第23話 精霊の檻
聖都の地下で。
何かが、息をしていた。
フィオナは目を開けた。
教団が用意した宿の一室。
窓から差し込む午後の日差しが、白い壁を照らしている。
アルトは寝台で眠っていた。
正確には。
眠らされていた。
フィオナが眠りの術を施し、無理やり身体を休ませている。
術は一度かければ、フィオナが離れても数時間は持続する。
ただし。
アルトの身体に大きな異常が起きれば、自然に解除されるよう調整していた。
右腕の輪郭は、先ほどより濃くなっている。
それでも。
完全には戻っていない。
布の下では、指先がときどき光の粒へ変わり。
すぐに元の形へ戻っている。
「少しは眠れた?」
窓辺にいたリナが、小さな声で尋ねた。
「眠っているわ」
「アルトが?」
「ええ」
「本当に?」
「疑うなら、起こしてみる?」
「やめておく」
リナは寝台を見る。
アルトの呼吸は浅い。
胸が上下する間隔も。
生きていた人間の頃とは違っていた。
蘇生された仮初めの身体。
二本の聖剣を壊したことで。
その支柱の大半を失っている。
「どれくらい眠らせるの?」
「少なくとも、日が沈むまでは」
「起きたら怒らない?」
「怒るでしょうね」
「やっぱり」
「でも、起きているよりはいいわ」
フィオナはアルトの右腕から手を離した。
淡い翠色の光が消える。
同時に。
アルトの左手首にある契約印も、薄い光へ戻った。
フィオナはその紋様を見つめる。
百年前。
二人をつないでいた金属の腕輪。
今はもう存在しない。
蘇生の触媒となり。
腕輪そのものは光になって消えた。
残った印だけが。
アルトの仮初めの身体へ刻まれている。
契約印へ力を送れば。
アルトの身体は、わずかに安定する。
だが。
失われた聖剣とのつながりを、完全に補うことはできない。
「フィオナ?」
リナの声。
「何?」
「さっきから、ずっと床を見てる」
フィオナは視線を下げた。
石造りの床。
その下には。
宿の一階。
さらに地下には、聖都の水路と貯蔵庫がある。
そして。
もっと深い場所から。
細い精霊力の流れが感じられた。
「何かあるの?」
「まだ分からない」
「教団の術?」
「術というより」
フィオナは目を閉じる。
周囲へ意識を広げる。
風。
水。
大地。
石壁。
聖都で暮らす人々。
教団兵が持つ護符。
大聖堂を覆う結界。
それらの中に。
不自然な流れが混じっていた。
聖都の各所から。
少しずつ。
ごく細い精霊力が、地下へ引き込まれている。
街路樹。
井戸。
大聖堂の灯火。
人々が身につけている祈祷具。
さらには。
空を流れる風からも。
力が吸い取られていた。
一本一本は、あまりにも細い。
通常の精霊なら。
気づくこともできないだろう。
魔術師が術式を調べても。
自然な循環の一部に見えるよう偽装されている。
だが。
すべての流れを重ねれば。
一つの場所へ集まっていた。
大聖堂の地下。
「力を集めている」
フィオナが言った。
「誰が?」
「教団」
「何のために?」
「それを確かめる必要があるわ」
リナが椅子から立ち上がった。
「アルトを起こす?」
「起こさない」
フィオナは即答した。
「どうして?」
「今の身体で地下へ連れていけば、戻る前に限界を迎えるかもしれない」
「でも、何か見つけたなら話した方がいいよ」
「話せば、必ず一緒に来るわ」
「止めれば?」
「止まると思う?」
リナは答えなかった。
答える必要もなかった。
アルトなら。
身体が崩れかけていても。
危険だと分かれば、自分で確かめようとする。
「それなら、私も行く」
「駄目よ」
「どうして?」
「人間が動けば、教団へ気づかれる」
「フィオナなら気づかれないの?」
「精霊の姿なら、地下へ流れる力へ紛れられる」
「でも」
「調べるだけよ」
フィオナは眠るアルトを見る。
呼吸は浅いまま。
右腕の指先が。
また一瞬だけ透けた。
「地下へ深く入るつもりはない」
「流れの行き先を確かめたら、すぐに戻る」
「どれくらい?」
「日が沈む前には」
リナは窓の外を見る。
太陽は、まだ高い。
日没までには、十分な時間がある。
「本当に戻ってくる?」
「ええ」
「危ないと思ったら?」
「引き返す」
「アルトみたいなこと言ってない?」
「私は、あの人ほど無茶をしないわ」
フィオナは答えた。
その言葉へ。
リナは疑うような目を向ける。
「何よ」
「似てると思って」
「誰と?」
「アルトと」
「どこが?」
「一人で行こうとするところ」
フィオナは何も言わなかった。
「相手を守るためって言って」
リナが続ける。
「自分だけで決めるところも」
「私は調査へ行くだけよ」
「アルトも、いつもそう言う」
「同じにしないで」
「違わないと思う」
リナはフィオナを真っすぐ見る。
「せめて、アルトが起きるまで待てない?」
「待てないわ」
「どうして?」
「地下へ集められている力が、少しずつ増えている」
フィオナは床へ視線を向ける。
「今はまだ細い」
「でも、これが何かの準備なら」
「完了する前に確かめる必要がある」
「教団が、エアリアルに何かするつもり?」
「可能性はある」
第三聖剣エアリアル。
残された最後の一本。
現在は、レオニスが使っている。
教団は。
エアリアルを完全に支配できていない。
決闘で見た風の力は強大だった。
だが。
百年前にアルトが振るっていた頃と比べれば、まだ核の力をすべて引き出してはいない。
「もし、地下へ集めている力をエアリアルへ注ぐつもりなら」
フィオナが言う。
「今よりも危険な状態になる」
「レオニスも?」
「使い手の身体が耐えられる保証はない」
リナが唇を結ぶ。
「分かった」
「止めないの?」
「止めても行くんでしょう?」
「ええ」
「なら、約束して」
「何を?」
「危ないと思ったら、すぐ戻る」
「約束するわ」
「深く入りすぎない」
「分かっている」
「日が沈む前に戻る」
「ええ」
「アルトに黙っていたことは、自分で説明する」
フィオナは少しだけ迷った。
「……それも約束する」
「絶対だよ」
「ええ」
フィオナは立ち上がった。
人間の姿を形作っていた精霊力を解く。
輪郭が淡い光へ変わり。
長い髪も。
衣服も。
手足も。
翠色の粒となって崩れていく。
最後に。
一つの小さな光だけが残った。
リナの周囲を一度だけ回る。
「行ってくるわ」
光の中から、フィオナの声が響く。
「気をつけて」
リナの言葉を受け。
翠色の光は床へ沈んでいった。
◇
石の中は。
人間が考えるほど、何もない場所ではない。
大地には。
長い時間をかけて蓄積された力が流れている。
水脈。
地熱。
植物の根。
石の中に眠る小さな精霊。
フィオナは、それらの間を抜けて進んだ。
宿の床を通り。
地下貯蔵庫。
古い排水路。
使用されなくなった祈祷室。
さらに下へ。
聖都の地下は。
地上から見えるより、はるかに広かった。
何度も建て替えられた建物の基礎。
埋められた道。
崩れた祭壇。
百年前に使われていた通路。
そのすべてが。
新しい大聖堂の下へ残されている。
フィオナは、地下へ引き込まれる精霊力の流れを追った。
力は。
細い水路のように、いくつもの通路へ分けられている。
一か所へ集めれば。
大きな流れとなり、誰かに気づかれる。
だから。
教団は少しずつ。
聖都全体へ散らした術式を使い。
精霊力を地下へ送っていた。
慎重で。
長い時間をかけた仕組み。
一日や二日で作られたものではない。
何年。
あるいは。
何十年も前から準備されていた可能性がある。
フィオナは、古い石壁の前で止まる。
壁の向こうから。
エアリアルの気配がした。
間違えるはずがない。
百年前。
アルトとともに戦った剣。
風の精霊力。
軽く。
鋭く。
自由に流れるはずの力。
しかし今は。
濁っている。
外部から集められた大量の力が。
核へ続く接続路の手前に滞留している。
まだ、エアリアルそのものへ注がれてはいない。
それでも。
行き場を失った力の圧力が。
核の周囲にある風の流れを歪めていた。
フィオナは壁を抜ける。
その先に。
巨大な空間が広がっていた。
◇
石造りの地下施設。
天井は高く。
何本もの太い柱が並んでいる。
壁には。
古い風の紋様が刻まれていた。
百年前。
フィオナ自身も見たことがある。
エアリアルを封印した神殿。
正確には。
その中心部だった場所。
だが。
当時の姿は、ほとんど残っていない。
床は金属板で覆われ。
壁には新しい術式が張り巡らされている。
古い祭壇の周囲には。
何十本もの管が取りつけられていた。
管は。
施設のさらに奥へ続いている。
フィオナは精霊力の流れへ身体を紛れさせ。
ゆっくりと進んだ。
教団兵がいる。
司祭も。
白い法衣の上に、術式を刻んだ外套を着ている。
中央には。
巨大な透明の貯蔵槽があった。
人間の建物で言えば。
三階分ほどの高さがある。
内部には。
淡い緑色の光が満たされていた。
風の力。
水脈から奪われた力。
灯火や地熱から吸い上げられた力。
属性の違う精霊力が。
術式によって無理やり一つに混ぜられている。
その下には。
黒い金属で作られた制御装置が並ぶ。
「流入量、予定値の七割へ到達」
司祭の一人が告げた。
「第三接続路を開放します」
「まだ早い」
上位司祭らしい男が答える。
「エアリアルの核が安定していない」
「しかし、決闘の再開まで時間がありません」
「最高司祭様の命令は?」
「必要であれば、レオニス様の負担を無視してでも出力を引き上げろと」
フィオナの光が揺れる。
レオニスの負担を無視する。
教団は。
彼が傷つくことを理解している。
それでも。
エアリアルへ力を注ごうとしている。
「完全覚醒に成功すれば」
別の司祭が言う。
「二代目勇者様は、冒瀆者を一撃で倒せます」
「身体が耐えなければ?」
「勇者様の役目は果たされます」
何の迷いもない声だった。
フィオナは。
その言葉を聞きながら、貯蔵槽の周囲を回る。
力の流れを確認する。
聖都全体から吸い上げられた精霊力は。
貯蔵槽へ集められ。
地下の管を通して。
エアリアルの封印祭壇へ送られる。
今はまだ。
接続路の弁によって、流れが止められている。
だが。
制御装置を起動すれば。
大量の力が、一気にエアリアルへ注がれる。
通常なら。
聖剣の核が壊れるほどの量。
それを。
教団は、外側から無理やり押し込もうとしている。
聖剣が自然から力を奪う性質を。
さらに強めるために。
フィオナは貯蔵槽へ近づいた。
内部から。
小さな精霊たちの声が聞こえる。
苦しい。
出たい。
帰りたい。
言葉にならない声。
力だけを奪われ。
意思も形も失いかけている。
「こんなものを……」
フィオナは小さくつぶやいた。
人間の戦争へ介入しない。
精霊の掟。
百年前も。
その掟によって。
聖剣が作られるまで、人間の行いを見過ごしてしまった。
そして今。
同じことが繰り返されようとしている。
違う。
今度は。
見過ごさない。
フィオナは精霊力を広げた。
貯蔵槽の術式を調べる。
どこを壊せば。
内部の精霊力を安全に解放できるか。
流れを逆転させれば。
聖都全体へ戻せるかもしれない。
だが。
今ここで大きな力を使えば、教団へ気づかれる。
まず。
アルトへ知らせる必要がある。
地下施設の場所。
貯蔵槽の構造。
エアリアルへの接続路。
そして。
教団が、レオニスの身体を犠牲にするつもりであること。
フィオナは。
アルトとの契約へ意識を向けた。
精霊力の流れへ紛れている間は。
教団の感知術を欺くことができた。
だが。
外部へ意思を送るには。
自分自身の波長を一瞬だけ表へ出さなければならない。
遠く。
地上の宿。
眠っているアルトの左手首。
そこにある契約印へ。
言葉を送ろうとする。
その瞬間。
地下施設の四隅で。
黒い光が走った。
◇
「起動を確認」
司祭の声。
フィオナは振り返る。
施設の四方に。
一本ずつ。
黒い杭が現れていた。
床へ突き立てられた金属の杭。
表面には。
精霊文字を反転させた紋様が刻まれている。
「精霊封鎖杭……」
フィオナは知っていた。
百年前。
魔王軍が精霊を捕らえるために使っていた術式。
ただし。
目の前の杭は、当時のものよりも強い。
上位精霊を対象として。
改良されている。
「上位精霊の侵入を確認しました」
「封鎖範囲を固定」
「外部との接続を遮断します」
最初の杭が光る。
フィオナの人間の姿を支えていた力が、崩れた。
腕が。
髪が。
身体が。
翠色の粒となって散っていく。
二本目の杭。
精霊術が封じられる。
周囲の風へ触れることも。
大地の力を借りることもできない。
三本目。
外部へ向けた意識が遮断される。
地上の気配が消える。
聖都も。
リナも。
アルトも。
何も感じられなくなる。
四本目。
契約による力の供給が止まった。
「アルト……!」
フィオナは叫ぶ。
声は。
どこにも届かなかった。
契約印へ力を送ろうとしても。
黒い壁へ押し返される。
言葉も。
光も。
精霊力も。
何一つ送ることができない。
フィオナは、人間の姿を維持できなくなった。
小さな翠色の光へ変わり。
貯蔵槽の前へ引き寄せられる。
古い祭壇の中央。
そこに作られた透明な器へ。
光の身体が閉じ込められた。
四本の杭から伸びた黒い鎖が。
器の周囲へ絡みつく。
「捕縛成功」
司祭が告げる。
その言葉に応じるように。
祭壇の上へ白い光が集まった。
光が、人の輪郭を形作る。
白い法衣。
整えられた白髪。
地上の執務室から通信術を通して映し出された、最高司祭オルディスの姿だった。
『やはり来たか』
地上で見せていた穏やかな笑みはない。
『アルト・レイヴァンが動けない以上』
オルディスは、閉じ込められた光を見る。
『地下の異常へ最初に気づくのは、お前だと思っていた』
フィオナは器の内側から、精霊力を叩きつける。
透明な壁が揺れた。
だが。
亀裂は入らない。
「無駄です」
司祭が言う。
「四本の杭は、あなたの力へ合わせて調整されています」
「ルミナス王都で観測された精霊力の波長」
「アクアレギア破壊時に記録された力の流れ」
「そして、決闘場で使用した風の力」
「十分な資料がありました」
フィオナの光が強くなる。
怒りとともに。
周囲の空気が揺れかける。
しかし。
封鎖杭が反応し。
光を押さえ込んだ。
「私を捕らえて」
フィオナの声が、器の内部へ響く。
「何をするつもり?」
『あなたの力を借りるだけです』
オルディスが答えた。
「借りる?」
『聖剣は、精霊力を蓄える器です』
『しかし、現在の聖都だけでは、完全覚醒に必要な量へ届かない』
『上位精霊一体の核があれば』
『不足分を補える』
フィオナは。
貯蔵槽を見る。
内部を満たす光。
そこへ。
祭壇から新たな管がつながっていた。
自分の力を。
あの貯蔵槽へ送るための管。
「レオニスを殺すつもり?」
『勇者様は、世界を救うために戦われます』
「質問に答えなさい」
『必要な犠牲です』
オルディスは迷わなかった。
『冒瀆者を倒し』
『三国を一つの教えのもとへ導く』
『それによって戦争は終わります』
「一人の青年を壊して?」
『民が勇者と信じる限り、役目は果たされます』
フィオナは。
その言葉を聞きながら。
アルトの顔を思い出した。
百年前。
勇者と呼ばれ。
世界を救えと命じられ。
戦い続けた青年。
役目を果たした後も。
自分が何をしたいのか分からないまま。
三十歳で死んだ。
そして今。
レオニスも。
同じように。
勇者という役目のため、壊されようとしている。
「あなたたちは」
フィオナが言う。
「勇者を人間だと思っていないのね」
『勇者は、人間以上の存在です』
「違うわ」
「アルトも」
「レオニスも」
「ただの人間よ」
「迷い」
「間違い」
「誰かに止められながら生きる」
「それでいいのよ」
『だからこそ、人々は迷うのです』
オルディスが言った。
『人には、揺るがない象徴が必要です』
「作り物でも?」
『信じられている限り、真実です』
フィオナは答えなかった。
今は。
この男と話している時間さえ惜しい。
四本の杭。
契約の遮断。
貯蔵槽。
自分の力を吸い出す管。
ここから逃れる方法を探す。
フィオナは。
器の内側へ意識を集中させた。
契約は。
完全には消えていない。
アルトとのつながりが切れたなら。
自分の一部が失われたような感覚があるはずだ。
だが。
今も。
遠くに。
何かが残っている。
声は送れない。
精霊力も送れない。
言葉を形作ることもできない。
それでも。
極めて細い糸のようなつながりだけは。
封鎖杭の外へ続いていた。
「吸収を開始します」
司祭の声。
祭壇が光る。
フィオナの身体から。
翠色の光が少しずつ奪われていく。
透明な管を通り。
巨大な貯蔵槽へ流れ込む。
内部の光が。
さらに強くなった。
激しい痛みはない。
だが。
自分という存在が。
少しずつ薄められていく。
森の気配。
小さな精霊たちの声。
百年前の記憶。
アルトとの契約。
すべてが。
力とともに奪われていくようだった。
フィオナは抵抗する。
精霊核を閉じ。
外へ流れる力を最小限に抑える。
「出力が低下しています」
「対象が内部から抵抗しています」
『構わない』
オルディスが言う。
『時間をかければよい』
『決闘までに必要量へ到達させなさい』
「承知しました」
祭壇に映し出されていたオルディスの姿が消える。
司祭たちも、装置の調整を終えると監視位置へ戻っていった。
施設には。
低い駆動音だけが残った。
フィオナは。
小さな光の姿で。
透明な器の中に浮かんでいた。
地下へ来る前。
リナから言われた言葉を思い出す。
『一人で行こうとするところ』
『相手を守るためって言って』
『自分だけで決めるところも』
フィオナの光が、わずかに揺れた。
「私も」
声にならない声が漏れる。
「人のことを言えないわね……」
アルトが無茶をするたび。
なぜ相談しないのかと怒った。
一人で責任を負おうとするなと。
何度も言った。
それなのに。
自分も。
アルトを守るため。
何も相談せずに地下へ来た。
短時間で戻るつもりだった。
危険なら引き返せると思っていた。
自分なら大丈夫だと。
勝手に決めた。
結果。
捕らえられ。
力を奪われている。
アルトへ知らせることもできない。
フィオナは。
残された細いつながりへ意識を集中させた。
言葉は無理。
力も送れない。
なら。
契約そのものを。
ほんのわずかに震わせる。
一度。
弱く。
脈を打つように。
封鎖杭が反応する。
黒い光が。
フィオナの契約を押さえ込む。
それでも。
完全には止められない。
もう一度。
細い脈動を送る。
届いたかは分からない。
アルトが気づくかも分からない。
それでも。
何もしないよりはいい。
フィオナは。
奪われていく力を必死に押さえながら。
何度も。
弱い脈動を送り続けた。
◇
日が沈んだ。
聖都を囲む高原が。
夕焼けから暗い青へ変わっていく。
宿の窓から。
鐘の音が聞こえた。
夜の祈りを告げる鐘。
リナは窓辺に立ち。
広場の向こうを見つめていた。
フィオナは戻っていない。
日が沈む前には帰ると。
そう約束した。
アルトは、まだ眠っている。
昼にかけられた術は弱まり始めているものの、まだ完全には解けていなかった。
先ほどから。
ときどき眉を動かしている。
「フィオナ……」
リナは小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
部屋の中にも。
風の中にも。
精霊の気配は感じられなかった。
もう少し待つべきか。
それとも。
アルトを起こすべきか。
フィオナは。
アルトへ黙っていることを望んだ。
だが。
約束の時間は過ぎている。
リナは寝台へ近づいた。
「アルト」
肩へ触れる。
反応はない。
「アルト、起きて」
もう一度。
少し強く揺する。
アルトが目を開けた。
「……何だ」
「フィオナが戻らない」
その一言で。
眠気が消えた。
アルトは身体を起こす。
「どこへ行った」
「聖都の地下」
「どうして?」
「地下へ精霊力が集められているって」
「いつからだ」
「昼過ぎ」
「今まで黙ってたのか」
リナは唇を噛む。
「日が沈む前に戻るって言ったから」
「一人で行ったのか」
「人間を連れていけば、教団へ気づかれるって」
アルトは寝台から下りようとする。
右腕に力が入らず。
身体が傾いた。
リナが支える。
「待って」
「待てない」
「身体が」
「フィオナは何と言ってた」
「調べるだけだって」
「危険なら戻るって?」
「……うん」
アルトは。
苦い表情を浮かべた。
「同じことをするなと言ってたくせに」
左手首へ視線を落とす。
契約印。
通常なら。
淡い翠色の光を宿している。
フィオナが近くにいれば。
わずかな温かさも感じる。
だが今は。
光が、ほとんど消えていた。
肌の上に。
かすかな紋様の跡だけが残っている。
「契約が切れたの?」
リナが尋ねる。
「分からない」
アルトは契約印へ触れた。
冷たい。
フィオナの力が流れてこない。
声も。
気配も。
何も感じられない。
そのとき。
指先の下で。
契約印が。
ごく弱く震えた。
一度。
心臓が脈打つような。
小さな反応。
アルトは顔を上げる。
「アルト?」
「切れてはいない」
「フィオナがいるの?」
「ああ」
もう一度。
弱い脈動。
方向は。
大聖堂。
その地下。
「地下からだ」
アルトは立ち上がった。
身体が揺れる。
それでも。
無銘の剣へ手を伸ばす。
リナが腕をつかんだ。
「今行くの?」
「行く」
「でも、身体が」
「フィオナも同じことを考えたんだろうな」
「何が?」
「俺を連れていけば、身体がもたない」
「だから一人で行った」
アルトは無銘の剣を腰へ下げる。
「相手を守るためなら、一人で決めていいと思ったんだろうな」
「アルトも、いつもそうでしょう」
リナの言葉に。
アルトは一瞬だけ黙った。
「そうだな」
否定できなかった。
フィオナだけを責めることもできない。
自分も。
何度も同じことをしてきた。
アルトは左手首の契約印を握る。
「だから、戻ったら二人で反省する」
「まずは助けないと」
「ああ」
アルトは無銘の剣へ手をかけた。
「フィオナを迎えに行く」
「地下へ入る道は分かるの?」
「分からない」
「じゃあ、どうするの?」
アルトは窓の向こうにそびえる大聖堂を見た。
地下には。
百年前の封印施設が残されている。
しかし。
地上から続く入口がどこにあるかは分からない。
正面から大聖堂へ入れば。
教団兵に囲まれる。
今の身体で突破できる保証もない。
「まず、地下へ入る道を探す」
アルトが答えた。
外では。
夜の祈りを告げる鐘が鳴り続けている。
その音の下。
聖都の地下から。
もう一度だけ。
細い脈動が届いた。




