第24話 届かなかった手
左手首の契約印が。
もう一度だけ、脈打った。
弱く。
今にも消えそうな反応だった。
それでも。
フィオナが地下にいる。
契約は、まだ切れていない。
その二つだけは分かる。
「まず、地下へ入る道を探す」
アルトは無銘の剣を腰へ下げた。
宿の外では。
夜の祈りを告げる鐘が鳴っている。
広場を行き交う人々の声。
巡回する教団兵の足音。
大聖堂を照らす灯火。
聖都は。
何も起きていないように見えた。
その地下で。
フィオナが捕らえられている。
「正面から大聖堂へ入るの?」
リナが尋ねた。
「入れると思うか?」
「無理だと思う」
「俺もそう思う」
「じゃあ、どうやって探すの?」
アルトは窓の外を見る。
大聖堂へ続く道には。
夜でも多くの巡礼者が歩いている。
正面の大階段。
左右の礼拝堂。
司祭たちが使う北側の通用門。
聖堂騎士の詰め所。
いずれも、教団兵が配置されていた。
決闘が延期されている今。
教団はアルトたちを宿へ留めている。
扉を出た時点で。
どこへ行くのか問われるだろう。
「地下の入口を知っていそうな人は?」
リナが聞く。
「オルディス」
「絶対に教えてくれない」
「レオニス」
「会わせてもらえないよ」
「あとは」
アルトは考える。
聖都へ来てから出会った人間。
教団の内部にいながら。
教典と現実の違いに疑問を持っていた者。
「ノア」
「古い記録を見せてくれた司祭?」
「ああ」
「でも、あの人は連れていかれたんでしょう?」
「処遇が決まるまで、自室で待機させられている」
「会いに行けるの?」
「普通には無理だな」
「普通じゃなければ?」
「もっと無理だ」
リナは眉を寄せた。
「それなら、どうするの?」
「考えてる」
「急いで」
「分かってる」
アルトは契約印へ触れた。
冷たい。
先ほどまで感じられていた脈動も止まっている。
フィオナが弱っているのか。
封じる力が強まったのか。
あるいは。
脈動を送るだけでも、負担がかかるのか。
「アルト」
リナが右腕を指さした。
布の下から。
淡い光が漏れていた。
回復しているのではない。
右手の輪郭が崩れ。
光の粒が布を透過している。
「フィオナから力が来てないから?」
「たぶんな」
「座って」
「今は休んでいる場合じゃない」
「倒れたら何もできないよ」
「倒れる前に見つける」
「そう言って、いつも倒れかけるでしょう」
フィオナと同じことを言われた。
アルトは返事をせず。
無銘の剣の柄へ左手を置いた。
そのとき。
廊下から音がした。
足音。
一人ではない。
教団兵の鎧が擦れる音。
「見張り?」
リナが声を落とす。
「たぶん」
アルトは窓から離れた。
無銘の剣へ手をかけたまま。
扉を見る。
足音は。
部屋の前で止まった。
三度。
控えめに扉が叩かれる。
「アルト・レイヴァン」
扉の外から声がした。
「起きておられますか」
「何の用だ」
「夜間の確認です」
教団兵の声。
アルトはリナへ視線を送る。
リナが小さくうなずき。
弓を手の届く場所へ置いた。
アルトが扉を開ける。
廊下には。
二人の教団兵が立っていた。
その後ろに。
頭から外套を被った人物がいる。
「人数と体調を確認します」
教団兵が言った。
「三人のはずですが」
「フィオナは休んでいる」
「部屋の中に?」
「ああ」
「姿を確認させてください」
「眠ってる」
「それでもです」
教団兵が部屋へ足を踏み入れようとする。
アルトは動かなかった。
入口を塞ぐ。
「入る必要があるのか」
「命令です」
「誰の?」
「最高司祭オルディス様です」
やはり。
教団は、フィオナが地下へ侵入したことを把握している。
そして。
アルトたちが異変に気づいたか、確かめに来た。
「断る」
「通行保証を受けている立場で、確認を拒否されるのですか」
「通行保証に、部屋の中を調べさせるという条件はなかった」
「精霊フィオナの姿を確認するだけです」
「着替えてる」
「精霊が?」
「精霊でも着替える」
兵士が口を閉じた。
後ろにいた人物の肩が。
わずかに揺れた。
「笑ったか?」
教団兵が振り返る。
「い、いえ」
外套の人物が答えた。
聞き覚えのある声だった。
若い男。
アルトは目を細める。
「夜食を届けるよう命じられた者です」
外套の人物が続けた。
両手には。
布を被せた小さな籠を持っている。
「確認を終えたら、中へ運びます」
教団兵がアルトを見る。
「精霊フィオナを呼んでください」
「今は呼べない」
「なぜです」
「機嫌が悪い」
「姿だけで構いません」
「機嫌が悪いときに起こすと危ない」
「何がですか」
「お前たちが」
廊下へ沈黙が落ちた。
教団兵の一人が。
腰の剣へ手をかける。
「我々を脅しているのですか」
「事実を教えてる」
「アルト」
部屋の中から、リナの声がした。
「フィオナなら、今は人の姿じゃないよ」
教団兵がリナを見る。
「どういう意味です」
「小さくなって、休んでる」
「どこに?」
「鞄の中」
「確認します」
「寝ている精霊を鞄から出すの?」
「必要な確認です」
「指を噛まれても知らないよ」
「精霊は噛みません」
「フィオナなら噛むかもしれない」
「噛まないと思うけどな」
アルトが言う。
「どちらなのですか!」
教団兵の声が大きくなる。
その瞬間。
廊下の奥から鐘が鳴った。
短く。
二度。
宿の一階で何かが割れる音。
続いて。
誰かの叫び声が響く。
「火だ!」
「厨房から煙が出ている!」
教団兵たちが振り返る。
階下から。
慌ただしい足音が近づいてくる。
「確認は後にします」
一人が言った。
「この部屋から出ないでください」
二人は階段へ向かって走り出した。
外套の人物だけが。
夜食の籠を持ったまま残る。
アルトは扉を閉めなかった。
「火をつけたのか?」
「小さな煙を出しただけです」
外套が下ろされる。
現れたのは。
若い司祭だった。
「ノア」
リナが目を見開く。
ノア・エルデン。
古文書管理を担当していた司祭。
改変前の記録をアルトたちへ見せ。
その後。
オルディスによって職務から外された。
「どうしてここに?」
「自室で待機するよう命じられていました」
「抜け出したのか」
「はい」
「処罰されるぞ」
「すでに十分、処罰されることをしています」
ノアは部屋へ入り。
静かに扉を閉めた。
「フィオナ様は、ここにはいないのですね」
「ああ」
「地下ですか」
アルトの表情が変わる。
「なぜ分かる」
「待機を命じられた後」
ノアは声を落とした。
「監視役の司祭たちが、廊下で話しているのを聞きました」
「処分予定の運用記録について話していたのです」
「運用記録?」
「精霊力を聖都全体から集め」
「地下の貯蔵施設へ送る計画です」
「以前に読んだ地下施設の記録と結びつきました」
ノアは夜食の籠を机へ置く。
布の下から出てきたのは。
食事ではなかった。
古い鍵。
折りたたまれた紙。
司祭用の外套が二着。
そして。
教団の紋章が刻まれた通行札。
「この地図は?」
アルトが紙を広げる。
現在の大聖堂。
その下にある地下墓所。
貯蔵庫。
水路。
さらに。
古い神殿跡の一部が描かれている。
「古文書管理を外される前に、記録の改変へ備えて写していたものです」
「原本は持ち出せませんでした」
「ですが、地下施設に関する部分だけは、私室へ隠していました」
「鍵と通行札は?」
「古文書庫へ出入りしていた頃に使っていたものです」
「返却を命じられていましたが」
ノアは一度、目を伏せた。
「まだ監視役へ渡していませんでした」
「返すつもりだったの?」
「昼までは」
「今は?」
「使うつもりです」
ノアが地図を指さす。
「百年前の封印施設へ続く入口があります」
「どこだ」
「大聖堂の東礼拝堂です」
地図の一点。
小さな礼拝堂の下へ。
地下へ続く階段が描かれている。
「今も使われているの?」
リナが尋ねる。
「教団の研究員と、一部の上位司祭だけが使用しています」
「正面に近すぎないか」
アルトが言う。
「はい」
「地下施設へ最短で到達できますが、監視も多い」
「ほかの入口は?」
「この地図には記されていません」
「地下水路から入れる道も途中まではありますが」
「封印施設までつながっているかは分かりません」
「今すぐ使えるのは、東礼拝堂だけです」
アルトは地図を見つめる。
フィオナの気配は。
大聖堂の地下から届いた。
この入口を使えば。
最短で近づける。
「どうして協力する」
アルトが尋ねた。
ノアはすぐには答えなかった。
「教団が記録を改変していることは、以前から分かっていました」
「それでも私は」
「失われた部分を探し、正しい記録を残せばよいと思っていた」
「教団そのものへ逆らうつもりはなかったのです」
「今は違うの?」
リナが聞く。
「先ほど聞いた運用記録の話では」
ノアは拳を握る。
「エアリアルへ注ぐ精霊力の量が」
「使い手の許容量を超えていると、何度も報告されていたそうです」
「それでも計画は中止されていない」
「レオニスは知ってるのか」
「完全な内容は知らされていないと思います」
「オルディスは、レオニスを壊してでもエアリアルを使うつもりか」
「その可能性があります」
ノアは目を伏せる。
「私は」
「勇者とは、人々を救う存在だと教えられてきました」
「ですが今の教団は」
「勇者と呼ばれる一人の青年を、救おうとしていない」
アルトは。
ノアの顔を見る。
恐怖はある。
手も、わずかに震えている。
それでも。
ここまで来た。
「地下へ案内できるか」
「そのために来ました」
「途中で見つかれば?」
「私も捕らえられます」
「それだけでは済まないかもしれない」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっているつもりです」
ノアは言葉を選ぶ。
「怖くないとは言えません」
「ですが」
「何もせずに従い続けることも」
「今は、同じくらい怖い」
アルトは無銘の剣を取った。
「行こう」
「待って」
リナがアルトの前へ立つ。
「右腕を見せて」
「時間がない」
「見せて」
アルトは息を吐き。
右腕に巻かれた布を外した。
指先。
手の甲。
肘へ続く輪郭。
ところどころが透けている。
その向こうに。
部屋の床が見えた。
リナの表情が硬くなる。
「これで戦えるの?」
「左手がある」
「そういう話じゃない」
「フィオナを助ければ戻るかもしれない」
「戻らなかったら?」
「助けてから考える」
「また、それ?」
「今はほかに答えがない」
リナは。
アルトの目を見る。
止めても行く。
それが分かったのだろう。
「私も行く」
「ああ」
「置いていかないの?」
「今回は、一人で決めない」
リナが少しだけ目を見開く。
「地下では俺の後ろにいろ」
「それは命令?」
「頼んでる」
「なら、聞く」
ノアが二着の外套を差し出す。
「これを着てください」
「顔は隠せますが、大聖堂内では話さない方がいい」
「アルト様は、声でも気づかれる可能性があります」
「様はいらない」
「しかし」
「今から教団へ忍び込む人間に、敬称をつける必要はない」
「……分かりました」
アルトとリナは外套を身につけた。
ノアが扉へ近づく。
「厨房の騒ぎは、長くても数分です」
「今のうちに裏口へ向かいます」
「その前に」
アルトは机の地図を折りたたむ。
「ノア」
「はい」
「途中で無理だと思ったら、戻れ」
「それは、あなたもです」
「俺は無理だ」
「では、私も同じです」
アルトは何も言えなかった。
リナが小さく笑う。
「アルトに言い返した」
「そのくらいでいい」
三人は。
部屋を出た。
◇
宿の一階には。
薄い煙が漂っていた。
厨房前に。
宿の者と教団兵が集まっている。
燃えているものはない。
濡らした薪と香草を、火鉢へ押し込んだだけらしい。
「火はどこだ!」
「煙だけです!」
「窓を開けろ!」
混乱の中。
ノアが先頭を歩く。
外套を被ったアルトとリナは。
夜食運搬を手伝う下級司祭のように見える。
裏口にいた兵士が。
ノアを呼び止めた。
「どこへ行く」
「使用済みの器を戻します」
「今は厨房が騒ぎになっている」
「だからこそです」
「通路を塞ぐ前に運び出すよう言われました」
ノアが通行札を見せる。
兵士は一度確認し。
三人を通した。
外へ出る。
夜の空気。
大聖堂の灯火。
巡礼者の数は昼より少ない。
それでも。
祈りを捧げる人々が。
石畳の道を歩いている。
三人は。
人々の流れへ紛れた。
「東礼拝堂まで、どれくらい?」
リナが声を抑えて尋ねる。
「歩いて五分ほどです」
「近いな」
「その分、見つかりやすいです」
アルトは歩きながら。
左手首へ意識を向ける。
契約印は。
ほとんど光っていない。
それでも。
大聖堂へ近づくほど。
わずかな圧迫感が強くなる。
フィオナから届く感覚ではない。
契約そのものを押さえ込む力。
地下にある何かが。
二人のつながりを遮断している。
「フィオナは、この下だ」
アルトが言った。
「分かるの?」
リナが尋ねる。
「声は聞こえない」
「でも」
胸の奥に。
失われたものがある。
そこへ近づいている感覚だけがあった。
「間違いない」
東礼拝堂は。
大聖堂本体の隣に建つ、小さな石造りの建物だった。
入口には。
二人の教団兵が立っている。
ノアが足を止めずに進む。
「古文書庫からの届け物です」
「この時間に?」
「地下研究室から要請がありました」
「聞いていない」
「確認しますか」
ノアは落ち着いた声で言った。
「ただし」
「最高司祭様から、研究内容を地上の兵士へ漏らすなと命じられています」
二人の教団兵が顔を見合わせる。
「通行札を」
ノアが差し出す。
兵士が確認し。
入口を開けた。
「同行者は?」
「運搬補助です」
「顔を見せろ」
リナの肩がわずかに動く。
アルトは。
外套の中で無銘の剣へ手をかけた。
ノアが答える。
「精霊力汚染の危険があるため、顔を覆わせています」
「規則だ」
兵士がアルトへ近づく。
「外套を取れ」
その瞬間。
アルトの左手首が。
わずかに震えた。
弱い脈動。
地下から。
フィオナが送ったものかもしれない。
時間がない。
アルトは外套の端へ手をかける。
「分かった」
兵士が顔をのぞき込もうとする。
アルトは外套を大きく広げた。
布が兵士の視界を覆う。
同時に。
左手の拳を腹部へ打ち込んだ。
「ぐっ!」
兵士が崩れる。
もう一人が剣を抜く。
リナが外套の下から弓を出した。
矢は放たない。
弓の先端で手首を打ち。
剣を落とさせる。
ノアが礼拝堂の扉を開く。
「こちらです!」
三人は中へ走り込んだ。
「侵入者だ!」
背後で声が上がる。
警鐘。
短く、連続した音。
「もう気づかれたね!」
リナが叫ぶ。
「予定より早いだけだ」
「見つからない予定だったでしょう!」
「今から見つからなかったことにするのは無理だな」
礼拝堂の奥。
小さな祭壇。
ノアは、その横にある石像へ駆け寄る。
像の足元へ鍵を差し込んだ。
鈍い音。
祭壇の背後にある壁が動く。
地下へ続く階段が現れた。
「入ってください!」
三人が階段へ入る。
ノアが内側の操作盤へ触れる。
壁が閉じた。
追ってきた兵士たちの声が。
石の向こうへ遮られる。
「これで時間を稼げます」
「どのくらい?」
「一分ほどです」
「短いな」
「正規の鍵を使えば、すぐに開けられます」
三人は階段を下りた。
◇
地下へ続く階段は。
新しく整備されていた。
壁には灯火。
床には金属の補強板。
人が頻繁に行き来した跡もある。
ノアが先頭を進む。
リナが中央。
アルトが後ろ。
背後から。
壁が開く音がした。
「来た!」
リナが振り返る。
「走れ」
三人は階段を駆け下りる。
教団兵の足音。
鎧の音。
地下へ響く命令。
「止まれ!」
「冒瀆者を捕らえろ!」
階段を下りた先には。
広い石造りの通路があった。
新しい床の下に。
古い神殿の石組みが残っている。
壁には。
百年前の風の紋様。
その上から。
教団の術式が何重にも刻まれていた。
「右です!」
ノアが曲がる。
アルトは。
背後から迫る兵士へ向き直った。
「先へ行け」
「アルト!」
「追いつく」
無銘の剣を抜く。
右手ではない。
左手だけで柄を握る。
最初の兵士が。
槍を突き出す。
アルトは刃を横へ当て。
軌道をそらす。
柄頭で相手の顎を打つ。
二人目の剣。
身体を沈めて避ける。
足を払う。
三人目。
アルトは無銘の剣を振る。
本来なら。
風の加護をまとわせ。
武器だけを切り落とす。
だが。
何も起きない。
フィオナから。
力が送られてこない。
周囲の精霊へ呼びかけようとしても。
契約印を覆う冷たい圧力が、それを阻んでいる。
剣は。
ただの刃として、兵士の武器へ当たった。
金属音。
腕へ重い衝撃。
右腕で支えられない。
アルトの身体が押し戻される。
「加護が……」
兵士が気づく。
「精霊の力を使えないぞ!」
「今なら押し切れる!」
教団兵が一斉に踏み込む。
アルトは剣を低く構えた。
精霊術が使えなくても。
剣の使い方まで失ったわけではない。
槍の穂先を避け。
剣の腹を打ち。
足元を崩す。
人を斬らず。
動きだけを止める。
だが。
一人を倒すたびに。
身体の奥から力が失われる。
右腕の輪郭が。
大きく揺れた。
胸元まで。
冷たさが広がっていく。
「アルト!」
リナの矢が。
兵士の足元へ突き刺さった。
ひび割れた石が跳ね。
追撃を止める。
「先に行けと言っただろ」
「一人で決めないって言ったばかりでしょう!」
「そうだったな」
ノアが通路の先で扉を開く。
「早く!」
三人は扉の向こうへ駆け込んだ。
ノアが鍵を回す。
厚い石の扉が閉じる。
「この先です」
「フィオナ様が捕らえられている施設は、この奥にあるはずです」
「距離は?」
「地図では、もう一層下です」
アルトは左手首を見る。
光はない。
脈動も。
感じられない。
それでも。
確かに近づいている。
「急ごう」
ノアが先へ向かう。
通路の先には。
古い円形の広間があった。
中心には。
地下へ降りるための昇降台。
その周囲に。
教団の術式が光っている。
「これを使えば、下へ」
ノアが操作盤へ近づく。
そのとき。
広間の上部から。
風が吹いた。
地下であるはずなのに。
冷たい風が。
円を描くように三人の周囲を巡る。
アルトは無銘の剣を構えた。
「離れろ」
ノアが足を止める。
「何が――」
淡い緑色の光が。
昇降台の上へ集まった。
風が人の輪郭を作る。
白と金の衣装。
腰に下げられた第三聖剣。
レオニス・アステル。
その後ろに。
十人以上の聖堂騎士が現れた。
「ここまでです」
レオニスの声が。
広間に響いた。
◇
「レオニス」
アルトが名を呼ぶ。
青年の目が。
わずかに揺れる。
だが。
腰のエアリアルから手を離さない。
「宿で待機するよう、命じられていたはずです」
「地下に用がある」
「ここは立入禁止区域です」
「フィオナを返してもらう」
「……フィオナ?」
レオニスの眉が動く。
「知らないのか」
「何のことです」
「教団が地下で捕らえてる」
「そんな報告は受けていません」
「なら、そこを通してくれ」
「確認します」
「今すぐ?」
「最高司祭へ報告を」
「オルディスが捕らえたんだ」
レオニスが口を閉じる。
「嘘だと思うなら」
アルトは左手首を見せた。
契約印。
本来は翠色に光っている紋様。
今は。
ほとんど見えない。
「フィオナとのつながりが遮断されてる」
「地下から、わずかな反応だけが届いた」
「時間がない」
レオニスは契約印を見る。
疑いが。
確かに表情へ現れた。
しかし。
後ろの聖堂騎士が口を開く。
「レオニス様」
「最高司祭様の命令です」
「冒瀆者を捕らえてください」
「彼らの話を聞く必要はありません」
レオニスは動かない。
「ノア司祭」
別の騎士が叫ぶ。
「あなたも命令に背いたのですね」
ノアの肩が震える。
それでも。
後ろへ下がらなかった。
「教団が、レオニス様の身体を犠牲にしようとしています」
「黙れ!」
「エアリアルへ、許容量を超える精霊力を注ぐ計画です!」
「根拠のない妄言だ!」
「監視役の司祭たちが、運用記録について話しているのを聞きました!」
「反逆者の言葉を信じるな!」
騎士たちの声が重なる。
レオニスは。
ノアを見る。
「記録そのものは、あるのですか」
「ここにはありません」
「ですが、地下施設の古い地図と」
「司祭たちの話が一致しています」
「確かな証拠ではない!」
騎士が叫ぶ。
「最高司祭様へ確認すれば分かります!」
「その最高司祭が、計画を進めているんだ」
アルトが言った。
「お前は、本当に何も知らないのか」
「……知りません」
「なら、確かめろ」
「俺たちを通せ」
「できません」
「どうして」
「あなたがエアリアルを破壊しようとしているからです」
レオニスは剣の柄を握る。
「あなたを地下へ通せば」
「最後の聖剣を失う」
「その前にフィオナが死ぬかもしれない」
「それが事実だという証拠は」
「この印じゃ足りないか」
「契約の状態を、僕には確認できません」
「なら、自分で地下を見ろ」
「まず武器を置いてください」
「その後で確認します」
「武器を置いたら、俺たちは拘束される」
「抵抗しなければ、命は保証します」
「フィオナの命は?」
レオニスは答えられなかった。
沈黙。
それが。
今の答えだった。
「退いてくれ」
アルトが言う。
「できません」
「俺も止まれない」
「なら」
レオニスがエアリアルを抜いた。
淡い緑色の光。
地下の空気が震える。
「ここで、止めます」
アルトも。
無銘の剣を構えた。
「リナ」
「何?」
「ノアを守れ」
「アルトは?」
「道を開ける」
「一人で?」
「三人でだ」
リナは弓を握る。
「分かった」
ノアも。
持っていた短い杖を構えた。
「戦闘術は得意ではありません」
「後ろにいろ」
「はい」
レオニスの剣が動いた。
◇
一瞬。
白と金の姿が消える。
エアリアルの風。
次に見えたときには。
レオニスがアルトの目の前にいた。
横薙ぎ。
アルトは無銘の剣で受ける。
剣同士が触れる前に。
風の防護層が、アルトの腕を押し返した。
身体が宙へ浮く。
壁へ叩きつけられる。
「アルト!」
リナが矢を放つ。
レオニスは。
振り返らずにエアリアルを動かした。
風が矢を巻き上げ。
天井へ突き刺す。
聖堂騎士たちが前へ出る。
リナとノアを捕らえようとする。
「来ないで!」
リナが二本目の矢を放つ。
足元。
肩当て。
武器を持つ手。
致命傷を避けながら。
騎士たちの動きを止める。
ノアは杖から光を放ち。
広間の灯火を消した。
暗闇。
リナの矢が飛ぶ音。
鎧がぶつかる音。
アルトは壁から身体を離す。
胸が。
動いているのか分からない。
心音が遠い。
右腕は。
肘から先が大きく透けている。
指先の輪郭が崩れ。
光の粒がこぼれていた。
それでも。
腕の形だけは、かろうじて残っている。
レオニスの風が。
暗闇の中で揺れた。
「見えなくても」
レオニスの声。
「風で位置は分かります」
エアリアルが振るわれる。
円形の風。
消された灯火が、一斉に再点火する。
広間が照らされる。
アルトは。
すでにレオニスの懐へ入っていた。
左手だけで剣を振る。
風の防護層へ刃が当たる。
食い込まない。
なら。
同じ場所へ。
二度。
三度。
連続で打ち込む。
風の流れが乱れる。
わずかな隙間。
アルトは柄頭を。
レオニスの胸へ叩き込もうとした。
直前。
青年の姿が風へ溶ける。
背後。
アルトは振り返る。
間に合わない。
エアリアルの峰が。
背中へ当たった。
強い衝撃。
床へ倒れる。
「剣を置いてください」
レオニスが言った。
「これ以上続ければ、あなたの身体がもちません」
「分かるのか」
「見れば分かります」
「なら」
アルトは剣を支えに立ち上がる。
「お前が退け」
「できません」
「頑固だな」
「あなたに言われたくありません」
レオニスの声には。
一瞬だけ。
戦う前の青年らしさが戻った。
だが。
すぐに表情を閉ざす。
「あなたが偽物であっても」
「本物であっても」
「ここを通すことはできません」
「本物かどうかは、もう関係ないか」
「……関係ありません」
「そう教えられた?」
「僕が決めました」
レオニスが踏み込む。
アルトは剣を合わせた。
風と鉄。
力の差は大きい。
アルトには。
フィオナの加護がない。
右腕もほとんど使えない。
身体も崩れ始めている。
一方。
レオニスは。
エアリアルの力をまとっている。
まともに打ち合えば。
勝てない。
それでも。
アルトは一歩ずつ前へ進む。
レオニスの剣を受け。
流し。
隙間へ身体を滑り込ませる。
一歩。
また一歩。
昇降台へ近づく。
「なぜ」
レオニスが剣を振る。
「そこまでして進むのですか」
アルトは避ける。
「フィオナがいる」
「それだけですか」
「十分だろ」
「彼女を助ければ」
「あなたの身体は元に戻るのですか」
「分からない」
「聖剣を壊しても」
「世界が平和になる保証は?」
「ない」
「なら、なぜ!」
風が爆発する。
アルトの身体が吹き飛ぶ。
床を転がる。
無銘の剣が。
手から離れかけた。
左手で握り直す。
「保証がなければ」
アルトは立ち上がる。
「何も選べないのか」
レオニスの表情が固まる。
「俺たちも、百年前に間違えた」
「正しいと思って封印した」
「その結果が、今だ」
「だから」
「今回も正しい保証なんてない」
「それでも」
「今、助けたい相手がいる」
「今、止めなきゃ壊される人間がいる」
「なら、動く」
「それだけだ」
レオニスは何も言わなかった。
エアリアルを握る手に。
力が入る。
「僕が、あなたを通せば」
「教団を裏切ることになる」
「そうかもな」
「勇者としての責任を捨てることになる」
「それを決めるのは、お前だ」
「簡単に言わないでください!」
レオニスが叫ぶ。
風の刃が。
広間を横切る。
アルトは身を沈めた。
背後の石柱が切断される。
天井が揺れる。
破片が落ちる。
「僕が選ばなければ」
レオニスの声が震える。
「誰が三国を止めるんですか」
「誰が戦争を終わらせるんですか」
「僕が剣を置けば」
「また大勢が死ぬ!」
「剣を握り続けても死んでる」
「それでも」
「今よりは少なくできる!」
「本当に?」
アルトが尋ねる。
「お前が戦った補給拠点で」
「倒れた作業員を見ただろ」
レオニスの瞳が揺れる。
「王都へ撃った風で」
「眠れない夜を過ごした子どもがいた」
「エアリアルがあれば、犠牲を少なくできる」
「そう言われて」
「どれだけの犠牲を見ないことにした」
「僕は……」
「責めてるんじゃない」
アルトは剣を下げない。
「俺も同じだった」
「魔王を倒すためなら仕方がないと思った」
「精霊が消えていると気づきながら」
「聖剣を使った」
「だからこそ」
「お前にも、考えてほしい」
「自分が正しいかどうかじゃない」
「何を選びたいのかを」
レオニスは。
答えなかった。
その後ろで。
聖堂騎士の一人が叫ぶ。
「レオニス様!」
「聞く必要はありません!」
「冒瀆者の言葉です!」
「最高司祭様の命令を!」
レオニスの表情が。
再び閉ざされる。
エアリアルが持ち上がる。
「……退いてください」
「無理だ」
「次は」
風が剣へ集まる。
「手加減できません」
「今まではしてたのか」
「あなたもでしょう」
「そうだな」
二人は同時に踏み込んだ。
◇
淡い緑色の斬撃。
アルトは。
無銘の剣を正面へ構えた。
本来なら。
風の力で受け流す。
今は使えない。
避ければ。
後ろのリナとノアへ当たる。
なら。
受けるしかない。
剣と風が衝突した。
無銘の剣に。
新しい亀裂が走る。
刀身から。
白い光が漏れた。
腕。
肩。
胸。
全身へ衝撃が伝わる。
右腕が。
肘から先まで大きく透けた。
指先の輪郭が崩れ。
光の粒がこぼれていく。
それでも。
腕の形だけは、かろうじて残っていた。
胸元にも。
身体の向こうに広間の灯火が見えるほど。
透けた部分が広がっている。
「アルト!」
リナの声。
「止めて!」
「このままじゃ消える!」
レオニスも。
剣を止めていた。
アルトの状態を見て。
動けなくなっている。
その隙に。
ノアが昇降台の操作盤へ走った。
「あと少しです!」
「この扉を開けば、下層へ!」
ノアが術式へ手を置く。
光が走る。
昇降台が動き始める。
そのとき。
上から。
新たな教団兵が降りてきた。
十人。
二十人。
広間の出口を塞ぐ。
「ノア司祭を捕らえろ!」
「冒瀆者を地下へ通すな!」
弓兵が構える。
矢じりが。
リナとノアへ向けられる。
アルトは。
周囲を見る。
前にはレオニス。
後ろには教団兵。
昇降台は。
まだ完全に開いていない。
このまま戦えば。
入口が開く前に、リナかノアが傷つく。
たとえ下へ行けても。
その先で戦う力が残らない。
フィオナへ届く前に。
自分の身体が崩れる。
左手首。
契約印は。
ほとんど見えない。
それでも。
地下から。
ごく弱い脈動が届いた。
一度。
温かさではない。
声でもない。
ただ。
そこにいるという証だけ。
あと少し。
地下へ下りれば。
フィオナがいる。
手を伸ばせば。
届くかもしれない。
「アルト」
リナが呼ぶ。
目が合う。
恐怖。
それでも。
アルトの判断を待っている。
百年前。
魔王城で。
仲間たちと話した。
誰か一人で決めない。
間違っていると思えば、止める。
そして。
今。
助けたい相手のために。
目の前にいる二人まで失うわけにはいかない。
「撤退する」
アルトが言った。
リナが息をのむ。
ノアも。
操作盤へ置いた手を止める。
「ですが、もう少しで」
「下へ行っても、今のままじゃ助けられない」
「でも」
「戻る」
その言葉を。
自分へ言い聞かせる。
「必ず、戻る」
アルトは無銘の剣を構え直す。
「ノア」
「別の出口は?」
「地下水路があります」
「この広間の西側です」
「追いつかれる」
「一つだけ、方法があります」
ノアは。
壁に刻まれた古い術式を指さした。
「地下遺跡には」
「侵入者を止めるための崩落用封印が残っています」
「使えば?」
「この通路の一部が崩れます」
「追跡路を塞げます」
「俺たちは?」
「西側の水路へ入れば、巻き込まれません」
「使えるのか」
「術式は生きています」
「ですが」
ノアが声を詰まらせる。
「この地下遺跡の一部が、失われます」
古い神殿。
百年前の記録。
カインたちが残したもの。
ノアにとって。
それは守るべき歴史だった。
「人が死ぬか?」
「騎士たちが退けば」
「退かせる」
アルトはレオニスを見る。
「今から、ここを崩す」
レオニスの表情が変わる。
「何を」
「全員を下がらせろ」
「脅しですか」
「違う」
「逃げるためだ」
「あなたを逃がすわけには」
「なら、一緒に埋まるか?」
アルトは天井を見る。
先ほど切断された石柱。
すでに。
細かな破片が落ち続けている。
レオニスが後ろの騎士たちへ向き直る。
「全員、上層へ退避!」
「しかし!」
「命令です!」
初めて。
迷いのない声が出た。
騎士たちが後退する。
「ノア!」
「はい!」
ノアが崩落用封印へ走る。
杖を差し込み。
術式を起動する。
壁の古い紋様が。
赤く光った。
「西側へ!」
三人は走る。
レオニスが追おうとする。
アルトは振り返り。
無銘の剣を床へ叩きつけた。
石が砕ける。
わずかな障害。
それだけで。
レオニスの足が一瞬止まる。
「レオニス!」
アルトが叫んだ。
「地下を調べろ!」
「オルディスの言葉じゃなく」
「自分の目で確かめろ!」
「待ってください!」
赤い術式が。
広間全体へ広がった。
轟音。
天井が崩れる。
石柱が倒れ。
大量の瓦礫が。
アルトとレオニスの間へ落下した。
淡い緑色の風。
レオニスは騎士たちを守るため。
エアリアルの力を広げる。
その姿が。
崩れ落ちる石の向こうへ消えた。
◇
地下水路は。
狭く。
冷たかった。
三人は。
膝近くまである水の中を進む。
背後から。
崩落の振動が続いている。
水路の天井から。
砂と小石が落ちる。
「出口は?」
リナが尋ねる。
「聖都の外壁近くへ続いています」
ノアが答えた。
「昔の排水路です」
「使われていないため、外側の格子も腐食しているはずです」
アルトは。
二人の後ろを歩いていた。
右腕は、まだ戻らない。
肘から先が薄く透け。
指先から光の粒がこぼれ続けている。
胸元の透けも広がっていた。
一歩進むたび。
足元が遠く感じる。
「アルト?」
リナが振り返る。
「大丈夫だ」
「全然、大丈夫に見えない」
「歩けてる」
「それしか言わない」
「今は、それで十分だ」
リナが戻ってきた。
アルトの左腕を肩へ回す。
「一人で歩ける」
「支えられても歩ける」
「それは歩いてるのと同じか?」
「前にあなたが言ったんでしょう」
決闘後。
フィオナとリナに支えられ。
倒れてはいないと言い張った。
アルトは。
小さく息を吐く。
「覚えてたのか」
「忘れないよ」
反対側へ。
ノアが立つ。
「私も支えます」
「案内できるのか」
「一本道です」
「なら、頼む」
二人に支えられながら。
アルトは進んだ。
しばらくして。
リナが背後を振り返る。
「追ってこないね」
「崩落で止まったのでしょうか」
ノアが答えた。
「それだけじゃない」
アルトは透けた右腕を見る。
「オルディスは、急いで俺を殺す必要がないと思ってる」
「どういうこと?」
「フィオナを捕らえておけば」
「俺は勝手に崩れる」
水の音だけが響く。
誰も。
その言葉を否定できなかった。
「和平会談の前に」
アルトが続ける。
「地下で俺と戦ったことを、民衆に知られたくないのかもしれない」
「なぜです?」
ノアが尋ねる。
「俺を偽物として倒すなら」
「大勢の前でやった方が都合がいい」
「それまでは、逃げても構わないと?」
「フィオナを捕らえている限り」
「遠くへは行かないと思ってる」
その判断は。
正しかった。
アルトは。
フィオナを置いて聖都から離れるつもりはない。
再び、地下水路へ沈黙が戻る。
暗闇。
水の音。
契約印は。
完全に冷え切っている。
フィオナからの脈動も。
もう届かなかった。
「……悪い」
アルトがつぶやく。
「何が?」
リナが聞く。
「届かなかった」
あれほど近くまで行った。
地下へ続く昇降台。
その下に。
フィオナがいた。
左手を伸ばせば。
届くような気がした。
だが。
届かなかった。
「まだ終わってない」
リナが言う。
「今日は届かなかっただけ」
「次は届くよ」
「どうやって」
「それを今から探す」
「あなたが言ったんでしょう」
「まず、地下へ入る道を探すって」
「一つは失敗した」
「なら、別の道を探す」
ノアも。
アルトを支えながら言う。
「古い記録には」
「現在の地図へ記されていない部分が、いくつもありました」
「すべてが失われたわけではありません」
「ほかにも入口があるのか」
「まだ分かりません」
「ですが」
「今夜使った入口より古い道が、存在していた可能性はあります」
「探せるか」
「手元に残した記録を調べます」
「それでも足りなければ?」
「別の方法を考えます」
「そうか」
アルトは短く答えた。
「今度は」
ノアが言う。
「私も、もっと準備します」
三人は進み続けた。
やがて。
前方に。
夜空の色が見えた。
水路の出口。
腐食した金属格子。
ノアとリナが押す。
格子は。
鈍い音を立てて外れた。
冷たい夜風が。
水路へ流れ込む。
◇
聖都の外壁から。
少し離れた斜面。
三人は水路を抜けた。
背後には。
高原の上へ築かれた白い都市。
大聖堂の尖塔。
無数の灯火。
夜空を照らす祈りの光。
地下で何が起きているか。
地上の人々は知らない。
広場では。
和平会談の開催を告げる布が掲げられ始めていた。
三国の戦争が終わる。
聖都が平和をもたらす。
人々は。
そう信じている。
その象徴となる勇者も。
地下で捕らえられた精霊も。
教団にとっては。
目的のために使う力でしかない。
アルトは。
地面へ膝をついた。
「アルト!」
リナが支える。
「少し休むだけだ」
「身体は?」
「まだある」
「そういう言い方しないで」
ノアがアルトの胸元を見る。
透けた身体。
光の粒。
「フィオナ様を救出できなければ」
「この状態は」
「分からない」
アルトは左手首へ触れた。
契約印は。
ほとんど消えている。
それでも。
完全にはなくなっていない。
「フィオナは生きてる」
「どうして分かるの?」
「分かる」
確かな根拠は。
説明できない。
ただ。
百年間続いてきたつながりが。
まだ終わっていない。
その感覚だけが残っている。
「次の道を探す」
アルトは立ち上がろうとする。
足に力が入らない。
リナが肩を押さえた。
「今すぐじゃない」
「時間がない」
「分かってる」
「でも、今戻っても同じことになる」
アルトは大聖堂を見る。
フィオナへ。
届かなかった。
手を伸ばすことさえできなかった。
それでも。
ここで止まれば。
本当に届かなくなる。
「ノア」
「はい」
「手元に残した記録を調べられるか」
「古文書庫へ戻るのは難しいです」
「あなた方を逃がしたことで」
「私も反逆者として扱われます」
「じゃあ、ほかの道は探せないのか」
「いいえ」
ノアは濡れた外套の内側へ手を入れた。
一冊の薄い冊子を取り出す。
「処分予定だった記録を、一部だけ持ち出しました」
「何の記録?」
リナが尋ねる。
「現在の大聖堂が建てられる以前の、地下施設に関する記録です」
ノアは冊子を開く。
古い文字と。
途中で途切れた図が残されている。
「正面の入口とは別に」
「封印施設へ続いていた道がある可能性があります」
「場所は分かるのか」
「まだ分かりません」
「記録も欠けています」
「ですが」
「調べる価値はあります」
「読めるか」
「時間をいただければ」
「急いでくれ」
「はい」
ノアは冊子を抱きしめた。
アルトは。
もう一度、大聖堂を見上げる。
左手首に。
かすかな紋様だけが残っている。
「待ってろ」
声は届かない。
それでも。
地下にいるフィオナへ向けて言った。
「次は」
「必ず、届く」




