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百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する  作者: situ725


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第17話 二つ目の終焉

 夜明け前。


 王都を覆う水の結界が、再び大きく揺れた。


 淡い緑色の風刃が、北西の空から水の膜へ突き刺さる。


 衝突した風と水が弾け、無数の水滴となって街へ降り注いだ。


「北西部、結界の厚みが低下!」


「第三水術師隊を回してください!」


「殿下、これ以上は――」


「維持します」


 セレスは短く答えた。


 王宮の高塔。


 その最上部に設けられた術式台で、彼女はアクアレギアを両手で握っていた。


 刀身から伸びる青い光が、王都上空の結界へつながっている。


 水の膜を補修するたび、剣を握る指から感覚が失われていった。


 腕が重い。


 呼吸も浅い。


 最後にまともに眠ったのが、いつだったのか思い出せない。


 セルディア聖教国による王都攻略作戦が始まってから、四日。


 最初に破壊されたのは、王都へ食料と武器を運ぶ補給拠点だった。


 翌日には街道と橋が壊された。


 三日目の夜には、複数方向から風刃が放たれた。


 そして昨日。


 高速部隊によって、監視塔と伝令拠点が次々に襲撃された。


 王都へ届く物資は減っている。


 周辺の状況を伝える情報も、途切れ始めている。


 それでも、セルディア軍は王都へ総攻撃を仕掛けてこなかった。


 攻撃して。


 退いて。


 休ませず。


 消耗させる。


 敵の狙いは明らかだった。


 王都ではない。


 アクアレギアだ。


「また来ます!」


 術師の声。


 東の空に、緑色の光が生まれる。


 セレスはアクアレギアを掲げた。


「結界を東へ集中!」


 王都上空を覆う水が流れる。


 東側の膜が厚くなる。


 直後。


 風刃が結界へ激突した。


 轟音が王都全体を震わせる。


 青い光が砕けた。


 セレスの身体が後ろへ押される。


 膝が折れかけた。


「殿下!」


 近くにいた術師が腕を支えようとする。


「触れないでください」


 セレスは自分の足で立ち直った。


 支えられれば、もう一度立てなくなる気がした。


「ですが、そのお身体では――」


「結界を解除すれば、風刃が市街地へ届きます」


「交代できる術者を――」


「アクアレギアを扱えるのは、私だけです」


 術師は何も言えなかった。


 セレスは剣へ力を流し込む。


 削られた結界が再びつながっていく。


 青い膜の向こうに、夜明け前の空が見えた。


 王都の建物。


 避難所へ向かう人々。


 負傷者を運ぶ兵士。


 泣きながら母親の手を握る子ども。


 守らなければならない。


 自分が倒れても。


 この剣が壊れても。


 国民だけは。


「南西の監視塔から伝令です!」


 階段を駆け上がってきた兵士が叫んだ。


 鎧は泥と血で汚れている。


「セルディアの高速部隊が南の街道へ移動! 復旧部隊が攻撃を受けています!」


「水術師隊を半数、南へ」


「王都結界が薄くなります」


「分かっています」


 セレスは剣先を南へ向けた。


 王都を覆っていた水の一部が細い流れとなり、城壁の外へ伸びていく。


 破壊された街道。


 横倒しになった馬車。


 逃げ惑う復旧作業員。


 その前へ、水の壁が立ち上がった。


 放たれた矢と風の刃が、水へ飲み込まれる。


「復旧部隊を退避させてください」


「はっ!」


 兵士が走り去る。


 セレスはアクアレギアを握り直した。


 王都の結界。


 復旧部隊を守る水の防壁。


 王都周辺を流れる水脈の制御。


 そして。


 ガルディア方面へ流れる大河の封鎖。


 アクアレギアは、複数の術式を同時に維持していた。


 剣の核から伝わる脈動が、少しずつ弱まっている。


 分かっていた。


 アクアレギアも限界に近い。


 それでも、水源封鎖を解くことはできない。


 水が戻れば、ガルディア軍は再び進軍できる。


 南の街道が復旧すれば、セルディア軍も別方向から王都を包囲するかもしれない。


 国を守るためには。


 敵を止めるためには。


 水を支配し続けるしかない。


「殿下」


 背後から、低い声がした。


 セレスは振り返る。


 術式台へ続く階段の入口。


 そこに、黒髪の青年が立っていた。


 濃灰色の上着。


 色あせた外套。


 腰には、亀裂の入った無銘の剣。


 アルト・レイヴァン。


 その後ろには、銀白色の髪をした精霊と、赤茶色の髪の少女もいる。


「ここは立入禁止です」


 セレスは剣を構え直した。


「兵士たちは何をしているのですか」


「話をしに来ただけだ」


「あなたとの話し合いは終わったはずです」


「まだ終わっていない」


 アルトは術式台へ進む。


 王都の兵士たちが彼を止めようとした。


 だが、セレスは片手を上げた。


「下がってください」


「殿下」


「今ここで戦えば、結界の維持に支障が出ます」


 兵士たちは不満げに剣を下ろした。


 アルトはセレスから数歩離れた場所で止まる。


「王都の結界だけでも、限界が近いはずだ」


「だからといって、解除するわけにはいきません」


「川の水を戻してくれ」


「断ります」


 迷いなく答えた。


 アルトも驚かなかった。


「ガルディア方面では、もう井戸も枯れ始めている」


「敵国の事情です」


「畑が干上がっている」


「敵軍の食料になります」


「水を求めて、子どもが倒れている」


 セレスの指が、わずかに震えた。


 それでも、剣を下ろさない。


「私が守るべきなのは、ルミナスの国民です」


「国境の向こうにいるだけで、見捨てていいのか?」


「見捨てたいわけではありません」


「なら――」


「それでも、選ばなければならないのです!」


 セレスの声が高塔へ響いた。


 周囲にいた兵士や術師たちが息を呑む。


「すべての人間を救える力など、私にはありません」


 セレスはアクアレギアを握り締めた。


「水を戻せば、敵軍が進軍する。王都の結界を解けば、セルディアの風刃が国民を襲う。どちらも守ろうとすれば、今度は聖剣が限界を迎える」


「だから、敵国の民を切り捨てるのか?」


「自国の民を守るためです」


「同じだ」


 アルトが静かに言った。


「何がですか」


「グレンもそう言っていた」


 セレスの目が細くなる。


「帝国の民を救うためだと。短期間で敵国を屈服させれば、犠牲は少なくなると」


「私と侵略者を一緒にしないでください」


「理由は違う」


 アルトは認めた。


「だが、自分が守る人間のために、それ以外の命を切り捨てていることは同じだ」


「あなたに何が分かるのですか」


 セレスの声が低くなった。


「百年前の英雄であるあなたに、今の国を背負う責任が分かるのですか」


「分からない」


 アルトは答えた。


 セレスは言葉を失った。


「俺は王女じゃない。国を統治したこともない。何万人もの生活を背負ったこともない」


「なら、口を出さないでください」


「だが、聖剣を残した責任はある」


 アルトは腰の無銘の剣へ手を置いた。


「その剣を百年後まで残したのは俺だ」


「だから破壊すると?」


「ああ」


「破壊した後、この国をどう守るのですか」


「分からない」


「また、それですか」


 セレスは唇を噛んだ。


「分からない。何とかなる。あなたはいつもそう言う」


「そうだな」


「その言葉で国民を守れると思っているのですか」


「思っていない」


 アルトはセレスを見つめた。


「だが、一つの剣へ国のすべてを預け続ければ、いつか必ず同じことが起きる」


「今を生き延びなければ、未来などありません」


「未来のためなら、今誰かを死なせてもいいのか?」


 セレスは答えられなかった。


 遠くで警鐘が鳴る。


 再び風刃が飛来した。


「西から来ます!」


 術師が叫ぶ。


 セレスはアルトから視線を外し、アクアレギアを掲げた。


 水の結界が西へ流れる。


 風刃が激突する。


 高塔が揺れた。


 セレスの口元から、赤い血がこぼれる。


「セレス!」


 リナが声を上げた。


「来ないでください!」


 セレスは剣で身体を支えた。


「私は、まだ立てます」


「剣を手放せ」


 アルトが言った。


「今なら、俺たちも王都を守る」


「あなたたちだけで、セルディア軍を止められるのですか」


「できるとは言わない」


「なら、手放せません」


「このままでは、お前が先に倒れる」


「王都が残るなら、それで構いません」


 アルトの表情が変わった。


「それを国民が望んでいると思うのか?」


「望まれていなくても、王族の責任です」


「自分一人で決めるな」


 セレスはアルトを見る。


「それを、あなたが言うのですか」


 アルトの言葉が止まった。


 後ろにいたフィオナが、わずかに目を伏せる。


「自分の命を使って聖剣を壊そうとしているあなたが」


 セレスは続けた。


「私の自己犠牲だけを否定するのですか」


「……そうだな」


 アルトは静かに認めた。


「俺にも言えることじゃない」


「なら――」


「だから、昨日約束した」


 アルトはフィオナとリナへ視線を向けた。


「身体のことも、自分が何をするかも、もう隠さないと」


 セレスは二人を見る。


 リナは不安そうな顔をしながらも、アルトの隣に立っていた。


 フィオナも、彼を止めようとはしていない。


 納得しているわけではない。


 それでも、一人にはさせていない。


「お前も、一人で決めるな」


 アルトは言った。


「国民へ聞け。兵士へ頼れ。聖剣がなくても守れる方法を、一緒に探せ」


「その間に敵が攻めてきたら?」


「戦う」


「あなたは消えかけているのでしょう」


 アルトの眉がわずかに動いた。


 セレスは確信した。


「やはり、そうなのですね」


「誰から聞いた?」


「あなたの身体を見れば分かります」


 右腕。


 顔色。


 弱くなった呼吸。


 フレイムベルグを壊して以降、アルトの身体は明らかに衰えている。


「アクアレギアを壊せば、さらに弱る」


 セレスが言う。


「それでも、壊すのですか」


「ああ」


「自分が消えても?」


「それでもだ」


「理解できません」


「俺も、自分の選択が正しいとは思っていない」


「それでも選ぶ?」


「選ばないまま、未来へ残すことの方が怖い」


 セレスはアクアレギアへ目を落とした。


 青い刀身。


 水の核。


 自分と王国を守り続けてきた剣。


 父王が病に倒れてから。


 国境で戦争が始まってから。


 この剣だけが、セレスの命令へ迷わず応えてくれた。


 兵士は疲れる。


 民は不満を持つ。


 家臣は反対する。


 他国は攻めてくる。


 だが、アクアレギアだけは裏切らない。


 命じれば、水を動かした。


 守れと言えば、結界を張った。


 止めろと言えば、川をせき止めた。


 その力があったから、自分は立ち続けられた。


 剣を手放した後。


 自分には何が残るのか。


「時間をください」


 セレスは言った。


「どれくらいだ?」


「セルディア軍を退けるまで」


「それでは遅い」


「なら、一日」


「その一日で、国境では人が死ぬ」


「今解除すれば、王都で人が死にます!」


 再び、二人の声がぶつかる。


 その瞬間。


 高塔の床が激しく揺れた。


「北と東から同時攻撃!」


 術師が叫ぶ。


「さらに南の高速部隊が、河川管理施設へ接近しています!」


 セレスの顔色が変わる。


 ガルディア方面への水源封鎖を維持するための施設だ。


 そこを奪われれば、セルディア軍に水路を利用される可能性がある。


「水流を南へ集中!」


 セレスはアクアレギアへ命じた。


「待て!」


 アルトが叫ぶ。


「今それをすれば、剣が――」


「河川管理施設を守らなければなりません!」


 王都の結界。


 北と東から飛来する風刃。


 南の河川管理施設を守る防壁。


 ガルディア方面への水源封鎖。


 アクアレギアへ、さらに複数の命令が重なる。


 青い刀身が震えた。


 内部から、軋むような音が聞こえた。


「殿下、聖剣の出力が不安定です!」


「維持してください!」


「これ以上は核が――」


「維持を!」


 セレスの声と同時に、アクアレギアから大量の水が噴き出した。


 王都上空の結界が厚くなる。


 南へ向かう水流も強くなる。


 だが、剣の中心にある核の光は急速に弱まっていた。


 アルトは無銘の剣へ手をかける。


「フィオナ」


「ええ」


 フィオナがアルトの左手首へ触れた。


 契約印が淡く輝く。


「何をするつもりですか」


 セレスが問う。


「川の水を戻す」


「させません」


 アルトはフィオナを見る。


「南の河川管理施設へ向かう。着地を頼めるか?」


「身体に負担をかけないなら」


「努力する」


「努力では困るのだけれど」


 フィオナの風が、アルトの身体を包んだ。


 アルトはリナへ視線を向ける。


「リナ。後から来てくれ」


「一人で始めないでよ!」


「分かった」


「本当に?」


「ああ」


 アルトは高塔の縁へ足をかけた。


 セレスがアクアレギアを構える。


「行かせません」


「なら、河川管理施設で止めてみろ」


 アルトは高塔から飛び降りた。


     ◇


 リナは高塔の縁へ駆け寄った。


「アルト!」


 アルトの身体が地上へ向かって落ちていく。


 直後。


 フィオナの風が彼の身体を受け止めた。


 落下の勢いが緩む。


 アルトは下の屋根へ着地し、そのまま王都の南へ走り出した。


「無茶しないって言ったばかりなのに!」


「一応、今回は先に伝えていたわ」


 フィオナはそう言ったが、その顔は険しかった。


「飛び降りる直前じゃ意味ないよ!」


「それは同感ね」


 フィオナも高塔の縁へ立つ。


 翠色の風が身体を包んだ。


「私たちも行くわよ」


「最初からそのつもり!」


 リナは背負っていた弓を握った。


 フィオナの風が二人の身体を持ち上げる。


 高塔から地上へ降りる。


 着地した瞬間、リナは南へ走り出した。


 街の中は混乱していた。


 警鐘。


 叫び声。


 負傷者を運ぶ兵士。


 地下避難所へ向かう民間人。


 空では、水の結界へ風刃が何度も衝突している。


 そのたびに地面が揺れた。


 アルトの姿は遠い。


 だが、色あせた外套が人々の間を抜けていくのが見える。


「待って!」


 リナが叫ぶ。


 アルトは振り返らない。


 王都南門へ向かっていた。


 門の前では、兵士たちが防柵を閉じようとしている。


「外へ出るな!」


「南の街道は敵の高速部隊に狙われている!」


 アルトは止まらなかった。


 門の横に積まれた資材を駆け上がり、防壁の上へ飛び乗る。


 兵士が剣を抜いた。


「止まれ!」


「南の河川管理施設へ行く」


「殿下の許可はあるのか!」


「ない」


「なら通すわけには――」


 兵士が言い終える前に、南の空から風の刃が飛来した。


「伏せて!」


 リナが弓を構える。


 風刃そのものを矢で止めることはできない。


 狙ったのは、風刃を誘導しているセルディア兵だった。


 城壁の外。


 崩れた監視塔の上に、白い外套をまとった術者がいる。


 リナは矢を放った。


 矢は術者の足元へ突き刺さる。


 相手が驚き、術式が揺らぐ。


 風刃の軌道がわずかにそれた。


 フィオナの風が横からぶつかる。


 緑色の刃は城壁をかすめ、外側の地面へ落ちた。


 土煙が上がる。


「助かった」


 アルトが言った。


「後で絶対に怒るから」


「今も怒っているだろ」


「もっと怒る!」


 リナは二本目の矢をつがえた。


 フィオナが城門の兵士たちへ向き直る。


「王女は、彼を止めるために追ってくるわ」


「なら、なおさら――」


「ここで争っている時間はない」


 南の街道。


 河川管理施設の方角から、青い光が上がった。


 アクアレギアの水流だ。


 セルディアの高速部隊と衝突しているらしい。


「私たちは河川管理施設へ向かう」


 フィオナが言う。


「あなたたちは、王都の避難を優先して」


 兵士たちは迷っていた。


 やがて隊長らしき男が剣を下ろした。


「門は開けられない」


「構わない」


 アルトが防壁の外側を見る。


「壁を越える」


 リナは思わず顔をしかめた。


「また?」


「今度は先に伝えた」


「それで許されると思わないで!」


 それでも三人は、フィオナの風を借りて城壁を越えた。


 南の街道へ降りる。


 王都から河川管理施設までは、それほど遠くない。


 だが、街道の一部が風刃によって破壊されている。


 倒木。


 崩れた橋。


 横倒しになった馬車。


 その間を縫って走った。


 アルトの速度は、明らかに以前より遅い。


 右腕を庇っている。


 呼吸も荒い。


「痺れは?」


 リナが横へ並ぶ。


「残ってる」


「走れる?」


「今のところは」


「無理なら言って」


「ああ」


 短い答え。


 少なくとも、隠そうとはしなかった。


 それだけで安心できるほど、状況は軽くない。


 河川管理施設が見えてきた。


 大河の流れを分ける巨大な堰。


 石造りの水門が、いくつも並んでいる。


 だが、川の下流。


 ガルディア方面へ続く水路には、ほとんど水が流れていない。


 青白い水の壁が、流れそのものをせき止めていた。


 その周囲で、ルミナス兵とセルディア兵が戦っている。


 淡い緑色の風。


 青い水の防壁。


 矢と槍。


 倒れた兵士。


 アルトは無銘の剣を抜いた。


「リナ。負傷者を頼む」


「アルトは?」


「水を戻す」


「一人で?」


「フィオナとやる」


 フィオナがうなずく。


「リナにしかできないことをして」


 リナは戦場を見る。


 倒れたルミナス兵。


 血を流すセルディア兵。


 敵も味方もいる。


 一瞬だけ、迷った。


 以前の自分なら。


 敵兵を助けることなど考えなかった。


「分かった」


 リナは弓を握り直した。


「でも、終わったらすぐ戻ってきて」


「ああ」


 アルトとフィオナは堰へ向かう。


 リナは戦場の外側へ走った。


 負傷兵を狙うセルディア兵の足元へ矢を放つ。


 相手が止まった隙に、倒れているルミナス兵の腕を引いた。


「立てる?」


「脚が……」


「肩を貸す。動いて」


 兵士を安全な場所へ運ぶ。


 次に見つけたのは、セルディアの若い兵士だった。


 腹部を押さえ、道端へ倒れている。


 ルミナス兵が剣を振り上げていた。


「待って!」


 リナは叫んだ。


「敵だぞ!」


「もう戦えない!」


「仲間を殺された!」


「だからって、ここで殺して何が変わるの!」


 自分の口から出た言葉に、リナ自身が驚いた。


 かつて。


 ガルディア兵を助けるアルトへ、自分は言った。


 死なせればいい、と。


 今も敵を許したわけではない。


 セルディア軍は王都を攻撃している。


 この兵士も、その一人だ。


 それでも。


 目の前で死にかけているなら。


「武器を捨てて」


 リナはセルディア兵へ言った。


 兵士は震える手で短剣を放した。


 リナは傷口へ布を押し当てる。


「動かないで。余計に血が出る」


「なぜ……」


「私にも分からない」


 リナは答えた。


「でも、見捨てたくないから」


 遠くで、大きな水音が響いた。


 堰の上。


 アルトが無銘の剣を、水をせき止める青い壁へ突き立てている。


 フィオナがその背後から、契約印を通して力を送っていた。


 青い水壁が揺れる。


 だが、崩れない。


「フィオナ。三つの副水門を開ける」


 アルトの声が響く。


「一度に水を戻さないためね」


「ああ。水を分けて、本流へ少しずつ戻す」


 フィオナの風が、水門の操作装置へ伸びた。


 錆びついた歯車が、軋みながら回り始める。


 だが、一つ目の水門は途中で止まった。


「動かないわ」


「手で開ける」


 アルトが無銘の剣を水壁から抜き、水門の操作棹へ向かおうとする。


 その前へ、河川管理施設を守っていた数人のルミナス兵が駆けつけた。


「何をするつもりだ!」


「聖剣を壊せば、水が一気に戻る」


 アルトが答える。


「副水門を開けなければ、下流が水に呑まれる」


 河川管理を担当する兵士が、水路と水壁を見比べた。


 その顔色が変わる。


「第三副水門を開けろ!」


 兵士が叫ぶ。


「水を三方向へ逃がすんだ!」


 別の兵士たちが操作棹へ取りつく。


「第一副水門、上がります!」


「第二も続けろ!」


 重い水門が、一つずつ持ち上がっていく。


 乾いていた副水路へ、わずかな水が流れ始めた。


 まだ本流を戻せるほどではない。


 それでも、破壊後の水を受け止める道はできた。


 王都から伸びてきた水流が、一本の道となって堰へ接続する。


 その水上を滑るように、人影が近づいてきた。


 セレスだった。


 高塔を離れても、アクアレギアから王都へ伸びる青い光は途切れていない。


 王都の結界を維持したまま、アルトを止めるために来たのだ。


 顔は青ざめている。


 唇には血が付いていた。


 それでも、剣を構えている。


「やめなさい」


 セレスの声が響いた。


「水源封鎖を解けば、ガルディア軍が動きます」


「その前に、国境の民が死ぬ」


 アルトが答える。


「それでも、王都を危険へさらすことはできません」


「俺たちが守る」


「あなた一人で、何ができるのですか!」


「一人じゃない」


 アルトの後ろには、フィオナがいる。


 少し離れた場所には、負傷者を助けるリナがいる。


 水門では、ルミナス兵たちが副水路を開いている。


 王都では、兵士と術師たちが戦っている。


 セレス一人だけが、国を守っているわけではない。


「剣を手放せ、セレス」


「できません」


「このままなら、お前も剣も壊れる」


「私が捨てれば、国民が死ぬ!」


「だが、それを持ち続ければ、他国の民が死に続ける!」


 二人の声が、水音の中でぶつかった。


 セレスはアクアレギアを振るう。


 大量の水が刃となってアルトへ迫った。


 アルトは無銘の剣で受け流す。


 水の勢いを横へそらす。


 だが、右腕が震えた。


 剣を握る指が透け始める。


「アルト!」


 フィオナが力を送る。


 アルトの左手首に刻まれた契約印が、強く輝いた。


 アルトの輪郭が戻る。


 その間にも、王都から轟音が聞こえる。


 風刃が結界を叩いている。


 アクアレギアの光が、さらに弱まった。


「最後にもう一度聞く」


 アルトは言った。


「川の水を戻してくれ」


「断ります」


 セレスは涙を浮かべていた。


「私は、王女です」


「王女だから、一人で背負うのか?」


「国民を守る責任があります」


「なら、生きて背負え」


「聖剣を失えば――」


「聖剣がなくても守れる国を作れ」


「そんな理想を語る時間はありません!」


「だから、今始めるんだ!」


 アルトが踏み込んだ。


 セレスもアクアレギアを振るう。


 二本の剣がぶつかった。


 無銘の剣。


 第二聖剣アクアレギア。


 水の衝撃が堰全体へ広がる。


 石壁に亀裂が走った。


 フィオナが両手を無銘の剣へ向ける。


 翠色の精霊力が、刀身を通してアクアレギア内部へ流れ込んだ。


 聖剣の力を奪うためではない。


 内部にある水の流れを乱すため。


 アクアレギアの核は、何層もの水の循環によって守られている。


 だが今。


 数日間の結界維持と複数の術式によって、その循環は弱っていた。


 フィオナの精霊力が入り込む。


 水の流れが逆方向へ押される。


 循環が乱れた。


 アクアレギアの核が露出する。


 青い光が明滅した。


 アクアレギアの力が弱まっている。


「今よ、アルト!」


 フィオナの声と同時に、アルトが無銘の剣を押し込んだ。


「何を――」


 セレスが目を見開く。


「ごめん」


 アルトは言った。


「それでも、壊す」


 無銘の剣を振り下ろす。


 刃が、アクアレギアの核へ食い込んだ。


 青い光。


 亀裂。


 甲高い音。


 第二聖剣アクアレギアが、砕けた。


 世界から、一瞬だけ音が消えた。


 次の瞬間。


 剣の内部へ蓄えられていた水の精霊力が、巨大な光となって解放された。


 水が空へ昇る。


 青い光の柱が雲を突き抜ける。


 王都を覆っていた水の結界が消えた。


 河川をせき止めていた青い壁も崩れる。


 止められていた水が、副水路へ流れ込んだ。


 三本の水路へ分かれたことで、その勢いが削られていく。


 第一の水路から。


 第二の水路から。


 そして第三の水路から。


 水は段階的に、乾いた本流へ戻っていった。


 堰を破壊するような奔流にはならない。


 下流の村を呑み込むほどの濁流にもならない。


 それでも、長く止められていた大河が再び動き始める。


 乾いた水路へ。


 干上がった土地へ。


 ガルディア方面へ。


 水が戻っていく。


 そのとき。


 王都へ放たれていた風刃の多くは、消える直前の結界と衝突して砕けていた。


 だが、最後に放たれた一筋だけが、結界の消えた王都へ迫っている。


「まだ一つ残っている!」


 フィオナが空へ手を伸ばす。


 アクアレギアから解放された水の精霊力へ呼びかけ、その一部を王都の上空へ導いた。


 広がった青い光が、淡い緑色の風刃を包み込む。


 風刃は急速に勢いを失い、王都へ届く前に霧散した。


 セルディア軍も攻撃を止めた。


 聖剣破壊によって生じた精霊力の乱れ。


 急激に変わった大河の流れ。


 王都周辺を満たす青い光。


 敵軍は状況を警戒し、撤退を始めた。


 遠くで、退却を知らせる角笛が鳴る。


 セレスの手には、折れた剣の柄だけが残っていた。


「アクアレギア……」


 膝から力が抜ける。


 守護の象徴。


 ルミナス王国を守り続けてきた聖剣。


 それが光の粒となり、空と川へ溶けていく。


 セレスは下流へ目を向けた。


 河川管理施設から少し離れた、古い作業員宿舎。


 国境から逃れてきたガルディアの避難民たちが、建物の陰から水路へ駆け寄っていた。


 戦火と干ばつから逃れ、ここへ身を寄せていた人々だ。


 農民。


 子ども。


 痩せた家畜を連れた者たち。


 彼らは流れてきた水へ手を伸ばしている。


 顔を洗い。


 器へくみ。


 倒れた者へ飲ませていた。


 敵国の人間。


 セレスが、水を奪っていた人々。


「私は……」


 セレスの声が震える。


「国を守っていたはずなのに」


 誰も答えなかった。


 リナにも、かける言葉は見つからなかった。


 守ろうとしたことは嘘ではない。


 王都の人々は、セレスによって救われていた。


 だが、その力の向こうで。


 別の人々が苦しんでいた。


 どちらか一方だけを見て、正しいとも間違っているとも言えなかった。


 水音の中。


 何かが倒れる音がした。


 リナが振り返る。


「アルト?」


 アルトが膝をついていた。


 無銘の剣を地面へ突き、どうにか身体を支えている。


「この人をお願い!」


 リナは駆け寄ってきたルミナスの治療兵へ、負傷したセルディア兵を引き渡した。


 敵兵だと気づいた治療兵が、一瞬だけ動きを止める。


「武器は捨ててる。もう戦えない。止血を続けて!」


「しかし――」


「死なせないで!」


 治療兵は迷いながらも、その場へ膝をついた。


 傷口へ新しい布を押し当てる。


 それを確認し、リナはアルトのもとへ駆け出した。


「アルト!」


 フィオナが先にアルトの身体を支えている。


「息をして」


「してる」


「浅すぎるわ」


「そうか?」


「心音も弱い」


 フィオナがアルトの胸へ手を当てる。


 その顔から血の気が引いた。


「横になって」


「まだ負傷者が――」


「今はあなたが負傷者よ!」


 アルトは反論しようとした。


 だが、口を開いただけで咳き込んだ。


 身体が大きく揺れる。


 リナが反対側から肩を支えた。


「約束したよね」


「ああ」


「身体に何かあったら、全部話すって」


「右腕が、ほとんど動かない」


「ほかは?」


「音が少し遠い」


「ほか」


「呼吸が苦しい」


 アルトは正直に答えた。


 リナの胸が痛んだ。


 聞きたくなかった。


 だが、隠されるよりはよかった。


「旅をやめよう」


 リナは言った。


「二本目は壊した。川の水も戻った。もう十分だよ」


「まだ、エアリアルが残ってる」


「分かってる!」


 リナの声が、水音を押し返した。


「あなたが何を考えてるかも、昨日聞いた。聖剣を未来へ残せないことも、分かろうとした」


 それでも、透けた右腕を見れば。


 受け入れることなどできなかった。


「だからって、あなたが消えていい理由にはならない!」


 アルトはすぐに答えられなかった。


「自分が消えれば終わりだなんて思わないで」


「思ってない」


「だったら、私たちが悲しむことも受け入れてよ」


 アルトの表情が止まった。


 リナは目に浮かんだ涙を拭わなかった。


 フィオナも何も言わない。


 ただ、アルトの身体を支え続けていた。


 やがて。


 アルトが小さく息を吐いた。


「俺がいなくなっても」


 リナが顔を上げる。


「きっと何とかなるさ」


 いつもの言葉だった。


 だが、以前とは違って聞こえた。


 軽い励ましではない。


 自分がいなくなった後を、誰かへ押しつける言葉でもない。


 信じようとしているのだ。


 フィオナを。


 リナを。


 グレンを。


 セレスを。


 聖剣がなくても、人々が生きていける未来を。


「そんな簡単に言わないで」


「簡単じゃない」


 アルトは苦しそうに笑った。


「でも、そう信じたい」


 フィオナがアルトの腕を強く支える。


「今は話をやめて。身体を安定させる」


「頼む」


 アルトは抵抗しなかった。


 左手首の契約印が淡く光る。


 フィオナの力が流れ込む。


 透けていた右腕が、完全ではないものの、少しずつ輪郭を取り戻していく。


 セレスは折れたアクアレギアの柄を握ったまま、三人を見ていた。


「あなたは、自分が消えると分かっていて……」


「それでも壊した」


 アルトが答える。


「私の剣を」


「ああ」


「憎くはないのですか」


「何がだ?」


「私が、その剣で他国の水を奪っていたことが」


「したことは消えない」


 アルトは言った。


「だが、今から何をするかは選べる」


 セレスは大河を見る。


 水は戻った。


 王都の結界は消えた。


 聖剣もない。


 セルディア軍は一時撤退しただけで、完全に去ったわけではない。


 これから。


 自分は、剣なしで国を守らなければならない。


 恐怖があった。


 それでも。


 折れた柄を握り続けても、水は戻らない。


 セレスは指を開いた。


 アクアレギアの残骸が地面へ落ちる。


「王都へ戻ります」


 セレスは立ち上がった。


 足元が揺れたが、近くの兵士が支えた。


 今度は、その手を振り払わなかった。


「セルディア軍の再攻撃に備えます」


「聖剣なしで?」


 リナが尋ねる。


「聖剣なしで、です」


 セレスは王都を見る。


「兵士たちを集めます。周辺都市へ援軍を求めます。壊された街道と伝令網を立て直します」


「できるのか?」


 アルトが聞く。


「分かりません」


 セレスは答えた。


「ですが、やるしかありません」


 アルトはわずかに笑った。


「それでいい」


「あなたに認められるためにするのではありません」


「分かってる」


「それと」


 セレスは、古い作業員宿舎へ集まっている避難民を見た。


「ここにいる避難民へ、治療師と食料を回します」


「ガルディアの人たちにも?」


「国籍を理由に除外はしません」


 セレスは水が戻っていく下流を見る。


「その後、国境の下流域へ物資を届ける経路を作ります。水を奪った責任があります」


 リナはセレスを見つめた。


 すぐに許すことはできない。


 それでも。


 今から何をするかを選ぶことはできる。


「私も手伝う」


 リナは言った。


「あなたは、アルトと行くのでしょう」


「出発するまでなら手伝える」


 セレスは小さくうなずいた。


「では、負傷者の手当てをお願いします」


「分かった」


 遠くで、再び角笛が鳴った。


 今度はルミナス軍のものだった。


 王都から兵士たちが河川管理施設へ向かってくる。


 壊れた結界の代わりに。


 聖剣の代わりに。


 人の手で、国を守るために。


 リナはアルトを見る。


 フィオナに支えられ、まだ立てないままでいる。


 二本目の聖剣が砕けた。


 残るのは、あと一本。


 その一本を壊せば。


 アルトは消える。


 それでも旅は終わっていない。


 大河には水が戻り始めていた。


 青い光の粒が、空と大地へ静かに溶けていく。


 二つ目の聖剣は終わった。


 そして同時に。


 アルトに残された時間も、また一つ失われた。


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