第13話 敵国の子ども
王都を脱出してから、半日が過ぎていた。
三人は北東街道を避け、農地の間を通る細い道を歩いている。
正規の街道には、すでに王都警備隊が配置されていた。
遠くで馬の蹄が鳴るたび、リナたちは水路脇の草むらや、収穫を終えた畑の陰へ身を隠した。
追跡隊は、水没神殿へ続く北東街道を重点的に捜している。
セレスが三人の目的地を見抜いているからだ。
「止まって」
先頭を歩いていたフィオナが、小声で告げた。
リナはすぐに足を止める。
アルトも、その場で周囲を見回した。
道の先には、小さな石橋がある。
橋の向こう側を、青銀色の鎧を着た騎兵が三人通過していった。
馬の鞍には、水鳥の紋章が刻まれている。
王都警備隊だ。
三人は街道を見張りながら、北東へ走り去った。
「完全に先回りされてるね」
リナが息を吐く。
「王女なら、当然そうするだろうな」
アルトは悪びれずに答えた。
「誰のせいで追われてると思ってるの?」
「俺たち三人のせいじゃないか?」
「主にアルトのせい」
「会談で正直に目的を話しただけだ」
「王女の前で『国の聖剣を壊す』って言ったんだよ」
「嘘をつくよりはいいだろ」
「もう少し言い方があるでしょ」
「私も、リナに賛成ね」
フィオナが街道の先を確かめながら言った。
「でも、正直に話さなければ、神殿の記録を見せてもらえなかったと思うぞ」
「正直に話しても、見せてもらえなかったでしょう」
「そうだったな」
アルトが納得したようにうなずく。
リナは言い返す気力を失った。
「それより、手は?」
リナはアルトの右手を見る。
「もう透けてない」
「今はな」
「痛くないの?」
「痛みはない」
「それなら大丈夫ってことじゃないからね」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
アルトは右手を握ったり開いたりしてみせた。
指は正常に動いている。
向こう側が透けて見えることもない。
それでも、リナは安心できなかった。
王宮から脱出するとき。
アルトの指は、大樹の枝をすり抜けかけた。
フィオナが支えていなければ、そのまま三階から落ちていたかもしれない。
「今日は、もう精霊術を使わないで」
「必要になったら使う」
「使わないで」
「状況による」
「使ったら怒るから」
「それは困るな」
「困るなら、使わないで」
「努力する」
「それは使う人の答えだよ」
フィオナが小さく息を吐いた。
「リナ。今は言っても無駄よ」
「分かってるけど……」
分かっている。
アルトは、誰かが危険になれば無理をする。
何度止めても同じだ。
それでも、言わずにはいられなかった。
アルトの身体が消えていく。
フレイムベルグを壊したときから、少しずつ。
次にアクアレギアを壊したら、どうなるのか。
フィオナは、まだ詳しく話してくれない。
だが、答えを知らなくても想像はできた。
「北東街道は使えそうにないわね」
フィオナが地面へ膝をついた。
指先で土へ簡単な地図を描く。
王都。
北東街道。
大河。
水没神殿。
「追跡隊は、この街道と大河沿いを押さえるでしょう」
「別の道は?」
リナが尋ねる。
「ここから一度、南東へ回る」
フィオナが地図へ線を引く。
「古い農道を通って、下流から大河へ出る。そのあと、川沿いを北へ上れば神殿へ近づける」
「遠回りだな」
「正面から兵士を倒しながら進むよりは早いわ」
「倒さないぞ」
「あなたなら、倒さずに進もうとして余計に時間をかけるでしょう」
「それは否定できない」
「否定してよ」
リナが言うと、アルトは少し考えた。
「難しいな」
三人は街道を離れ、南東へ続く農道へ入った。
◇
王都から離れるにつれて、景色は少しずつ変わっていった。
整えられていた水路は細くなる。
石造りだった水門も、古い木製へ変わった。
畑には水が行き渡っている。
だが、王都周辺ほど豊かではない。
農民たちは空を気にしながら作業を続けていた。
街道には兵士や荷馬車が行き交っている。
荷台には、麦袋。
干し肉。
槍。
矢。
王都と国境へ運ばれる物資だ。
戦争は、戦場だけで行われているわけではない。
畑で作物を育てる者。
物資を運ぶ者。
傷ついた兵士を治す者。
避難民へ食事を配る者。
リナも、以前はその一人だった。
ルミナス軍の補助隊へ入り、荷物を運んだ。
負傷者へ水を飲ませた。
遺体を荷車へ乗せた。
その仕事が、故郷を焼いたガルディアと戦うためだと思っていた。
間違っていたとは思わない。
あのときの自分には、それしかできなかった。
それでも。
ガルディア側の水が止められていることを知った今。
自分が運んだ物資が、誰を苦しめるために使われたのか考えてしまう。
「何か聞こえない?」
リナは足を止めた。
アルトとフィオナも振り返る。
「何が?」
「声」
三人は黙った。
風。
草の擦れる音。
遠くを走る荷馬車。
その間に、かすかな声が混じっている。
「誰か……」
子どもの声だった。
「こっち」
リナは農道を外れた。
「待って。追跡隊の罠かもしれないわ」
フィオナが呼び止める。
「子どもの声だよ」
「それを利用する可能性もある」
「でも――」
「俺が先に見る」
アルトが草むらへ入ろうとする。
「アルトは後ろ」
「どうしてだ?」
「手が透けたばかりだから」
「歩くくらいなら問題ない」
「目立つから」
リナはアルトを押しのけ、声がした方へ進んだ。
「結局、リナが行くのね」
フィオナの声が後ろから聞こえる。
背の高い草をかき分ける。
その先に、使われなくなった小屋があった。
農作業の道具を保管していた建物だろう。
壁板が何枚も外れ、屋根も一部が落ちている。
「誰かいるの?」
リナが声をかけた。
返事はない。
だが、小屋の中から何かが動く音がした。
「出てきて。何もしないから」
「嘘だ」
幼い声が返ってきた。
「ルミナスの兵士だろ」
「兵士じゃない」
「弓を持ってる」
リナは肩に掛けていた短弓を見た。
「これは護身用」
「同じだ」
小屋の入口から、小さな顔がのぞいた。
十歳ほどの少年だった。
土で汚れた黒髪。
痩せた頬。
破れた服。
両手で、短い木の棒を握っている。
武器のつもりなのだろう。
「近づくな」
少年は棒を構えた。
「母さんに近づいたら、殺す」
声は震えていた。
それでも、リナから目をそらさない。
その表情に、死んだ弟の姿が重なった。
フェルナが焼かれる前。
弟も、怖がりながら家族を守ろうとした。
木の枝を剣のように振り回し、自分が強くなれば姉を守れると言っていた。
「お母さんがいるの?」
「答えない」
「病気?」
「答えない!」
少年が棒を振る。
だが、力が入っていない。
棒の先はリナへ届く前に地面へ落ちた。
少年自身もよろめく。
リナは反射的に腕をつかんだ。
「離せ!」
「あなたも水を飲んでないでしょ」
「触るな!」
少年はリナの手へ噛みつこうとした。
その声に反応したのか、小屋の中から弱い咳が聞こえた。
「ルカ……」
女性の声だった。
「逃げなさい……」
「母さん!」
少年が振り返る。
リナは少年の横を通り、小屋の中を見た。
床へ敷かれた古い布の上に、一人の女性が横たわっている。
年齢は三十代ほど。
顔色が悪い。
唇は乾き、呼吸も浅かった。
腕には、小さな傷がいくつもある。
旅の途中で負ったものだろう。
「入るな!」
少年がリナの服をつかんだ。
「母さんに触るな!」
「このままだと死ぬよ」
「ルミナスの人間が、母さんを助けるわけない!」
その言葉に、リナの足が止まった。
「どうして、ルミナスだと思うの?」
「水鳥の札を持ってた」
少年は、床に落ちている木札を指さした。
ルミナス王国の一時通行札。
王都の難民登録所で渡されたものだ。
リナの外套から落ちたらしい。
「やっぱり兵士だ」
「違う。今は兵士じゃない」
「同じだ!」
少年は涙を浮かべながら叫んだ。
「ルミナスが水を止めた!」
「母さんが倒れたのも!」
「村のみんなが逃げたのも!」
「全部、ルミナスのせいだ!」
リナは何も言えなかった。
少年の言っていることは、間違っていない。
「リナ」
後ろから、アルトとフィオナが入ってきた。
少年がさらに身構える。
「来るな!」
アルトは入口で止まった。
「分かった。近づかない」
「剣を捨てろ!」
「それはできない」
「なら出ていけ!」
「俺はここにいる。治療は、リナに任せる」
アルトは小屋の外へ一歩下がった。
少年から見える場所で、地面へ座る。
無銘の剣にも触れない。
「リナ」
フィオナが女性の状態を見る。
「かなり弱っているわ」
「分かってる」
リナは腰の袋へ手を伸ばした。
母から受け継いだ薬草袋。
フェルナの自宅跡で見つけたものだ。
焼け残った布。
ところどころ焦げている。
中には、母が乾燥させた薬草が残っていた。
使えば減る。
使い切れば、もう二度と同じものは手に入らない。
母の手で集められたもの。
母の字で名前が書かれた小袋。
リナに残された、数少ない家族の形見だった。
「何をする気だ」
少年が尋ねた。
「薬を作る」
「毒かもしれない」
「だったら、あなたが見てて」
リナは女性のそばへ膝をついた。
「触るよ」
「駄目だ!」
「脈を見るだけ」
「母さんに――」
「ルカ」
女性が弱い声で少年を呼んだ。
「もう……いいの」
「よくない!」
「この子たちに……食べ物を取られる前に……逃げなさい」
「置いていかない!」
少年が女性の手を握る。
「父さんが戻るまで、一緒にいるって言っただろ!」
父親。
リナは少年を見る。
「お父さんは?」
「ガルディア軍にいる」
少年は警戒したまま答えた。
「徴兵された」
「いつ?」
「春の終わり」
「連絡は?」
「ない」
「そう……」
「死んでない」
少年が強く言った。
「父さんは強いから、絶対に戻ってくる」
弟も、父について同じように言っていた。
父は何でも作れる。
どんな壊れた道具も直せる。
だから、きっと帰ってくる。
あの日。
弟は最後まで、そう信じていた。
「お姉ちゃん?」
少年が怪訝そうにリナを見る。
「どうして泣いてるんだ?」
リナは頬へ触れた。
指先が濡れている。
「何でもない」
「変なの」
「あなたに言われたくない」
リナは涙を拭い、女性の手首へ指を当てた。
脈が弱い。
身体は熱を持っている。
皮膚は乾いていた。
水不足と疲労。
傷からも熱が出ている可能性がある。
「水は?」
リナが尋ねた。
少年が小さな革袋を見せた。
中身はほとんど残っていない。
「昨日から、これだけ」
「飲ませた?」
「母さんは、僕に飲めって」
「あなたは?」
「飲んでない」
「どうして?」
「母さんの分だから」
リナは革袋を受け取った。
少年は渡すのをためらったが、母親の苦しそうな呼吸を見て手を離した。
「一度に飲ませたら吐くかもしれない。少しずつにする」
布へ水を含ませ、女性の唇を濡らす。
次に、薬草袋を開いた。
「この葉は?」
少年がのぞき込む。
「熱を下げる薬草」
「こっちは?」
「傷が悪くならないようにするもの」
「本当に?」
「私の母さんが使ってた」
リナは答えながら、小袋を取り出した。
焦げた布に、母の字が残っている。
熱冷まし。
リナにも読めるよう、大きな字で書かれていた。
幼い頃。
母は薬草の名前を何度も教えてくれた。
葉の形。
匂い。
乾かし方。
煮出す時間。
苦みを弱める方法。
リナは真面目に覚えなかった。
自分は薬師にならない。
弓を持ち、町の外へ出る。
そう言って、何度も母を困らせた。
もっと聞いておけばよかった。
もっと覚えておけばよかった。
今さら後悔しても、尋ねる相手はいない。
「フィオナ。火を作れる?」
「小さなものなら」
「聖剣の水には触れないで」
「分かっているわ」
フィオナが手をかざす。
小屋の隅に落ちていた枯れ枝が集まる。
小さな火が灯った。
強制的に燃やしたのではない。
わずかな炎の精霊が、フィオナの呼びかけへ応じたのだ。
「鍋は?」
少年が小屋の奥から、へこんだ金属の器を持ってきた。
「これでいい?」
「使える」
残った水の一部を鍋へ移す。
薬草を少量入れ、弱い火で煮出す。
「全部入れないの?」
「強すぎても駄目だから」
「詳しいんだな」
「少しだけ」
本当は、詳しいわけではない。
補助隊でも負傷者の手当てをした。
だが、医師でも薬師でもない。
それでも、今できることをするしかなかった。
「リナ」
アルトが小屋の外から呼んだ。
「俺たちの水も使え」
革袋が地面を滑ってくる。
少年がすぐに拾った。
「毒じゃないだろうな」
「俺たちも飲んでる」
「先に飲め」
「いいぞ」
アルトが革袋を受け取り、一口飲んだ。
少年はじっと様子を見る。
「死なない?」
「今のところは」
「変な言い方するな!」
リナが怒鳴る。
「冗談だ」
「この状況でやめて」
少年は、アルトとリナを交互に見た。
「本当に、ルミナスの兵士じゃないのか?」
「違う」
アルトが答えた。
「じゃあ、何なんだ?」
「旅人だ」
「その剣で?」
「護身用だ」
「嘘だ」
「よく言われる」
少年はまだ疑っている。
それでも、水を拒むことはしなかった。
新しい水を鍋へ足す。
煮出した薬を冷まし、女性へ少しずつ飲ませる。
しばらくすると、女性の呼吸がわずかに落ち着いた。
熱は残っている。
それでも呼吸は先ほどより深くなり、少量の水なら自力で飲めるようになっていた。
「母さん?」
少年が顔を近づける。
「大丈夫?」
「ルカ……」
女性がうっすらと目を開ける。
「ここにいる」
「水を……」
「あるよ。もう少し飲んで」
少年が革袋を持つ。
リナは量を確認しながら、一口ずつ飲ませた。
「すぐに動かすのは危険ね」
フィオナが言う。
「でも、巡回兵に見つかれば、治療を続けるどころではなくなる」
「なら、途中で何度も休みながら運ぼう」
リナは小屋の中を見回した。
追跡隊。
巡回兵。
ガルディアから来た難民であることが知られれば、保護される可能性はある。
だが、少年の父親はガルディア兵だ。
どのように扱われるか分からない。
「近くに避難所は?」
リナが尋ねた。
少年は首を振った。
「知らない」
「どうやってここまで来たの?」
「村のみんなと一緒に山を越えた」
「国境を?」
「水のない川を歩いた」
アクアレギアによって干上がった河床。
そこを通って、ガルディア側からルミナス領へ入ったのだ。
「途中で母さんが倒れた。みんなは待てないって」
「置いていかれたの?」
「違う!」
少年が強く否定する。
「兵士が来る前に逃げないと、全員捕まるから」
村人たちも、余裕がなかったのだろう。
母子を見捨てたかったわけではない。
自分たちが生き延びるため、進むしかなかった。
「どこへ向かったか分かる?」
「南の古い砦」
リナはフィオナを見る。
「知ってる?」
「この農道を南へ進めば、日が沈む前には古い監視砦へ着けるわ」
「難民が集まってるのかも」
「可能性はある」
「そこまで、この人を運ぼう」
リナが言うと、アルトが立ち上がった。
「俺が背負う」
「駄目」
「どうしてだ?」
「身体が弱ってるから」
「女性一人くらいなら――」
「駄目」
「じゃあ、どうやって運ぶ?」
リナは小屋の中を見回した。
壊れた農具。
木板。
古い縄。
「担架を作る」
「三人で運ぶの?」
「私とフィオナで運ぶ。アルトは荷物を持って」
「それでは遅い」
「アルトが途中で倒れるよりいい」
「俺は倒れない」
「王宮で片膝ついてたでしょ」
「あれは着地に失敗しただけだ」
「手も透けてた」
「一瞬だ」
「一瞬でも駄目!」
少年が二人を見比べる。
「この人、病気なのか?」
「少しな」
アルトが答えた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
リナとフィオナの声が重なる。
少年が少しだけ笑った。
初めて見せた、年相応の表情だった。
その笑い方まで、弟に似ていた。
◇
小屋にあった木板と外套を使い、簡単な担架を作った。
前をフィオナ。
後ろをリナが持つ。
少年の母親を横たえ、身体を布で固定した。
アルトは三人分の荷物を背負っている。
「本当に持てるの?」
リナが尋ねる。
「荷物くらいなら問題ない」
「右手は使わないで」
「分かった」
「必要になっても精霊術は禁止」
「それは――」
「禁止」
「分かった」
「今の間は何?」
「何でもない」
少年は母親の横を歩いている。
名はルカ。
十歳。
ガルディアの農村で、両親と暮らしていた。
父親は徴兵され、そのまま戻っていない。
水が止まったあと、井戸も畑も枯れた。
村人たちは残った食料を持ち、干上がった川を通ってルミナスへ逃げてきた。
三人は母親の呼吸を確かめるため、短い間隔で担架を下ろした。
そのたびに水を少しずつ飲ませ、熱と傷の状態を確認する。
急げば母親の身体へ負担がかかる。
だが、ゆっくり進みすぎれば、追跡隊に見つかる可能性が高まる。
何度も周囲を警戒しながら、農道を南へ進んだ。
「ルミナスは敵だって、父さんが言ってた」
ルカが前を向いたまま話した。
「どうして、こっちへ来たの?」
リナが尋ねる。
「ガルディアに水がないから」
「敵の国でも?」
「母さんが、死ぬよりはいいって」
「そう」
「捕まったら、殺される?」
「分からない」
嘘をついて安心させることはできなかった。
「でも、ルミナスの人が全員、ガルディアの人を殺したいと思ってるわけじゃない」
「父さんは、ルミナス兵を殺してるかもしれない」
「そうかもしれないね」
「それでも?」
リナは答えられなかった。
ルカの父親が、フェルナ侵攻に参加していた可能性もある。
自分の両親と弟を殺した兵士の一人かもしれない。
その可能性を考えた瞬間。
胸の奥に、黒いものが広がった。
助けなければよかった。
この母親も。
この少年も。
ガルディアの兵士を支える家族だ。
そう考えようとした。
だが、隣を歩くルカを見る。
痩せた頬。
泥だらけの服。
母親を何度も心配して振り返る姿。
弟と同じくらいの手。
この子が何をしたのか。
国境を決めたのか。
戦争を始めたのか。
水を止めたのか。
聖剣を使ったのか。
何もしていない。
「お姉ちゃん」
ルカがリナを見る。
「何?」
「名前、まだ聞いてない」
「リナ」
「ルミナスの名前?」
「フェルナ」
ルカの足が止まった。
「フェルナって……」
「ガルディアに滅ぼされた国」
ルカの表情が強張る。
少しずつ、リナから距離を取る。
「じゃあ、僕たちは敵なの?」
リナは担架を持つ手へ力を込めた。
敵。
以前なら、迷わずそう答えていた。
ガルディアの人間は敵だ。
グレンも。
皇帝も。
その兵士も。
帝国を支える民も。
全員が、自分の家族を奪った側だと思っていた。
だが、今は。
「分からない」
それが、リナに言える精いっぱいの答えだった。
「私は、ガルディアが嫌い」
「……うん」
「故郷を焼かれた」
「うん」
「家族も殺された」
ルカが唇をかむ。
「ごめんなさい」
「あなたが謝ることじゃない」
「でも、ガルディアがやった」
「あなたはやってない」
リナはルカを見る。
「だから、あなたまで憎んでいいのか分からない」
「僕も、ルミナスは敵だと思ってた」
「私はルミナスの人間じゃないよ」
「でも、札を持ってた」
「難民として受け入れられたから」
「僕と同じ?」
「少しだけね」
国を失った。
家族と離れた。
生きるために、知らない土地へ逃げた。
立場は違う。
だが、何もかもが違うわけではなかった。
◇
日が沈む前。
三人は古い監視砦へ到着した。
石造りの小さな砦だった。
外壁の一部が崩れ、塔も途中からなくなっている。
入口には、粗末な布が張られていた。
人の気配がある。
「止まれ!」
砦の上から声が飛ぶ。
弓を持った男が姿を見せた。
「誰だ!」
ルカが前へ出る。
「僕だよ!」
「ルカ?」
男の顔色が変わった。
「生きていたのか!」
砦の中から、何人もの人々が出てくる。
皆、痩せている。
服は泥と埃で汚れていた。
ガルディアから逃げてきた村人たちだ。
「母さんが倒れたんだ!」
ルカが担架へ駆け寄る。
「この人たちが助けてくれた!」
村人たちはリナたちを見る。
警戒。
恐怖。
敵意。
リナが持つ弓。
アルトの剣。
フィオナの銀白色の髪。
旅人には見えないだろう。
「ルミナスの兵か?」
先ほどの男が弓を向ける。
「違います」
リナが答えた。
「母親を中へ運びたいだけです」
「その札は?」
男が、リナの腰に下がる通行札を見る。
「ルミナスから受け取ったものです」
「やはり兵士じゃないか!」
「違う!」
ルカが男の前へ立った。
「この人は母さんに薬をくれた!」
「どけ、ルカ」
「嫌だ!」
「騙されているんだ」
「騙されてない!」
アルトが一歩前へ出た。
男の弓が、すぐにアルトへ向く。
「止まれ!」
「分かった」
アルトは足を止める。
剣から手を離した。
「俺たちは、この人を送り届けに来ただけだ」
「何のために?」
「死にそうだったから」
「敵国の人間だぞ」
「そうだな」
「なら、なぜ助ける?」
アルトは少し考えた。
「目の前で死にそうだったからだ」
「それだけか?」
「ああ」
男は信じられないという顔をした。
「名前は?」
「アルト・レイヴァン」
リナは止める間もなく額を押さえた。
この男は、隠すべき場面ほど正直に名乗る。
砦の前から、音が消えた。
村人たちが互いの顔を見る。
「聖剣を壊した……」
「勇者を名乗る男……」
「ガルディアが国家の敵に指定した……」
男の弓を持つ手が震える。
「お前が、フレイムベルグを壊したのか?」
「ああ」
「グレン将軍は?」
「生きている」
「殺さなかったのか?」
「剣を壊すことが目的だった」
村人たちの間に、戸惑いが広がった。
ガルディアでは、アルトは国家の敵だ。
帝国を守る聖剣を破壊した男。
その男が今、ガルディアの母子を助けた。
「母さんを先に!」
ルカの声が沈黙を破った。
「話はあとにして!」
一人の年配の女性が前へ出る。
「こっちへ運びなさい」
「しかし――」
「敵かどうかは、あの子が助かってから決めればいい」
砦の中から数人が出てきた。
担架を受け取る。
リナは女性の状態と、飲ませた薬の量を説明した。
「熱冷ましは、あと一回分だけ渡します」
薬草袋から小袋を取り出す。
母が残した薬。
これで、さらに減ってしまう。
一瞬だけ、手が止まった。
この薬は、母の形見だ。
使わずに残しておけば、ずっと母を思い出せる。
だが、薬は使うためにある。
母なら、そう言うだろう。
『薬草は、袋に入れて眺めるためのものじゃないよ』
昔、母に言われた言葉を思い出した。
リナは小袋を年配の女性へ差し出した。
「水で煮出して、少しずつ飲ませてください」
「分かった」
「傷も毎日洗ってください。汚れた布は使わないで」
「ありがとう」
その言葉に、胸が痛んだ。
ガルディアの人間から感謝されることを、少し前の自分なら受け入れられなかったかもしれない。
「お姉ちゃん」
ルカがリナの服をつかんだ。
「もう行くの?」
「追われてるから」
「ルミナスに?」
「そう」
「悪いことしたの?」
「王女様の言うことを聞かなかった」
「何を言われたの?」
「捕まっててって」
「それは嫌だな」
「でしょ?」
ルカが少し笑う。
「母さんが元気になったら、薬を返す」
「返さなくていい」
「でも、リナのお母さんのなんだろ?」
少年は、先ほどの会話を聞いていたらしい。
「大切なものなんじゃないの?」
「大切だよ」
「じゃあ――」
「だから、使ったの」
リナはルカの頭へ手を置いた。
黒い髪。
弟より、少しだけ硬い。
「元気になったお母さんに、大切にしてもらって」
「うん」
「お父さんも帰ってくるといいね」
「絶対帰ってくる」
ルカは力強く答えた。
その言葉を、リナは否定しなかった。
◇
三人は砦から少し離れた森で、朝まで休むつもりだった。
火をたけば見つかる可能性がある。
そのため、夕食は干し肉と硬いパンだけだった。
アルトはパンを一口ずつ食べている。
味を感じない。
満腹にもならない。
それでも、リナに言われた量をすべて口へ運んだ。
「今日は、ちゃんと食べるんだね」
「食べろと言ったのはリナだろ」
「いつも言ってる」
「今日は、反論する理由がない」
「いつもないよ」
フィオナがアルトの右手を調べている。
指。
手首。
腕。
今のところ、透けてはいない。
「今日は休むこと」
フィオナが告げた。
「神殿へは?」
「明日の朝からよ」
「追跡隊に先回りされる」
「今の身体で急いでも、途中で倒れるだけ」
「俺は――」
「二対一ね」
リナが言った。
「多数決なら休むことになる」
「いつから多数決で決めるようになったんだ?」
「今から」
アルトは反論しようとした。
だが、諦めたように背中を木へ預けた。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「こっそり出発しない?」
「しない」
「約束して」
「約束する」
リナは、しばらくアルトを見た。
「何だ?」
「信用していいのか考えてる」
「ひどいな」
「前例があるから」
「今度は大丈夫だ」
「今度は、って言った」
「言葉のあやだ」
フィオナがため息をつく。
「私が見張っているから、今日は休ませるわ」
アルトは外套を毛布代わりにし、横になった。
目を閉じる。
すぐに眠ったわけではない。
だが、少なくとも起き上がろうとはしなかった。
リナは少し離れた木の根元へ座る。
母の薬草袋を開いた。
中身が減っている。
また一つ。
母が残したものが、手元からなくなった。
「後悔している?」
フィオナが隣に座った。
「少しだけ」
リナは正直に答えた。
「最低だよね」
「どうして?」
「人を助けるために使ったのに、なくなったって思ってる」
「大切なものを失えば、惜しいと思うのは当然よ」
「でも、母さんなら迷わなかった」
「あなたは、あなたのお母さんではないわ」
リナは薬草袋を握った。
「私、あの子を助けたくないって、一瞬思った」
「ガルディアの子どもだったから?」
「うん」
父親がガルディア兵だと聞いたとき。
薬を渡したくないと思った。
もし、その父親がフェルナを焼いた兵士なら。
もし、家族を殺した一人なら。
その家族を助ける必要があるのかと思った。
「それでも助けたでしょう」
「でも、思ったことは消えない」
「消す必要はないわ」
「どうして?」
「憎しみを抱かなかったことにしても、なくなりはしないもの」
フィオナは眠るアルトを見る。
「アルトも、誰かを憎まなかったわけではない」
「そうなの?」
「百年前、何人もの仲間を魔王軍に殺された。怒っていたし、復讐したいとも思っていた」
今のアルトからは、想像しにくかった。
「でも、殺さずに済むなら殺さないって」
「憎しみがないからではないわ」
フィオナは静かに答える。
「憎しみだけで、次の行動を決めないと選んでいるのよ」
リナは膝を抱えた。
自分に、同じことができるだろうか。
グレンを目の前にしたとき。
父と母と弟を奪った男。
故郷を焼いた聖剣の使い手。
そのときも、憎しみだけで決めずにいられるのか。
分からない。
「アルトに聞いてみる」
「起こすの?」
「まだ寝てないでしょ」
リナが言うと、アルトが目を開けた。
「気づいてたのか」
「呼吸が寝てるときと違う」
「よく見てるな」
「心配させてるのは誰?」
アルトは上半身を起こした。
「何か聞きたいのか?」
リナは少し迷ってから尋ねた。
「敵を助けたら、こっちが弱くなるかもしれない」
「そうだな」
アルトは否定しなかった。
「あの子の父親は、ガルディア兵なんだよ」
「ああ」
「母親が助かれば、父親を待ち続ける。父親が帰ってきたら、また帝国のために戦うかもしれない」
「そうかもしれない」
「その人が、ルミナスの兵士を殺すかもしれない」
「可能性はある」
「フェルナを攻めた兵士かもしれない」
「それも否定はできない」
アルトは、都合のよい答えをくれなかった。
あの子を助ければ、すべてが良い方向へ進む。
敵も心を入れ替える。
戦争も終わる。
そんなことは言わない。
「それでも助けるの?」
「目の前で死にそうならな」
「どうして?」
アルトはすぐには答えなかった。
正解を考えているようには見えない。
自分の中にある言葉を探しているようだった。
「助けた方が正しいから、とは言えない」
「うん」
「後で敵になるかもしれないし、そのせいで誰かが傷つくかもしれない」
「うん」
「それでも、俺は見捨てたくない」
「それだけ?」
「ああ」
アルトは少し笑った。
「俺が、そうしたいからだ」
「勝手だね」
「そうだな」
「英雄らしくない」
「英雄は、もっと立派な理由が必要なのか?」
「多分」
「なら、俺には向いてないな」
「今さら?」
「百年前から向いてなかった」
リナは膝へ顔を埋めた。
答えにはなっていない。
敵を助けるべきか。
味方を守るべきか。
どちらを選べば正しいのか。
アルトも知らない。
それでも、少しだけ胸が軽くなった。
正解が分からなくても。
迷っても。
憎しみが消えなくても。
自分で次の行動を選ぶことはできる。
「私も、あの子を見捨てたくなかった」
「なら、それでいいんじゃないか」
「後で間違いだったって分かったら?」
「そのとき考える」
「適当」
「絶対に間違えない方法なんて知らないからな」
アルトは、自分が正しいとは言わない。
間違わないとも言わない。
ただ、間違えたと分かったときに逃げない。
百年前に残した聖剣を、自分の手で壊そうとしているように。
「もう寝て」
リナは言った。
「話を始めたのはリナだろ」
「終わったから」
「そうか」
「明日、勝手に先へ行ったら怒るよ」
「分かってる」
アルトは再び横になった。
今度は、しばらくすると呼吸がゆっくりになった。
眠ったらしい。
リナは夜空を見上げた。
木々の隙間から、星が見える。
フェルナで見た星と同じだった。
ルミナスでも。
ガルディアでも。
国境を越えても、空は分かれていない。
それなのに、地上では人々が敵と味方に分かれている。
水を奪う側。
奪われる側。
守る側。
攻める側。
そのどれか一つだけでは、人を決められないのかもしれない。
ガルディアの子ども。
敵国の兵士の息子。
同時に。
母親を守ろうとしていた、ただの十歳の少年。
リナは母の薬草袋を胸元へ戻した。
中身は減った。
だが、失ったとは思わなかった。
母が残した薬は、誰かの命へ変わった。
それなら。
きっと、使ってよかったのだと思う。
遠くから、低い音が聞こえた。
雷ではない。
地面を伝うような、重い響き。
リナは顔を上げた。
「フィオナ」
「ええ」
フィオナも立ち上がっている。
王都よりも西。
補給街道が通る方角に、淡い緑色の光が走った。
翼のように広がった光が、一瞬だけ夜空を切り裂く。
遅れて、轟音が届いた。
「風の精霊力……」
フィオナの表情が強張る。
「かなり強いわ」
眠っていたアルトが目を開けた。
右手を地面につかないよう気をつけながら、ゆっくりと身を起こす。
「今のは?」
「自然の風ではないわ」
フィオナが答える。
「遠く離れた場所で、強い精霊力が放たれた」
「王都への補給路がある方角だ」
アルトが立ち上がった。
「攻撃されてるの?」
リナが尋ねる。
「まだ分からない」
アルトは無銘の剣を背負った。
「だが、確かめる必要がある」
「明日まで休むって約束したよね」
「ああ。だが、状況が変わった」
「またそうやって無理する」
「戦いに行くわけじゃない。何が起きたか確かめるだけだ」
「それも信用できない」
「今回は私も一緒に止めるわ」
フィオナが立ち上がった。
「身体に異変が出たら、その場で引き返すこと」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
リナはアルトをにらんだ。
「今度は、私も見張るからね」
「頼もしいな」
「褒めても駄目」
アルトは淡い光が消えた方角を見つめる。
もう一度。
先ほどより短い緑色の光が、遠い空を走った。
三人は、予定していた水没神殿への道を外れた。
敵として追われている王都へ戻るのではない。
王都の西へ伸びる補給街道。
夜空を切り裂いた、正体不明の風の力を確かめるために。




