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百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する  作者: situ725


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第15話 隠された接続

 街道が、風によって断ち切られていた。


 王都西部へ続く石畳。


 その中央に、巨大な亀裂が走っている。


 道の両側に生えていた木々は根元から折れ、一部は谷底へ落ちていた。


 崩れた地面の向こうには、横倒しになった補給馬車が見える。


 外れかけた車輪だけが、風に吹かれてゆっくりと回っていた。


 セルディア軍による王都攻略作戦が始まってから、二日目。


 最初に破壊された補給拠点の応急修復が進むよりも早く、今度は王都へ続く街道そのものが狙われた。


 補給馬車は王都へ入れない。


 負傷者を運ぶ荷車も通れない。


 復旧部隊が木材と縄を運んできているが、道をつなぎ直すには時間がかかる。


 さらに西の空には、淡い緑色の光が時折見えていた。


 レオニス本人の姿はない。


 それでも、セルディア軍は王都の周辺から離れていなかった。


 次の風刃を放てる距離を保ちながら、街道や橋を一つずつ壊している。


「随分と丁寧な攻め方ね」


 フィオナは崩れた街道を見下ろした。


「王都を直接落とすより、先に動けなくするつもりだろう」


 隣に立つアルトが答えた。


「食料が入らない。負傷者を運べない。伝令も通れない」


「そのうえ、セレスには結界を維持させ続ける」


「ああ」


 遠くの王都は、今日も青白い水の膜に覆われていた。


 攻撃が途切れている間も、結界は完全には解除されていない。


 いつ風刃が飛んでくるか分からないからだ。


 アクアレギアは今も、王都を守るために力を使い続けている。


「見事な消耗戦だな」


 アルトは感心したように言った。


「褒めるところではないでしょう」


「戦い方の話だ」


「分かっているわ」


 フィオナはアルトの横顔を見た。


 昨日、王都へ向かう風刃をそらそうとしたことで、右腕が再び透けた。


 今は輪郭が戻っている。


 だが、完全に元へ戻ったわけではない。


 袖口から見える手首。


 皮膚の下にあるはずの血管も、わずかな色も見えない。


 死人のように白い。


 もともと、この身体に人間と同じ血は流れていない。


 人間だった頃の形を、精霊力によって再現しているだけだ。


 それでも以前は、ここまで不自然ではなかった。


「フィオナ?」


 アルトがこちらを見る。


「何だ?」


「何でもないわ」


「そうか」


 問い返さない。


 それが今はありがたかった。


 同時に、少しだけ腹立たしかった。


 アルトは、自分の身体に異常が起きていることを知っている。


 それでも、自分から詳しく尋ねようとはしない。


 聞けば旅を止められる可能性があると、分かっているのかもしれない。


「本当に、水没神殿へ行くの?」


 後ろからリナが尋ねた。


 彼女は弓を背負い、復旧作業をする兵士たちを振り返っている。


「ここを手伝わなくていいの?」


「俺たちが石や木材を運んでも、大きくは変わらない」


 アルトが答えた。


「今は、アクアレギアを壊したあとに水がどう動くかを調べる方が先だ」


「でも、セルディア軍がまた来たら?」


「セレスが王都と復旧部隊を守る」


「一人で?」


「近衛兵もいる。それに、俺たちが近くにいても、昨日の風刃は止められなかった」


 リナは口を閉ざした。


 止められなかった。


 その言葉に、アルト自身を責める響きはない。


 ただ事実として受け入れている。


「水没神殿の記録に、アクアレギアを壊した後の水路を安定させる方法が残っているかもしれない」


 フィオナが言った。


「聖剣を壊した瞬間、せき止められている水が一度に流れ出せば、今度は洪水になる」


「干ばつを止めるために、村を流したら意味がないからな」


 アルトが続ける。


「だから、今のうちに調べる」


「分かった」


 リナはまだ王都を気にしていたが、うなずいた。


 三人は復旧部隊から離れ、街道脇の林へ入った。


 崩れた道を迂回しながら、大河の源流を目指す。


 水没神殿は、王都の北東。


 アクアレギアが作られる以前、水を司る精霊たちを祀っていた場所にある。


 アルトたちは本来、もっと早くそこへ向かう予定だった。


 しかし。


 ルカたちとの出会い。


 セルディア軍の補給拠点襲撃。


 セレスとの一時協力。


 いくつもの出来事によって、道を外れていた。


 今度こそ、神殿へ向かう。


 フィオナには、アクアレギア以外にも調べたいことがあった。


 アルトの身体。


 そして。


 三本の聖剣との、隠された接続だった。


     ◇


 水没神殿へ続く道は、途中から水の中へ沈んでいた。


 かつては石段だったのだろう。


 水面の下に、白い石がうっすらと見える。


 周囲には、腰ほどの高さまで水につかった柱が並んでいる。


 柱の表面には、水滴と魚を組み合わせた古い紋様が刻まれていた。


「全部、水の中……」


 リナが足元を見る。


「昔からこうだったの?」


「いや」


 アルトが答える。


「百年前は、神殿の周囲に小さな湖があるだけだった」


「じゃあ、アクアレギアのせい?」


「おそらくな」


 大河の流れを変え続けた結果、この辺りへ水が集まったのだろう。


 水深は深くない。


 だが、どこまで石段が続いているのか分からない。


 足を踏み外せば、急に深くなる可能性がある。


「私が先に見るわ」


 フィオナは水面へ手を伸ばした。


 淡い翠色の光が指先から流れる。


「この水にいる子たち。少しだけ道を教えてくれる?」


 水面に小さな光が浮かんだ。


 一つ。


 二つ。


 やがて数十の光が、石段の上へ並ぶ。


 神殿までの安全な道を示している。


「アクアレギアに命令されてる精霊じゃないの?」


 リナが尋ねた。


「ここに残っている、力の弱い子たちよ。聖剣に引き寄せられず、水の底へ隠れていたみたい」


 フィオナが歩き出す。


 アルトとリナも後に続いた。


 水は冷たい。


 だが、フィオナには温度そのものより、水の中に満ちた不自然な力の方が気になった。


 流れがない。


 本来なら大河の源流に近い場所だ。


 わずかでも水は動いているはずなのに、ここだけ時間が止まったように静かだった。


 アクアレギアの力が、水の流れを固定している。


 神殿の入口は、半分ほど水へ沈んでいた。


 アルトが扉へ手をかける。


「開けるぞ」


「待って」


 フィオナは扉の表面を調べた。


 水の封印。


 侵入者を拒むものではない。


 内部へ流れ込む水を抑えるための術式だ。


「このまま開けても大丈夫よ」


「罠は?」


「ないわ」


「百年前と同じなら、か?」


「あなた、私を疑っているの?」


「百年も経っているからな」


「だったら、最初から自分で調べなさい」


「精霊術は専門外だ」


「知っているわ」


 フィオナは扉に手を置いた。


 水の封印へ、自分の精霊力を流す。


 青白い紋様が光り。


 石の扉が、音を立てて内側へ開いた。


 水は流れ込まない。


 入口の境界で、見えない壁に阻まれている。


 三人が中へ入ると、扉が閉じた。


 濡れていた服や靴から、水滴が落ちる。


 神殿内部は暗い。


 フィオナが小さな光を生み出す。


 翠色の光が天井へ浮かび、周囲を照らした。


 壁には、大河と人々の暮らしを描いた壁画が残っている。


 川から水を引く農民。


 船で物を運ぶ商人。


 井戸の周りで遊ぶ子ども。


 その中心に、一人の女性が描かれていた。


 長い青髪。


 広げた両手の間には、水路を流れる水と、複雑な術式が描かれている。


「エレナ?」


 アルトが壁画を見上げた。


「そうみたいね」


 エレナ・ルーヴェル。


 百年前、アルトと共に魔王と戦った水術師。


 三本の聖剣の術式設計に関わり。


 なかでも、第二聖剣アクアレギアの制御術式を担当した人物だった。


 戦いが終わった後は、ルミナスの水路整備へ力を尽くした。


「知ってる人?」


 リナが尋ねた。


「仲間だ」


 アルトは短く答えた。


「水の扱いでは、俺たちの中で一番だった」


「どんな人?」


「怒ると怖かった」


「最初に出てくるのがそれ?」


「料理も上手かった」


「そういうことじゃないと思うわ」


 フィオナが言う。


「エレナは、無駄なことを嫌う人だった。アルトが無茶をすると、毎回水の塊で殴っていたわ」


「フィオナより怖い?」


「私がアルトを殴ったことはないでしょう」


「剣で叩いたことはある」


「あれは治療よ」


「どんな治療?」


 リナが聞く。


「気絶させて、強制的に休ませたの」


「それを治療って言うんだ……」


 三人の声が、暗い神殿へ響く。


 百年前の仲間の話。


 アルトは少しだけ笑っていた。


 だが、その笑顔を見た瞬間。


 フィオナの胸が重くなる。


 この時間を失いたくない。


 だからこそ、調べなければならない。


「記録室は奥よ」


 フィオナは先へ進んだ。


     ◇


 記録室の扉には、三つの水滴が重なる紋様が刻まれていた。


 エレナが使っていた個人紋章だ。


 アルトが扉へ手を触れる。


「開かないな」


「魔力認証が残っているのね」


「俺たちの仲間でも駄目か」


「エレナの魔力以外を拒むように作られている」


「本人は百年前に死んでるよね?」


 リナが尋ねる。


「ええ」


「じゃあ、誰も入れないんじゃない?」


「普通ならね」


 フィオナは扉へ近づいた。


「でも、ここにはエレナの力が残っている」


 壁。


 床。


 周囲を満たす水。


 どこにでも、エレナの魔力の痕跡がある。


 百年という時間で薄れてはいるが、完全には消えていない。


「借りるわよ、エレナ」


 フィオナは水の精霊へ呼びかけた。


 神殿の外にいた小さな光とは違う。


 この場所に長くとどまり、エレナの魔力を記憶している精霊たち。


 青い光が壁から浮かび上がる。


 フィオナは、その光を扉の紋章へ導いた。


 三つの水滴が順に輝く。


 重い音。


 扉が開いた。


「精霊は、死んだ人の力まで覚えてるの?」


 リナが尋ねた。


「長い間一緒にいたものなら、痕跡は残るわ」


「人間の記憶と同じ?」


「似ているけれど、少し違う。声や顔を覚えているわけではないの」


「じゃあ、何を?」


「その人が、どんなふうに力を使ったか」


 フィオナは答えながら、記録室へ入った。


 室内には、石で作られた棚が並んでいる。


 紙の本はほとんど残っていない。


 代わりに、手のひらほどの青い水晶板が棚へ収められていた。


 水と精霊力へ情報を刻み込む記録媒体。


 エレナが得意としていた術式だ。


「読める?」


 アルトが水晶板を一枚手に取る。


「ええ。時間はかかるけれど」


「手分けは?」


「あなたには読めないでしょう」


「見出しくらいなら」


「古代水精文字よ」


「昔は少し読めた」


「『入口』と『出口』を間違えていた人が?」


「似ていただろ」


「正反対よ」


 フィオナは水晶板を奪い返した。


「アルトとリナは、神殿内の水路図を探して」


「それなら俺にも分かる」


「無理をして力を使わないで」


「水路図を探すだけだ」


「棚が倒れていても持ち上げない」


「分かった」


「壁が崩れていても押さえない」


「分かった」


「誰かが挟まれていない限り、剣を抜かない」


「そこまで言うか?」


「言わないとやるでしょう」


 アルトは否定しなかった。


 リナが隣でうなずいている。


 二人は別の棚へ向かった。


 フィオナは、残された水晶板を一枚ずつ調べ始めた。


 水路管理。


 精霊との契約。


 大河の増水記録。


 魔王戦争後の復旧計画。


 アクアレギアの制御方法。


 アクアレギアの封印方法。


 探しているのは、聖剣内部に残る力についての記録。


 フレイムベルグを破壊した夜。


 フィオナは、アルトの魂と三本の聖剣がつながっていることに気づいた。


 本来、蘇生に使用したのは。


 アルトの遺品。


 残された骨片。


 契約印。


 フィオナ自身の精霊核。


 そして三本の聖剣に残る、アルトの魔力の痕跡だった。


 聖剣は魂を呼び戻す道標にすぎない。


 そう思っていた。


 だが、焼かれた森には、仮初めの身体を完全に維持するだけの生命力がなかった。


 足りなかった力を補うため。


 蘇生術は、無意識のうちに三本の聖剣との接続を残した。


 三本の聖剣に残された痕跡との接続が、アルトの魂の位置を現世へ固定し、仮初めの身体を支えている。


 フレイムベルグが砕けたことで、そのうち一つが失われた。


 だからアルトは、味覚を失った。


 満腹感を失った。


 体温を失い。


 身体の一部が透け始めた。


 仮説にすぎない。


 確証はなかった。


 確証がなければ、まだ別の可能性を信じられた。


 だが。


 フィオナは一枚の水晶板へ手を伸ばした。


 表面に刻まれた文字。


 聖剣に残留する使用者の痕跡について。


 指先が止まる。


 水晶板へ精霊力を流す。


 青い光が広がり、エレナの記録が空中へ浮かび上がった。


     ◇


 聖剣は、ただ精霊力を蓄える器ではない。


 剣を振るう者の魔力。


 感情。


 意思。


 そして、魂と共鳴するほど深い痕跡を内部へ刻み込む。


 それは魂そのものではない。


 魂の一部が剣へ分かれて残るわけでもない。


 だが、本人の魂へ届くほど強く共鳴する、存在の痕跡だった。


 使用期間が長いほど。


 注いだ魔力が強いほど。


 その痕跡は深くなる。


 三本の聖剣を扱った者は。


 アルト・レイヴァンただ一人だった。


 炎のフレイムベルグ。


 水のアクアレギア。


 風のエアリアル。


 三本は異なる性質を持ちながら。


 すべて、同じ使い手の魔力へ結びつくよう作られていた。


 アルトは魔王軍との戦いで。


 状況に応じて、三本の聖剣を使い分けた。


 フレイムベルグで敵の防壁を焼き。


 アクアレギアで仲間と土地を守り。


 エアリアルで戦場を駆けた。


 アルトが剣を振るう傍らで。


 エレナは三本の術式を制御し。


 カインは前衛としてアルトの背を守り。


 ミリアは傷ついた身体を癒やし。


 フィオナは精霊力の流れを支えた。


 三本の聖剣は。


 アルト一人の力だけで振るわれたものではない。


 それでも。


 三本すべてを手に取り。


 その内部へ魔力を流し続けたのは、アルトだった。


 長い戦いと。


 魔王との最終決戦。


 そのすべてを通して。


 三本の内部には。


 アルトの魂と共鳴するほど深い痕跡が刻まれていた。


 エレナの記録には、こう記されていた。


 聖剣に刻まれた痕跡は、使用者が死んでも完全には消えない。


 肉体を失った魂へ、遠くから影響を与えることさえある。


「やっぱり……」


 フィオナの声が震えた。


 予想していた。


 何度も考えた。


 それでも、文字として示されると、逃げ道がなくなる。


 三本の聖剣に残るアルトの痕跡。


 それを道標として、魂を呼び戻した。


 蘇生後も接続が切れなかった。


 いや。


 切れなかったのではない。


 フィオナの蘇生術が、切らなかった。


 アルトを現世へ留めるために。


 意識して選んだわけではない。


 術式が自動的に、最も安定する方法を選んだ。


 だが、その術式を使ったのはフィオナだ。


「三本が……支柱になっている」


 一つを壊せば、身体を支える接続が一つ失われる。


 二つ目を壊せば、さらに弱る。


 三つ目を壊せば。


 接続はすべて失われる。


 契約印だけでは、アルトの魂を現世へつなぎ止められない。


 契約印は、フィオナとアルトをつなぐもの。


 力を送り。


 互いの存在を感じ。


 アルトの身体をわずかに安定させる。


 だが、魂そのものを死者の世界から引き止める支柱ではない。


 三本すべてを壊せば。


 アルトは消える。


「……駄目」


 フィオナは次の記録を探した。


 魂の痕跡を、別の器へ移す方法。


 人工的な聖剣。


 新たな契約。


 無銘の剣。


 古い鉄剣。


 契約印。


 自分の精霊核。


 何でもいい。


 三本の聖剣が担っている役割を、別のものへ移せればいい。


 フィオナは水晶板を次々と開いた。


 聖剣同士の共鳴。


 使用者認証の再構築。


 残留魔力の除去。


 魂の痕跡の浄化。


 だが。


 少なくとも、エレナが残した記録の中には、痕跡を別の器へ移す方法はなかった。


 魂の痕跡は、長い時間をかけ、本人がその剣を使うことで刻まれる。


 魔力だけを移しても意味はない。


 記憶を写しても意味はない。


 アルト本人の魂へ届くほど深い痕跡。


 それを短期間で人工的に再現することはできない。


「だったら……」


 もう一度、アルトに剣を使わせる。


 別の三本へ、魂の痕跡を刻ませる。


 一瞬、そう考えた。


 だが、エレナの記録に答えがあった。


 深い痕跡が刻まれるには、数年。


 場合によっては数十年必要になる。


 今のアルトに、それだけの時間はない。


 そもそも、フレイムベルグを一本壊した時点で、身体は不安定になっている。


「他に……」


 フィオナは水晶板を握った。


「何かあるはずよ」


 声が、記録室に響く。


 返事はない。


「あなたなら残したでしょう、エレナ」


 壁画の中で笑っていた古い仲間。


 無駄を嫌い。


 最悪の事態を考え。


 いくつもの予備策を用意していた人。


「聖剣を壊したあとに、痕跡だけを残す方法」


 見つからない。


「接続を、別の場所へ移す方法」


 記されていない。


「仮初めの身体を、完全な身体へ変える方法」


 どの水晶板にもない。


 いくら探しても、エレナの記録から答えは見つからなかった。


 死者を完全に蘇らせる方法など、存在しない。


 フィオナが行ったのは奇跡ではない。


 いくつもの偶然と、代償。


 精霊核。


 契約印。


 遺骨。


 三本の聖剣。


 すべてをつなぎ合わせ、短い時間だけ死者を現世へ引き戻した。


 借りた時間。


 それだけだった。


 フィオナは水晶板へ額を当てた。


「どうして……」


 自分で蘇らせた。


 もう一度だけ力を貸してほしいと願った。


 聖剣を破壊する旅へ送り出した。


 その旅の終わりに、アルトが消えることも知らずに。


「フィオナ?」


 アルトの声がした。


 フィオナはすぐに顔を上げた。


「何?」


 アルトが記録室の入口に立っている。


 手には、水路図が刻まれた石板。


「見つけた」


「そう」


「そっちは?」


「まだよ」


 嘘をついた。


「聖剣を壊した後の水流を安定させる方法は?」


「いくつか記録があるわ。もう少し調べる必要がある」


「分かった」


 アルトは、フィオナの手元を見る。


 開かれている水晶板。


 浮かんでいた文字は、すでに消していた。


「何かあったか?」


「何もないわ」


「顔色が悪い」


「精霊に顔色なんてあるの?」


「あるだろ」


「見間違いよ」


「そうか」


 また、深く尋ねない。


 アルトは石板を近くの机へ置いた。


「少し休め」


「あなたに言われたくないわ」


「俺は休んでいる」


「右腕を使わずに石板を運んだの?」


「ああ」


「左手だけで?」


「ああ」


「棚が倒れていたら?」


「リナと一緒に起こした」


「力を使った?」


「使ってない」


「本当に?」


「本当だ」


 フィオナはアルトの左手首を見る。


 淡い翠色の契約印。


 今は静かに光っている。


 この印も、最後には消える。


 アルトの身体と一緒に。


「フィオナ?」


 アルトがもう一度呼ぶ。


「何でもない」


 フィオナは水晶板を棚へ戻した。


「水路図を確認するわ。あなたはリナと入口で待っていて」


「まだ調べるのか?」


「必要な記録を持ち出せるようにするだけよ」


「手伝う」


「古代水精文字を読めない人に、何を手伝えるの?」


「持つくらいはできる」


「右腕を休ませて」


「もう戻っている」


「戻って見えるだけよ」


 思ったより強い声が出た。


 アルトが黙る。


「……分かった」


 彼はそれ以上言わず、記録室を出ていった。


 足音が遠ざかる。


 フィオナは胸元へ手を当てた。


 アルトを騙したいわけではない。


 真実を永遠に隠すつもりでもない。


 ただ。


 まだ話せない。


 今話せば、アルトは迷わない。


 三本すべてを破壊すると決めている。


 自分が消えると知っても、その決意を変えない。


 だから。


 助ける方法を見つけるまで。


 もう少しだけ。


 時間が欲しかった。


     ◇


 神殿を出た頃には、空が暗くなり始めていた。


 西の空が赤く染まっている。


 王都の水の結界は、夕焼けを映して紫色に輝いていた。


 三人は神殿近くの高台で休むことにした。


 完全に王都へ戻るには時間が足りない。


 夜間にセルディア軍の攻撃が始まれば、街道を移動する方が危険だった。


 アルトは、集めた水路図を地面へ広げている。


 フィオナが、その隣で記録の内容を説明する。


「アクアレギアが壊れた瞬間、固定されていた水は本来の流れへ戻ろうとする」


「一度に?」


 リナが尋ねた。


「ええ。今のままなら、ガルディア方面へ大量の水が流れ込む」


「水が戻るなら、いいんじゃないの?」


「乾いた土地へ大量の水が流れれば、地面が崩れるわ」


 フィオナは水路図の一部を指した。


「村だけではなく、農地や橋も流される可能性がある」


「じゃあ、どうするの?」


「聖剣を壊す前に、古い分水路を開く」


 アルトが答えた。


「水をいくつかの川へ分けて流せば、一つの場所へ集中しない」


「でも、その分水路は使えるの?」


「記録では、百年前に封鎖されている」


 フィオナが別の場所を指す。


「ここ。水没神殿の地下から、三つの水路へ分かれている」


「誰が開けるの?」


「俺が行く」


「駄目」


 フィオナが即答した。


「まだ何も言ってないよ」


 リナが驚く。


「アルトが水路へ行くと言った時点で、無理をするのは分かるもの」


「扉を開くだけだ」


「百年前から動かしていない扉を?」


「少しくらい固まっているかもしれない」


「少しで済むと思っているの?」


「そのとき考える」


「その考え方をやめなさい」


 フィオナの声が強くなる。


 アルトは水路図から顔を上げた。


「どうした?」


「何が?」


「神殿に入ってから、おかしいぞ」


「おかしくないわ」


「いつもより怒ってる」


「あなたがいつもより無茶をするからよ」


「昨日のことなら謝った」


「謝ってないでしょう」


「そうだったか?」


「ほら、覚えていない」


「それは無茶と関係ないだろ」


 二人の会話を、リナは黙って聞いていた。


 フィオナの様子がおかしい。


 神殿を出てから、ずっとアルトを見ている。


 右手。


 左手首。


 歩き方。


 呼吸。


 まるで、身体のどこかに異常がないか確かめているように。


 これまでも、フィオナはアルトを気にしていた。


 だが、今日は違う。


 少しでも目を離せば、消えてしまうものを見るような目だった。


「俺は少し周辺を見てくる」


 アルトが立ち上がった。


「どこへ?」


「王都へ戻る安全な道を探す」


「一人で行くの?」


「近くだけだ」


「私も――」


「フィオナは水路図をまとめてくれ」


 アルトは無銘の剣を腰へ差す。


「リナは休んでいていい」


「アルトは休まないの?」


「戻ったら休む」


「絶対?」


「努力する」


「信用できない」


「戻ってくる」


 アルトは高台を下り、林の中へ消えていった。


 フィオナは、その背中をずっと見ていた。


 姿が見えなくなっても。


「フィオナ」


 リナが呼ぶ。


「何?」


「神殿で、何を見つけたの?」


 フィオナの肩がわずかに動いた。


「水路の記録よ」


「それだけ?」


「ええ」


「嘘」


 フィオナがリナを見る。


「どうしてそう思うの?」


「セレスも同じことを聞いてた」


「何を?」


「嘘だと思った理由」


 リナはフィオナの向かいへ座った。


「アルトのことをずっと見てる」


「いつものことでしょう」


「違う」


「何が違うの?」


「今にも消えるみたいに見てる」


 フィオナは何も言わなかった。


 その沈黙で、リナの胸がざわつく。


「アルトの身体に、何が起きてるの?」


「フレイムベルグを壊した影響よ」


「それは知ってる」


「なら――」


「全部は聞いてない」


 リナはフィオナから目を離さなかった。


「味が分からなくなった」


「身体が冷たくなった」


「傷ついたとき、輪郭が透けた」


「昨日は、右腕がほとんど見えなくなった」


「それだけじゃないんでしょ?」


 フィオナは水路図へ視線を落とした。


「アルト本人に聞いて」


「本人も知らないことなんじゃない?」


「……どうして?」


「知ってたら、あの人は隠さない」


「隠すかもしれないわ」


「身体のことを軽く言うことはある。でも、何が起きてるかまで分かってたら、フィオナに黙ってないと思う」


 リナは断言できなかった。


 アルトは、自分の命を軽く扱う。


 人を心配させないために、黙ることもある。


 それでも。


 フィオナの反応を見れば分かる。


 今、真実を隠しているのは彼女の方だ。


「一本壊したから、弱ったんだよね?」


 リナが尋ねる。


「ええ」


「アクアレギアを壊したら?」


 フィオナの指が、水路図の端をつかむ。


 石板の表面に、爪が当たる。


「もっと弱る」


「どれくらい?」


「分からない」


「歩けなくなる?」


「可能性はある」


「剣を持てなくなる?」


「それも、あるかもしれない」


「身体がもっと透ける?」


「……ええ」


 リナは息を吸った。


「どうして?」


 フィオナは答えない。


「聖剣を壊しただけで、どうしてアルトの身体が消えるの?」


「消えるとは言っていないわ」


「今、そういう顔をした」


「リナ」


「三本の聖剣と、アルトの身体がつながってるの?」


 フィオナの表情が変わった。


 ほんのわずか。


 それで十分だった。


「やっぱり……」


「全部、分かっているわけではない」


 フィオナが低い声で言った。


「でも、つながってるんだね?」


「ええ」


 否定できなかったのだろう。


 フィオナは、ゆっくりとうなずいた。


「三本の聖剣には、百年前にアルトが使ったときの魂の痕跡が残っている」


「魂の……痕跡?」


「魂そのものではないわ。その人の魂へ届くほど強く共鳴する、存在の痕跡よ」


「それが、どうして今のアルトとつながってるの?」


「私が蘇生したとき、三本の聖剣に残る痕跡を道標にしたから」


「道標?」


「死者の世界にいるアルトの魂を、こちらへ呼び戻すために使った」


 フィオナの声が震えている。


「本当は、魂を見つけるためだけのものだった」


「でも、違った?」


「焼かれた森には、身体を完全に作るだけの生命力が残っていなかった」


「だから?」


「蘇生術は、三本の聖剣との接続を残したまま、アルトの身体を作った」


 リナは理解しようとした。


 三本の聖剣。


 アルトの魂。


 仮初めの身体。


 それらが、見えない糸でつながっている。


「聖剣が、アルトの身体を支えてる?」


「ええ」


「一本壊したから、一つ支えがなくなった」


「そうよ」


「だから、弱ってる」


 フィオナはうなずいた。


「じゃあ、二本目を壊したら?」


「今よりも、確実に悪化する」


「三本目を壊したら?」


 フィオナは答えなかった。


 夕方の風が、高台を吹き抜ける。


 遠くで、復旧作業の音が聞こえる。


 王都を覆う水の結界が、夕焼けの中で揺れている。


「三本目を壊したら?」


 リナはもう一度尋ねた。


 フィオナは、何も言わない。


 否定もしない。


 大丈夫だとも言わない。


 その沈黙だけで、分かった。


「アルトは、消えるの?」


 フィオナは目を閉じた。


「……その可能性が高いわ」


 リナの頭の中が、真っ白になった。


「可能性って?」


「まだ、実際に起きたわけでは――」


「どれくらい?」


「リナ」


「どれくらいの可能性なの?」


 フィオナは答えない。


 それが答えだった。


「知ってたの?」


「フレイムベルグを壊したあとから、疑っていた」


「いつ確信したの?」


「今日。エレナの記録を読んで」


「なのに、アルトには言わなかった?」


「まだ、助ける方法を探している」


「あるの?」


 フィオナの沈黙。


「見つかったの?」


「少なくとも、エレナの記録にはなかったわ」


「じゃあ、ないんじゃないの?」


「他にも記録はある!」


 フィオナが声を上げた。


 翠色の光が周囲へ広がる。


 木々の葉が揺れた。


 すぐに光は消える。


「ごめんなさい」


 フィオナは顔を伏せた。


「でも、まだ探し終えていない」


「本人に話すべきだよ」


「話せば、あの人は迷わず自分を捨てる」


「それでも、アルトの命でしょ」


「分かっているわ」


「分かってない」


 リナの声も強くなった。


「三本目を壊したら消えるかもしれないのに、何も知らないまま進ませるの?」


「進ませたいわけじゃない!」


「でも、止めてもいない」


「止めたら、理由を聞かれる」


「なら、話せばいい」


「話せないのよ!」


 フィオナの声が震えた。


「アルトは、聖剣を残さない」


「自分が消えると知っても?」


「知ったからこそ、壊すわ」


「どうして?」


「自分が生きるために聖剣を残したと、あの人自身が思うことを何より嫌うから」


「誰かに責められるから?」


「違う。自分自身が許さないのよ」


 リナは何も言えなかった。


 アルトなら、そうする。


 誰かに責められるからではない。


 正しい勇者でありたいからでもない。


 自分が残した聖剣によって、また誰かが傷つくことを許せない。


 自分が生きるためだとしても。


「だから、隠すの?」


「少しだけ時間が欲しい」


「何のために?」


「助ける方法を探すため」


「いつまで隠すの?」


「……分からない」


「それじゃ駄目」


 リナは言った。


「王都へ戻ったら話す」


 フィオナが顔を上げる。


「リナ」


「方法が見つかっても、見つからなくても」


「もう少しだけ――」


「駄目」


 リナは首を振った。


「今夜はここに泊まる。明日、王都へ戻る」


「ええ」


「戻ったら、アルトに話す」


 フィオナは、すぐには答えなかった。


「フィオナ」


「……分かったわ」


「絶対だよ」


「ええ」


「隠して進ませる方がひどい」


 リナが言った。


 言葉にした瞬間。


 フィオナの顔が痛みに歪んだ。


「分かっているわ」


 小さな声だった。


「分かっている」


 フィオナが欲しいのは、アルトを騙すことではない。


 生き延びる方法を探すための時間。


 そのことは、リナにも分かった。


 だからといって、正しいとは思えない。


「私も手伝う」


 リナが言った。


 フィオナが顔を上げる。


「何を?」


「アルトを助ける方法を探す」


「でも――」


「隠すのに賛成したわけじゃない」


「ええ」


「私は本人に話した方がいいと思ってる」


「分かっているわ」


「それでも、王都へ戻るまで探せることは探す」


 リナは自分でも、矛盾していると思った。


 アルトに話すべきだ。


 隠すのは間違っている。


 それでも。


 話せば、アルトが迷わず聖剣を壊すと分かっている。


 それは、死ぬと分かっている場所へ、自分から進ませることになる。


「その記録、私にも見せて」


「古代水精文字よ」


「読めなくても、何かできるかもしれない」


「例えば?」


「人に聞く」


「誰に?」


「セレス」


 フィオナの目が見開かれる。


「駄目よ」


「どうして?」


「アクアレギアの使い手よ。アルトの身体が聖剣とつながっていると知れば――」


「聖剣を壊させないために利用する?」


「可能性はある」


「でも、セレスはアルトを殺したいわけじゃない」


「国を守るためなら、何を選ぶか分からない」


「それは、私たちも同じじゃない?」


 フィオナは言葉を失った。


 自分たちは、アルトを守るために真実を隠そうとしている。


 セレスは国民を守るために、敵国の水を止めている。


 守りたいもののために、誰かの選択を奪う。


 形は違っても、似ている。


「今すぐセレスに話すとは言ってない」


 リナが続ける。


「まず、アルトに話す」


「ええ」


「それから、一緒に方法を探す」


「受け入れてくれるかしら」


「受け入れさせる」


「どうやって?」


「フィオナと二人で怒る」


「それで聞く人なら、苦労しないわ」


「セレスも入れたら?」


「余計に反発すると思う」


 二人は、ほんの少しだけ笑った。


 重い空気が、わずかに緩む。


 だが。


 林の方から、足音が聞こえた。


 アルトが戻ってくる。


 フィオナとリナは同時に口を閉ざした。


 無意識だった。


 アルトが高台へ上がってくる。


「どうした?」


「何が?」


 リナが答える。


「二人とも、急に黙った」


「別に」


「そうか?」


「安全な道は見つかった?」


 フィオナが話題を変える。


「ああ。東側の林を抜ければ、崩れた街道を避けられる」


 アルトは二人の間へ座った。


 視線が、水路図へ向く。


「何を話していた?」


「水路のことよ」


 フィオナが答える。


「アクアレギアを壊した後の流れをどうするか」


「何か思いついたか?」


「まだ」


「リナは?」


「何が?」


「顔が赤い」


「怒ってたから」


「何に?」


「アルトに」


「俺は今、いなかっただろ」


「いなくても怒れる」


「器用だな」


 アルトは困ったように笑った。


 リナは、その笑顔を見られなかった。


 右手。


 今は元に戻っている。


 黒い髪。


 いつもと変わらない顔。


 声。


 呼吸。


 そのすべてが、残された二本の聖剣によって、かろうじて現世につなぎ止められている。


「アルト」


 リナは呼んだ。


「何だ?」


 今、話すべきだ。


 そう思った。


 フィオナも、リナを見ている。


「……無理しないで」


 結局。


 それしか言えなかった。


「分かっている」


 アルトはいつものように答えた。


「本当に?」


「ああ」


「約束できる?」


「できる範囲で」


「それ、約束じゃない」


「なら、努力する」


「それも違う」


 リナは言い返しながら、胸の奥が苦しくなった。


 アルトは知らない。


 自分が、あと二本の聖剣によって生かされていることを。


 一本壊すたび。


 自分の存在が、この世界から削られていくことを。


 三本目を壊した先に。


 自分の終わりが待っていることを。


 その事実を。


 フィオナとリナは、まだ告げられずにいた。


     ◇


 水没神殿で一夜を明かし、三人は翌朝、王都へ戻る道を進んだ。


 街道の復旧は終わっていなかった。


 セルディア軍は新たに別の橋を破壊し、復旧部隊の行く手を妨げていた。


 アルトたちは林と旧道を使い、崩れた街道を迂回する。


 日が沈む頃。


 ようやく王都西部の外壁が見えた。


 攻略作戦が始まって、三日目の夜。


 王都の方角で、警鐘が鳴った。


 一度ではない。


 北。


 西。


 南西。


 異なる方角から、立て続けに。


 三人が足を止める。


 暗い空に、淡い緑色の光が走った。


 一つ。


 続いて、もう一つ。


 さらに別の方角から、三つ目。


 王都を覆う水の結界が、青白く輝く。


 風刃が水の膜へ衝突した。


 遠くで、水と風が弾ける。


 結界が揺れる。


 水滴が夜空へ舞う。


 王都へ戻ったら話すはずだった言葉は、鳴り響く警鐘に遮られた。


 アルトが外壁へ向かって走り出す。


 フィオナとリナは一度だけ顔を見合わせ、その後を追った。


 今は、王都へ急ぐしかなかった。


 セレスは今夜も、眠れない。


 アクアレギアは、また力を使う。


 その内部に蓄えられた精霊力が、少しずつ削られていく。


 やがてアルトが、その剣を破壊するとき。


 現世へ彼をつなぎ止める二本目の支柱も失われる。


 フィオナは、前を走るアルトを見た。


 いつまで。


 あと、どれほど。


 この人を、この世界につなぎ止めていられるのか。


 答えは、どの記録にも残されていなかった。


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