第26話 正しさを疑う道
大聖堂の地下から脱出して。
三日が経っていた。
それでも。
アルトの左手首にある契約印は、ほとんど光を取り戻さなかった。
薄い翠色の紋様。
目を凝らさなければ。
そこにあることさえ分からない。
指先で触れると。
ほんのわずかに。
脈打つものがある。
フィオナとの契約は。
まだ切れていない。
だが。
声は聞こえない。
力も届かない。
彼女が地下のどこにいるのか。
どれほど弱っているのか。
アルトには分からなかった。
「フィオナは、まだ地下にいる」
アルトは言った。
返事をしたのは。
壁の向こうを流れる水の音だけだった。
聖都の外側。
古い排水路からつながる、石造りの管理室。
三人は。
大聖堂の地下から脱出して以来。
この場所を一時的な隠れ家として使っていた。
三日間。
ノアは持ち出した記録を調べ続け。
アルトとリナは、聖都へ戻れる入口を探した。
だが。
大聖堂へ続く地上の通路には、教団兵が配置されていた。
地下水路も。
墓所へ続く道も。
侵入を警戒した教団によって封鎖されている。
正面から入れば。
地下へたどり着く前に囲まれる。
アルトが一人なら。
強引に進もうとしたかもしれない。
だが今は。
右腕を動かすだけで、輪郭から光がこぼれる。
胸元も大きく透けていた。
呼吸をするたび。
身体の内側で、何かが崩れるような感覚がある。
この状態で戦い続ければ。
フィオナのもとへ届く前に。
自分が動けなくなる可能性があった。
「見つめても、急には戻らないよ」
リナが言った。
「分かってる」
「さっきから、ずっと契約印を見てる」
「変化がないか確認してるだけだ」
「変化があったら?」
「すぐに動く」
「だから見ないで」
「それは無理だろ」
リナは小さく息を吐いた。
アルトの前へ器を置き。
水を注ぐ。
「飲んで」
「腹は減ってない」
「水は飲めるでしょ」
「味はしないけどな」
「味がしなくても飲むの」
アルトは器を受け取った。
水を口へ含む。
冷たさは。
以前より分かりにくい。
喉を通ったことだけは感じられた。
「全部」
「分かってる」
アルトが水を飲み終える。
リナは空になった器を受け取った。
「少しは、人の言うことを聞くようになったね」
「前から聞いてる」
「聞くだけだった」
「今回は守ってる」
「昨日、封鎖された水路へ入ろうとした」
「入口を確認しようとしただけだ」
「それを守ってないって言うの」
アルトは反論しなかった。
言い返せば。
さらに長く怒られる。
それくらいは分かっている。
管理室の奥では。
ノアが床へ広げた紙を見つめていた。
脱出後に彼が取り出した。
地下施設について記された、薄い記録だった。
古文書管理の役目を外される前。
ノアが写し。
自室へ隠していたもの。
大聖堂の現在の構造。
地下墓所。
古い水路。
百年前の封印施設。
いくつもの図面を重ねるように。
ノアは紙を並べている。
その端に。
どの図面とも一致しない。
細い線が残されていた。
「何か分かったか?」
アルトが尋ねる。
ノアは答えなかった。
細い線を指でなぞり。
別の紙へ何かを書き写している。
「ノア?」
「少し待ってください」
「待ってる」
「話しかけないでください」
「分かった」
アルトは口を閉じた。
しばらくして。
もう一度、ノアを見る。
「まだか?」
「話しかけないでくださいと言いました」
「確認しただけだ」
「それも話しかけています」
リナが小さく笑った。
「アルトが怒られてる」
「最近、多い気がするな」
「前からだよ」
ノアは。
二人の会話を聞き流しながら。
紙を並べ替えた。
現在の聖都の地図。
大聖堂の地下図。
百年前の封印施設。
さらに。
古い巡礼者用の記録。
それらを重ね合わせる。
「やはり」
ノアがつぶやいた。
「ここに、道があります」
アルトとリナが近づく。
「どこ?」
リナが尋ねた。
ノアは地図の南側を指した。
聖都の外壁。
そのさらに外。
現在は使われていない。
小さな祈りの塔。
「この塔の下です」
「地下水路につながってるの?」
「水路ではありません」
「では?」
ノアは。
古い記録の一節を読み上げた。
「風を鎮めし剣を」
「光の届かぬ道より」
「人の祈りが集う場所へ運ぶ」
アルトの表情が変わる。
「もう一度、読んでくれ」
「風を鎮めし剣を」
「光の届かぬ道より」
「人の祈りが集う場所へ運ぶ」
「その続きは?」
「ありません」
「紙が破れているの?」
リナが記録を見る。
「いいえ」
ノアは首を振った。
「意図的に削られています」
文章の下。
本来なら続きが記されていたはずの場所が。
刃物のようなもので削られている。
表面を平らにした後。
別の祈りの言葉が書き足されていた。
「誰かが消した?」
「おそらく」
「現在の教団が?」
「いつ消されたものかまでは分かりません」
ノアは地図へ視線を戻す。
「ただ」
「この一節が記されたのは」
「魔王戦争が終わった直後です」
風を鎮めし剣。
それが指すものは。
一つしかない。
「エアリアルか」
アルトが言った。
「はい」
「百年前に」
「俺たちがエアリアルを封印したときの記録だ」
ノアはうなずいた。
「現在の教典では」
「三本の聖剣は、天から勇者へ授けられ」
「戦いの後、神の意思によって三国へ分けられたとされています」
「ずいぶん便利な神だな」
「教団にとっては」
ノアは。
削られた箇所へ触れた。
「ですが、この記録には」
「人の手で運び」
「人の手で封印したことが残されている」
「だから消した?」
リナが尋ねる。
「聖剣を神聖なものとして扱うには」
「誰が運んだのか」
「どこを通ったのか」
「そうした現実的な記録は邪魔になります」
アルトは。
古い塔から伸びる線を見つめた。
線は聖都の地下を通り。
大聖堂の下へ続いている。
正確な終点は。
削られていて分からない。
「この道を使えば」
「地下へ戻れるかもしれない」
アルトが言う。
「はい」
ノアはすぐに続けた。
「ですが」
「百年間、使われていません」
「途中で崩れている可能性があります」
「教団が入口を塞いでいることも考えられます」
「それでも行く」
アルトは立ち上がった。
右足へ力を入れた瞬間。
胸の奥に痛みが走る。
身体が傾く。
リナが肩を支えた。
「それでも、行くの?」
「ああ」
「立つだけで倒れそうなのに?」
「倒れてない」
「私が支えたからでしょ」
「ありがとう」
「お礼を言えばいいと思ってない?」
「思ってない」
「本当に?」
「たぶん」
「思ってる」
リナは。
アルトの腕を離さなかった。
「私も行く」
「ああ」
アルトはすぐに答えた。
リナが少しだけ目を見開く。
「止めないの?」
「止めても来るだろ」
「来る」
「それに」
アルトは左手首を見る。
薄い契約印。
「今回は、一人で決めない」
リナは。
少しだけ表情を緩めた。
「地下では、勝手に先へ行かないで」
「ああ」
「倒れる前に言う」
「分かった」
「努力する、じゃなくて?」
「言う」
「なら、一緒に行く」
ノアも立ち上がる。
「私も案内します」
「入口を教えてくれればいい」
「記録を読めるのは私だけです」
「中にも文字があると?」
「古い巡礼路なら」
「道標が残されている可能性があります」
「危険だぞ」
「すでに教団へ戻れる立場ではありません」
「だからといって」
「それに」
ノアは。
削られた記録を見る。
「自分が信じてきたものが」
「本当に正しかったのか」
「最後まで確かめたいのです」
アルトは何も言わなかった。
やがて。
小さくうなずく。
「分かった」
三人は。
古い地図を持ち。
管理室を出た。
◇
聖都の南側。
外壁から少し離れた丘に。
古い祈りの塔が立っていた。
屋根は崩れ。
壁の一部には蔦が絡みついている。
かつては。
聖都へ入る巡礼者が、旅の無事を感謝する場所だったらしい。
現在。
ここを訪れる者はいない。
新しい街道が作られ。
大聖堂へ続く正式な門が整備され。
古い塔は役目を失った。
周囲に。
教団兵の姿はなかった。
地下巡礼路の存在そのものが。
現在の記録から消されている。
教団も。
役目を失った古い塔の下に。
封印施設へ続く道が残っているとは考えていないのだろう。
「本当に、ここ?」
リナが尋ねる。
「記録では」
ノアは答えた。
「便利な言葉だな」
アルトが言う。
「間違っていた場合は、戻るだけです」
「戻れる道ならいいけどな」
「不吉なことを言わないで」
リナがアルトを睨む。
三人は塔の中へ入った。
床には。
崩れた石と土が積もっている。
中央に。
祈りを捧げるための小さな祭壇が残っていた。
石の上には。
かすれた風の紋様。
現在の教団が使う。
翼を広げた勇者の印とは違う。
ただ一本の線が。
風に押される草のように曲がっている。
「古いセルディアの紋章です」
ノアが言った。
「勇者教団ができる以前」
「この地方で使われていました」
「入口は?」
「祭壇の下だと思います」
アルトが祭壇へ手をかける。
リナがすぐに、その腕をつかんだ。
「右腕は使わない」
「左だけでは動かせない」
「三人でやる」
「分かった」
三人が祭壇の縁へ手をかける。
「せーの」
リナの声に合わせて。
石を押す。
最初は。
何も動かなかった。
もう一度。
力を込める。
祭壇の下で。
石同士が擦れる音がした。
わずかに。
台座が横へずれる。
アルトの右腕から。
小さな光の粒がこぼれた。
「アルト」
「まだ動く」
「祭壇の話?」
「両方だ」
「一度休む」
アルトは手を止めた。
「分かった」
リナとノアが祭壇を押し。
アルトは左手だけを添える。
少しずつ。
石の台座が横へ移動する。
下から。
冷たい空気が流れ出した。
暗い穴。
石段。
地下へ続く入口が現れる。
ノアが光の術を使った。
白い小さな光が。
階段の奥を照らす。
壁には。
古い文字が刻まれていた。
「読める?」
リナが尋ねる。
「巡礼者は」
「己の答えを持たず」
「問いだけを携えて進め」
ノアが読み上げる。
「変わった祈りだな」
アルトが言った。
「現在の教典とは違います」
「今の教典なら?」
「答えは勇者の言葉にある、と」
「俺はそんなに答えを持ってないけどな」
「それは、もう分かっています」
「少し言い方が冷たくないか?」
ノアは答えず。
階段を下り始めた。
アルトとリナも後に続く。
最後に。
祭壇を内側から元の位置へ戻す。
光が閉ざされる。
三人は。
百年間使われていなかった地下へ入った。
◇
道は。
人が二人並んで歩けるほどの幅だった。
壁も床も。
同じ灰色の石で作られている。
装飾はほとんどない。
一定の間隔で。
祈りの文字だけが刻まれていた。
「ここを通ったことがある?」
リナがアルトへ尋ねる。
「ある」
「覚えてるの?」
「全部ではない」
アルトは壁へ触れた。
冷たい石。
湿った空気。
遠くで響く水の音。
知らない場所ではない。
だが。
百年前の記憶は。
ところどころ途切れている。
「魔王を倒した後」
アルトは言った。
「三本の聖剣を封印するために」
「俺たちは、それぞれの封印地へ向かった」
「アルトも全部の封印に行ったの?」
「ああ」
「怪我をしてたんじゃないの?」
「してた」
「それでも?」
「三本とも」
「最後まで見届けると決めていた」
フレイムベルグの封印。
アクアレギアの封印。
そして。
最後に運ばれたエアリアル。
魔王との戦いで受けた傷は。
まだ完全には癒えていなかった。
それでも。
アルトは。
仲間たちとともに。
自分の足で封印地を回った。
「エアリアルをここへ運んだのは?」
リナが尋ねる。
「カインだ」
「カイン・アステル?」
「ああ」
「レオニスと同じ姓の」
「そうだ」
カインは。
エアリアルの使い手ではない。
三本の聖剣を扱ったのは。
アルトただ一人だった。
だが。
戦いが終わった後。
仲間たちは三本の聖剣を。
それぞれの封印地へ運ぶ役割を担った。
アクアレギアの封印術式は。
エレナが整えた。
そしてエアリアルは。
カインが責任を持って。
セルディアまで運んだ。
「俺も一緒に来た」
アルトは。
途切れた記憶を探しながら言う。
「まだ傷は残っていたけどな」
「歩けたの?」
「歩けた」
「本当に?」
「途中で何度か休んだ」
「それを歩けたって言うの?」
「最後まで、自分の足で来た」
「どうして、そこまでしたの?」
「封印方法を知っていたのは」
「俺と仲間たちだけだったからな」
「フィオナは?」
「森に戻っていた」
魔王との戦いで。
森も。
精霊たちも。
大きな傷を負った。
フィオナには。
守らなければならない場所があった。
「カインは、何か言ってた?」
「覚えてない」
「仲が良かったんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、思い出して」
「無理を言うな」
アルトは。
歩きながら目を閉じた。
暗い道。
石の天井。
隣を歩く。
鎧が擦れる音。
誰かの声。
――遅れるな。
誰の声だったか。
――ここまで来たなら、最後まで見届けろ。
厳しい言葉。
だが。
その足取りは。
傷ついたアルトに合わせて。
普段よりも遅かった。
「カインらしいな」
アルトがつぶやく。
「思い出した?」
「少しだけ」
「何て?」
「怪我人に、遅れるなと言った」
「ひどい」
「でも」
「最後まで隣を歩いていたのも、カインだ」
「優しいの?」
「分かりにくいだけだ」
「アルトと同じ?」
「俺は分かりやすい」
「そうかな」
リナは首をかしげた。
道は。
緩やかに下っている。
やがて。
前方に分岐が現れた。
右。
左。
正面。
三つの道。
壁には文字がない。
「どっち?」
リナが尋ねる。
ノアは地図を見る。
「記録には、分岐そのものがありません」
「地図が間違ってる?」
「途中が削られているのかもしれません」
アルトは。
三つの道を順に見る。
空気の流れ。
湿度。
床の傷。
どれも。
長く人が通った形跡はない。
「正面だ」
アルトが言った。
「思い出したの?」
「いや」
「では、なぜ?」
ノアが尋ねる。
「左右は、空気が動いてない」
「正面だけ、風がある」
「地下水路へ通じているだけかもしれません」
「エアリアルを封じるなら」
「風が抜ける道を選ぶ」
「当時の俺たちなら、そう考える」
ノアは少し迷った後。
正面へ進んだ。
十歩ほど歩いたとき。
リナが立ち止まる。
「待って」
壁へ光を向ける。
石の表面に。
細い傷があった。
偶然ついたものではない。
剣先によって刻まれた。
短い縦線。
その上を斜めに横切る線。
「これ」
アルトが近づく。
指で。
傷をなぞる。
「カインの印だ」
「どうして分かるの?」
「昔」
「道に迷わないように」
「あいつが残していた」
「剣の傷?」
「ああ」
「地図を描けばいいのに」
「カインは、自分が一度通った道なら忘れなかった」
「ほかの人のために残したの?」
「そうだろうな」
アルトは。
傷の下へ目を向けた。
さらに小さく。
矢印が刻まれている。
正面。
その先を示していた。
「当たりだ」
「偶然じゃなかったんだね」
「半分は偶然だ」
「半分?」
「風がなければ」
「たぶん右へ行ってた」
「危なかった」
三人は。
剣の印を追って進んだ。
分岐のたび。
カインの印が残っている。
右の壁。
柱の根元。
床の端。
目立たない場所。
それでも。
探せば見つけられる。
「なぜ、こんなに隠すように?」
ノアが尋ねた。
「教団に見つからないため?」
「この道を作った時点では」
「今の勇者教団は存在していない」
アルトが答える。
「では、誰から隠したのですか」
「聖剣を奪おうとする人間からだろう」
「魔王がいなくなった後も?」
「魔王がいなくなったからだ」
アルトは言った。
「共通の敵がいなくなれば」
「今度は、人間同士で力を奪い合う」
「俺たちは」
「それが起きる可能性を分かっていた」
「それでも、聖剣を残した」
ノアの声には。
責める響きはなかった。
ただ。
確かめるような響きがある。
「ああ」
アルトは答えた。
「また魔王のようなものが現れたとき」
「必要になるかもしれないと思った」
「誰かが正しく使ってくれると信じた」
「間違いだった?」
リナが尋ねる。
アルトは。
すぐには答えなかった。
「残した結果だけを見れば」
「間違いだった」
「でも」
「当時の俺たちが」
「全部を予想できたとも思わない」
「じゃあ、正しかった?」
「それも違う」
アルトは。
暗い道の先を見る。
「正しかったか」
「間違っていたか」
「今でも、簡単には決められない」
「だから」
「今の俺が見たものをもとに」
「もう一度、選ぶ」
「壊すことを?」
「ああ」
「その選択も」
「百年後には間違いと言われるかもしれません」
ノアが言った。
「そうだな」
アルトは否定しなかった。
「それでも」
「誰かが選ばなければならない」
「正しいと信じて?」
「違う」
アルトは。
右腕を見る。
透けた指先。
こぼれる光。
「正しいかどうかを」
「疑ったまま選ぶ」
ノアは。
その言葉を聞き。
静かにうなずいた。
◇
どれほど歩いたのか。
地下では。
時間の感覚が薄い。
途中。
崩れた場所があった。
三人で石を退け。
狭い隙間を通り抜ける。
アルトは。
右腕をほとんど使わなかった。
使おうとするたび。
リナに止められたからだ。
「歩ける?」
リナが尋ねる。
「ああ」
「無理になる前に言って」
「分かった。今度は守る」
さらに進むと。
道の先に。
大きな石扉が現れた。
扉の中央には。
一本の剣が刻まれている。
華美な聖剣ではない。
どこにでもある。
普通の長剣。
「これもカインの印?」
リナが尋ねる。
「いや」
アルトは。
石扉へ近づいた。
剣の下には。
古い文字が刻まれている。
「ノア」
「はい」
「読めるか?」
ノアが光を近づける。
文字を一つずつ確かめる。
現在使われている言葉とは違う。
古いセルディアの文字。
さらに。
騎士団で使われていた符号が混じっている。
「正しさを」
ノアが読み上げる。
「疑う者にのみ」
声が止まる。
「どうした?」
「続きが」
ノアは。
文字へ指を触れた。
「この道を残す」
静寂。
水の音も。
風の音も。
一瞬だけ消えたように感じられた。
正しさを疑う者にのみ、この道を残す。
「カインの言葉だ」
アルトが言った。
「分かるの?」
リナが尋ねる。
「あいつは」
「よく似たことを言っていた」
魔王との戦い。
アルトが。
多くの人を救うため。
少数を切り捨てる判断を迫られたとき。
カインは。
命令しなかった。
答えも与えなかった。
ただ。
言った。
――自分が正しいと信じた瞬間が、一番危険だ。
――迷っているなら、まだ人の声を聞ける。
教団の教典に残る。
騎士カインの言葉は。
勇者へ従え。
勇者の命令を疑うな。
正しき剣へ身を捧げよ。
そのように書き換えられている。
だが。
本人が残した言葉は。
正反対だった。
「教団は」
ノアが石扉を見る。
「カイン様を」
「勇者の教えへ最も忠実だった騎士と伝えています」
「アルト様の命令を疑わず」
「すべてに従ったと」
「そんなことは一度もない」
アルトは言った。
「一番、俺へ反対したのがカインだ」
「何を言っても?」
「俺が無茶をすると怒った」
「作戦が間違っていると思えば」
「俺の前に立って止めた」
「剣を向けられたこともある」
「仲が悪かったの?」
リナが聞く。
「良かった」
「本当に?」
「ああ」
「剣を向けられてるのに?」
「止めるために剣を向けられる人間を」
「信用していた」
アルトは。
扉の言葉へ触れた。
「カインは」
「誰かへ従うために剣を持ったんじゃない」
「自分で考え」
「自分で選ぶために持っていた」
レオニス。
カインと同じ姓を持つ青年。
勇者の名を与えられ。
教団の教えを信じ。
正しい勇者であろうとしている。
だが。
地下で向き合ったとき。
フィオナが捕らえられたと知り。
一瞬。
動揺していた。
完全に。
オルディスの言葉だけを信じているわけではない。
「レオニスへ伝える」
アルトが言った。
「この言葉を?」
リナが尋ねる。
「ああ」
「聞いてくれるかな」
「分からない」
「また戦うことになるかもしれないよ」
「それでも」
アルトは。
石扉を見る。
「カインが残したものを」
「知らないままにはさせたくない」
「カインと同じ姓だから?」
「それだけじゃない」
勇者であることを。
正しいと信じ続けなければ。
自分のすべてが崩れる。
レオニスの姿は。
百年前の自分と。
まったく違うわけではなかった。
アルトも。
勇者だから。
自分にしかできないから。
そう言って。
最後まで戦い続けた。
仲間の制止を聞かず。
残された命まで使った。
「俺も」
アルトは言った。
「誰かに止めてもらわなければ」
「自分が正しいと思ったまま」
「歩き続けていたかもしれない」
リナが。
少しだけ目を細める。
「今も歩き続けてるけどね」
「今は、止められたら止まってる」
「少しだけ」
「進歩だ」
「本当に少しだけ」
アルトは。
扉の中央に刻まれた剣へ手を触れた。
柄の部分にある。
小さなくぼみ。
道中に残されていた。
カインの印と同じ形をしている。
短い縦の溝。
それを横切る。
斜めの溝。
アルトは。
縦の溝へ指を押し込み。
そのまま。
斜めの溝へ滑らせた。
石の内側で。
何かが外れる音がした。
低い音とともに。
百年間眠っていた開閉機構が動き始める。
「これが鍵だったの?」
リナが尋ねる。
「ああ」
「カインの印そのものが」
「扉を開く手順になっていたんだ」
「途中の印を見つけた人だけが分かるように?」
「そうだろうな」
「見落としていたら?」
「開かなかった」
「ちゃんと見つけてよかった」
「見つけたのはリナだ」
「じゃあ、私が開けたことになる?」
「そうだな」
「なら、少し誇っていい?」
「ああ」
石扉が。
ゆっくりと左右へ開く。
その先。
道は。
さらに深い地下へ続いていた。
遠くから。
低い鐘の音が届く。
一度。
二度。
三度。
「地上の鐘?」
リナが振り返る。
「聖都の正門が開かれた合図です」
ノアが答えた。
「大聖堂から脱出するとき」
「警備を増員していた教団兵たちが話していました」
「今日から」
「三国の代表団が到着する予定だと」
「和平会談か」
アルトが言う。
セルディアのオルディス。
ガルディアのヴァルガス。
ルミナスのセレス。
三国の代表が。
聖都へ集まる。
地上では。
戦争を終わらせるための会談が始まろうとしている。
その地下では。
フィオナが囚われ。
エアリアルへ。
大量の精霊力が集められている。
「急ごう」
アルトが歩き出す。
リナが隣へ並ぶ。
「無理はしない」
「ああ」
「苦しくなったら言う」
「ああ」
「一人で先に行かない」
「分かってる」
「本当に?」
「守る」
アルトは答えた。
三人は。
開かれた石扉の先へ進む。
壁に刻まれた。
カインの言葉を背にして。
正しさを疑う者にのみ。
残された道。
その先にあるものが。
答えなのか。
新たな問いなのか。
それはまだ。
誰にも分からなかった。




