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百年後に蘇った勇者は、自らが遺した三本の聖剣を破壊する  作者: situ725


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第12話 守護の王女

「国境南西部、カレド村から追加の救援要請です」


 報告を読み上げる官吏の声が、会議室に響いた。


「避難民は?」


「昨夜までに二百十三名を収容しました。ただ、登録所の天幕が不足しています。近隣の村から毛布と木材を集めていますが、このまま増え続ければ三日ともちません」


「王都東区画の空いている倉庫を開放してください。食料庫として使っている建物は避け、古い織物倉庫を二棟」


「しかし、あそこには補給用の縄と布を保管しています」


「物資は南倉庫へ移します。今日中に終わらせてください」


「承知しました」


 官吏が頭を下げ、書類へ印をつける。


 間を置かず、次の報告が差し出された。


「北部の穀物収穫量についてです。水量は足りていますが、人手が不足しています。今年、農村から兵を徴集した影響かと」


「徴集した農民兵のうち、十八歳未満と四十五歳以上の者を村へ戻してください」


 会議室の端に立つ将軍が顔を上げた。


「殿下、それでは国境の兵力が減ります」


「剣を持つ者を増やしても、来年の麦がなければ国は維持できません」


「しかし、ガルディア軍は――」


「代わりに王都守備隊から二個中隊を国境へ送ります」


「王都の防衛が手薄になります」


「王都には結界があります」


 セレス・ルミナスは、窓の外へ視線を向けた。


 王都の空を、巨大な水の膜が覆っている。


 陽光を受けて青白く輝く、アクアレギアの結界。


 敵の矢も。


 投石も。


 凝縮された精霊術も。


 外から加わる強い攻撃なら、あの水の壁が防いでくれる。


「国境の村には、城壁も結界もありません」


 将軍は何か言おうとした。


 だが、口を閉じて頭を下げる。


「承知しました」


「次を」


 セレスが促すと、別の官吏が立ち上がった。


「食料配分についてです。東避難区画への支給を増やしたため、王都の備蓄は予定より早く減少しています」


「あと何日ですか?」


「現状の配分を維持した場合、五十七日です」


「国境部隊への補給を減らした場合は?」


「六十六日まで延ばせます」


「却下します」


 即答だった。


 国境の兵士から食料を奪えば、戦えなくなる。


 戦えなくなれば、ガルディア軍が進んでくる。


 そうなれば、五十七日という数字に意味はなくなる。


「王都の配給を一割減らしてください」


 会議室に小さなどよめきが起きた。


「殿下、避難民だけでなく、王都の民からも不満が出ます」


「私と王宮の配給は半分にします」


「殿下まで減らす必要は――」


「国民に耐えるよう求めながら、王宮だけが同じ食事を続けるわけにはいきません」


 反論はなかった。


 官吏たちは、書類へ命令を書き込んでいく。


 国境の被害。


 食料の配分。


 兵士の補充。


 難民の収容。


 敵軍の進路。


 河川の水量。


 そのすべてが、数字と文字になってセレスの前へ積まれていた。


 一枚の紙に書かれた死者三十名。


 避難民二百十三名。


 消失した農地四十一区画。


 それらの数字の一つ一つに、名前がある。


 家族がいる。


 帰りを待つ人がいる。


 分かっている。


 分かっているからこそ、手を止めることはできなかった。


「次の報告を」


「少しお休みになってください」


 傍らに立つ侍女長が口を挟んだ。


「昨夜も二時間しか眠っておられません」


「まだ報告が残っています」


「ですが――」


「父上の容体は?」


 侍女長の表情がわずかに曇った。


「今朝はお目覚めになりました。しかし、熱が下がっておりません」


「医師は?」


「今の状態で政務へ戻ることはできないと」


「そうですか」


 セレスは手元の書類へ目を戻した。


 父王エドガルドが病に倒れてから、半年。


 最初は、一時的に政務を代行するだけのはずだった。


 父が回復するまで。


 数週間。


 長くても一月。


 そう考えていた。


 だが、病状は改善しなかった。


 その間にも、ガルディア軍は国境へ兵を進めた。


 難民は増えた。


 食料は減った。


 セルディア聖教国も、国境付近へ兵と物資を集めている。


 国民は第一王女であるセレスへ期待した。


 王家の血を引く者。


 アクアレギアに選ばれた使い手。


 国を守る者。


 弱音を吐くことは許されない。


「殿下」


 会議室の扉を守っていた近衛兵が、片膝をついた。


「王都警備隊より報告です」


「何がありました?」


「聖剣破壊者を名乗る男を発見しました」


 室内の空気が変わった。


 将軍が腰の剣へ手を伸ばす。


「場所は?」


「すでに王都内へ入っています。現在、警備隊が同行し、王宮へ向かっております」


「捕らえたのか?」


 将軍が尋ねる。


「抵抗はありません。殿下の事前命令に従い、武器を封じたうえで客人として案内しています」


「客人だと?」


 将軍がセレスを見る。


「殿下、あの男はフレイムベルグを破壊した危険人物です。次は我が国の聖剣を狙っているとの情報もあります」


「だからこそ、会います」


「罠かもしれません」


「王都の中で戦闘を起こされる方が危険です」


「ならば地下牢へ――」


「拘束を急げば、抵抗するかもしれません」


 セレスは報告書を閉じた。


「フレイムベルグを破壊した相手です。王都の兵士を何人集めれば、確実に拘束できると思いますか?」


 将軍は答えられなかった。


 ガルディア軍が国家の象徴としていた第一聖剣。


 その使い手であるグレン将軍。


 どちらも退けた人物。


 しかも、報告によれば敵兵を一人も殺していない。


 力だけではない。


 聖剣の構造と弱点を知っている可能性が高い。


「謁見の間を使いますか?」


 侍女長が尋ねる。


「いいえ。小会議室を」


「正式な使節ではありません」


「だからです」


 広い謁見の間で王女として相対すれば、会話は国同士の宣言になる。


 今必要なのは、相手の目的を確かめることだった。


「近衛を十二名。室外にも配置してください。ただし、私が命じるまで剣を抜かないこと」


「殿下ご自身が会われるのですか?」


「相手の目的はアクアレギアです」


 セレスは窓の外の結界を見る。


「ならば、使い手である私が話します」


     ◇


 会議室を出る前に、セレスは父王の寝室へ立ち寄った。


 厚い扉の向こうには、薬草の匂いが満ちていた。


 天蓋付きの寝台。


 枕元には薬と水差し。


 父は痩せた身体を横たえ、浅い呼吸を繰り返している。


 数年前までは、大柄な王だった。


 兵士たちと同じ食堂で食事をし、収穫期には自ら農村を回った。


 国民からは、豊穣王と呼ばれていた。


 今は腕も細くなり、毛布の重ささえ負担に見える。


「父上」


 呼びかけると、エドガルドのまぶたが動いた。


「セレス……か」


「はい」


「会議は……終わったのか」


「一度、中断しました」


「何か……あったのか」


 セレスは迷った。


 病人へ新たな心配を増やすべきではない。


 だが、父は昔から隠し事を嫌った。


「アルト・レイヴァンを名乗る人物が王都に入りました」


 父王の目がわずかに開く。


「聖剣を……壊した男か」


「これから会います」


「そうか」


 父王は天井を見つめた。


「本物だと……思うか?」


「分かりません」


「本物なら……どうする」


「目的を聞きます」


「アクアレギアを……求めたら?」


「渡しません」


 セレスは即答した。


 父王の口元が、わずかに動く。


 笑ったのか。


 苦しんだのかは分からない。


「迷わないのだな」


「迷う余地がありません」


 聖剣を手放せば、結界が消える。


 水路の制御も失われる。


 ガルディア軍の進軍を止めるものもなくなる。


 国民が死ぬ。


「セレス」


 父王が弱々しく手を動かした。


 セレスはその手を取る。


「王は……国を守らねばならない」


「はい」


「だが……国だけを見るな」


 セレスの指が止まった。


「どういう意味ですか?」


「国境の……向こうにも……」


 父王は咳き込んだ。


 医師が駆け寄る。


「陛下、お話はここまでです」


 セレスは父の手を握ったまま、咳が収まるのを待った。


 だが、エドガルドは再び目を閉じてしまった。


「国境の向こうにも、何ですか?」


 返事はない。


 医師が首を振る。


「お休みになられました」


「そうですか」


 セレスは父の手を毛布の中へ戻した。


 国境の向こうにも。


 その先の言葉は、想像できた。


 人がいる。


 家族がいる。


 守るべき暮らしがある。


 そんなことは分かっている。


 分かっているが、すべてを守ることはできない。


「行ってまいります」


 眠る父へ告げ、セレスは部屋を出た。


     ◇


 小会議室の前には、十二名の近衛兵が並んでいた。


 その中央に、三人が立っている。


 黒髪の青年。


 銀白色の髪を頭巾に隠した女性。


 弓を預けた十代半ばの少女。


 人相書きの特徴と一致していた。


 青年がセレスを見る。


 灰青色の瞳。


 外見は二十代前半。


 百年前の英雄とは到底思えない。


 それでも、その眼差しには奇妙な落ち着きがあった。


 王宮へ連れてこられた危険人物。


 周囲には武装した近衛兵。


 普通なら、警戒や緊張を見せる。


 だが青年は、部屋の壁や兵の配置よりも、窓の外を流れる水へ視線を向けていた。


「第一王女セレス・ルミナス殿下です」


 近衛隊長が告げる。


 三人がセレスへ向き直った。


 少女は深く頭を下げる。


 銀白色の女性は、わずかに会釈した。


 黒髪の青年は、少し遅れて頭を下げる。


「アルト・レイヴァンです」


 騎士でも貴族でもない、簡素な名乗りだった。


「あなたが、勇者アルトを名乗る人物ですね」


「そうだ」


「殿下に向かって、その口の利き方は――」


 近衛隊長が声を上げる。


「構いません」


 セレスは制した。


「中へ」


 三人を会議室へ通す。


 無銘の剣とリナの弓は、会議室に隣接する近衛兵の保管室へ収められていた。


 保管室の扉には鍵がかけられ、前には二人の近衛兵が立っている。


 アルトの剣は古布の上から鞘と柄を縄で縛られ、結び目には王都警備隊の封蝋が押されていた。


 扉越しではあるが、会議室から近い場所だ。


 アルトも、それを確認したうえで席へ着いた。


「座ってください」


 長机を挟み、セレスが上座へ座る。


 アルトが向かい側へ腰を下ろした。


 その両隣にフィオナとリナが座る。


「まず、確認します」


 セレスはアルトを正面から見た。


「あなたは本当に、百年前に魔王を倒した勇者アルト・レイヴァンですか?」


「ああ」


「証明できますか?」


「難しいな」


「聖剣に関する知識を持っているだけでは、証明になりません」


「そうだろうな」


「否定しないのですね」


「俺だって、百年前に死んだ人間が突然現れたら疑う」


 青年はあまりにも自然に答えた。


 偽物なら、もっと強く自分の正当性を訴えるのではないか。


 伝説を語る。


 功績を並べる。


 王家へ認めるよう要求する。


 しかし目の前の男には、その気配がない。


「では、なぜ勇者の名を名乗るのですか?」


「俺の名前だからだ」


「その名が何を意味するか、分かっていますか?」


「あまり分かっていなかった」


 アルトの答えに、セレスは眉を寄せた。


「百年前は、ただの名前だった」


「勇者アルトは世界を救った英雄です」


「後からそう呼ばれるようになっただけだ」


「あなたは自分の伝説を否定するのですか?」


「魔王を倒したことは否定しない。だが、何でも正しくできたわけじゃない」


 アルトは窓の外を見る。


「聖剣を残したことも含めてな」


 やはり目的はアクアレギアだった。


「フレイムベルグを破壊したのは、あなたですね」


「ああ」


「ガルディアの進軍を止めたことには、一定の感謝を示します」


 セレスは率直に告げた。


「フレイムベルグによって、我が国も多くの兵士と村を失いました。あの炎が存在し続けていれば、さらに被害は広がっていたでしょう」


「グレンは生きている」


「報告で聞いています」


「剣を壊しても、戦争そのものが終わったわけじゃない」


「分かっています」


 フレイムベルグが失われても、ガルディア軍は残っている。


 皇帝も。


 将軍も。


 侵攻を支える制度も残っている。


 だが、聖剣という圧倒的な力を失ったことで、進軍速度は落ちた。


 ルミナスにとっては大きな利益だった。


「そのうえで尋ねます」


 セレスは指を組んだ。


「なぜ、我が国へ来たのですか?」


「アクアレギアを破壊するためだ」


 迷いのない答えだった。


 室内の空気が冷えたように感じられる。


「破壊する?」


「あれは百年前、俺たちが封印した剣だ」


「現在はルミナス王家が管理しています」


「封印を解き、戦争へ使っている」


「国を守るためです」


「ガルディアへ流れる水を止めることも?」


 セレスは黙った。


 やはり、国境の状況を見てきたらしい。


「ガルディア軍の進軍を遅らせるためです」


「兵士だけが水を飲むわけじゃない」


「分かっています」


「昨日、下流の村へ行った」


 アルトの声は、責めるようなものではなかった。


 怒鳴りもしない。


 だからこそ、セレスには重く聞こえた。


「井戸は枯れ、家畜も倒れていた。子どもが、椀一杯の水を分け合っていた」


「その村は、ガルディア領です」


 リナがわずかに顔を上げた。


 だが、何も言わない。


「国が違えば、死んでもいいのか?」


「そのようなことは言っていません」


「だが、水は止めている」


「戻せば、ガルディア軍も進めるようになります」


「その軍の向こうで、農民や子どもも死んでいる」


「水を戻した結果、我が国の農民や子どもが殺される可能性は考えないのですか?」


 アルトが黙る。


 セレスは言葉を続けた。


「ガルディア軍は、すでに複数の国を滅ぼしています。フェルナも、その一つです」


 リナの肩がわずかに強張る。


「国境を越えれば、村を焼き、食料を奪い、住民を支配する。フレイムベルグを失った今も、軍そのものが消えたわけではありません」


「だから、民間人ごと水を止める?」


「敵軍だけを選んで水を奪うことはできません」


「アクアレギアなら、ルミナス側の水を細かく分けている」


「川沿いを進む軍の一人一人と、そこに暮らす住民を区別できるほど万能ではありません」


「なら、使わなければいい」


「使わなければ、国民が死にます」


 セレスの声が、初めて強くなった。


 それでも怒鳴らない。


 感情に任せた言葉にしてはいけない。


 これは、王女としての判断だ。


「聖剣を失えば、隣国は必ず攻め込んできます」


 アルトがセレスを見る。


「ガルディアだけじゃないのか?」


「セルディア聖教国も、国境へ兵を集めています」


 正式な宣戦布告はない。


 だが、偵察部隊の増加。


 物資の集積。


 教団による反ルミナスの説教。


 すべてが戦いの準備を示している。


「我が国がアクアレギアを持つから、二国は同時に攻め込めずにいるのです」


「聖剣を持ったから狙われている可能性は?」


「封印したままでも狙われていました」


「だから解いた?」


「はい」


 セレスは迷わず答えた。


 だが、胸の奥に古い記憶がよみがえる。


 まだ父が政務を執り、セレスがその隣に立っていた頃。


 アクアレギアの封印を解いた日のこと。


 王都の広場に集まった人々。


 枯れかけていた水路へ水が戻った瞬間の歓声。


 国境へ迫っていたガルディア軍を、大河の増水によって止めたという報告。


 あの日、誰もが信じた。


 これで国は守られる。


 圧倒的な力を見せれば、敵も諦める。


 戦争は短期間で終わる。


 だが、終わらなかった。


 ガルディアはフレイムベルグをさらに強く使い始めた。


 セルディアもエアリアルの封印を解いた。


 三国は互いの聖剣を恐れながら、同時に手放せなくなった。


「アクアレギアを解放して、戦争は終わったか?」


 アルトの問いが、記憶を断ち切った。


「終わっていません」


「敵を諦めさせることはできたか?」


「王都と国境を守ることはできました」


「でも、相手も別の聖剣を使い始めた」


「だからといって、こちらだけが手放せば滅ぼされます」


「その考えが、三つの国すべてを縛っている」


「百年前に、その剣を残したあなたが言うのですか?」


 セレスの言葉に、アルトは口を閉じた。


 リナとフィオナも動かない。


「あなたたちは、魔王を倒したあとも聖剣を破壊しなかった」


 セレスは続ける。


「再び脅威が現れたとき、必要になると考えたのでしょう」


「ああ」


「ならば、今がそのときです」


「違う」


「何が違うのですか?」


「聖剣を向けている相手が、人間だからだ」


「魔王軍でなければ、国を守ってはいけないのですか?」


「そうは言っていない」


「では、何を使って守れと?」


 セレスは机へ手を置いた。


「兵士の命だけで守れとおっしゃるのですか?」


「別の方法を――」


「どの方法ですか?」


 アルトの言葉を遮る。


「城壁を高くする?」


「兵士を増やす?」


「敵国へ使者を送り、話し合いを求める?」


「すべて行いました」


 声を荒らげてはいない。


 だが、胸の奥に押し込めていたものが、言葉としてこぼれていく。


「和平の使者は二度殺されました」


「停戦協定は三度破られました」


「国境の村を明け渡せば、次の村を要求されました」


「兵士を増やせば、畑を耕す者が減りました」


「城壁を築けば、その外にある農村が焼かれました」


「私たちも、何もせず聖剣へ頼ったわけではありません」


 アルトは反論しなかった。


 沈黙が、かえってセレスを苦しくさせた。


「百年前のあなたには、今の国民を守る責任はない」


 自分でも、冷たい言葉だと思った。


 だが、撤回はできない。


「あなたは、この国の一人一人の名を知らない」


「国境で死んだ兵士も」


「避難区画で待つ家族も」


「今夜の食事を減らされる子どもも」


「知らないでしょう」


「ああ」


 アルトは認めた。


「知らない」


「なら――」


「でも、知らないから死んでもいいとは思わない」


 静かな言葉だった。


「ルミナスの人間も、ガルディアの人間も」


「すべての人間を救えると思っているのですか?」


「思っていない」


「なら、選ばなければなりません」


 セレスは胸へ手を当てる。


「私はルミナスの王女です」


「まず、この国の民を守る」


「そのために、敵国への水を止める必要があるなら止めます」


「恨まれることも」


「非情だと呼ばれることも」


「すべて私が背負います」


「本当に、全部背負えるのか?」


 アルトが尋ねた。


 その一言が、胸の奥へ突き刺さった。


「何を――」


「下流で死んだ人間のことまで、背負えるのか?」


「背負います」


「名前も知らないのに?」


「それでもです」


「死んだことすら、報告されなくても?」


 セレスは答えようとした。


 だが、声が出なかった。


 国境から届く報告書には、ルミナスの被害しか書かれていない。


 ガルディア側の村で何人倒れたのか。


 何人の子どもが水を失ったのか。


 セレスは知らない。


 知らないものを、背負っていると言えるのか。


「それでも」


 セレスは、ようやく声を絞り出した。


「私はアクアレギアを手放しません」


 アルトはしばらくセレスを見ていた。


「水源封鎖をやめるつもりも?」


「敵軍が国境から退くまでは」


「その間に、民間人が死ぬ」


「解除すれば、今度は私の国民が死にます」


 二人の間に、答えのない沈黙が落ちた。


 フィオナが静かに口を開く。


「アクアレギアは、川の水だけを動かしているわけではない」


 セレスは彼女を見る。


「あなたは?」


「フィオナ。精霊よ」


 銀白色の女性が頭巾を外した。


 露わになった髪が、光を受けて淡く輝く。


 人間とは異なる精霊力。


 セレスにも、それが感じ取れた。


「上位精霊……」


「アクアレギアは、水脈や川に宿る精霊から力を吸い上げている」


「精霊を傷つけていると?」


「意思を奪っている」


「水の精霊は、王国へ恵みを与えてくださっています」


「自分の意思ではないわ」


「それを証明できますか?」


「源流の神殿を調べれば分かる」


 セレスの目が細くなる。


「水没神殿へ入るつもりだったのですね」


「封印当時の記録が必要だ」


 アルトが答えた。


「アクアレギアは破壊する」


 セレスは無意識に、机の縁を強く握った。


「ですが、結界も水路も失われれば、国民が死にます」


「だから調べる」


「何をですか?」


「壊したあとに、水脈と川がどうなるのかを」


 アルトは窓の外の結界を見る。


「聖剣だけを壊し、王都や農地から水まで奪わずに済む方法を見つける」


「そんな都合のよい方法があると?」


「分からない」


「分からないまま、国の命綱を壊すのですか?」


「分からないから、記録が必要なんだ」


 アルトはセレスへ視線を戻した。


「アクアレギアの構造と、封印を解いたときに何が起きたのかを知りたい」


「許可できません」


「なぜ?」


「水没神殿は王家の管理地です。アクアレギアの構造と封印記録が残されています」


「だから見せてほしい」


「他国へ漏れれば、我が国の防衛が崩れます」


「俺たちは他国の兵士じゃない」


「それを証明するものはありません」


「フレイムベルグも壊した」


「だからこそ、信用できません」


 セレスは机の下で拳を握った。


 彼らの話がすべて嘘だとは思っていない。


 黒髪の青年が、本物のアルトである可能性もある。


 フィオナが上位精霊であることは、ほぼ間違いない。


 だが、それと国の秘密を渡すことは別だった。


「会談の目的は果たしました」


 セレスは立ち上がった。


「フレイムベルグを破壊したことには、改めて感謝します」


「しかし、アクアレギアは渡しません」


「水源封鎖も解除しません」


「水没神殿への立ち入りも認められません」


 アルトも立ち上がる。


「なら、別の方法で調べる」


「許可なく神殿へ近づけば、侵入者として扱います」


「それでも、止められた水を放ってはおけない」


「では、あなたは我が国の敵です」


 言葉にした瞬間。


 胸の奥に、鈍い痛みが走った。


 目の前の男は、ガルディア兵ではない。


 セルディアの工作員でもない。


 フレイムベルグを破壊し、結果としてルミナスを救った人物だ。


 それでも、アクアレギアを狙うなら危険人物として扱わなければならない。


「近衛兵」


 セレスが扉へ向かって呼びかける。


 扉が開いた。


 近衛隊長と兵士たちが入ってくる。


「三名を拘束してください」


 リナが立ち上がる。


「最初から、捕まえるつもりだったの?」


「会談で危険がないと判断できれば、王都から退去していただくつもりでした」


 セレスは答えた。


「しかし、水没神殿へ侵入する意思を示した以上、見過ごすことはできません」


「俺たちは、まだ侵入していない」


 アルトが言う。


「これからするつもりなのでしょう」


「記録を見せてもらえないならな」


「ならば同じです」


 近衛兵が三人を囲む。


「抵抗しないでください」


 セレスはアルトを見た。


「地下牢へ入れるつもりはありません。監視下の客室で待機していただきます」


「それを拘束と言うんだろ」


「そうですね」


 アルトは周囲の兵士を見た。


 誰も剣を抜いていない。


 セレスの命令を守っている。


「できれば、戦いたくない」


 アルトが言った。


「私もです」


「なら、水を戻してくれ」


「できません」


「神殿の記録を見せてくれ」


「できません」


 アルトが小さく息を吐いた。


「話は分かった」


 両手を下ろさないまま、セレスを見る。


「だが、拘束されるわけにはいかない」


「それは抵抗の意思と受け取ります」


「悪いな」


 アルトはリナへ視線を送った。


「伏せろ」


 セレスの視界が翠色に染まった。


 フィオナが片手を上げている。


 窓の隙間から吹き込んだ風が、室内を渦巻いた。


 突風ではない。


 机の上の書類と、壁際のカーテンだけを巻き上げる、狭く制御された風だった。


「目を閉じろ!」


 近衛隊長が叫ぶ。


 紙が舞う。


 カーテンが兵士たちの視界を塞ぐ。


 同時に、会議室と廊下を隔てる扉が風に押され、大きく開いた。


 リナが廊下へ飛び出す。


「止まれ!」


 保管室を守っていた兵士が腕を伸ばした。


 リナは身体を沈めてかわし、その脇をすり抜ける。


 兵士の腰へ手を伸ばし、鍵束を引き抜いた。


「返せ!」


 鍵束には、保管室の扉と同じ水鳥の印が刻まれた鍵が一本あった。


 リナはそれを錠へ差し込む。


 金属音とともに、扉が開いた。


「開いた!」


 保管室の中には、古布に包まれた無銘の剣と、リナの短弓が置かれていた。


 リナは弓を肩へ掛け、長い包みを両腕で抱える。


「アルト、受け取って!」


 包みを廊下へ投げた。


 フィオナの風が下から支え、アルトの手元まで運ぶ。


 アルトが片手で受け止めた。


「同行の条件を破るつもりですか!」


 セレスが叫ぶ。


「悪い。だが、ここで捕まるわけにはいかない」


 アルトは封蝋ごと縄を引きちぎった。


 青い蝋が床へ落ちる。


 古布を取り払い、鞘に収まった無銘の剣を構えた。


 だが、刃を抜くことはなかった。


 迫ってきた近衛兵の剣を、鞘で受け止める。


 手首を返し、剣だけを弾き飛ばした。


 もう一人が背後から腕を伸ばす。


 アルトは身体を入れ替え、兵士の勢いを利用して机の上へ転がした。


「誰も傷つけるな!」


 セレスが命じる。


 兵士たちの動きが一瞬鈍った。


「窓へ!」


 フィオナが叫ぶ。


 リナが先に走る。


「ここ、三階だよ!」


「飛び降りろとは言っていないわ」


 フィオナが窓の外へ手を向けた。


 王宮の庭園に立つ大樹。


 その枝葉がざわめいた。


 風が幹を包み、太い枝をゆっくりと押し曲げる。


 枝が、三階の窓へ近づいてくる。


「大樹が……」


 セレスが息をのんだ。


 風だけではない。


 庭園の大樹そのものが、フィオナの呼びかけへ応じている。


「今よ!」


 リナが窓枠を越え、枝へ飛び移る。


 太い枝が大きく沈んだ。


 フィオナも続く。


 アルトは最後まで室内に残り、近衛兵の進路を塞いでいた。


「アルト・レイヴァン!」


 セレスが呼ぶ。


 彼が振り返る。


「アクアレギアへ手を出せば、私はあなたを止めます」


「ああ」


「この国を危険にさらすことは許しません」


「分かってる」


「何も分かっていません!」


 初めて、声を荒らげた。


 アルトは少しだけ目を見開く。


「あなたが聖剣を壊せば、私の国民が死ぬ!」


「だから調べる」


 アルトは窓枠へ片足をかけた。


「アクアレギアを壊しても、この国の人々から水まで奪わずに済む方法を」


「そのような方法が見つからなかったら?」


 アルトはすぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、答えは分かった。


「それでも、剣は残せない」


「あなたに、そんな権利はありません」


「ああ」


 アルトは認めた。


「でも、残した責任はある」


 彼は窓から枝へ飛び移った。


 その瞬間だった。


 アルトの右手が、薄く透けた。


 枝をつかもうとした指が、樹皮の中へ沈みかける。


「アルト!」


 フィオナが腕をつかんだ。


 風がアルトの身体を下から支える。


 枝が大きく揺れた。


「平気だ」


「平気な人の手は透けないわ」


 セレスは窓辺で息をのんだ。


 見間違いではない。


 黒髪の青年の右手は、確かに一瞬、向こう側が見えるほど透けていた。


「何が……」


 セレスの声は、誰にも届かなかった。


 フィオナが大樹へ手を触れる。


「お願い。少しだけ力を貸して」


 枝葉が大きくざわめいた。


 しなっていた枝が勢いよく戻る。


 三人の身体が、庭園の外壁近くまで運ばれた。


 リナが先に低い屋根へ飛び移る。


 フィオナが風に乗るように続く。


 アルトも着地したが、片膝をついた。


 右手はすでに元へ戻っている。


「アルト!」


 リナが駆け寄る。


「大丈夫だ。行こう」


「追って!」


 セレスの命令と同時に、近衛兵が窓へ集まった。


 だが、同じ枝へ飛び移ることはできない。


 大樹は役目を終えたように、枝を元の位置へ戻している。


「階段から庭園へ!」


 近衛隊長が兵士たちを走らせる。


 その間に、三人は屋根から外壁へ移った。


 フィオナの風が落下を弱める。


 アルトたちは外壁の向こうへ姿を消した。


     ◇


「城門を閉鎖します!」


 近衛隊長が叫んだ。


「王都全域を捜索しなければ――」


「待ってください」


 セレスは窓の外を見た。


 三人はすでに庭園の壁の向こうへ消えている。


「城門の閉鎖はしません」


「殿下?」


「避難民と補給馬車が混乱します」


「しかし、このままでは逃げられます」


「水没神殿へ向かう可能性が高い」


 セレスは机の上に広げられた地図を見る。


 王都の北東。


 大河の源流。


 王家の管理地。


 百年前にアクアレギアが封印されていた水没神殿。


「北東街道へ追跡隊を出してください」


「王都内の捜索は?」


「続けます。ただし、市民へ危害を加えない限り、武器の使用は禁止します」


「相手は聖剣を破壊した人物です」


「分かっています」


 セレスは窓の外へ視線を戻した。


 空を覆う水の結界。


 王都を流れる水路。


 遠くに広がる農地。


 すべて、アクアレギアによって守られている。


 この剣を失うわけにはいかない。


 たとえ下流の村が苦しんでも。


 たとえ敵国の民間人が倒れても。


 自分はルミナスの王女だ。


 国民を守らなければならない。


 そのはずだった。


『本当に、全部背負えるのか?』


 アルトの言葉が耳に残っている。


 そして、もう一つ。


 一瞬だけ透けた、彼の右手。


 何らかの精霊術を使ったようには見えなかった。


 ただ枝をつかもうとしただけだ。


 それなのに、身体そのものが消えかけていた。


「まさか……」


 フレイムベルグを破壊した代償なのか。


 それとも、百年前の人間が蘇ったことに関係しているのか。


 確かなことは分からない。


 だが、あの男が何の代償も払わず、聖剣を破壊しているわけではないことだけは理解できた。


「殿下」


 侍女長が、足元に落ちた書類を拾った。


「こちらを」


 それは今朝届いた国境報告だった。


 ガルディア方面へ流れる水を止めた効果。


 敵軍の進軍速度低下。


 補給路の寸断。


 ルミナス側の被害軽減。


 必要な判断だったことを示す数字が並んでいる。


 その下。


 余白に、小さな追記があった。


 偵察兵が確認。


 下流域の複数の村で住民が避難を開始。


 水不足による死者数は不明。


 不明。


 名前も。


 人数も。


 年齢も。


 何も分からない。


 それでも、自分の命令によって水を失った人々がいる。


 セレスは書類を閉じた。


「追跡隊へ伝えてください」


「はい」


「アルト・レイヴァンを発見しても、殺してはなりません」


「拘束を優先しますか?」


「はい」


 セレスは窓の外の結界を見上げた。


「そして、水没神殿へ入れないでください」


 アクアレギアは、この国を守る聖剣だ。


 人々へ水を与え、敵の攻撃を防ぐ希望だ。


 それを疑うことは、これまでの判断すべてを疑うことになる。


 だから、手放せない。


 手放すわけにはいかない。


 たとえ。


 剣を握り続ける自分の手が、すでに誰かの命を奪っているとしても。


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