第14話 正しい戦争
夜の補給街道を、三人は西へ向かっていた。
遠い空では、淡い緑色の光が断続的に明滅していた。
同じ場所から立ち上る光。
そのたびに、少し遅れて何かが崩れる重い音が届く。
雷とは違う。
空から落ちてくるのではなく、大地そのものを揺らすような音だった。
「さっきより近い」
リナは走りながら空を見上げた。
「攻撃地点へ近づいているからよ」
フィオナが答える。
「風の精霊が怯えているわ」
夜風が木々を揺らしている。
だが、自然に吹いているようには見えない。
一定の方向へ引かれ、強い流れに巻き込まれている。
どこかで、巨大な力が周囲の風と、そこに宿る精霊力を引き寄せている。
「聖剣なの?」
「可能性は高い」
アルトが先を見据えたまま答えた。
「でも、まだ確かめられていない」
「もし三本目だったら?」
「止める」
「身体は?」
「まだ動く」
「そういう意味じゃない」
アルトは答えなかった。
王宮で透けた右手。
今は元に戻っている。
それでも、次に無理をしたとき、同じ程度で済む保証はない。
「戦いに行くわけじゃないって言ったよね」
「言った」
「今、剣に手をかけてる」
アルトの左手は、無銘の剣の柄へ添えられていた。
「警戒しているだけだ」
「戦わないでよ」
「状況による」
「それ、さっきも聞いた」
リナが言い返した瞬間。
正面の夜空が明るくなった。
淡い緑色の光。
今度は、はっきり見えた。
光は空ではなく、地上から伸びている。
王都西部へ続く街道。
補給拠点が置かれている方角だ。
続いて、何かが崩れる音が響いた。
「急ぐぞ」
アルトが走る速度を上げる。
「無理はしないって――」
「人がいる」
短い答えだった。
リナはそれ以上、止められなかった。
◇
丘を越えた先に、炎が見えた。
燃えているのは建物ではない。
横倒しになった荷車。
散乱した麦袋。
割れた油壺。
そこから漏れた油に火が移り、街道の一部を赤く照らしている。
補給拠点は、低い木柵に囲まれていた。
内部には複数の倉庫。
厩舎。
兵士用の宿舎。
荷車を修理する作業場。
王都へ送る食料と武器を集積する施設だった。
今、その半分が壊れている。
倉庫の屋根が剥がれていた。
木柵は一方向へ倒れている。
何台もの補給馬車が横転し、車輪を空へ向けていた。
地面には兵士や作業員が倒れている。
「遅かった……」
リナは息をのみながら呟いた。
「まだ終わっていない」
アルトが丘を下りる。
補給拠点の中央。
淡い緑色の風が渦を巻いていた。
その中心に、一人の若い男が立っている。
年齢はアルトと大きく変わらないように見えた。
短い金色の髪。
白を基調とした服。
肩や胸元には、金色の装飾が施されている。
戦場に立つ兵士というより、教会の祭壇に描かれる聖人のような姿だった。
右手には、細身の長剣。
透明に近い淡緑色の刀身。
剣の周囲では、風が絶えず回転している。
男の背後には、翼のような光の残像が揺れていた。
「なんなの、あれ……」
リナの声は風にかき消されそうになった。
人間が立っている。
そう見えるのに、地面へ足をつけている感じがしない。
風に支えられ、わずかに浮かんでいる。
男が剣を振る。
轟音。
淡い緑色の風が地面を駆け抜けた。
倉庫の扉が吹き飛ぶ。
積み上げられていた木箱が持ち上がり、空中で砕けた。
中に入っていた矢や槍が地面へ散らばる。
「離れろ!」
ルミナス兵が叫ぶ。
「倉庫から離れろ!」
兵士と作業員が逃げる。
だが、強風に足を取られ、何人も地面へ転がった。
その向こう側。
白と灰色の法衣を着た兵士たちが並んでいる。
セルディア聖教国の軍だ。
街道脇には、細身の馬へ乗った騎兵も待機していた。
彼らは風の中心にいる男を見上げ、一斉に声を上げた。
「二代目勇者レオニス様!」
「聖剣の加護は、我らとともに!」
「偽りの王国へ、神の裁きを!」
二代目勇者。
その呼び名を聞いた瞬間。
リナは隣のアルトを見た。
アルトは何も言わない。
ただ、白と金の青年が握る剣を見ていた。
表情は変わらない。
それでも、柄へ添えた左手に力が入っている。
「アルト?」
「……あの剣」
アルトが小さく呟く。
「知ってるの?」
答えはなかった。
補給拠点の中で、別の風が巻き起こった。
レオニスが横へ剣を振る。
風の刃が、並んでいた補給馬車へ向かった。
車体が浮かび上がる。
一台。
二台。
三台。
大きな馬車が、木の玩具のように転がった。
「まだ中に人がいる!」
リナが叫んだ。
横転した馬車の下から、腕が見えている。
作業員が挟まれている。
「フィオナ!」
「分かっているわ」
フィオナが両手を広げた。
周囲の木々がざわめく。
拠点外側に残っていた自然の風が、彼女の周囲へ集まった。
「お願い。あの人たちを守って」
小さな風が地面を走る。
横転した馬車の隙間へ入り込み、車体をわずかに持ち上げた。
「リナ!」
アルトの声。
「助け出せ!」
「アルトは?」
「他の馬車を止める」
アルトは無銘の剣を抜いた。
「戦わないって言った!」
「人を助けるだけだ!」
そのまま風の中へ走り込む。
レオニスが生み出した暴風。
アルトは無銘の剣を地面へ斜めに構えた。
フィオナから翠色の光が流れる。
刀身へ、周囲の風がまとわりついた。
強風を打ち消すのではない。
流れを読み。
受け流し。
倒れた兵士たちから外側へそらしている。
リナは馬車へ駆け寄った。
「聞こえる?」
車体の下へ声をかける。
「誰かいる?」
「ここだ……」
男の声が返った。
足を挟まれている。
隣には、若い作業員も倒れていた。
「今、助けるから」
リナは馬車の縁へ手をかけた。
「持ち上がらない……!」
「もう少し待って」
フィオナが目を閉じる。
馬車の下へ入った風が強まった。
車体が、ゆっくりと浮く。
「今よ!」
リナは男の腕をつかんだ。
引く。
男の身体が地面を滑る。
続いて、若い作業員の服をつかんだ。
引きずり出した直後。
馬車が地面へ落ちる。
大きな音が響いた。
「生きてる?」
リナは二人の呼吸を確かめる。
足を挟まれていた男は意識がある。
若い作業員も、頭から血を流しているが呼吸している。
「動かないで」
「お前は……」
「話はあと」
リナは腰の布を取り、男の足を固定した。
周囲を見る。
まだ何人も倒れている。
補給拠点の兵士たちは、セルディア軍へ向かおうとしていた。
「弓兵、構えろ!」
ルミナス側の指揮官が叫ぶ。
弓兵たちが一斉に矢をつがえる。
狙いは、風の中心に立つレオニス。
「放て!」
数十本の矢が飛ぶ。
だが、レオニスへ届く前に軌道を変えた。
彼の周囲を回る風が、矢をすべて巻き込む。
矢は空中で回転し。
そのまま地面へ落ちた。
レオニスは反撃しなかった。
ただ、自分へ放たれた矢を見下ろしている。
一瞬。
その表情が揺れたように見えた。
「下がれ!」
セルディア側の指揮官が声を上げる。
灰色の法衣。
胸には、金色の翼をかたどった紋章。
「レオニス様。拠点の破壊は完了しました」
レオニスは、周囲を見回した。
壊れた倉庫。
横転した荷車。
倒れた兵士。
頭から血を流す作業員。
彼の視線が、負傷者の上で止まった。
「まだ、人が残っています」
「敵兵です」
「作業員もいる」
「王都へ武器と食料を送る者です。兵と同じ役割を担っています」
「ですが――」
「次の目標へ移ってください」
指揮官は、王都の方角を指さした。
「結界を休ませてはなりません」
レオニスは動かなかった。
風の翼だけが、背後で揺れている。
「レオニス様」
「……分かっています」
風の音に混じりながらも、その声はリナの耳まで届いた。
レオニスの表情が、再び硬くなる。
レオニスが剣を持ち上げる。
今度は、拠点へ向けていない。
東。
遠く離れた、ルミナス王都。
「何をする気?」
リナは立ち上がった。
「王都を狙っている」
フィオナの声が強張る。
「ここから?」
「聖剣なら可能だ」
アルトが戻ってきた。
無銘の剣には、以前からあった細い亀裂が走り、その隙間から淡い光が漏れている。
「止められないの?」
「距離がある」
「なら、あの人を――」
レオニスが剣を振り下ろした。
夜空が裂けた。
巨大な風の刃。
淡い緑色の光が、王都へ向かって放たれる。
飛んだというより、空に一本の道が生まれたように見えた。
「フィオナ!」
アルトは補給拠点の見張り台へ駆け上がった。
階段を一段飛ばしで上り、最上部へ出る。
「アルト、無理をしないで!」
「少しでも軌道をそらす!」
アルトが無銘の剣を構える。
フィオナの力が、契約印を通して刀身へ流れ込んだ。
周囲の風が細く集まる。
アルトは、遠ざかる巨大な風刃へ向かって剣を振った。
小さな風の斬撃が放たれる。
巨大な風刃の側面へぶつかった。
一瞬だけ。
淡緑色の軌道が揺れる。
だが、止まらない。
アルトの風では、あまりにも力が足りなかった。
「駄目……!」
リナは遠くの王都を見る。
夜の闇。
その中に、淡い光の線が伸びていく。
次の瞬間。
王都上空が青白く輝いた。
巨大な水の膜。
アクアレギアの結界が、王都全体を覆う。
風刃が水の壁へ衝突した。
轟音。
水と風が弾ける。
青白い光と淡緑色の光が、王都上空で混ざり合った。
遠く離れているはずなのに、衝撃がここまで届いた。
地面が揺れる。
残っていた倉庫の扉が外れた。
リナは腕で顔を覆う。
「結界が……」
青白い水の膜が大きく波打っている。
風刃は結界の表面を削られ、上空へそれていく。
だが、砕けた風の一部が細い刃となって水膜を突き抜けた。
王都外壁の上で、淡い緑色の光が弾ける。
「一部が抜けた……!」
リナには、外壁で何が起きたのかまでは見えなかった。
それでも、結界そのものは崩れていない。
残った風刃は水の流れに押され、王都上空へそれていった。
水滴が雨のように都へ降り注ぐ。
「防いだ……」
リナが息を吐く。
「セレスよ」
フィオナが言った。
「アクアレギアを使っている」
王都にいるはずのセレス。
アルトたちを捕らえようとした王女。
それでも今は、多くの人間を守るために聖剣を使っている。
リナは水の結界から目を離せなかった。
レオニスも、王都の方角を見ている。
風刃が防がれたことに、怒っているようには見えない。
むしろ、わずかに安心したように見えた。
だが、セルディアの指揮官が何かを告げる。
レオニスの表情が再び固くなる。
「逃がすな!」
ルミナス兵が叫んだ。
拠点に残っていた弓兵たちが、再び矢を構える。
レオニスが剣を横へ向けた。
背後の風の翼が大きく広がり、白と金の身体を空へ押し上げる。
「目的は達した! 撤退せよ!」
セルディア側の指揮官が叫ぶ。
地上部隊が煙玉を投げた。
白い煙が拠点西側へ広がる。
法衣姿の兵士たちは隊列を崩さず後退し、待機していた騎兵が彼らを援護する。
レオニスだけが、翼のような残像を残して空を駆けた。
「待て!」
アルトが見張り台の縁へ進む。
だが、白と金の姿はすでに高空へ離れていた。
剣を交えるどころか、声を届かせることさえできない。
アルトが追撃の風を放とうとした瞬間。
その右腕が、薄く透けた。
「アルト!」
フィオナが叫ぶ。
無銘の剣へ集まっていた風が散る。
アルトの身体が傾いた。
見張り台の柵へ左手を伸ばし、どうにか踏みとどまる。
リナは階段を駆け上がった。
「何やってるの!」
「追いつけなかった」
「そういう話じゃない!」
リナはアルトの右手をつかもうとした。
指先が、一瞬だけ手の中をすり抜ける。
「また……」
「すぐ戻る」
「戻ればいいってことじゃない!」
リナが声を上げる。
アルトは、遠ざかる風の軌跡を見ていた。
「間違いない」
「何が?」
「あの剣だ」
アルトはゆっくりと見張り台を下りる。
右腕の輪郭は、少しずつ元へ戻っている。
「あれが、最後の一本か」
「三本目の聖剣?」
「ああ」
「名前は?」
「エアリアル」
アルトの声が、わずかに低くなる。
「百年前、俺が最後まで使っていた剣だ」
リナは、レオニスが消えた空を見る。
第三聖剣エアリアル。
白と金の青年。
二代目勇者。
「アルトの剣だったの?」
「ああ」
「じゃあ、あの人は……」
「俺とは関係ない」
アルトが答える。
「少なくとも、俺が後継者として選んだわけじゃない」
二代目勇者。
セルディアの兵士たちは、そう呼んでいた。
グレンも、自分を勇者の後継者だと信じていた。
今度は、国全体が一人の青年を勇者として掲げている。
「また、アルトの名前が使われてる」
リナが言った。
「そうらしいな」
「平気なの?」
「平気ではない」
アルトは無銘の剣を鞘へ戻した。
「だが、今は負傷者が先だ」
補給拠点には、まだ多くの人間が倒れている。
アルトは右手をかばいながら、最も近い負傷者へ向かった。
◇
夜が明ける頃。
補給拠点には、王都から救援部隊が到着した。
医師。
治療術師。
兵士。
荷車。
倒れた者たちが、次々と運ばれていく。
倉庫の多くは壊されていた。
食料の一部は風に飛ばされ。
武器庫の屋根もなくなっている。
それでも、火は消し止められた。
埋もれていた作業員も救出された。
死者が出なかったわけではない。
布をかけられた遺体が、拠点の端へ並べられている。
リナは負傷者の包帯を巻き終え、手についた血を水で洗った。
水は十分にある。
王都から来た救援隊が、水路を開いてくれたのだ。
昨日助けたルカの村では、この水がなかった。
同じ国境の近く。
同じように傷ついた人間。
それでも、一方には水があり。
もう一方にはない。
「リナ」
フィオナが呼ぶ。
アルトは拠点の外側に座っていた。
背中を壊れた柵へ預けている。
眠ってはいない。
ただ、呼吸を整えている。
「右手は?」
「戻っている」
リナはアルトの隣へ座った。
「次に透けたら?」
「分からない」
「分からないのに、また風を使った」
「あの風刃を少しでもそらせると思った」
「そらせなかった」
「少しは揺れた」
「それで身体が消えたら意味ないでしょ」
アルトは答えなかった。
「セレスが防がなかったら?」
「王都の外壁か、結界の薄い場所へ当たっていた」
「何人死んだ?」
「分からない」
「だから止めようとした?」
「ああ」
リナはため息をついた。
分かっている。
アルトを止めても、同じ状況ならまた動く。
それでも、納得はできない。
「二代目勇者って、何?」
「俺にも分からない」
「エアリアルは、使う人を選ぶんでしょ?」
「ある程度は」
「じゃあ、あの人が選ばれた?」
「そうかもしれない」
「悪い人には見えなかった」
リナは、レオニスが負傷者へ向けていた目を思い出す。
倉庫を壊し。
馬車を吹き飛ばし。
王都へ風刃を放った。
それでも、倒れた人間を見たとき。
一瞬だけ、迷っていた。
「悪い人なら、迷わないの?」
アルトが尋ねる。
「分からない」
「俺もだ」
「でも、攻撃した」
「ああ」
「命令されたから?」
「それだけでは、剣は振れない」
「じゃあ、本人も正しいと思ってる?」
「おそらくな」
グレンもそうだった。
帝国民を救うため。
戦争を早く終わらせるため。
正しいと信じて、フレイムベルグを振るった。
セレスもそうだ。
国民を守るため。
敵軍を止めるため。
正しいと信じて、水を止めている。
そして今。
セルディアの二代目勇者も、何かを正しいと信じて剣を振るっている。
「正しい人ばっかりだね」
リナが呟いた。
「そうだな」
「なのに、みんな人を傷つけてる」
「正しいと思えば、何をしてもいいわけじゃない」
「アルトが言うと、少し変」
「どうしてだ?」
「自分も聖剣を壊すのが正しいと思ってるでしょ」
「思っている」
「誰かが死ぬかもしれないのに?」
「ああ」
アルトは否定しなかった。
「だから、できる限り死なせない方法を探している」
「見つからなかったら?」
王宮で、セレスが尋ねた言葉。
アルトは、今度もすぐに答えなかった。
「それでも、剣は壊す」
「それは、セレスやあの人と何が違うの?」
リナは尋ねた。
責めるつもりはなかった。
ただ、知りたかった。
アルトはしばらく黙っていた。
「大きな違いはないかもしれない」
「ないの?」
「自分の選択が絶対に正しいと思い始めれば、同じになる」
「じゃあ、どうするの?」
「間違っている可能性を忘れない」
「それだけ?」
「止めようとする人間の話を聞く」
「セレスの話は聞いた?」
「聞いた」
「でも壊す」
「ああ」
「結局、同じじゃない」
「そう見えるだろうな」
アルトは、壊れた補給拠点を見る。
「だから、壊したあとに責任を負う」
「アルトが消えたら、負えないよ」
口にした瞬間。
空気が止まったように感じられた。
フィオナがリナを見る。
アルトも何も言わない。
「……ごめん」
「謝る必要はない」
アルトが静かに答える。
「その通りだ」
「だったら――」
「だから、消えない方法も探す」
「本当に?」
「ああ」
リナは、その言葉を完全には信じられなかった。
アルトは嘘をついていない。
だが、自分が生き残ることより、聖剣を壊すことを優先する。
それだけは分かっていた。
◇
昼前。
王都から、さらに多くの兵士が到着した。
その中央に、青銀色の鎧を着た騎士たちがいる。
近衛兵。
先頭には、王宮で見た近衛隊長。
そして。
馬車から、一人の女性が降りた。
「セレス……」
リナが身構える。
第一王女セレス・ルミナス。
白銀の鎧。
青い外套。
腰には、水色に輝く細身の剣。
アクアレギア。
王宮で見たときよりも、顔色が悪い。
右肩には包帯が巻かれている。
補給拠点は、王都西部の防衛と物資輸送を統括する指揮所でもあった。
ここが機能を失えば、西側の街道や監視塔への命令が届かなくなる。
王都全体の防衛を立て直すため、セレス自身が指揮を執りに来たのだ。
セレスは補給拠点を見渡した。
倒壊した倉庫。
破壊された馬車。
運ばれていく負傷者。
布をかけられた遺体。
その顔がわずかに歪む。
だが、すぐに王女の表情へ戻った。
「被害状況を」
セレスが指揮官へ命じる。
「倉庫六棟のうち、四棟が使用不能です。食料の三割、武器と矢の約半数を失いました」
「死者は?」
「兵士十一名。作業員四名。重傷者二十六名です」
「周辺の村への被害は?」
「確認中です」
「王都への補給は?」
「この拠点からの輸送は、少なくとも五日は再開できません」
セレスは目を閉じた。
ほんの一瞬。
次に目を開いたときには、迷いは消えていた。
「東部拠点から物資を回してください」
「東部も余裕がありません」
「王宮備蓄を開放します」
「ですが――」
「国民へ送るための備蓄です。今使わず、いつ使うのですか」
「承知しました」
指揮官が頭を下げる。
そのとき。
セレスの視線が、アルトたちを捉えた。
周囲の近衛兵が一斉に武器へ手をかける。
「アルト・レイヴァン」
セレスが名を呼ぶ。
「また会いましたね」
「そうだな」
「水没神殿へ向かったのでは?」
「途中で異変を見た」
「それで、救助を?」
「ああ」
セレスは負傷者たちを見る。
「あなたたちが、埋もれた作業員を救出したと聞きました」
「目の前にいたからだ」
「そうですか」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
王宮では、敵として別れた。
セレスは三人を拘束しようとした。
アルトたちは逃げた。
今も、その関係は変わっていない。
「殿下」
近衛隊長が進み出る。
「拘束命令を」
セレスはアルトを見る。
次に、壊れた補給拠点を見る。
「今は必要ありません」
「しかし――」
「敵は撤退したのではありません」
セレスが西の空を見る。
「第一の目標を破壊し、次の攻撃へ備えているだけです」
「攻略作戦だと?」
アルトが尋ねる。
「補給拠点を壊し、王都へ風刃を放った」
セレスは答えた。
「今後は街道、橋、監視塔も狙われるでしょう。結界を維持させ続け、王都の物資とアクアレギアを同時に消耗させるつもりです」
「昨夜の男は?」
「レオニス」
セレスが名前を告げる。
「セルディア聖教国が、二代目勇者として民衆へ示している人物です」
「本人については?」
「詳しい情報はありません。数年前に突然教団へ現れ、エアリアルに選ばれたとされています」
「選ばれた?」
「教団の発表では」
セレスはアルトの顔を見る。
「本当に、あれは第三聖剣なのですか?」
「ああ」
「あなたが使っていた?」
「ああ」
「破壊するつもりですね」
「そのつもりだ」
近衛兵たちが再び緊張する。
だが、セレスは剣を向けなかった。
「今は、あなたと争っている場合ではありません」
「同感だ」
「協力できますか?」
リナは思わずセレスを見る。
王宮で、アルトを拘束しようとした王女。
今度は協力を求めている。
「条件は?」
アルトが尋ねる。
「民間人と補給部隊を守ること」
「アクアレギアを狙わないこと、とは言わないのか?」
「言ったところで、聞かないでしょう」
「よく分かってるな」
「王宮で学びました」
セレスの声には、わずかな疲れがにじんでいた。
「この攻略作戦が終わるまで、互いの目的は保留します」
「終わったら?」
「あなたを止めます」
「分かった」
「簡単に答えるのですね」
「そのときは、そのときだ」
リナは頭を抱えたくなった。
敵同士。
それでも、同じ民間人を守るために協力する。
昨日までなら、そんな関係は理解できなかった。
「アルト」
フィオナが警告する。
「無理な精霊術は禁止よ」
「できる範囲で動く」
「その『できる範囲』が信用できないの」
「俺も同意見です」
セレスが淡々と言った。
「無理な行動を取る場合は、私からも制止します」
「同じ目的を持つ者が増えるのは歓迎よ」
フィオナが答えた。
「俺に拒否権は?」
「ありません」
三人の声が重なった。
アルトは小さく息を吐いた。
◇
補給拠点の応急修復が始まった。
倒れた柵を立て直す。
荷車を街道から移動させる。
散乱した食料と武器を回収する。
リナも作業を手伝った。
アルトは右手を使わず、左手だけで木材を運ぼうとしている。
結局、リナとフィオナに止められ、負傷者の移動を手伝うことになった。
セレスは指揮所の中央で、次々と命令を出していた。
「西街道の橋を確認してください」
「王都北部の監視塔へ伝令を」
「負傷者を先に王都へ」
「東部拠点から食料を移送」
「結界班は交代で休ませてください」
自分は休んでいない。
右肩に包帯を巻いたまま。
それでも、他の者には休むよう命じている。
リナは新しい包帯を持ち、セレスへ近づいた。
「肩、巻き直した方がいい」
近衛兵たちが警戒する。
セレスは片手を上げ、制した。
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、包帯に血をにじませない」
どこかで聞いたような言い方だった。
セレスも気づいたのか、わずかに目を細める。
「あなたも、彼と同じことを言うのですね」
「アルトが大丈夫って言いすぎるから」
「私には、休む時間がありません」
「包帯を巻くくらいなら、少しで終わる」
セレスは迷った。
その間にも、血が外套へ染みている。
「座って」
「命令ですか?」
「お願い」
リナは言い直した。
セレスは、近くの木箱へ腰を下ろした。
リナは古い包帯を外す。
傷は深くない。
だが、何度も腕を動かしたため開いている。
「昨夜、傷ついたの?」
「風刃の一部が結界を抜けました」
「外壁で光ったやつ?」
「そうです」
「何があったの?」
「外壁の上にいた兵士へ向かいました」
「それをかばった?」
「近くにいただけです」
「嘘」
「なぜ、そう思うのですか?」
「アルトも同じことを言うから」
セレスが、少しだけ笑った。
本当にわずかな変化だった。
王宮では見なかった表情。
「あなたは、彼を心配しているのですね」
「してる」
「家族ですか?」
「違う」
「では、何ですか?」
リナは答えに迷った。
旅の仲間。
自分を助けた人。
利用しようとした相手。
見捨てたくない人。
どれも間違いではない。
「仲間」
結局、最も簡単な言葉を選んだ。
「そうですか」
リナは新しい包帯を巻いた。
「セレスも、ちゃんと休んで」
「攻略作戦が終われば」
「それまで何日かかるか分からない」
「だからこそ、今は休めません」
「倒れたら、結界を使えなくなるよ」
セレスの表情が固まる。
リナは言葉を続けた。
「一人で全部やらなくてもいいんじゃない?」
「私が使い手です」
「でも、王都を守ってるのはセレスだけじゃない」
補給拠点を見る。
負傷者を運ぶ兵士。
水を配る作業員。
壊れた屋根を直す職人。
食料を拾い集める農民。
「みんな動いてる」
「それでも、結界を張れるのは私だけです」
「だから、倒れないように休んでって言ってるの」
セレスは返事をしなかった。
包帯を巻き終える。
「これでいい」
「ありがとうございます」
「お礼を言うんだ」
「王女は礼を言わないと思っていましたか?」
「少しだけ」
「失礼ですね」
「ごめん」
リナは立ち上がった。
セレスも立とうとする。
そのとき。
伝令兵が駆け込んできた。
「殿下!」
「何がありました?」
「ガルディア方面で、敵軍の動きを確認!」
セレスの表情が変わる。
「規模は?」
「先遣隊が川沿いへ接近しています。王都結界へ力を回したことで、水源封鎖が弱まった隙を狙ったものと思われます」
王都結界へ力を回したため、ガルディア方面の水流制御が弱くなった。
その変化を、ガルディア軍が見逃さなかった。
「国境部隊へ防衛命令を」
セレスが即座に答える。
「しかし、補給拠点が破壊されたため、現地の物資が不足しています」
「水流で進軍路を塞ぎます」
アルトが振り返った。
「何をするつもりだ?」
セレスは近衛隊長へ命じる。
「ガルディア方面へ流れる川を、完全にせき止めてください」
リナの胸が冷たくなる。
「完全に……?」
昨日。
水不足で倒れていたルカの母親。
干上がった川を歩いて国境を越えた村人たち。
ただでさえ水がない。
さらに止めれば。
「待って」
リナが言った。
「今より止めたら、村の人たちはどうなるの?」
「分かっています」
「分かってるなら――」
「今、止めなければ、ガルディア軍が進軍します」
セレスはアクアレギアへ手を置いた。
「補給拠点は破壊されました」
「セルディア軍は王都を狙っています」
「ここでガルディア軍まで進めば、二方向から攻め込まれます」
「だからって、民間人まで――」
「敵兵だけを選んで止めることはできません」
王宮で聞いた言葉。
同じ答え。
「これ以上水を奪えば、兵士より先に民間人が死ぬ」
アルトが言った。
「今止めなければ、次に死ぬのは私の国民です」
セレスも答える。
二人が向き合う。
昨夜までの敵。
今は同じ補給拠点を守る協力者。
それでも、根本の考えは何も変わっていない。
「昨日、ガルディアの難民に会った」
アルトが続ける。
「母親が水不足で倒れていた」
セレスの目が、わずかに揺れた。
「十歳の子どもが、一人で守っていた」
「……そうですか」
「水を完全に止めれば、同じ人間が増える」
「それでも止めます」
「なぜだ」
「私が守るべきなのは、この国だからです」
「国境の向こうにも人がいる」
「知っています!」
セレスの声が響いた。
周囲の兵士たちが動きを止める。
「知っています」
今度は、少し低い声だった。
「ですが、すべてを守ることはできません」
「だから、敵国を切り捨てる?」
「選ばなければ、両方を失います」
「本当に、それしか方法がないのか?」
「今、この瞬間にはありません」
セレスはアルトを見る。
「あなたなら、どうしますか?」
「王都を守り」
「セルディアの攻撃を止め」
「ガルディア軍の進軍も防ぎ」
「同時に、敵国の民間人へ水を与える」
「その方法を、今すぐ示せますか?」
アルトは答えられなかった。
リナも。
フィオナも。
誰も、すべてを救う方法を持っていない。
「だから、私は選びます」
セレスがアクアレギアを抜く。
「ルミナスの民を守るために」
刀身が青白く輝いた。
補給拠点は、王都周辺へ張り巡らされた水路網の外縁に位置している。
その水路がつながっている限り、この場所からでもアクアレギアの力を国境方面へ送ることができる。
ただし、水路網から離れれば同じことはできない。
補給拠点の水路。
周囲の小川。
地下を流れる水脈。
水が一斉に震える。
遠く。
ガルディア方面へ流れていた川の水量が減り始める。
完全にせき止められようとしている。
フィオナの表情が苦しげに歪んだ。
「水の精霊が……」
リナには聞こえない。
だが、フィオナには聞こえるのだろう。
意思を奪われ。
川の流れを変えられる精霊たちの声が。
「やめろ、セレス」
アルトが言った。
「できません」
「その剣は、守るためだけのものじゃない」
「知っています」
「持ち続ければ、さらに多くの人間を傷つける」
「それでも、今は必要です」
アルトは無銘の剣の柄へ手を置いた。
近衛兵たちが一斉に武器を構える。
「アルト!」
リナが叫ぶ。
「今ここで戦うの?」
「戦わない」
アルトは剣を抜かなかった。
ただ、セレスを見つめる。
「だが、俺の決意は変わらない」
セレスも、アクアレギアを下ろさない。
「アクアレギアも破壊する」
補給拠点に、沈黙が落ちた。
風で壊れた倉庫。
水で守られた王都。
干上がっていく敵国。
すべてが、同じ戦争の中にある。
「それでも、今は協力するのですか?」
セレスが尋ねた。
「ああ」
「矛盾しています」
「そうだな」
「私が聖剣を使い続けることも、あなたにとっては都合がよいのでしょう」
「まだ、何も分かっていない」
「ですが、聖剣が消耗していることは見ている」
「ああ」
アルトはアクアレギアの刀身を見る。
「だから調べる」
「私を利用するつもりですか?」
「王都を守ることは利用じゃない」
「結果として、聖剣は弱っていく」
「だからといって、民間人を見捨てるつもりはない」
「そして、最後には私から剣を奪う」
「奪わない。壊す」
「同じです」
二人は互いに譲らない。
正しいと思うものを守ろうとしている。
どちらも。
その正しさによって、誰かを傷つけようとしている。
リナには、どちらが正しいのか分からなかった。
ただ、一つだけ分かる。
この戦いは、今日で終わらない。
セルディア軍は、再び来る。
ガルディア軍も進もうとしている。
セレスは結界を維持し続ける。
アクアレギアは水を奪い続ける。
アルトは、それを破壊しようとする。
その間にも。
兵士が死ぬ。
作業員が倒れる。
敵国の子どもが、水を求める。
遠くの監視塔から、警戒を告げる鐘が響いた。
一度。
二度。
長く、低い音。
敵襲を告げる鐘ではない。
周辺でセルディア軍の斥候を確認したことを知らせる警戒音だった。
セルディア軍は撤退したのではない。
次の攻撃地点を探しながら、王都の周囲を動き続けている。
セレスがアクアレギアを握り直す。
アルトも、無銘の剣へ手を添える。
二人は敵同士のまま。
同じ王都を守るため、並んで西の空を見た。
守るための剣。
戦争を終わらせるための剣。
英雄の名を継ぐ剣。
誰もが、それを正しい力だと信じている。
だからこそ。
戦争は終わらなかった。




