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百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する  作者: situ725


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18/21

第18話 勇者教典

 アクアレギアを破壊してから、七日が過ぎた。


 三日間、アルトたちは河川管理施設の近くに留まった。


 リナは負傷者と避難民の手当てを手伝い、フィオナはアルトの身体を安定させ続けた。


 右腕の輪郭は戻った。


 それでも、痺れは残ったままだった。


 剣を握ることはできる。


 だが、長く力を込めれば、指先が再び透け始める。


 セルディア軍が王都周辺から撤退したことを確認した後、三人はルミナスを離れた。


 出発の際、セレスは彼らを捕らえなかった。


 礼を言うことも。


 アクアレギアの破壊を許すこともなかった。


 ただ、その日の朝だけ、東門の検問が不自然なほど緩くなった。


 それから四日。


 アルトたちは、セルディア聖教国との国境へ近づいていた。


 周囲の景色は、緩やかに変わり始めている。


 広大な平原は次第に姿を消し。


 代わりに、風に削られた岩山と、乾いた草に覆われた高原が広がっていた。


 空が近い。


 遮るもののない土地を、冷たい風が絶え間なく吹き抜けている。


 アルトは外套の襟を押さえた。


 以前なら、これほどの寒さを気にすることはなかった。


 今は違う。


 風が衣服の隙間から入り込むたび、身体の内側まで冷えていく。


「休む?」


 後ろを歩いていたリナが尋ねた。


「まだ歩ける」


「歩けるかじゃなくて、休んだ方がいいかを聞いてるの」


 アルトは少し考えた。


 以前なら、そのまま進むと答えていただろう。


「少し休もう」


 リナが目を丸くする。


「何だ?」


「素直に休むって言うとは思わなかった」


「約束したからな」


「それ、いつまで続く?」


「できれば最後まで」


「できれば、じゃ困るんだけど」


 リナは言いながらも、わずかに笑った。


 三人は街道脇にある大きな岩の陰へ入った。


 フィオナが手を掲げる。


 周囲を吹き抜けていた風が二つに分かれ、岩の左右へ流れていった。


 風を遮る結界ではない。


 自然の流れを少し変えているだけだ。


 それでも、身体へ直接当たる冷気は和らいだ。


「右腕を見せて」


 フィオナがアルトの前へ座る。


 アルトは外套の袖をまくった。


 見た目は、人間の腕と変わらない。


 だが、日光の角度が変わると、皮膚の向こうに淡い光が透けて見えた。


 フィオナが手を重ねる。


 左手首の契約印が、かすかに温かくなった。


「昨日より薄くなっている」


「腕が?」


「あなたを形作っている精霊力の流れが」


 フィオナは目を閉じた。


「エアリアルとの接続は残っている。でも、それだけで身体全体を支えるには弱すぎる」


「どれくらい保つ?」


「分からない」


 同じ答えだった。


 だが、今度のアルトはそれ以上問い詰めなかった。


「聖都まで、あと何日?」


 リナが地図を広げる。


「順調なら五日ほど」


 フィオナが答えた。


「ただし、正規の街道を通れば検問があるわ」


「山道を迂回する?」


「今のアルトに無理をさせることになる」


「本人の前で言うんだな」


「隠し事は終わりにしたのでしょう?」


「そうだった」


 アルトは地図へ視線を落とした。


 セルディア聖教国。


 東部高原に位置する宗教国家。


 百年前には、小さな王国と幾つかの自治都市が存在していた土地だ。


 魔王軍との戦いでは、補給拠点の一つとして利用したことがある。


 当時の住民たちは信仰心こそ強かったものの、勇者を崇める宗教など存在しなかった。


 少なくとも。


 アルトが知っている限りでは。


「偽名は必要だな」


 リナが言った。


「俺の顔を知っている人間は少ないだろ」


「王都を攻撃した人たちには見られてる」


「遠くからだ」


「フレイムベルグを壊した勇者の似顔絵も出回ってるよ」


 リナが荷物から折り畳まれた紙を取り出す。


 ルミナス王都で入手した手配書だった。


 描かれている男は、黒髪で灰青色の目をしている。


 そこまでは合っている。


 だが、実物より顔が鋭く、頬には大きな傷が描かれていた。


 背丈も高く、筋骨隆々としている。


「似てないな」


「だから、そのままでも大丈夫かもしれないけど」


「この似顔絵を描いた人間は、俺に何か恨みでもあるのか?」


「強そうに描いたんじゃない?」


「悪人にしか見えない」


「聖剣を二本壊した危険人物だから」


「事実ではあるな」


 フィオナがアルトの外套へ手を触れた。


 翠色の光が広がる。


 濃灰色だった布が、くすんだ茶色へ変わった。


 続いて髪にも光が触れる。


 黒髪の中へ、わずかに灰色が混じった。


「見た目を完全に変えるほどの力は使えないけれど、遠目には別人に見えるはずよ」


「フィオナは?」


「人間の姿なら、上位精霊だと気づかれることはないわ」


「銀色の髪は目立つけど」


 リナが言う。


 フィオナは自分の髪を一房つまんだ。


「百年前は珍しくなかったわ」


「今は珍しいの」


「百年で人間の髪色まで変わったの?」


「流行の話だよ」


「髪に流行があるのね」


 フィオナは荷物から薄い頭巾を取り出し、銀白色の髪をその内側へ収めた。


「これならいいでしょう?」


「最初からそうして」


 アルトは二人の会話を聞きながら、岩の向こうへ広がる高原を見た。


 遠く。


 街道の先に、白い石壁が見える。


 セルディア最西端の街。


 その奥には、細長い塔が幾つも立っていた。


 塔の先端に掲げられているのは、剣と翼を組み合わせた紋章だった。


 百年前には存在しなかった印。


 第三聖剣エアリアルを示すものだろう。


「偽名はどうする?」


 リナが尋ねた。


「アルでいい」


「ほとんど変わってないよ」


「急に呼ばれても反応できる」


「フィオナは?」


「フィアにするわ」


「私だけ、そのまま?」


「リナは珍しい名前ではないでしょう」


「そうだけど」


 リナは不満そうに地図を畳んだ。


「行こう」


 アルトは立ち上がった。


「休憩はもういいの?」


「ああ。腕の痺れも少し戻った」


「少し?」


「完全ではない」


 リナがアルトの右手を見る。


 アルトは指を動かして見せた。


「剣は握れる」


「戦わないで済むなら、握らないで」


「努力する」


「それ、フィオナにも怒られてた言い方だよ」


「約束する」


「最初からそう言って」


 三人は再び歩き出した。


     ◇


 セルディア聖教国の国境では、武器よりも教典が重く扱われていた。


 白い法衣を着た兵士が、旅人たちを一列に並ばせている。


 腰には剣を下げていたが、胸には教団の紋章が刻まれていた。


 荷物と武器を簡単に確認した後、兵士はアルトの腰にある剣へ目を向けた。


「その剣は?」


「護身用です」


 フィオナが答えた。


「街中で抜くことは禁じられている。弓も同様だ」


 兵士はリナの背中を見て続ける。


「問題を起こせば、巡礼者であっても拘束する」


「承知しています」


 フィオナが答えた。


 武器の確認は、それだけだった。


 アルトの無銘の剣には装飾がない。


 聖剣と疑われるような見た目でもなかった。


 兵士は三人を順番に見る。


「入国の目的は?」


「聖都への巡礼です」


 フィオナが答えた。


「所属する教会は?」


「西方の小さな村から来ました。戦火で教会は焼けています」


 フィオナは迷いなく答えた。


 完全な嘘ではない。


 精霊の森の近くにあった村や礼拝堂は、フレイムベルグの炎で失われている。


「名前は?」


 兵士がフィオナを見る。


「フィアです」


「そちらは?」


「リナ」


 最後に兵士の視線がアルトへ向く。


「アルト――」


 アルトが答えかけた瞬間、リナがその足を踏んだ。


「アルです」


 リナが代わりに答えた。


 兵士が眉を寄せる。


「本人に答えさせろ」


「すみません。この人、少し反応が遅くて」


「誰の反応が遅いんだ?」


 アルトが小声で尋ねる。


「黙ってて」


 兵士は怪訝そうに二人を見たが、それ以上追及しなかった。


「教典は?」


 今度はリナが困ったようにアルトを見る。


 アルトも持っていない。


 兵士の表情が、それまでとは明らかに変わった。


「巡礼者が勇者教典を持っていないのか」


「焼けた教会に置いてきてしまって」


 フィオナが答える。


「国境で受け取れますか?」


「購入するものではない。教典は、すべての民へ無償で与えられる勇者様の教えだ」


 兵士は背後の机から、白い小冊子を三冊取り出した。


 表紙には、剣を空へ掲げる男の姿が描かれている。


 その下に、金色の文字が刻まれていた。


 勇者教典。


 アルトは渡された冊子を見つめた。


「入国する者は、第一節を読み上げろ」


 兵士が言った。


 前に並んでいた商人が冊子を開く。


「勇者は、悪しき敵を滅ぼすために選ばれた」


 続いて、妻らしき女性が読む。


「勇者へ従う者には救済が与えられる」


 幼い子どもまで、暗記しているように言葉を続けた。


「勇者へ逆らう者は、正しき道へ導かれなければならない」


 やがて、アルトたちの番が来る。


 フィオナが先に冊子を開いた。


「勇者は、悪しき敵を滅ぼすために選ばれた」


 声に感情はない。


 リナも続ける。


「勇者へ従う者には救済が与えられる」


 最後に、アルトの番が来た。


 冊子へ目を落とす。


 そこには、こう書かれていた。


 勇者へ逆らう者は、救済されるべき敵である。


「読めないのか?」


 兵士が尋ねる。


「いや」


 アルトは答えた。


「少し、変わった言い回しだと思ってな」


「勇者様が残された言葉だ」


「本人が?」


「当然だ」


 兵士の目に疑いが浮かぶ。


 フィオナがアルトの外套を、わずかに引いた。


 ここで争うべきではない。


 分かっている。


 アルトは冊子に書かれた文を読み上げた。


「勇者へ逆らう者は、救済されるべき敵である」


 喉の奥へ、言葉にできない不快感が残った。


 苦い、と表現するしかない。


 だが、味覚を失った今、その感覚が何なのかアルト自身にも分からなかった。


「通れ」


 兵士が道を開ける。


 三人は国境門を抜けた。


 背後で、次の旅人が教典を読み上げ始める。


「よく我慢したわね」


 街道をしばらく進んでから、フィオナが言った。


「我慢できないと思われていたのか?」


「ええ」


「私も」


 リナが答える。


「信用がないな」


「今までの行動を振り返ってから言って」


 アルトは手にした教典を開いた。


 薄い冊子だった。


 すべてを読むのに、それほど時間はかからない。


 数頁めくっただけで、アルトは足を止めた。


 第一章。


 勇者は、世界を脅かす敵を一人残らず滅ぼした。


 第二章。


 精霊は、人間を救う勇者へ永遠の忠誠を誓った。


 第三章。


 勇者は、争いをなくすため、世界を一つの信仰の下に統一するよう命じた。


 第四章。


 勇者へ逆らう者は悪に惑わされた存在であり、力によってでも救われなければならない。


「これは何だ?」


 アルトがつぶやく。


 フィオナが教典をのぞき込む。


 表情が見る間に険しくなった。


「私があなたへ忠誠を誓ったことになっているわ」


「誓ったか?」


「契約はした。でも、従うとは言っていない」


「むしろ、俺の言うことを聞かなかった方が多いな」


「あなたが聞く価値のないことばかり言うからよ」


 リナも自分の冊子を開いた。


「魔王軍を一人残らず滅ぼしたって書いてある」


「生き残った者はいる」


「いるの?」


「ああ。戦う力を失った者や、人間と争う意思を持たない者まで殺す理由はなかった」


 魔王を倒した後。


 アルトたちは、魔王軍の残党すべてを追い詰めたわけではない。


 武器を捨てた者。


 人間の土地から離れた者。


 戦いに巻き込まれていただけの者。


 彼らを敵と呼び続けることはしなかった。


 教典には、その事実がない。


「世界を統一しろとも言ったことはない」


「でしょうね」


 フィオナが即答した。


「あなたは、仲間の意見を一つにまとめることさえ苦手だったもの」


「そこまで言うか?」


「魔王城へ入る直前まで、食料を誰が持つかで揉めていたでしょう」


「あれは荷物の配分の問題だ」


「最終的に全部カインが持ってたよね?」


 リナが尋ねる。


「どうして知ってる?」


「教典の挿絵に、荷物を背負った騎士が描かれてる」


 アルトが冊子を見る。


 勇者一行が魔王城へ向かう場面。


 中央のアルトは、光り輝く鎧をまとい、聖剣を掲げている。


 その後ろには、大量の荷物を背負った騎士がいた。


「カインが見たら怒るだろうな」


「百年前の出来事を、こんなふうに物語へ変えたのね」


 フィオナが教典を閉じる。


「事実が少し残っているからこそ、全部を信じさせやすい」


「誰が書いたんだ?」


「聖都へ行けば分かるかもしれない」


 リナが街道の先を指した。


「でも、その前にあの街を通るんでしょう?」


 国境を越えて最初の街。


 白い石壁の向こうに、幾つもの建物が並んでいる。


 街の中央には、大きな広場が見えた。


 そして。


 広場の中心に、巨大な人影が立っていた。


     ◇


 像は、街のどの建物よりも高かった。


 白い石で作られた勇者像。


 片手に聖剣を持ち。


 もう片方の手を、民衆へ差し伸べている。


 肩には大きな外套。


 身体には金色の装飾が施された重厚な鎧。


 足元では、角を生やした魔族らしき者が踏みつけられていた。


 台座には、文字が刻まれている。


 すべての敵を滅ぼし、世界を救済した偉大なる勇者。


 アルト・レイヴァン。


「似てる?」


 リナが像とアルトを見比べる。


「髪型くらいは」


「背が全然違う」


 像のアルトは、周囲の人間より頭二つ分ほど大きく作られている。


 筋肉も実物の倍以上あった。


 顎は角張り、目は力強く前を向いている。


「あなた、こんな鎧を持っていた?」


 フィオナが尋ねる。


「ない」


「魔王城へ行ったときは?」


「革鎧と、拾った胸当てだ」


「この像より安そう」


「実際、安かった」


 広場には多くの人々が集まっていた。


 像へ祈りを捧げる者。


 足元へ花を供える者。


 子どもへ勇者の物語を聞かせる親。


 白い法衣をまとった司祭が、高い壇上から教典を読んでいる。


「勇者様は、悪しき魔王を討ち滅ぼされた!」


 群衆が静かに耳を傾ける。


「そして、世界から二度と争いを起こさぬため、すべての民が一つの教えへ従うことを望まれた!」


 アルトは像を見上げた。


 目の前にいる巨大な勇者は、確かに自分の名を持っている。


 だが。


 自分とは何一つ似ていなかった。


「勇者様は精霊を従え、炎、水、風の三本の聖剣をもって世界を救われた!」


 フィオナの手が、わずかに握られる。


 精霊を従えた。


 何度も教典に書かれている言葉。


 アルトは、隣に立つフィオナを見た。


「従えた覚えはない」


「今は黙っていて」


「嫌なのか?」


「嫌に決まっているでしょう」


 フィオナは小さな声で答えた。


「精霊は、人間の所有物でも道具でもない」


「ああ」


「あなたとの契約だって、私が選んだものよ」


「分かっている」


 司祭の説教が続く。


「勇者様に逆らう者は、悪に惑わされた哀れな存在である!」


「ゆえに、我らは彼らを正しき道へ導かなければならない!」


「たとえ、力を用いてでも!」


 群衆の中から歓声が上がる。


 アルトの右手が、無意識に握られた。


 痺れが走る。


 指先の輪郭が一瞬だけ薄くなった。


「アルト」


 リナが呼ぶ。


「分かってる」


 アルトは右手を開いた。


「剣は抜かない」


「それだけじゃなくて」


「まだ何も言わない」


 そう答えた直後。


 壇上の司祭が、声をさらに高めた。


「現在、勇者様の名を騙る冒瀆者が、各国で聖剣を破壊している!」


 広場がざわめく。


「その者は炎の聖剣を壊し、守護の聖剣をも砕いた!」


「我らの二代目勇者レオニス様が持つ最後の聖剣さえ、狙っている!」


 誰かが叫ぶ。


「偽物を許すな!」


 別の声が続く。


「レオニス様を守れ!」


「勇者の名を汚す者へ裁きを!」


 壇上の司祭が片手を上げる。


「恐れることはない!」


「真の勇者の魂は、二代目勇者レオニス様へ受け継がれている!」


「偽物がどれほど勇者を名乗ろうと、教典に記された言葉を覆すことはできない!」


 アルトは足を止めた。


 フィオナが腕をつかむ。


「行くわよ」


「少し待ってくれ」


「何をするつもり?」


「確かめる」


「何を?」


「本人の言葉と教典なら、どちらを信じるのか」


 フィオナの表情が曇った。


「答えは分かっているでしょう」


「それでもだ」


 アルトは群衆の中を進んだ。


「アルト!」


 リナが小声で呼ぶ。


 だが、アルトは止まらなかった。


 壇上の近くまで進む。


 群衆の何人かが、見慣れない旅人を振り返った。


「その教典に書かれていることは、本当に勇者が言ったのか?」


 アルトが尋ねた。


 広場が静まった。


 壇上の司祭がアルトを見る。


「旅の方。教典を疑われるのですか」


「疑っている」


 周囲から、低いざわめきが広がった。


「勇者は世界を一つにしろと言ったのか?」


「教典に記されています」


「精霊は勇者へ従う存在だと?」


「勇者様は三本の聖剣を従え、上位精霊をも伴われた」


「伴ったことと、従えたことは違う」


 司祭の目が細くなる。


「あなたは何を知っているのです?」


「少なくとも」


 アルトは広場の巨大な像を見上げた。


「俺は、世界を一つにしろなんて言った覚えはない」


 一瞬。


 広場から音が消えた。


 続いて、誰かが笑った。


「何を言っている?」


「まさか、こいつ……」


「偽物だ」


 声が広がっていく。


 アルトは続けた。


「精霊が人間へ従うとも言っていない」


 群衆の後方。


 白い法衣をまとった若い司祭だけが、笑っていなかった。


 年齢は、リナより少し上に見える。


 腕には、ほかの司祭たちにはない細い青色の帯が巻かれていた。


 若い司祭はアルトではなく、手にした勇者教典へ目を落としている。


 その表情には、怒りでも嘲笑でもない。


 戸惑いが浮かんでいた。


 アルトと目が合う。


 若い司祭は何かを言いかけた。


 だが、周囲から上がった声に遮られる。


「勇者様を騙るな!」


 フィオナが人の間を抜け、アルトの隣へ立つ。


「精霊は、自分の意思で力を貸す存在よ」


 壇上の司祭がフィオナを見る。


「では、そちらの女が、勇者様に従ったという上位精霊だとでも?」


 フィオナの目が鋭くなる。


 アルトは、彼女が何を言うのか分かった。


「従ったのではないわ」


「否定しないのですね」


「私は、私の意思でアルトと契約した」


 群衆のざわめきが大きくなる。


 司祭は二人を見比べた。


「勇者と上位精霊を騙るつもりですか」


「騙っていない」


「では、あなたが本物のアルト・レイヴァンだと?」


「ああ」


 今度は、大きな笑い声が上がった。


 群衆の中に、怒りも混じる。


「勇者様はもっと大きい!」


「像と全然違う!」


「その粗末な剣は何だ!」


「聖剣を持っていない勇者などいるものか!」


 アルトは腰の無銘の剣を見た。


 確かに。


 像が掲げる華美な聖剣と比べれば、名もない鉄の剣にしか見えない。


「勇者様は敵へ慈悲を与えなかった!」


 年老いた男が叫んだ。


「教典には、一人残らず魔王軍を滅ぼしたと書かれている!」


「それも違う」


 アルトは答えた。


「戦う意思を失った者まで殺してはいない」


「嘘だ!」


「勇者様は悪を許されなかった!」


「悪かどうかを、誰が決める?」


「教典だ!」


 即座に返ってきた言葉へ、アルトは何も言えなかった。


 本人の記憶ではない。


 百年前に何があったのかでもない。


 目の前の人々にとっては。


 冊子に書かれた言葉こそが、勇者だった。


「見ろ!」


 群衆の一人が、アルトを指差す。


「勇者様へ逆らう者が、本物であるはずがない!」


「教典を否定する冒瀆者だ!」


「衛兵を呼べ!」


 広場の端にいた教団兵が動き始める。


 アルトは群衆の後方を見た。


 青い帯を巻いた若い司祭は、まだそこにいた。


 周囲がアルトを罵る中。


 彼だけは、教典とアルトを交互に見ていた。


「もう分かったでしょう!」


 リナがアルトの腕を引く。


「ああ」


「逃げるよ!」


 アルトは群衆を見る。


 憎しみに満ちた目。


 恐怖を浮かべた目。


 自分の信仰を守ろうとする目。


 誰一人として、目の前のアルトを知ろうとはしていない。


 彼らが信じているのは、自分ではなかった。


 百年の間に作られた。


 巨大で。


 正しく。


 迷うことなく敵を滅ぼす勇者。


 アルト・レイヴァンという名を持つ、別の何かだった。


「捕らえろ!」


 教団兵が剣を抜く。


 フィオナが手を掲げた。


「走って!」


 風が広場へ吹き込んだ。


 フィオナの頭巾が外れ、銀白色の髪が大きく広がる。


 供えられていた花と紙片が空へ舞い上がり、兵士たちの視界を遮った。


 強い攻撃ではない。


 人を傷つけるためではなく、逃げ道を作るための風だった。


 アルトたちは群衆の間を抜けた。


 路地へ入り。


 市場の裏を通り。


 細い階段を駆け下りる。


 アルトの呼吸が苦しくなる。


 胸の奥で、心臓が弱く脈打っている。


「止まらないで!」


 リナが前を走りながら叫ぶ。


「分かってる」


「右腕は?」


「まだ動く」


「息は?」


「少し苦しい」


「少しじゃないでしょう!」


 背後から教団兵の声が近づいてくる。


「こっちよ!」


 フィオナが建物の隙間へ入った。


 三人は使われていない物置へ身を隠す。


 室内には、古い木箱や壊れた荷車が積まれていた。


 裏手には、板の外れた搬入口がある。


 見つかった場合は、そこから隣の路地へ抜けられそうだった。


 フィオナが扉へ手を当てる。


 周囲の風が止まり。


 外へ漏れる音と気配が薄くなった。


 間もなく、教団兵たちが路地を走り抜けていった。


 足音が完全に遠ざかる。


 フィオナが扉から手を離した。


 止まっていた空気が、ゆっくりと動き始める。


 リナが大きく息を吐いた。


「本物だって名乗らない約束はしてなかったけど」


「悪かった」


 アルトは壁へ背中を預けた。


「本当に悪いと思ってる?」


「ああ」


「なら、次からは先に言って」


「分かった」


「偽物って言われたから腹が立ったの?」


「それも少しはある」


「少しなんだ」


「像の顔は気に入らない」


「そこ?」


「あんな迷いのない顔をした覚えはない」


 リナは広場の方角を振り返った。


「確かに、アルトには似てなかった」


「髪型だけは似ていただろ」


「そこはまだ気にしてるんだ」


 アルトは手にした教典を見た。


 逃げる間も、捨てずに持ってきていた。


 表紙の勇者が、聖剣を高く掲げている。


「俺が何を言っても、誰も信じなかった」


「百年間、教典の方を信じて生きてきたのよ」


 フィオナが言う。


「彼らにとっては、あなたの方が突然現れた偽物なのでしょう」


「分かっていたつもりだった」


 百年は長い。


 自分が知っていた人間は、もう誰もいない。


 自分の声を覚えている者も。


 自分が迷い、失敗し、仲間へ頼っていた姿を知っている者も。


 残ったのは、記録と伝説だけだ。


 そして記録は、人の都合で書き換えられる。


「フレイムベルグは、俺が残した力だった」


 アルトは言った。


「アクアレギアも同じだ」


 二本の聖剣。


 百年前の選択が残したもの。


 どちらも国を支える力となり。


 やがて、人を傷つける兵器になった。


「今度は、俺の名前か」


 アルトは教典の表紙へ指を置いた。


 聖剣とは違う。


 この力には、砕くべき核さえ見えなかった。


「教典を燃やす?」


 リナが尋ねた。


「一冊燃やしても、何も変わらない」


「じゃあ、どうするの?」


 アルトはすぐには答えなかった。


 聖剣なら、核を砕けば終わる。


 だが、伝説には核がない。


 信じる人々の中へ広がり。


 世代を超えて受け継がれている。


 剣よりも壊すことが難しい。


「事実を残す」


 アルトは言った。


「誰かが書き換えているなら、書き換える前の記録があるかもしれない」


「教団が残していると思う?」


「完全に消したなら、教典に百年前の細かな出来事まで載せられない」


 事実を利用し。


 都合の悪い部分を削り。


 別の意味へ置き換えた。


 ならば、その元となった記録が、どこかに残されている可能性がある。


 広場にいた若い司祭を思い出す。


 群衆が笑う中。


 一人だけ、教典を見つめていた。


「聖都の資料庫ね」


 フィオナが言う。


「ああ」


「教典の内容を否定する証拠を探すの?」


「それだけじゃない」


 アルトは教典を閉じた。


「誰が、何のために俺の言葉を書き換えたのかを知りたい」


 そして。


 第三聖剣エアリアルを持つ二代目勇者。


 レオニス。


 彼が、この教典をどこまで信じているのか。


「聖都へ行く」


 アルトは立ち上がろうとした。


 だが、右腕へ力が入らない。


 壁へ手をつき、どうにか身体を支えた。


「身体は?」


 リナが尋ねる。


「少し休めば動ける」


「今は?」


「胸が苦しい。右腕の感覚は半分くらいだ」


 隠さずに答える。


 フィオナがアルトの胸元へ手を当てた。


 左手首の契約印が淡く光る。


「日が落ちるまで、ここで休むわ」


「兵士が街を捜している」


「だから今は動けない。暗くなったら街を出る」


「聖都までは急いだ方がいい」


「身体を壊したら、たどり着けないわ。それに、今外へ出れば見つかる」


 アルトは反論しなかった。


 物置の隅へ座る。


 壁の隙間から、街の広場がわずかに見えた。


 巨大な勇者像。


 その足元では、兵士と司祭たちが住民へ呼びかけている。


 勇者を名乗る冒瀆者が現れた。


 教典を否定した。


 銀白色の髪を持つ、上位精霊を名乗る女を連れている。


 見つけ次第、知らせるように。


 声が風に乗って届く。


 アルトは像を見上げた。


 百年前。


 魔王を倒せば、戦いは終わると思っていた。


 聖剣を残せば、未来の誰かを守れると思っていた。


 自分たちの旅が物語として残れば、人々の希望になると思っていた。


 だが。


 剣も。


 記録も。


 勇者の名さえも。


 残されたものは、使う者によって姿を変える。


 最後に壊すべきものは、聖剣だけではないのかもしれない。


 アルト・レイヴァンという名前から独立し。


 人々を支配する道具となった。


 偽りの勇者の伝説。


 アルトは手の中の教典を見つめた。


 像の勇者は、迷うことなく前だけを向いている。


 自分にはできなかった顔だ。


「随分と立派になったな」


 小さくつぶやく。


「俺の知らないところで」


 答える者はいない。


 ただ、板の外れた搬入口から入り込んだ風が、教典の頁を静かにめくった。


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