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百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する  作者: situ725


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第27話 三国和平会談

 聖都の鐘が。


 三度鳴った。


 大聖堂へ続く大通りには。


 朝早くから、多くの人々が集まっていた。


 商人。


 巡礼者。


 戦争で家族を失った者。


 負傷した兵士。


 セルディアだけではない。


 ガルディアとルミナスから逃れてきた難民の姿もある。


 誰もが。


 丘の上に建つ三国聖堂を見上げていた。


 今日。


 長く続いた戦争を終わらせるため。


 三国の代表が、同じ場所へ集まる。


 広場では。


 教団の司祭が声を上げていた。


「勇者の導きによって!」


「三国は争いを捨て!」


「一つの平和を選ぶでしょう!」


 人々から歓声が上がる。


 泣いている者もいた。


 抱き合う家族。


 祈りを捧げる老人。


 傷の残る腕で、鐘の音に合わせて拍手する兵士。


 その光景を。


 馬車の窓から見つめながら。


 セレスは、自分の膝に置いた手を握りしめた。


 期待。


 願い。


 祈り。


 それらすべてが。


 今日の会談へ向けられている。


「殿下」


 向かいに座る近衛兵が声をかけた。


「間もなく、三国聖堂へ到着します」


「分かりました」


「本当に、護衛を外へ残されるのですか?」


「聖堂内へ入れるのは、代表者と最低限の随行員だけです」


「ですが」


 近衛兵は。


 窓の外へ視線を向ける。


 セルディア兵が。


 街道の両側に並んでいる。


 歓迎のため。


 そう説明されていた。


 だが。


 槍を持った兵士の数は。


 和平会談を守るためにしては、多すぎる。


「神聖契約は発動しています」


 セレスが言った。


「聖堂内で、私たちが直接攻撃を受けることはありません」


「契約に書かれている範囲では、です」


「ええ」


 セレスも。


 そのことは理解している。


 三国聖堂内で。


 三国の代表者へエアリアルを向けない。


 エアリアルによって代表者を直接傷つけない。


 代表者を殺害しない。


 毒を使用しない。


 武器や魔術による直接攻撃を行わない。


 オルディスが提示した契約には。


 いくつもの保証が記されていた。


 だが。


 拘束。


 通信遮断。


 聖堂外の軍隊への攻撃。


 代表者を人質として扱うこと。


 降伏を要求すること。


 そのいずれも。


 明確には禁じられていない。


 セレスは。


 契約へ条件を追加するよう要求した。


 しかしセルディアは。


 三国共通の古代儀式を変更することはできないとして。


 要求を拒否した。


 危険は分かっている。


 それでも。


 来なければならなかった。


 自分が欠席すれば。


 セルディアとガルディアだけで。


 戦後の秩序を決める可能性がある。


 ルミナスの民の未来を。


 他国へ委ねるわけにはいかない。


 馬車が止まった。


 扉が開く。


 外へ下りると。


 巨大な石造りの建物が見えた。


 三国聖堂。


 魔王戦争以前から存在する。


 三国共通の祭祀施設。


 円形の建物には。


 三つの入口がある。


 北。


 東。


 西。


 それぞれ。


 三国の代表が、別々の扉から入るためのものだった。


 中央の屋根には。


 三本の剣を組み合わせた古い紋章が刻まれている。


 現在の勇者教典が使う印よりも。


 はるかに簡素なものだった。


「セレス・ルミナス殿下」


 入口に立つ司祭が頭を下げた。


「和平の意思を示されたことへ、心より感謝いたします」


「感謝は、会談が終わってから受け取ります」


「もちろんです」


 司祭は笑顔を崩さなかった。


 セレスは。


 聖堂内部へ目を向ける。


 円卓の下に刻まれた神聖契約の術式は。


 今も金色の光を保っていた。


 契約は。


 すでに発動している。


 司祭に案内され。


 聖堂内部へ入る。


 高い天井。


 三国の歴史を描いた壁画。


 中央には。


 巨大な円卓が置かれている。


 円卓を囲むように。


 三つの席が用意されていた。


 東側。


 白と金の法衣をまとったオルディスが立っている。


 その背後には。


 セルディアの高位司祭たち。


 西側には。


 先に到着していたヴァルガスが座っていた。


 重い軍装。


 片腕を肘掛けへ置き。


 聖堂全体を見回している。


 グレンの姿はない。


 帝国軍の指揮官として。


 護衛部隊を率い、聖都西門の内側に待機しているのだろう。


「よく来たな」


 ヴァルガスが言った。


「来ないと思っていましたか?」


「半分はな」


「残りの半分は?」


「お前なら、罠だと分かっていても来ると思っていた」


「陛下も同じでしょう」


 ヴァルガスは。


 わずかに口元を上げた。


「違いない」


「お二人とも」


 オルディスが。


 穏やかな声で割って入る。


「今日は争いを終わらせるための会談です」


「過去の敵意は、一度脇へ置いていただきたい」


「過去ではない」


 ヴァルガスが答える。


「今も帝国とルミナスは、停戦しただけだ」


「だからこそ」


 オルディスは両手を広げた。


「今日という日が必要なのです」


 セレスが席へ着く。


 三人が。


 同じ円卓を囲む。


 聖堂の扉が閉じられた。


 外の歓声が。


 遠くなる。


 円卓の中央には。


 三つの杯が置かれている。


 杯の中には水だけが注がれていた。


 毒を疑われないため。


 代表者が同じ水差しから。


 自分の手で注ぐ決まりになっている。


 オルディスが。


 円卓へ手を置いた。


「まず」


「この場へ集まってくださったことへ、感謝いたします」


「ガルディア」


「ルミナス」


「そしてセルディア」


「三国は長きにわたり」


「互いの民を傷つけてきました」


 セレスは。


 オルディスの表情を見つめた。


 穏やか。


 静か。


 人々の苦しみを。


 本当に悲しんでいるようにも見える。


「ガルディアは」


「飢えた民を救うという理由で、他国へ侵攻した」


「ルミナスは」


「国を守るという理由で、敵国への水を止めた」


「セルディアは」


「戦争を終わらせるという理由で、ルミナス王都を攻撃した」


 オルディスは。


 自国の行いも否定した。


 ヴァルガスの眉が動く。


 セレスは。


 黙って続きを待った。


「どの国にも」


「守りたい民がいました」


「どの国にも」


「自らの正義がありました」


「そして」


「その正義が衝突した結果」


「多くの人々が命を失った」


 聖堂の上部。


 円形の窓から。


 朝の光が差し込んでいる。


「この戦争に」


「一国だけの責任があるとは申しません」


「私たち全員に」


「終わらせられなかった責任がある」


 正しい言葉だった。


 少なくとも。


 言葉だけを聞けば。


 セレス自身も。


 否定することはできない。


 国を守った。


 そう信じていた。


 だが。


 アクアレギアによって水を奪われた土地では。


 兵士よりも先に。


 農民や子どもが倒れていた。


 自分は。


 その事実を知りながら。


 見ないふりをした。


「だからこそ」


 オルディスが続ける。


「今日」


「私たちは、互いの過ちを認め」


「新たな道を選ばなければなりません」


 聖堂外から。


 再び歓声が聞こえた。


 おそらく。


 建物の外に設置された術具が。


 オルディスの言葉を民衆へ伝えている。


「セルディアは」


「すべての国境における軍事行動の停止を提案します」


「捕虜を返還し」


「占領地を段階的に整理し」


「三国共通の復興機関を設置する」


 ヴァルガスが鼻を鳴らした。


「費用は?」


「三国で分担します」


「侵攻を受けた国と、攻めた国が同額か?」


「被害と国力に応じた調整は必要でしょう」


「誰が決める?」


「三国共通の評議会です」


「その評議会の議長は?」


 オルディスは。


 少しだけ笑った。


「それも、今日決めましょう」


「お前がなるつもりか」


「必要であれば」


 ヴァルガスの手が。


 円卓を軽く叩いた。


 その瞬間。


 セレスは。


 足元に違和感を覚えた。


 淡い光。


 石床に刻まれていた線が。


 ゆっくりと輝き始めている。


「これは――」


 セレスが立ち上がろうとする。


 身体が動かない。


 足首。


 腰。


 両腕。


 透明な何かが。


 身体を席へ縫い止めている。


 ヴァルガスも。


 椅子の肘掛けをつかんだまま動けなくなっていた。


「オルディス!」


 ヴァルガスが叫ぶ。


 円卓の下。


 壁。


 天井。


 聖堂全体に刻まれていた線が。


 一斉に光を放つ。


 巨大な魔法陣。


 三国聖堂そのものが。


 一つの結界術式として起動している。


 扉の前にいたルミナスの近衛兵が剣へ手を伸ばす。


 だが。


 床から伸びた光の帯が。


 兵士の両腕を拘束した。


 誰も傷ついていない。


 剣も。


 魔術も。


 代表者へ向けられていない。


 セレスは。


 円卓の下にある術式を見る。


 神聖契約の金色の光は。


 消えていない。


 契約違反を示す変化もなかった。


「契約の文面だけを守ったのですね」


 セレスが言った。


 オルディスは。


 席から立ち上がった。


 彼だけは拘束されていない。


「約束は守っています」


「皆様を殺すつもりも」


「傷つけるつもりもありません」


「ただ」


「正しい選択をしていただくだけです」


「これを会談と呼ぶのですか?」


「選択肢は残されています」


「あなたへ従うか」


「ここで拘束され続けるか?」


「戦争を終わらせるか」


「争いを続けるかです」


 聖堂の窓が。


 淡い光の膜に覆われた。


 外の音が消える。


 通信術具。


 伝令用の魔石。


 すべての光が途切れた。


「聖都外の軍にも」


「何かしたのですか?」


 セレスが尋ねる。


「皆様の軍は」


「現在、安全な場所で待機しています」


「質問へ答えなさい」


「互いに接触しないよう」


「いくつかの結界によって、区画を分けました」


 安全。


 オルディスはそう言った。


 だが。


 外部との通信を断ち。


 軍隊を分断した時点で。


 何が起きても。


 指揮官は代表者へ確認できない。


「自由な選択が」


 オルディスは。


 円卓の中央へ立った。


「争いを生むのです」


「国が違えば」


「守る民が違う」


「価値観が違えば」


「何を正しいとするかも違う」


「だから人は争う」


 広げた両手。


 その背後。


 壁に描かれた勇者の姿。


「ならば」


「争いを終わらせる方法は一つです」


「すべての国を」


「一つの意思へ従わせる」


「それを平和と呼ぶのですか?」


 セレスが尋ねる。


「少なくとも」


「戦争はなくなります」


「反対する者は?」


「救済します」


「従わなければ?」


「従えるまで導きます」


 ヴァルガスが笑った。


 低く。


 怒りの混じった笑い。


「随分と回りくどい征服だな」


「征服ではありません」


「剣を突きつけて従わせることを」


「お前の国では救済と呼ぶのか」


「帝国も、同じことをしてきたのでは?」


 ヴァルガスの笑みが消える。


「違いは」


「セルディアが最後までやり遂げることです」


 オルディスは。


 聖堂の奥へ視線を向けた。


「エアリアルと」


「新たな勇者の力によって」


「三国は一つになります」


 セレスの胸に。


 冷たいものが落ちる。


 この会談は。


 和平のためではない。


 民衆の前で。


 三国がセルディアへ従う場面を作るためのもの。


 希望そのものを。


 支配の道具へ変えるための儀式だった。


     ◇


 聖都西門の内側。


 ガルディア代表団の護衛部隊に割り当てられた待機区域を。


 半透明の光の壁が囲んでいた。


 帝国軍の本隊は。


 聖都の外へ駐屯している。


 城内へ入ることを許されたのは。


 グレンが率いる少数の護衛兵だけだった。


 光の壁の向こうには。


 ルミナス代表団の護衛部隊が見える。


 だが。


 声は届かない。


 術式通信も。


 伝令用の魔石も反応しない。


 聖都外にいる本隊との連絡も。


 完全に途絶えていた。


「結界を破れ!」


 帝国軍の指揮官が叫んだ。


 兵士たちが。


 槍と斧を光の壁へ叩きつける。


 火花。


 鈍い音。


 それでも。


 結界には傷一つつかない。


 グレンは。


 光の壁へ手を触れた。


 熱はない。


 攻撃を返す術式でもない。


 ただ。


 内と外を分けるためだけの結界。


 聖堂と同じ。


 相手を直接傷つけず。


 自由だけを奪う仕組み。


「将軍」


 副官が駆け寄ってくる。


「皇帝陛下から預かっていた、非常時命令です」


「非常時命令?」


「会談中に通信が遮断された場合」


「開封するよう命じられていました」


 副官が。


 小さな命令石を差し出した。


 赤い光。


 皇帝だけが使用できる。


 帝国軍最高位の命令術式。


 グレンが触れると。


 ヴァルガスの声が流れた。


『セルディアが会談を利用して動いた場合』


『混乱に乗じて、ルミナス軍を制圧しろ』


『可能ならば』


『聖堂地下にあるエアリアルを確保せよ』


『帝国が再び聖剣を得る、最後の機会となる』


 音声が途切れる。


 命令石の光が消えた。


 周囲の将校たちは。


 グレンの判断を待っている。


「将軍」


「ご命令を」


 光の壁の向こうでは。


 ルミナス兵たちも混乱している。


 武器を構え。


 こちらを警戒している者。


 結界の出口を探す者。


 代表団の馬車へ戻ろうとする者。


 さらに遠く。


 セルディアの市民が。


 何が起きたのか分からず。


 通りへ集まり始めていた。


 今。


 ルミナス軍へ攻撃すれば。


 不意を突ける。


 混乱に乗じ。


 結界の外側にいる本隊と合流できれば。


 さらに大きな戦力を動かせる。


 エアリアルを奪えば。


 帝国は再び。


 聖剣を持つ国になれる。


 フレイムベルグを失った力を。


 取り戻せる。


「将軍」


 副官が繰り返す。


「皇帝陛下の命令です」


「分かっている」


 グレンは。


 腰にある剣へ触れた。


 フレイムベルグはない。


 アルトによって破壊された。


 今あるのは。


 帝国軍から支給された、普通の長剣だけ。


 かつて。


 自分は聖剣を握り。


 帝国のために戦った。


 飢えた民を救うため。


 戦争を早く終わらせるため。


 敵国を焼けば。


 犠牲は少なくなる。


 そう信じた。


 その結果。


 フェルナは滅びた。


 町も。


 森も。


 逃げ遅れた人々も。


 炎に飲まれた。


 あのときも。


 命令だった。


 帝国を守るためという言葉が。


 すべてを正当化した。


「ルミナス軍への攻撃準備を」


 将校の一人が言った。


「歩兵を左翼へ」


「待て」


 グレンの声で。


 兵士たちの動きが止まる。


「攻撃はしない」


 副官が目を見開いた。


「しかし」


「これは帝国を守る戦いではない」


「陛下の命令です」


「分かっている」


「ならば!」


「これは」


 グレンは。


 命令石を握りしめた。


「混乱に乗じて、他国の力を奪うための戦いだ」


「帝国の利益になります」


「その言葉で」


「私は一つの国を焼いた」


 周囲が静かになる。


 グレンが。


 自らフェルナについて口にすることは。


 これまでほとんどなかった。


「あのときも」


「帝国の民を救うためだと言われた」


「敵を早く屈服させれば」


「犠牲は少なくなると」


「私は、それを信じた」


 いや。


 信じたかった。


 自分のしていることを。


 正しいと思いたかった。


「将軍」


「命令違反は、反逆です」


「そうだな」


「ご家族や故郷にも、処罰が及ぶ可能性があります」


「分かっている」


「それでも拒否するのですか?」


 グレンは。


 光の壁の向こうを見る。


 ルミナス兵の後方。


 逃げ惑う市民。


 転倒した荷車。


 泣いている子ども。


 今。


 戦闘が始まれば。


 最初に巻き込まれるのは。


 武器を持たない人々だった。


「これ以上」


「帝国のためという言葉で」


「人を焼くつもりはない」


 グレンは。


 命令石を地面へ置いた。


 軍靴で踏み砕く。


 赤い破片が散った。


「全員へ命令する」


「ルミナスの護衛部隊へ攻撃するな」


「セルディア兵から攻撃を受けても」


「民間人の避難を優先しろ」


「負傷者は所属を問わず救助する」


「将軍!」


「責任は私が取る」


「この命令へ従えない者は」


「ここに残れ」


 誰も動かなかった。


 兵士たちは。


 互いの顔を見る。


 故郷には。


 家族がいる。


 皇帝命令へ逆らえば。


 何が起きるか分からない。


 やがて。


 一人の兵士が。


 槍を下ろした。


「私は」


「将軍へ従います」


 別の兵士も。


 武器を下ろす。


「負傷者を運びます」


「避難路を確保します」


 すべてではない。


 何人かの将校は。


 その場に残った。


 だが。


 多くの兵士が。


 グレンのもとへ集まった。


「結界の西側に」


「旧市街へ続く通路がある」


 グレンが言う。


「そこを避難路として確保する」


「帝国兵は盾を持って先行」


「市民と負傷者を中央へ入れろ」


「ルミナス兵へも伝えろ」


「敵対の意思はないと」


「通信は使えません」


「壁越しに旗で知らせろ」


 兵士たちが動き出す。


 その瞬間。


 地面が、小さく揺れた。


 聖都の中心から。


 重い機構が動き始めるような音が響く。


 風は吹いていない。


 それでも。


 グレンは。


 地下のどこかで。


 巨大な力が動き始めたことを感じた。


「急げ!」


 グレンが叫ぶ。


「古い建物から人を離せ!」


「広い通りへ誘導しろ!」


 帝国軍の護衛兵たちは。


 敵国を攻めるためではなく。


 人々を守るために走り出した。


     ◇


 地下巡礼路の先は。


 再び二つへ分かれていた。


 一方は。


 さらに地下へ。


 もう一方は。


 細い階段となって、上へ続いている。


 壁の向こうから。


 鐘の音。


 続いて。


 大勢の叫び声が聞こえた。


「何か起きてる」


 リナが階段を見上げる。


 上から。


 細かな砂が落ちてきた。


 地面が。


 わずかに揺れている。


「会談が始まった頃です」


 ノアが言った。


「この揺れが、会談と関係あるの?」


「分かりません」


 アルトは。


 地下へ続く道を見た。


 左手首。


 ほとんど消えかけた契約印が。


 わずかに脈打っている。


 地下の奥。


 フィオナがいる方向から。


「俺は、このまま下へ行く」


 アルトが言った。


「私も行く」


 リナはすぐに答えた。


 だが。


 上から。


 子どもの泣き声が聞こえた。


 遠い。


 石の壁を隔てた。


 かすかな声。


 それでも。


 聞き間違いではない。


 さらに。


「誰か!」


「瓦礫の下に人がいる!」


 叫び声。


 何かが崩れる音。


 リナは。


 階段と。


 地下の道を交互に見る。


「行ってこい」


 アルトが言った。


「でも」


「上には」


「今、助けを必要としている人がいる」


「フィオナだって」


「ああ」


「だから、俺が行く」


「一人で行かないって言った」


「ノアがいる」


 ノアが。


 わずかに驚いた顔をする。


「私も地下へ?」


「道を読めるのはノアだけだ」


「それは、そうですが」


 リナは納得していない。


 アルトの身体。


 透けた右腕。


 弱くなった呼吸。


 フィオナからの力も届かない。


 一人にしたくない。


 だが。


 階段の上で。


 誰かが助けを求めている。


「リナ」


 アルトが言った。


「どちらを選んでも」


「誰かを見捨てたことにはならない」


「でも」


「一人で全部はできない」


 それは。


 以前のアルトなら。


 言わなかった言葉かもしれない。


 自分がすべて背負い。


 すべてを救おうとした人。


 今は。


 リナへ任せようとしている。


「無理しない?」


「すると思う」


「アルト」


「でも」


 アルトは。


 左手首を見せた。


「倒れる前には、ノアへ言う」


「私に言っても、止められる自信はありません」


 ノアが言う。


「止めてくれ」


「努力します」


「努力じゃなくて、止めて」


 リナが言った。


「分かりました」


 リナは。


 アルトの顔を見る。


「絶対に戻ってきて」


 アルトは。


 すぐには答えなかった。


「約束して」


「フィオナを連れて戻る」


「アルトも」


「ああ」


「アルトも一緒に」


「分かった」


 リナは。


 弓を握り直した。


 上へ続く階段へ足を向ける。


「リナ」


 アルトに呼ばれ。


 振り返る。


「任せた」


 短い言葉。


 それだけだった。


 だが。


 リナはうなずいた。


「そっちも」


「ああ」


 リナは階段を駆け上がった。


 アルトとノアは。


 地下の奥へ進む。


 二つの足音が。


 少しずつ遠ざかっていく。


 リナは。


 一度も振り返らなかった。


     ◇


 階段の先は。


 聖都西部にある、古い礼拝所へつながっていた。


 壊れた床板を押し上げ。


 外へ出る。


 風は。


 まだ強くない。


 ただ。


 聖都の中心から伝わる。


 低い振動によって。


 窓ガラスや看板が。


 小さく音を立てていた。


 通りには。


 倒れた露店。


 崩れかけた外壁。


 混乱する人々。


「動ける人は、広場へ!」


 セルディアの兵士が叫んでいる。


「古い建物から離れろ!」


 だが。


 兵士自身も。


 状況を理解していない。


 聖都の外側と。


 各国の護衛区域には。


 巨大な光の壁が立っている。


 ガルディア軍の本隊。


 ルミナス軍の本隊。


 城内へ入った各国の護衛兵。


 それぞれが。


 複数の区画へ分断されていた。


「助けて!」


 近くで声がした。


 崩れた屋根の下。


 女性が倒れている。


 その隣で。


 幼い少女が泣いていた。


 リナは駆け寄る。


「大丈夫?」


「お母さんが……」


 木材が。


 女性の足を挟んでいる。


 リナ一人では持ち上げられない。


「誰か!」


「手を貸して!」


 近くにいたルミナス兵が走ってくる。


 二人で木材を持ち上げ。


 女性を引き出す。


 足から血が流れていた。


 リナは。


 腰の薬草袋を開く。


 傷へ布を当て。


 強く縛る。


「歩ける?」


「娘だけでも……」


「二人とも行くよ」


 ルミナス兵が。


 女性を背負った。


 リナは少女の手を取る。


 旧市街の方角へ。


 避難する人々の列が見えた。


 先頭には。


 盾を持った兵士たち。


 ガルディア軍。


 黒い鎧。


 見間違えるはずがない。


 その中央に。


 一人の男がいた。


 大柄な身体。


 短く切られた髪。


 顔に残る。


 古い火傷の痕。


 グレン・ヴァルハルト。


 リナの足が止まった。


 周囲の音が。


 遠くなる。


 燃える家。


 倒れる父。


 母の薬草袋。


 弟が持っていた木の鳥。


 フェルナを焼いた炎。


 あの日の熱が。


 胸の奥から蘇る。


 グレンも。


 リナに気づいた。


 二人の視線が重なる。


 彼の腰には。


 剣がある。


 だが。


 手を伸ばさない。


 リナは少女の手を。


 近くの兵士へ預けた。


「この子をお願い」


「君は?」


 答えず。


 弓を取る。


 矢をつがえる。


 弦を引く。


 鏃が。


 グレンの胸を向いた。


 周囲の帝国兵が。


 武器へ手を伸ばす。


「下がれ」


 グレンが命じた。


「しかし、将軍」


「武器を抜くな」


 兵士たちは。


 迷いながらも止まった。


 グレンは。


 両手を身体の横へ下ろした。


「撃つ理由は」


「あなたにある」


 リナの指に。


 力が入る。


 ここで放てば。


 当たる。


 距離は近い。


 グレンは避けない。


 胸を射抜けば。


 死ぬ。


 ずっと。


 その瞬間を望んでいた。


 故郷を焼いた男。


 家族を奪った男。


 殺さなければ。


 自分の怒りは終わらないと思っていた。


 アルトが。


 倒れたグレンを助けたとき。


 理解できなかった。


 生きて責任を負わせる。


 そんな言葉では。


 失ったものは戻らない。


 今も。


 戻らない。


 父も。


 母も。


 弟も。


 故郷も。


 リナの背後で。


 負傷者がうめいた。


「担架が足りない!」


「こっちに子どもがいる!」


「壁が崩れるぞ!」


 ガルディア兵。


 ルミナス兵。


 セルディアの市民。


 国も。


 立場も違う人々が。


 助けを待っている。


 グレンを殺せば。


 復讐は終わるのか。


 それとも。


 これから先も。


 あの日の炎だけを見て生きることになるのか。


「どうして」


 リナが言った。


「どうして、避難を手伝ってるの?」


「命令を拒否した」


「誰の?」


「皇帝陛下の命令だ」


「何を命じられたの?」


「ルミナス軍を攻撃し」


「エアリアルを奪えと」


「拒否したら」


「あなたはどうなるの?」


「処罰される」


「死ぬかもしれない?」


「可能性はある」


「それでも?」


 グレンは。


 崩れた建物を見る。


「これ以上」


「帝国のためという言葉で」


「人を焼きたくない」


 リナの腕が震えた。


「それで」


「許してもらえると思ってる?」


「思っていない」


「謝ったら、終わると思ってる?」


「思っていない」


「じゃあ、何のために?」


「私が」


 グレンは。


 リナから目をそらさなかった。


「これ以上、同じことをしないためだ」


 矢を放つ。


 それだけでいい。


 この男は。


 受け入れると言っている。


 逃げない。


 言い訳もしない。


 だからこそ。


 リナは。


 弦から指を離せなかった。


「あなたを許さない」


 声が震える。


「これから先も」


「きっと許せない」


「ああ」


「家族は戻らない」


「ああ」


「故郷も」


「ああ」


「あなたが何をしても」


「なかったことにはならない」


「分かっている」


 リナは。


 弓を引いたまま。


 涙をこらえた。


 怒りは消えない。


 悲しみも。


 憎しみも。


 今すぐなくなるわけではない。


 それでも。


「でも」


 リナは言った。


「あなたを殺すために生きるのはやめる」


 ゆっくりと。


 弓を下ろす。


 鏃が地面を向いた。


 グレンは。


 安堵した顔をしなかった。


 感謝も。


 許しを求める言葉も口にしない。


「それでいい」


 短く。


 そう答えた。


 地面が。


 再び小さく揺れた。


 通りの先で。


 傷んでいた外壁が傾く。


「危ない!」


 グレンが走り出す。


 倒れかけた壁の下に。


 逃げ遅れた兵士たちがいた。


 ガルディア兵。


 ルミナス兵。


 どちらもいる。


 グレンが。


 崩れた柱を肩で支える。


「早く出ろ!」


 兵士たちが。


 狭い隙間から抜け出す。


 だが。


 柱は持たない。


「リナ!」


 名前を呼ばれ。


 身体が先に動いた。


 矢へ縄を結び。


 柱の上に残る金具へ放つ。


 矢が貫き。


 縄が引っかかる。


「右へ倒す!」


 リナが叫んだ。


 周囲の兵士たちが。


 縄をつかむ。


 グレンが柱を押す。


「引け!」


 全員で縄を引いた。


 柱が。


 人のいない方向へ倒れる。


 大きな音。


 砂煙が広がった。


 グレンが。


 煙の中から立ち上がる。


 肩から血が流れている。


「動ける?」


 リナが尋ねた。


「ああ」


「傷を見せて」


「まだ避難が」


「動けなくなったら邪魔になる」


 グレンは。


 少しだけ目を見開いた。


 それでも。


 黙って膝をつく。


 リナは。


 母の薬草袋から布を取り出す。


 傷へ当てる。


 グレンの身体がわずかに強張った。


「痛い?」


「問題ない」


「嘘」


「戦える」


「戦うためじゃない」


 布を強く巻く。


「人を助けるために動けるか聞いてるの」


「動ける」


「なら立って」


 リナは。


 グレンを許していない。


 これからも。


 簡単には許せない。


 グレンも。


 許されたとは思っていない。


 二人の間にあるものは。


 消えない。


 それでも。


 今。


 助けを待っている人がいる。


「旧市街の広場へ避難させる」


 グレンが言った。


「南側の道は?」


「建物が崩れてる」


「東は?」


「結界で塞がれてる」


「なら、西の水路沿いを使う」


「先を見てくる」


「一人で行くな」


 リナは。


 グレンを見る。


「それ、アルトにも言われた」


「誰だ?」


「こっちの話」


 リナは弓を背負った。


「二人で行く」


「ああ」


 グレンが。


 帝国兵へ指示を出す。


 リナは。


 ルミナス兵と市民へ声をかける。


 敵だった者たち。


 憎んでいる相手。


 信じ切れない人間。


 それでも。


 同じ避難路を守る。


 和解ではない。


 過去を忘れたわけでもない。


 ただ。


 これ以上。


 目の前の命を失わせないために。


 リナとグレンは。


 並んで走り出した。


 そのとき。


 聖都の中心から。


 低い振動が伝わってきた。


 石畳がわずかに揺れ。


 鐘楼の鐘が。


 一度だけ音を立てる。


 風は。


 まだ吹いていない。


 だが。


 地下で蓄えられている何かが。


 限界へ近づいていることだけは分かった。


 リナは。


 聖都の中心を見た。


 アルトが向かった場所。


 フィオナが囚われている場所。


 そして。


 最後の聖剣が眠る場所。


「アルト……」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事はない。


 リナは。


 弓を握り直した。


 今は。


 自分にできることをする。


 目の前の人々を。


 一人でも多く。


 この場所から逃がす。


 地上では。


 偽りの和平が崩れ。


 三国の兵士と民衆が。


 同じ不安の中で助けを求めていた。


 そして地下では。


 最後の聖剣へ続く道を。


 アルトが進んでいた。


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