第28話 救済という名の支配
地下巡礼路は。
大聖堂の真下へ近づくほど。
新しい石材へ変わっていった。
百年前に作られた灰色の壁。
その上から。
白い石と金属の管が追加されている。
古い封印施設を。
現在の教団が作り替えた痕跡だった。
壁の内側から。
低い振動が伝わってくる。
一定の間隔で。
何かが脈打つように。
石床が小さく揺れていた。
「近い」
アルトは。
左手首を見た。
ほとんど消えかけた契約印。
地下へ進むほど。
その脈動が。
わずかに強くなっている。
温かさはない。
声も聞こえない。
それでも。
フィオナとのつながりは。
まだ残っている。
「この先ですか?」
ノアが尋ねる。
「ああ」
「分かるのですか?」
アルトは。
左手首の契約印へ触れた。
「地下へ進むほど」
「脈動が、少しだけ強くなっている」
「フィオナ様が呼んでいる?」
「いや」
「言葉は届いていない」
アルトは。
暗い道の先を見る。
「ただ」
「この先にいることだけは分かる」
ノアが持つ光が。
前方の石扉を照らした。
扉の中央には。
現在の勇者教団が使う紋章。
翼を広げた勇者と。
その下へ跪く精霊たち。
地下巡礼路に残されていた。
古い祈りとは。
正反対の図柄だった。
「開閉術式があります」
ノアが扉へ近づく。
「解除できるか?」
「試します」
扉の横。
金属板の上に。
複雑な術式が刻まれている。
ノアは指先へ光を集め。
文字を一つずつ確かめた。
「新しい教団式です」
「なら、読めるな」
「読めますが」
「開けられるとは言っていません」
「そこを何とか」
「簡単に言わないでください」
ノアは。
術式へ両手を当てた。
白い光が。
金属板の溝へ流れ込む。
一つ。
二つ。
教団の紋章が消えていく。
だが。
最後の一つが残った。
「駄目です」
「内部から施錠されています」
「壊せるか?」
「この術式を破壊すれば」
「扉の向こうにも警報が伝わります」
「もう俺たちが来ていることは」
「向こうも知ってるだろ」
「そうでしょうね」
ノアは。
扉の端にある。
古い石の継ぎ目へ目を向けた。
「ただ」
「この扉そのものは新しい」
「周囲の壁は、百年前のものです」
「扉ではなく」
「壁を壊すのか?」
「簡単に言わないでください」
「二度目だな」
アルトは。
無銘の剣を抜いた。
刀身には。
いくつもの細い亀裂が走っている。
フィオナからの力は届かない。
精霊の気配も。
地下施設の術式に遮られている。
今。
この剣へまとわせられるものはない。
ただの。
古い鉄と大樹の枝から作った剣。
それでも。
アルトは両手で構えた。
扉の横。
古い石材の継ぎ目へ。
剣先を差し込む。
「下がってろ」
「何をするつもりですか?」
「開ける」
「それは見れば分かります」
アルトは。
剣をひねった。
石の内側から。
鈍い音が響く。
右腕の輪郭が。
一瞬、大きく透けた。
光の粒がこぼれる。
「アルト様」
「まだ動く」
「そういう問題では」
「もう少しだ」
もう一度。
体重をかける。
亀裂。
百年前の石壁に。
細い線が走った。
ノアが息を吐く。
「仕方ありません」
壁の反対側へ手を当てる。
弱い光が。
石の内部へ入り込んだ。
「内部の固定術式を、一時的に止めます」
「合図を」
「三つ数えます」
一。
二。
三。
アルトが。
無銘の剣を振り下ろした。
石壁が崩れる。
開いた隙間から。
白い光が漏れた。
同時に。
警報が鳴り響く。
『地下祭壇への侵入を確認』
『全封鎖区画を閉鎖せよ』
「やはり、気づかれました」
「予定どおりだ」
「そんな予定はありませんでした」
アルトは。
崩れた壁を乗り越えた。
ノアも後へ続く。
◇
壁の向こうにあったのは。
巨大な空間だった。
円形の地下祭壇。
天井は。
大聖堂の地下とは思えないほど高い。
壁に沿って。
無数の金属管が走っている。
青。
赤。
金。
それぞれ異なる光が。
管の中を流れていた。
自然界から集められた。
精霊力。
その流れは。
祭壇のさらに奥。
巨大な貯蔵槽へ集まっている。
透明な壁の内側で。
いくつもの光が渦を巻いていた。
炎。
水。
風。
大地。
本来なら。
互いに混ざり合うことのない力。
だが。
内部に刻まれた術式によって。
属性の境界を崩され。
純粋な力へと変換されている。
自然から奪われた力が。
誰か一人へ与えるための燃料へ。
作り替えられていた。
「これが……」
ノアが立ち止まる。
「教団が集めていた力」
「ああ」
アルトは。
祭壇の中央を見た。
四本の黒い杭。
人の背丈を超える。
金属と石で作られた柱。
その中心に。
小さな翠色の光が浮かんでいた。
弱く。
今にも消えそうな光。
「フィオナ」
アルトが名前を呼ぶ。
返事はない。
翠色の光が。
わずかに揺れただけだった。
近づこうとする。
祭壇の左右から。
六人の教団兵が現れた。
「侵入者を止めろ!」
「冒瀆者を祭壇へ近づけるな!」
全員が。
白と金の鎧を着ている。
武器は。
槍。
剣。
拘束用の鎖。
その背後。
奥の通路からも。
複数の足音が近づいてくる。
「増援が来ます!」
ノアが振り返った。
侵入口の近く。
扉を制御する術式へ。
両手を当てる。
「何をする?」
「長くはもちませんが」
「扉を封鎖します!」
白い光が走った。
祭壇へ続く通路の石扉が。
重い音を立てて閉じる。
向こう側から。
兵士たちが扉を叩く。
だが。
すぐには開かない。
「これで」
「中にいる六人だけです!」
「助かる」
「長くはもちません!」
「分かってる」
アルトは。
無銘の剣を構えた。
「ノア」
「はい」
「四本の杭を調べてくれ」
「戦っている横でですか?」
「できるか?」
ノアは。
教団兵の数を見た。
その後。
フィオナの光を見る。
「やります」
「頼んだ」
最初の槍が。
アルトの胸へ突き出された。
身体を半歩ずらす。
槍先をかわし。
柄へ剣を当てる。
折らない。
刃を滑らせ。
兵士の手から武器だけを落とす。
次の兵士。
上段からの剣。
アルトは受けず。
懐へ入った。
肩で身体を押し。
足を払う。
兵士が倒れる。
背後から。
鎖が飛ぶ。
振り返らず。
剣の柄で弾いた。
だが。
身体が追いつかない。
右足が。
わずかに遅れる。
鎖の先が。
肩をかすめた。
アルトの身体から。
血ではなく。
淡い光が散った。
「アルト様!」
「調べろ!」
ノアが。
最も近い杭へ走る。
表面に刻まれた。
古い精霊文字と。
現在の教団式を読む。
「封鎖杭です!」
「四本が互いの力を支えています!」
「同時に壊すのか?」
「違います!」
ノアは。
刻まれた矢印を指で追う。
「順番があります!」
「誤った杭を先に壊せば」
「貯蔵槽から逆流した力が」
「祭壇の中心へ流れ込みます!」
「フィオナが巻き込まれる?」
「その可能性があります!」
アルトは。
目の前の兵士の剣を受け流す。
そのまま。
手首へ剣の腹を当て。
武器を落とさせた。
「正しい順番は?」
「術式が複雑すぎます!」
「すぐには――」
ノアの言葉が途切れる。
別の教団兵が。
彼へ槍を向けていた。
アルトは床を蹴る。
兵士とノアの間へ入る。
槍を無銘の剣で受ける。
刀身の亀裂が。
一つ増えた。
「下がれ!」
「ですが」
「文字が見える場所にいろ!」
槍を横へ流し。
兵士の胸当てへ柄を叩き込む。
息を失った兵士が倒れる。
アルトの呼吸も。
大きく乱れていた。
胸の輪郭。
右腕。
右足。
光の粒が。
止まらずこぼれている。
「一つずつ確かめる」
アルトが言った。
「どうやって?」
左手首を見る。
契約印。
弱い翠色の光。
「フィオナに聞く」
「言葉は届かないのでしょう?」
「ああ」
「それでも」
アルトは。
最も近い杭へ向かった。
翠色の光が揺れる。
声は聞こえない。
アルトが。
杭へ手を伸ばす。
その瞬間。
左手首へ。
鋭い痛みが走った。
「――っ」
契約印の光が。
一瞬。
完全に消える。
アルトは足を止めた。
「どうしました?」
「違う」
「何が?」
「この杭じゃない」
契約印の光が。
かすかに戻る。
フィオナは。
言葉を送れない。
力も送れない。
だが。
契約そのものは。
まだ切れていない。
アルトが誤った杭へ近づいたとき。
残されたつながりを通して。
痛みを返した。
「反応を送っているのですか?」
「たぶん」
「確証は?」
「ない」
「ないのですか?」
「今、確かめる」
アルトは。
次の杭へ向かう。
教団兵が。
進路を塞ぐ。
剣が振り下ろされる。
無銘の剣で受ける。
強い衝撃。
アルトの右膝が落ちた。
兵士が。
さらに力を込める。
「勇者を騙る者が!」
「神聖な祭壇を汚すな!」
「神聖なら」
アルトは。
膝をついたまま。
相手の剣を横へ滑らせた。
「精霊を閉じ込めるな」
兵士の体勢が崩れる。
足を払い。
転倒させる。
立ち上がる。
視界が。
一瞬、暗くなる。
それでも。
次の杭へ進んだ。
一歩。
二歩。
左手首の契約印が。
一度だけ。
淡く光った。
温かさ。
ほんのわずか。
だが。
間違いなく伝わった。
「ここか」
アルトが。
杭へ手を触れる。
翠色の光が。
小さく揺れる。
契約印は。
もう一度だけ光った。
だが。
一度。
「まだ壊すな、ということか」
ノアが。
杭の基部を見る。
「待ってください!」
「この杭には」
「二つの補助術式がつながっています!」
「先に切り離さなければ」
「壊した瞬間、力が逆流します!」
「どれだ?」
「右側の管と」
「床の小さな術式です!」
アルトは。
無銘の剣を振るう。
金属管を。
剣の根元で叩き切る。
続いて。
床へ刻まれた術式を。
剣先で削った。
その瞬間。
契約印が。
二度。
短く明滅する。
「今だな」
両手で。
無銘の剣を握る。
黒い杭の中心。
精霊力を制御する核へ。
振り下ろした。
甲高い音。
杭へ亀裂が走る。
黒い表面が砕け。
内側から。
翠色の光が漏れ出した。
一本目の封鎖杭が倒れる。
祭壇の中央。
フィオナの光が。
わずかに強くなった。
「フィオナ」
呼びかける。
返事はない。
それでも。
消えそうだった光が。
確かに残っている。
「次だ」
アルトは。
立ち上がった。
◇
二本目。
最初に近づいた杭では。
契約印に痛みが走った。
残る二本のうち。
別の杭へ向かう。
一度の光。
わずかな温かさ。
ノアが。
杭へつながる術式を調べる。
「上です!」
「天井から伸びている管を切ってください!」
残った教団兵が。
二人を取り囲む。
アルトは。
近くの倒れた槍を蹴り上げた。
空中でつかみ。
天井へ投げる。
槍先が。
光る管の接合部へ刺さった。
火花。
管が外れる。
「床の術式は?」
「左側です!」
兵士の剣をかわしながら。
足元の刻印へ。
無銘の剣を突き立てる。
金色の文字が消える。
契約印が。
二度明滅した。
「下がれ!」
ノアが距離を取る。
アルトは。
杭の中心へ踏み込む。
一人の兵士が。
背後から斬りかかった。
アルトは振り返り。
刃を受け流す。
だが。
完全にはかわし切れない。
刃が。
透けた右腕をかすめた。
光が大きく散る。
右腕の輪郭が。
さらに薄くなった。
「アルト様!」
「まだ剣は持てる」
左手を中心に。
無銘の剣を振るう。
二本目の杭を破壊した。
フィオナの光が。
さらに強くなる。
小さな光の中に。
人の輪郭が。
一瞬だけ浮かんだ。
長い髪。
伸ばされた腕。
だが。
すぐに消える。
言葉は届かない。
「あと二本」
アルトが言った。
呼吸するたび。
胸の奥が痛む。
右腕は。
輪郭を保つことさえ難しくなっている。
無銘の剣にも。
大きな亀裂が広がっていた。
「少し休んでください」
ノアが言う。
「休んでいる間も」
「フィオナの力は奪われる」
「このまま続ければ」
「あなたが先に消えます」
「それでも」
アルトは。
中央の光を見た。
「今度は」
「置いていかないと決めた」
残っている教団兵は。
三人。
倒れた者たちは。
動けずにいる。
閉ざした扉の向こうでは。
増援が。
今も封鎖術式を壊そうとしていた。
ノアが作った光の壁へ。
亀裂が入り始めている。
「急ぎます!」
「ああ」
三本目。
最初の杭では。
契約印に鋭い痛みが走った。
アルトはすぐに離れる。
最後に残った二本のうち。
もう一方へ進む。
淡い光。
温かさ。
「こっちだ」
ノアが基部を調べる。
「左右の管と」
「裏側の制御板です!」
三人の兵士が。
その前へ並ぶ。
アルトは。
無銘の剣を構えた。
力はない。
精霊術も使えない。
聖剣もない。
あるのは。
百年前から繰り返してきた。
剣の動きだけ。
一歩。
最初の剣をかわす。
二歩。
槍の間へ入る。
三歩。
剣の腹で手首を打つ。
倒れる兵士の肩を使い。
杭の裏へ回り込む。
制御板へ。
剣先を突き立てた。
術式が消える。
続けて。
左右の管を断つ。
契約印が。
二度明滅した。
アルトは。
そのまま剣を横へ振るう。
三本目の杭。
中心の核が砕けた。
祭壇全体が。
大きく揺れる。
貯蔵槽へ続く金属管に。
異常な光が走った。
赤。
青。
金。
複数の力が。
互いを押しのけるように明滅する。
「何が起きてる?」
アルトが尋ねる。
「封鎖杭が減ったことで」
「力の流れが不安定になっています!」
「最後を壊せば止まるか?」
「フィオナ様への吸収は止まります」
「貯蔵槽は?」
ノアは。
光る管を見た。
「分かりません」
「教団が」
「別の回路を用意している可能性があります」
最後の一本。
その中心で。
フィオナの光が揺れている。
人の輪郭は。
先ほどよりも明確になった。
だが。
光の一部が。
管を通して。
今も貯蔵槽へ流れ続けている。
「止める」
アルトが言った。
「罠かもしれません」
「ああ」
「壊せば」
「別の何かが動くかもしれない」
「ああ」
「それでも?」
「このままなら」
「フィオナが消える」
選べる答えは。
一つしかなかった。
◇
祭壇上部の扉が。
内側から開いた。
三国聖堂と。
大聖堂地下をつなぐ。
教団上層部だけが使用できる連絡通路。
拘束した代表者たちの監視を。
高位司祭へ任せ。
オルディスは。
その道を通って祭壇へ降りてきた。
白と金の法衣。
穏やかな表情。
その後ろには。
祭壇の防衛を命じられていた。
レオニスがいる。
手にしているのは。
第三聖剣エアリアル。
淡い緑色の刀身。
翼を思わせる鍔。
百年前。
アルトが使った最後の聖剣。
剣の内部から。
強い風の気配が伝わってくる。
だが。
まだ完全には目覚めていない。
「予想より早かったですね」
オルディスが言った。
「地下巡礼路は」
「すべて記録から消したはずでした」
「消しきれなかったものがあった」
「カイン・アステルですか」
オルディスの表情は。
変わらない。
「死者は」
「余計なものを残す」
「都合の悪いものを消すより」
「残ったものから学んだ方がいい」
「過去の迷いから」
「何を学ぶというのです?」
「自分の正しさを疑うことだ」
レオニスの目が。
わずかに動いた。
アルトは。
それを見逃さなかった。
だが今は。
言葉を続ける時間がない。
フィオナの光は。
さらに弱っている。
「その杭から離れてください」
オルディスが言った。
「杭を壊せば」
「彼女は解放される」
「そうではありません」
「あなたが」
「救済の邪魔をしなければよいのです」
「精霊を閉じ込め」
「力を奪うことが救済か?」
「一人の精霊の力で」
「数百万の人間が争わずに済む」
「十分な代価でしょう」
「代価を決めるのは」
「払う本人だ」
「本人の意思に任せた結果」
オルディスは。
貯蔵槽へ手を向けた。
「人間は百年間」
「争い続けました」
「国王が選び」
「皇帝が選び」
「兵士が選び」
「民衆が選んだ」
「異なる意思が」
「異なる正義を生み」
「その正義が戦争を生んだ」
祭壇の上から。
地上の振動が伝わってくる。
三国聖堂。
拘束された代表者。
分断された軍隊。
助けを求める民衆。
「だから」
「選ばせることをやめるのです」
オルディスは。
穏やかに言った。
「人は」
「正しい意思へ従えばいい」
「誰の意思だ?」
「争いを終わらせられる者の意思です」
「つまり」
「お前か」
「私個人ではありません」
「教団と」
「勇者の意思です」
オルディスは。
レオニスへ視線を向けた。
「彼が三国を導く」
「すべての軍を従わせ」
「すべての国境を消し」
「一つの秩序を作る」
「それが」
「救済です」
アルトは。
レオニスを見る。
「お前も」
「そう思っているのか?」
レオニスは。
すぐには答えなかった。
エアリアルを握る手へ。
わずかに力が入る。
「戦争は」
「終わらせなければならない」
「そのために」
「フィオナから力を奪うのか?」
「それは……」
「レオニス」
オルディスの声が。
会話を遮った。
「冒瀆者の言葉へ耳を貸す必要はありません」
「彼は」
「二本の聖剣を破壊し」
「三国の均衡を壊した者です」
「でも」
レオニスは。
祭壇中央の光を見る。
「彼女は」
「自分から力を差し出したわけではない」
「必要な犠牲です」
「それを」
「彼女へ伝えたのですか?」
オルディスの表情から。
初めて。
笑みが消えた。
「あなたの役目は」
「判断することではありません」
短い言葉。
だが。
レオニスの身体が。
わずかに強張った。
「エアリアルの使い手として」
「この施設を守りなさい」
レオニスが。
アルトの前へ出る。
淡い風が。
足元へ集まった。
「退いてください」
レオニスが言った。
「それはできない」
「杭を壊せば」
「何が起きるか分かりません」
「壊さなければ」
「フィオナが消える」
「この力があれば」
「戦争を終わらせられる」
「奪った力で?」
「ほかに方法がない!」
レオニスの周囲で。
風が強くなる。
アルトは。
無銘の剣を構えた。
今の身体では。
正面から戦えない。
フィオナの支援もない。
無銘の剣も。
次の一撃で折れるかもしれない。
それでも。
最後の杭は。
レオニスの背後にある。
「ノア」
アルトが小さく呼ぶ。
「はい」
「左へ走れ」
「何を?」
「走れ」
ノアが。
祭壇の左側へ駆け出した。
残っていた教団兵が。
そちらへ動く。
レオニスの視線も。
一瞬だけ外れた。
アルトは。
反対側へ踏み込む。
「待て!」
風が放たれる。
刃ではない。
押し戻すための強風。
アルトは。
無銘の剣を床へ突き立てた。
身体が。
後ろへ引きずられる。
足元の石が削れる。
右足の輪郭が。
大きく崩れた。
それでも。
倒れない。
風が弱まる。
剣を引き抜き。
前へ進む。
レオニスが。
エアリアルを横へ構えた。
「それ以上進めば」
「斬ります」
「なら」
アルトは。
剣を下げなかった。
「自分で決めろ」
「教団に言われたからじゃない」
「勇者だからでもない」
「お前が」
「本当に斬るべきだと思うなら斬れ」
レオニスの剣先が。
わずかに揺れた。
その隙を。
アルトは見逃さなかった。
身体を低くする。
エアリアルの横を抜ける。
レオニスが振り返る。
だが。
剣はアルトへ届かなかった。
斬れなかった。
最後の封鎖杭。
アルトが近づく。
契約印が。
一度。
淡く光った。
温かさ。
「ここだ」
杭へつながる管を見る。
一本。
床の術式。
一つ。
杭の裏側には。
見慣れない金色の制御板がある。
「ノア!」
アルトが叫ぶ。
ノアが。
教団兵を避けながら。
制御板へ視線を向ける。
「最後の杭を固定している安全装置です!」
「これを止めなければ」
「杭を壊せません!」
「非常回路か?」
「違います!」
「封鎖杭を維持するための制御板です!」
アルトは。
最初の管を切った。
床の術式を削る。
続けて。
金色の制御板へ。
剣先を突き立てた。
光が消える。
契約印が。
一度だけ明滅した。
まだ。
アルトは。
もう一度。
制御板の中心へ剣を叩き込む。
金属が砕ける。
その瞬間。
契約印が。
二度。
短く明滅した。
「フィオナ」
最後の杭へ。
剣を振り下ろした。
黒い金属が。
砕ける。
四本目。
最後の精霊封鎖杭が倒れた。
◇
音が消えた。
教団兵も。
ノアも。
オルディスも。
レオニスも。
その場にいる全員が。
祭壇の中央を見た。
小さな翠色の光。
それが。
一度。
大きく膨らんだ。
光が。
祭壇全体へ広がる。
閉じ込められていた精霊力が。
一斉に解放される。
長い髪。
細い腕。
人の輪郭。
光の中から。
フィオナが現れた。
足が床へ触れる。
だが。
立つ力が残っていない。
身体が傾く。
アルトは。
無銘の剣を手放し。
倒れかけた彼女を受け止めた。
「フィオナ」
呼びかける。
今度は。
返事があった。
「随分と」
弱い声。
それでも。
間違いなく。
フィオナの声だった。
「遅かったわね」
アルトは。
小さく息を吐いた。
「悪い」
「道に迷った」
「百年前にも」
「同じことを言っていたわ」
「覚えてたのか」
「あなたと違ってね」
フィオナの手が。
アルトの左手首へ触れる。
契約印。
消えかけていた翠色の紋様が。
わずかに明るくなった。
同時に。
フィオナの表情が変わる。
「アルト」
「何だ?」
「身体が」
「見れば分かる」
「分かっているなら」
「どうしてここまで来たのよ」
「迎えに来ると決めたからだ」
「また」
「一人で決めたの?」
「今回は」
アルトは。
ノアを見る。
「二人で来た」
「そういう意味じゃないわ」
「分かってる」
フィオナは。
何かを言おうとした。
だが。
激しく咳き込む。
口元から。
翠色の光がこぼれた。
「無理に話すな」
「あなたにだけは」
「言われたくないわ」
再会を喜ぶ時間は。
残されていなかった。
最後の杭が砕けた瞬間。
祭壇の奥。
封鎖杭とは別系統の術式が起動した。
壁の中に隠されていた金色の線が。
貯蔵槽から。
エアリアルへ向けて。
一斉に光る。
祭壇の奥。
巨大な貯蔵槽が。
不規則に明滅し始めた。
「何が起きている?」
アルトが尋ねる。
ノアは。
壁を走る金色の線を見る。
「封鎖杭の回路ではありません!」
「杭がすべて失われた場合だけ起動する」
「独立した非常回路です!」
「止められるか?」
「通常の制御盤につながっていません!」
金色の線が。
貯蔵槽の周囲を取り囲む。
通常使用されていた。
出力調整器の光が。
一つずつ消えていく。
「出力調整器が」
「自動的に切り離されています!」
ノアが叫ぶ。
封鎖杭が壊れ。
フィオナへの吸収は止まった。
だが。
すでに奪われた力の大半は。
貯蔵槽の中に残っている。
「アルト」
フィオナが。
金属管を見る。
「あれは」
「私が救出された場合も」
「最初から想定していたのよ」
貯蔵槽から伸びる。
最も太い管。
その先にいるのは。
エアリアルを持つレオニス。
オルディスは。
静かに拍手した。
一度。
二度。
「見事です」
アルトが。
彼を見る。
「何をした?」
「必要な備えを用意しただけです」
「封鎖杭がすべて破壊された場合」
「通常の調整器は切り離される」
「そして」
「貯蔵槽とエアリアルが」
「直接つながります」
レオニスが振り返る。
「聞いていません」
「説明する必要がありませんでした」
「この量の力を」
「直接流せば」
「僕の身体が耐えられない」
「耐えられます」
「あなたは」
「勇者なのですから」
貯蔵槽の光が。
一気に減り始めた。
炎。
水。
大地。
そして。
フィオナから奪われた。
上位精霊の力。
属性の境界を崩され。
純粋な力へ変換された精霊力が。
一本の管を通して。
エアリアルへ流れ込んでいく。
レオニスが。
エアリアルを手放そうとする。
だが。
指が動かない。
柄から伸びた。
緑色の光が。
腕へ絡みついている。
「止めてください!」
レオニスが叫ぶ。
「このままでは――」
「止める必要はありません」
オルディスの声は。
変わらず穏やかだった。
「これこそ」
「あなたが望んだ力です」
「僕は」
「こんなものを望んでいない!」
「戦争を終わらせたいのでしょう?」
「それは……」
「三国を一つにしたいのでしょう?」
「でも」
「ならば」
オルディスは。
両手を広げた。
「力を受け入れなさい」
「民衆は」
「あなたが戦争を終わらせると信じている」
「期待へ応えることこそ」
「勇者の役目です」
レオニスの身体へ。
膨大な精霊力が流れ込む。
背中が反る。
声にならない悲鳴。
皮膚の下を。
緑色の光が走る。
筋肉が。
内側から引き裂かれていく。
「やめろ!」
アルトが立ち上がろうとする。
フィオナを抱えた身体。
右足に力が入らない。
膝をつく。
フィオナが。
アルトの胸を押した。
「私を置いて」
「それはしない」
「今だけは」
「言うことを聞いて!」
フィオナは。
自分の足で立とうとした。
だが。
奪われた力は戻っていない。
人の姿を保つだけで。
身体が震えている。
ノアが駆け寄り。
彼女の肩を支えた。
「私が支えます!」
「頼む」
アルトは。
無銘の剣を拾った。
レオニスへ向かおうとする。
その瞬間。
エアリアルから。
衝撃が広がった。
風。
これまでとは違う。
目に見えるほど濃い。
緑色の風。
祭壇の床が割れる。
教団兵たちが吹き飛ばされる。
ノアとフィオナも。
壁際まで押し戻された。
アルトは。
無銘の剣を床へ突き立てる。
風へ耐える。
刀身の亀裂が。
さらに広がった。
レオニスの背中から。
一枚目の翼が現れる。
風だけで作られた。
巨大な翼。
二枚目。
左右へ広がる。
それだけでは終わらない。
三枚目。
四枚目。
四枚の風の翼が。
地下祭壇を覆った。
エアリアルが。
本来想定されていなかった出力まで。
強制的に引き上げられている。
「違う」
アルトが言った。
「その力は」
「人間一人が受け止めるものじゃない」
レオニスは。
苦しそうに呼吸している。
両目から。
淡い緑色の光が漏れていた。
「オルディス様」
「止めてください」
「僕は」
「このままでは」
「自分を制御できない」
「制御する必要はありません」
オルディスが答えた。
「あなたは」
「エアリアルを振るえばよい」
「誰へ?」
「三国すべてへ」
「従わない者を」
「力によって導くのです」
レオニスの顔に。
恐怖が浮かぶ。
「それでは」
「僕が嫌っていたものと同じです」
「ガルディアも」
「ルミナスも」
「力で人を従わせた」
「だから」
「僕は違う勇者に――」
「違う必要などありません」
オルディスは。
初めて。
はっきりと笑った。
「力は」
「誰が使っても力です」
「民衆が必要としているのは」
「あなたの心ではありません」
「あなたの迷いでも」
「あなたの願いでもない」
レオニスが。
オルディスを見る。
「では」
「僕は何のために?」
「象徴です」
答えは。
あまりにも簡単だった。
「戦争を終わらせる勇者」
「三国を統一する英雄」
「民が信じられる存在」
「それだけでよい」
「僕が」
「何を考えていても?」
「お前が何者かは重要ではない」
レオニスの目が。
大きく見開かれる。
「民が勇者と信じれば」
「それでよい」
風が。
地下祭壇を突き抜けた。
天井に。
巨大な亀裂が走る。
大聖堂の床。
鐘楼。
聖都の建物。
すべてを揺らしながら。
緑色の暴風が。
地上へ吹き上がった。
◇
聖都の空へ。
四枚の風の翼が広がった。
巨大な雲が。
円を描いて動き始める。
街路の瓦礫が舞い上がる。
屋根がはがれ。
窓が割れる。
三国聖堂を覆っていた結界も。
暴風によって激しく揺れた。
地上の人々が。
空を見上げる。
勇者が現れた。
そう叫ぶ者。
救いが来たと祈る者。
恐怖に震える者。
その中心で。
レオニスは。
自分を見失いかけていた。
エアリアルから流れ込む力。
教団から与えられた役目。
民衆から向けられる期待。
どれが。
自分の意思なのか。
もう分からない。
地下祭壇では。
アルトが。
暴風の中で剣を握っていた。
背後には。
弱り切ったフィオナ。
その隣には。
ノア。
前方には。
完全覚醒したエアリアルと。
四枚の翼を持つレオニス。
「アルト」
フィオナが呼ぶ。
「ああ」
「あの剣を」
「壊すんでしょう?」
アルトは。
亀裂だらけの無銘の剣を見る。
右腕は。
ほとんど輪郭を失っている。
右足も。
光の粒へ変わり始めていた。
フィオナから届く力も。
まだわずかしかない。
それでも。
「そのつもりだ」
アルトは答えた。
レオニスが。
ゆっくりと振り返る。
苦痛と。
迷いと。
恐怖を抱えた目。
その手の中で。
最後の聖剣が。
完全に目を覚ましていた。




