高い枝に、一人の少女が立っていた。


 腰まで届く銀白色の髪。


 淡い翠色の瞳。


 透き通るような白い肌に、白と薄緑の衣。


 人の少女に似ていながら、その姿はどこか人ならざる気配をまとっていた。


 見た目だけなら、十八歳ほど。


 しかし、その瞳には、人の一生をいくつも見送ってきた長い時間が宿っている。


 森を守る上位精霊、フィオナ。


 彼女は燃え上がる西の空を、静かに見つめていた。


 森全体を覆う古い守護結界を越え、火の粉がひとつ飛び込んでくる。


 フィオナが指先を向けると、火の粉は淡い翠色の光に包まれ、音もなく消えた。


 だが、消せたのはそれだけだった。


 森の外には、数え切れないほどの炎がある。


『フィオナ』


 震える声に振り返る。


 幼い精霊が、大樹の幹から半身をのぞかせていた。


 木の葉を重ねたような髪と、蛍ほどの淡い光をまとった、小さな森の精霊だった。


 いつもなら鮮やかな緑色に輝いている身体が、今は弱々しく明滅している。


『また、消えた』


 その言葉の意味を、フィオナは尋ねなかった。


 尋ねる必要がなかった。


 森の南西部。


 先ほどまで感じていた、いくつもの精霊の気配が途絶えている。


 炎に焼かれたのではない。


 力そのものを奪われ、存在を保てなくなったのだ。


「残っている者を、森の中心へ集めなさい」


『でも、外にはまだ――』


「分かっているわ」


 フィオナは静かに答えた。


「私が行く」


 枝から飛び降りる。


 落下する彼女の身体を、木々の間を流れる風が受け止めた。


 裸足が地面へ触れるより早く、その姿は翠色の光へ変わる。


 細い光の帯となり、木々の間を駆け抜けて西へ向かった。


 森を進むほど、空気は熱くなっていった。


 葉の先は乾き、草は茶色く変色している。


 巣を捨てて飛び去る鳥。


 地面を駆ける小動物。


 自らの宿る木を離れられず、怯えた声を上げる精霊たち。


 フィオナは、幾百年もの間、この森を見守ってきた。


 人間の国が生まれ、栄え、名前を変え、やがて滅びていく。


 そのすべてを、森の中から見続けてきた。


 長い年月の中では、落雷による火災もあった。


 干ばつも、大嵐もあった。


 だが、今回の炎はそれらとは違う。


 自然の火ではない。


 森を焼くために放たれたものですらない。


 遠くの戦場で振るわれ、その余波だけで、これほど多くの命を奪っている。


 やがて木々が途切れた。


 森の西端に広がる草原。


 その向こうに、小国フェルナの町と国境砦が見える。


 砦の周囲には、黒地に赤い獅子を描いた軍旗が並んでいた。


 ガルディア軍事帝国。


 その軍の先頭に、一人の男が立っている。


 黒鉄の鎧をまとった、四十歳に届かないほどの大男。


 短く刈った暗い赤褐色の髪。


 日に焼けた角張った顔には、古い傷が何本も残っている。


 深紅の外套を背負った姿は、戦場を前にしても微動だにしなかった。


 男が握っている剣を、フィオナは知っていた。


 百年が過ぎても、見間違えるはずがない。


 炎のように赤い刀身。


 柄に刻まれた古い精霊文字。


 脈打つように光る核。


 第一聖剣、フレイムベルグ。


「あれは……」


 フィオナの声が、わずかに震えた。


 国同士の争いに使うための剣ではない。


 世界を滅ぼそうとした魔王へ対抗するために残された力だった。


 かつてアルトとともに、魔王との戦いを終わらせた剣。


 それを今、人間が一人で振るおうとしている。


 帝国兵たちが剣を掲げた。


「グレン将軍に続け!」


「フェルナの砦を落とせ!」


 兵士たちの叫びから、男がグレンという将軍であることだけは分かった。


 グレンはフレイムベルグを振り上げる。


 戦場を通り抜けた風が、彼の声をフィオナの耳へ運んだ。


「放て!」


 直後、空が赤く染まった。


 剣から放たれた炎が巨大な奔流となり、国境砦へ襲いかかる。


 石壁が一瞬で赤熱した。


 砦を覆っていた防護結界が、薄い硝子のように砕け散る。


 炎は壁を越え、塔を、兵舎を、内部にいた兵士たちをのみ込んだ。


 轟音が遅れて届く。


 大地が震えた。


 砦の一角が崩れ落ち、炎の中へ消える。


 だが、それで終わらなかった。


 砦を焼いた炎は地面を走り、周囲の乾いた草へ燃え移る。


 風にあおられ、無数の赤い舌となって町へ迫った。


 グレンは剣を下ろした。


 炎がどこへ向かうのかなど、もう見ていない。


 帝国軍は、崩れた砦へ進軍を始めた。


「勝手なものね」


 フィオナは、森全体を覆う古い守護結界の外へ出た。


 両手を地面へ向ける。


 淡い翠色の光が、足元から円を描いて広がっていく。


 町と森を隔てるように、新たな防壁が立ち上がった。


「水脈に眠る者たちよ。空を渡る者たちよ」


 呼びかけに応じ、地中の水が震える。


 草原の上へ湿った風が集まり、黒煙を押し返した。


「力を貸して」


 地面から水が噴き上がる。


 幾筋もの水流が壁となり、町へ向かう炎の前へ立ち塞がった。


 激しい音を立てて、水と火が衝突する。


 白い蒸気が辺り一面を覆った。


 炎の勢いが、一瞬だけ弱まる。


 逃げていた人々が振り返った。


 その顔に、わずかな希望が浮かぶ。


 だが、次の瞬間。


 水の壁を突き破り、赤い炎が現れた。


 水を浴びたはずの火は消えていない。


 むしろ、水に含まれていた精霊力を吸い上げるように、さらに大きく膨れ上がっている。


『いや――!』


 悲鳴が響いた。


 水の精霊が一体、炎へ引き寄せられる。


 フィオナは腕を伸ばした。


「戻りなさい!」


 間に合わない。


 小さな精霊の身体が炎へ触れ、輪郭を失う。


 淡い青色の光が砕け、赤い炎の中へ吸い込まれていった。


 ひとつ。


 またひとつ。


 フィオナへ力を貸していた精霊たちが、光となって消えていく。


「やめなさい!」


 フィオナは炎へ向けて両手を突き出した。


 翠色の防壁が広がり、燃え進む炎を受け止める。


 大気が震えた。


 フィオナの足元に亀裂が走る。


 防壁の表面へ、赤黒い染みのようなものが広がっていく。


 炎が結界そのものから精霊力を奪っている。


 フィオナは歯を食いしばった。


 両腕が震える。


 胸の奥にある精霊核が、熱を持って軋んだ。


 それでも退くことはできない。


 自分が防壁を解けば、炎は町を越え、そのまま森へ入る。


「ここから先へは……行かせない」


 さらに力を注ぐ。


 一度は押し返された炎が、再び膨れ上がった。


 赤い光が視界を埋める。


 フレイムベルグ。


 百年前は、アルトが握っていた。


 彼はどれほど追い詰められても、その力を人間の町へ向けることはなかった。


 大勢を救うためであっても、目の前の誰かを簡単に切り捨てようとはしなかった。


 甘いと何度も言われた。


 戦場では迷いが命取りになると、仲間たちに叱られたこともある。


 それでも最後まで、アルトは変わらなかった。


 敵を倒すことより、目の前の誰かを助けることを選び続けた。


 今、その剣が町を焼いている。


「アルト……」


 無意識に名前を呼んでいた。


 返事はない。


 あるはずがない。


 アルトは、もう百年も前に死んでいる。


 砦が落とされたその日、フィオナは町と森の境で炎を食い止め続けた。


 だが、夜になっても火は消えなかった。


 水を浴びせても。


 土で覆っても。


 風の流れを変えても。


 フレイムベルグの炎は、精霊力を奪いながら燃え続けた。


 翌朝には、町の半分と草原の大部分が焼け落ちていた。


 フィオナは眠ることなく防壁を維持した。


 二日目の夜。


 地面の下を伝ってきた炎が、森の西端へ入り込んだ。


 木々の根が焼けた。


 大樹に宿っていた精霊が、光の粒となって消えた。


 三日目。


 空は厚い黒煙に覆われ、昼だというのに薄暗かった。


 フィオナの防壁は、ついに限界を迎えようとしていた。


 胸の奥の精霊核が痛む。


 両腕の感覚も薄れている。


 それでも、フレイムベルグの炎は衰えない。


『フィオナ!』


 森の奥から、精霊たちの声が響く。


 振り返れば、古い守護結界の内側でも火災が始まっていた。


 飛び散った火の粉だけではない。


 地面の下を通じて、フレイムベルグの力が森へ侵入している。


 根を焼かれた大樹が、低い悲鳴を上げた。


 幹に宿っていた精霊が、光の粒となって空へ昇る。


 消えていく。


 また、消えていく。


 フィオナは防壁を維持したまま、森の奥へ意識を伸ばした。


 残っている精霊は少ない。


 このままでは、森そのものが死ぬ。


 防壁を強める力は、もう残されていない。


 帝国軍へ立ち向かう力もない。


 フレイムベルグを止められる者など――。


 一人だけ。


 フィオナは目を閉じた。


 結界へ注いでいた力を、わずかに緩める。


「全員、森の中心へ避難しなさい」


『フィオナは?』


「すぐに戻るわ」


『どこへ行くの?』


 フィオナは答えなかった。


 答えれば、決意が揺らぐ気がした。


 残った力で防壁を幾重にも重ねる。


 長くはもたない。


 それでも、わずかな時間は稼げる。


 フィオナは光となり、森の最深部へ向かった。


 炎の音が遠ざかる。


 木々が深くなるにつれ、森は静けさを取り戻していった。


 だが、以前の穏やかな静寂とは違う。


 鳥の声も、精霊たちの笑い声もない。


 何かが失われるのを待っているような、冷たい静けさだった。


 森の最深部。


 巨大な大樹の根元に、一基の墓がある。


 華美な装飾はない。


 積み重ねられた石と、名前を刻んだだけの墓石。


 長い年月を経て、石の表面は苔に覆われている。


 それでも、刻まれた文字は今も読めた。


 フィオナが百年前、自ら刻んだものだからだ。


 アルト・レイヴァン。


 愛すべき友、ここに眠る。


 フィオナは墓の前へ立った。


 脳裏に、百年前の姿が浮かぶ。


 少し乱れた黒い髪。


 静かな灰青色の瞳。


 華美な鎧よりも、使い込んだ外套を好んだ青年。


 剣を握れば誰よりも強かった。


 それでもアルトが誇ったのは、倒した敵の数ではなく、助けられた命の数だった。


 世界を救った勇者と呼ばれても、本人はいつも困ったように笑っていた。


 初めて森へ来た頃、アルトは精霊たちから警戒されていた。


 それでも剣を抜かず、追い返されても毎日同じ場所へ座り、話しかけ続けた。


「嫌われているなら、慣れてもらうしかないな」


 ある日には、自分も喉が渇いていたはずなのに、水筒に残った水を傷ついた小さな精霊へ差し出した。


 フィオナが初めて人間を信じてもよいと思ったのは、そのときだった。


 すべての戦いを終えた後、アルトはこの森で静かに息を引き取った。


 王や兵士に囲まれることも、勇者として盛大に見送られることも望まず。


 フィオナと、森の静けさに見守られながら。


 遠くで、木が倒れる音がした。


 森の防壁がまた一つ破られたのだ。


 フィオナは墓石へ手を伸ばす。


 だが、触れる直前で指が止まった。


「あなたは、ようやく眠れたのに」


 魔王との戦いを終えても、アルトに休息はなかった。


 壊れた町を回り、人々の争いを止め、聖剣を封印した。


 勇者だから。


 自分にしかできないから。


 そう言って、残された命まで使い続けた。


 最後の日も笑っていた。


 いつものように。


 心配するフィオナへ、何でもないことのように言ったのだ。


 ――まあ、何とかなるさ。


「今度こそ、もう戦わせないと決めたのよ」


 墓石は答えない。


「人間が何をしても、あなたには関係ないと思っていた」


 炎の気配が、少しずつ近づいている。


「あなたが残した剣であっても、私たちだけで止めるつもりだった」


 フィオナの手が、かすかに震える。


 墓石の下には、アルトの遺品が眠っている。


 古い鉄剣。


 契約の腕輪。


 わずかに残った骨。


 そして、それらの遺品に残る、アルトのかすかな魔力。


 さらに、遠く離れた三本の聖剣には、アルトの魂へ届くほど強い痕跡が残っている。


 それを道標にすれば、呼び戻せる可能性はある。


 完全な蘇生ではない。


 成功する保証もない。


 死者の魂を呼び戻すことは、精霊にとっても自然の理に反する行為だった。


 呼び戻した魂が、かつてのアルトのままとも限らない。


 仮に成功しても、何が代償になるのか分からない。


「それでも……」


 森の外から、子どもの泣き声が聞こえた気がした。


 燃える大樹から、また一つ精霊の気配が消えた。


 フィオナは目を閉じる。


 迷いを押し殺すのではない。


 迷ったまま、選ぶ。


 百年前、アルトが何度もそうしてきたように。


 それでも、フィオナは墓石へ手を触れた。


 冷たい石の奥に、かすかな光が灯る。


「ごめんなさい」


 翠色の光が、彼女の足元から広がっていく。


 大樹の根が震え、墓石の下に眠る古い契約が、百年ぶりに脈打った。


 フィオナは静かに告げた。


「もう一度だけ、力を貸して」


 翠色の光が、墓石の下へ流れ込んだ。


 大樹の根を伝い、地中深くにある石室へ降りていく。


 冷たい石台の上には、古い鉄剣と契約の腕輪、わずかに残された白い骨が並んでいた。


 翠色の光が、それらを静かに包み込む。


 骨の周囲に、淡い光が集まり始めた。


 腕が形作られる。


 脚が形作られる。


 胸が、顔が、少しずつ人の輪郭を取り戻していく。


 やがて石台の上に、一人の青年が横たわっていた。


 少し乱れた黒い髪。


 閉じられた灰青色の瞳。


 それは、百年前に魔王を倒した頃のアルトと同じ、若き日の姿だった。


 古い腕輪に、一本の亀裂が走る。


 腕輪から浮かび上がった蔦のような紋様が、青年の左手首へ触れた。


 光が、彼の身体の奥へ流れ込む。


 何も動いていなかった胸が、わずかに持ち上がった。


 一度。


 長い間、止まっていた時間が動き出すように。


 青年が、かすかに息を吸った。


 そして――


 百年前に死んだ勇者アルト・レイヴァンの指が、ゆっくりと動いた。

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