第12話 守護の王女
「国境南西部、カレド村から追加の救援要請です」
報告を読み上げる官吏の声が、会議室に響いた。
「避難民は?」
「昨夜までに二百十三名を収容しました。ただ、登録所の天幕が不足しています。近隣の村から毛布と木材を集めていますが、このまま増え続ければ三日ともちません」
「王都東区画の空いている倉庫を開放してください。食料庫として使っている建物は避け、古い織物倉庫を二棟」
「しかし、あそこには補給用の縄と布を保管しています」
「物資は南倉庫へ移します。今日中に終わらせてください」
「承知しました」
官吏が頭を下げ、書類へ印をつける。
間を置かず、次の報告が差し出された。
「北部の穀物収穫量についてです。水量は足りていますが、人手が不足しています。今年、農村から兵を徴集した影響かと」
「徴集した農民兵のうち、十八歳未満と四十五歳以上の者を村へ戻してください」
会議室の端に立つ将軍が顔を上げた。
「殿下、それでは国境の兵力が減ります」
「剣を持つ者を増やしても、来年の麦がなければ国は維持できません」
「しかし、ガルディア軍は――」
「代わりに王都守備隊から二個中隊を国境へ送ります」
「王都の防衛が手薄になります」
「王都には結界があります」
セレス・ルミナスは、窓の外へ視線を向けた。
王都の空を、巨大な水の膜が覆っている。
陽光を受けて青白く輝く、アクアレギアの結界。
敵の矢も。
投石も。
凝縮された精霊術も。
外から加わる強い攻撃なら、あの水の壁が防いでくれる。
「国境の村には、城壁も結界もありません」
将軍は何か言おうとした。
だが、口を閉じて頭を下げる。
「承知しました」
「次を」
セレスが促すと、別の官吏が立ち上がった。
「食料配分についてです。東避難区画への支給を増やしたため、王都の備蓄は予定より早く減少しています」
「あと何日ですか?」
「現状の配分を維持した場合、五十七日です」
「国境部隊への補給を減らした場合は?」
「六十六日まで延ばせます」
「却下します」
即答だった。
国境の兵士から食料を奪えば、戦えなくなる。
戦えなくなれば、ガルディア軍が進んでくる。
そうなれば、五十七日という数字に意味はなくなる。
「王都の配給を一割減らしてください」
会議室に小さなどよめきが起きた。
「殿下、避難民だけでなく、王都の民からも不満が出ます」
「私と王宮の配給は半分にします」
「殿下まで減らす必要は――」
「国民に耐えるよう求めながら、王宮だけが同じ食事を続けるわけにはいきません」
反論はなかった。
官吏たちは、書類へ命令を書き込んでいく。
国境の被害。
食料の配分。
兵士の補充。
難民の収容。
敵軍の進路。
河川の水量。
そのすべてが、数字と文字になってセレスの前へ積まれていた。
一枚の紙に書かれた死者三十名。
避難民二百十三名。
消失した農地四十一区画。
それらの数字の一つ一つに、名前がある。
家族がいる。
帰りを待つ人がいる。
分かっている。
分かっているからこそ、手を止めることはできなかった。
「次の報告を」
「少しお休みになってください」
傍らに立つ侍女長が口を挟んだ。
「昨夜も二時間しか眠っておられません」
「まだ報告が残っています」
「ですが――」
「父上の容体は?」
侍女長の表情がわずかに曇った。
「今朝はお目覚めになりました。しかし、熱が下がっておりません」
「医師は?」
「今の状態で政務へ戻ることはできないと」
「そうですか」
セレスは手元の書類へ目を戻した。
父王エドガルドが病に倒れてから、半年。
最初は、一時的に政務を代行するだけのはずだった。
父が回復するまで。
数週間。
長くても一月。
そう考えていた。
だが、病状は改善しなかった。
その間にも、ガルディア軍は国境へ兵を進めた。
難民は増えた。
食料は減った。
セルディア聖教国も、国境付近へ兵と物資を集めている。
国民は第一王女であるセレスへ期待した。
王家の血を引く者。
アクアレギアに選ばれた使い手。
国を守る者。
弱音を吐くことは許されない。
「殿下」
会議室の扉を守っていた近衛兵が、片膝をついた。
「王都警備隊より報告です」
「何がありました?」
「聖剣破壊者を名乗る男を発見しました」
室内の空気が変わった。
将軍が腰の剣へ手を伸ばす。
「場所は?」
「すでに王都内へ入っています。現在、警備隊が同行し、王宮へ向かっております」
「捕らえたのか?」
将軍が尋ねる。
「抵抗はありません。殿下の事前命令に従い、武器を封じたうえで客人として案内しています」
「客人だと?」
将軍がセレスを見る。
「殿下、あの男はフレイムベルグを破壊した危険人物です。次は我が国の聖剣を狙っているとの情報もあります」
「だからこそ、会います」
「罠かもしれません」
「王都の中で戦闘を起こされる方が危険です」
「ならば地下牢へ――」
「拘束を急げば、抵抗するかもしれません」
セレスは報告書を閉じた。
「フレイムベルグを破壊した相手です。王都の兵士を何人集めれば、確実に拘束できると思いますか?」
将軍は答えられなかった。
ガルディア軍が国家の象徴としていた第一聖剣。
その使い手であるグレン将軍。
どちらも退けた人物。
しかも、報告によれば敵兵を一人も殺していない。
力だけではない。
聖剣の構造と弱点を知っている可能性が高い。
「謁見の間を使いますか?」
侍女長が尋ねる。
「いいえ。小会議室を」
「正式な使節ではありません」
「だからです」
広い謁見の間で王女として相対すれば、会話は国同士の宣言になる。
今必要なのは、相手の目的を確かめることだった。
「近衛を十二名。室外にも配置してください。ただし、私が命じるまで剣を抜かないこと」
「殿下ご自身が会われるのですか?」
「相手の目的はアクアレギアです」
セレスは窓の外の結界を見る。
「ならば、使い手である私が話します」
◇
会議室を出る前に、セレスは父王の寝室へ立ち寄った。
厚い扉の向こうには、薬草の匂いが満ちていた。
天蓋付きの寝台。
枕元には薬と水差し。
父は痩せた身体を横たえ、浅い呼吸を繰り返している。
数年前までは、大柄な王だった。
兵士たちと同じ食堂で食事をし、収穫期には自ら農村を回った。
国民からは、豊穣王と呼ばれていた。
今は腕も細くなり、毛布の重ささえ負担に見える。
「父上」
呼びかけると、エドガルドのまぶたが動いた。
「セレス……か」
「はい」
「会議は……終わったのか」
「一度、中断しました」
「何か……あったのか」
セレスは迷った。
病人へ新たな心配を増やすべきではない。
だが、父は昔から隠し事を嫌った。
「アルト・レイヴァンを名乗る人物が王都に入りました」
父王の目がわずかに開く。
「聖剣を……壊した男か」
「これから会います」
「そうか」
父王は天井を見つめた。
「本物だと……思うか?」
「分かりません」
「本物なら……どうする」
「目的を聞きます」
「アクアレギアを……求めたら?」
「渡しません」
セレスは即答した。
父王の口元が、わずかに動く。
笑ったのか。
苦しんだのかは分からない。
「迷わないのだな」
「迷う余地がありません」
聖剣を手放せば、結界が消える。
水路の制御も失われる。
ガルディア軍の進軍を止めるものもなくなる。
国民が死ぬ。
「セレス」
父王が弱々しく手を動かした。
セレスはその手を取る。
「王は……国を守らねばならない」
「はい」
「だが……国だけを見るな」
セレスの指が止まった。
「どういう意味ですか?」
「国境の……向こうにも……」
父王は咳き込んだ。
医師が駆け寄る。
「陛下、お話はここまでです」
セレスは父の手を握ったまま、咳が収まるのを待った。
だが、エドガルドは再び目を閉じてしまった。
「国境の向こうにも、何ですか?」
返事はない。
医師が首を振る。
「お休みになられました」
「そうですか」
セレスは父の手を毛布の中へ戻した。
国境の向こうにも。
その先の言葉は、想像できた。
人がいる。
家族がいる。
守るべき暮らしがある。
そんなことは分かっている。
分かっているが、すべてを守ることはできない。
「行ってまいります」
眠る父へ告げ、セレスは部屋を出た。
◇
小会議室の前には、十二名の近衛兵が並んでいた。
その中央に、三人が立っている。
黒髪の青年。
銀白色の髪を頭巾に隠した女性。
弓を預けた十代半ばの少女。
人相書きの特徴と一致していた。
青年がセレスを見る。
灰青色の瞳。
外見は二十代前半。
百年前の英雄とは到底思えない。
それでも、その眼差しには奇妙な落ち着きがあった。
王宮へ連れてこられた危険人物。
周囲には武装した近衛兵。
普通なら、警戒や緊張を見せる。
だが青年は、部屋の壁や兵の配置よりも、窓の外を流れる水へ視線を向けていた。
「第一王女セレス・ルミナス殿下です」
近衛隊長が告げる。
三人がセレスへ向き直った。
少女は深く頭を下げる。
銀白色の女性は、わずかに会釈した。
黒髪の青年は、少し遅れて頭を下げる。
「アルト・レイヴァンです」
騎士でも貴族でもない、簡素な名乗りだった。
「あなたが、勇者アルトを名乗る人物ですね」
「そうだ」
「殿下に向かって、その口の利き方は――」
近衛隊長が声を上げる。
「構いません」
セレスは制した。
「中へ」
三人を会議室へ通す。
無銘の剣とリナの弓は、会議室に隣接する近衛兵の保管室へ収められていた。
保管室の扉には鍵がかけられ、前には二人の近衛兵が立っている。
アルトの剣は古布の上から鞘と柄を縄で縛られ、結び目には王都警備隊の封蝋が押されていた。
扉越しではあるが、会議室から近い場所だ。
アルトも、それを確認したうえで席へ着いた。
「座ってください」
長机を挟み、セレスが上座へ座る。
アルトが向かい側へ腰を下ろした。
その両隣にフィオナとリナが座る。
「まず、確認します」
セレスはアルトを正面から見た。
「あなたは本当に、百年前に魔王を倒した勇者アルト・レイヴァンですか?」
「ああ」
「証明できますか?」
「難しいな」
「聖剣に関する知識を持っているだけでは、証明になりません」
「そうだろうな」
「否定しないのですね」
「俺だって、百年前に死んだ人間が突然現れたら疑う」
青年はあまりにも自然に答えた。
偽物なら、もっと強く自分の正当性を訴えるのではないか。
伝説を語る。
功績を並べる。
王家へ認めるよう要求する。
しかし目の前の男には、その気配がない。
「では、なぜ勇者の名を名乗るのですか?」
「俺の名前だからだ」
「その名が何を意味するか、分かっていますか?」
「あまり分かっていなかった」
アルトの答えに、セレスは眉を寄せた。
「百年前は、ただの名前だった」
「勇者アルトは世界を救った英雄です」
「後からそう呼ばれるようになっただけだ」
「あなたは自分の伝説を否定するのですか?」
「魔王を倒したことは否定しない。だが、何でも正しくできたわけじゃない」
アルトは窓の外を見る。
「聖剣を残したことも含めてな」
やはり目的はアクアレギアだった。
「フレイムベルグを破壊したのは、あなたですね」
「ああ」
「ガルディアの進軍を止めたことには、一定の感謝を示します」
セレスは率直に告げた。
「フレイムベルグによって、我が国も多くの兵士と村を失いました。あの炎が存在し続けていれば、さらに被害は広がっていたでしょう」
「グレンは生きている」
「報告で聞いています」
「剣を壊しても、戦争そのものが終わったわけじゃない」
「分かっています」
フレイムベルグが失われても、ガルディア軍は残っている。
皇帝も。
将軍も。
侵攻を支える制度も残っている。
だが、聖剣という圧倒的な力を失ったことで、進軍速度は落ちた。
ルミナスにとっては大きな利益だった。
「そのうえで尋ねます」
セレスは指を組んだ。
「なぜ、我が国へ来たのですか?」
「アクアレギアを破壊するためだ」
迷いのない答えだった。
室内の空気が冷えたように感じられる。
「破壊する?」
「あれは百年前、俺たちが封印した剣だ」
「現在はルミナス王家が管理しています」
「封印を解き、戦争へ使っている」
「国を守るためです」
「ガルディアへ流れる水を止めることも?」
セレスは黙った。
やはり、国境の状況を見てきたらしい。
「ガルディア軍の進軍を遅らせるためです」
「兵士だけが水を飲むわけじゃない」
「分かっています」
「昨日、下流の村へ行った」
アルトの声は、責めるようなものではなかった。
怒鳴りもしない。
だからこそ、セレスには重く聞こえた。
「井戸は枯れ、家畜も倒れていた。子どもが、椀一杯の水を分け合っていた」
「その村は、ガルディア領です」
リナがわずかに顔を上げた。
だが、何も言わない。
「国が違えば、死んでもいいのか?」
「そのようなことは言っていません」
「だが、水は止めている」
「戻せば、ガルディア軍も進めるようになります」
「その軍の向こうで、農民や子どもも死んでいる」
「水を戻した結果、我が国の農民や子どもが殺される可能性は考えないのですか?」
アルトが黙る。
セレスは言葉を続けた。
「ガルディア軍は、すでに複数の国を滅ぼしています。フェルナも、その一つです」
リナの肩がわずかに強張る。
「国境を越えれば、村を焼き、食料を奪い、住民を支配する。フレイムベルグを失った今も、軍そのものが消えたわけではありません」
「だから、民間人ごと水を止める?」
「敵軍だけを選んで水を奪うことはできません」
「アクアレギアなら、ルミナス側の水を細かく分けている」
「川沿いを進む軍の一人一人と、そこに暮らす住民を区別できるほど万能ではありません」
「なら、使わなければいい」
「使わなければ、国民が死にます」
セレスの声が、初めて強くなった。
それでも怒鳴らない。
感情に任せた言葉にしてはいけない。
これは、王女としての判断だ。
「聖剣を失えば、隣国は必ず攻め込んできます」
アルトがセレスを見る。
「ガルディアだけじゃないのか?」
「セルディア聖教国も、国境へ兵を集めています」
正式な宣戦布告はない。
だが、偵察部隊の増加。
物資の集積。
教団による反ルミナスの説教。
すべてが戦いの準備を示している。
「我が国がアクアレギアを持つから、二国は同時に攻め込めずにいるのです」
「聖剣を持ったから狙われている可能性は?」
「封印したままでも狙われていました」
「だから解いた?」
「はい」
セレスは迷わず答えた。
だが、胸の奥に古い記憶がよみがえる。
まだ父が政務を執り、セレスがその隣に立っていた頃。
アクアレギアの封印を解いた日のこと。
王都の広場に集まった人々。
枯れかけていた水路へ水が戻った瞬間の歓声。
国境へ迫っていたガルディア軍を、大河の増水によって止めたという報告。
あの日、誰もが信じた。
これで国は守られる。
圧倒的な力を見せれば、敵も諦める。
戦争は短期間で終わる。
だが、終わらなかった。
ガルディアはフレイムベルグをさらに強く使い始めた。
セルディアもエアリアルの封印を解いた。
三国は互いの聖剣を恐れながら、同時に手放せなくなった。
「アクアレギアを解放して、戦争は終わったか?」
アルトの問いが、記憶を断ち切った。
「終わっていません」
「敵を諦めさせることはできたか?」
「王都と国境を守ることはできました」
「でも、相手も別の聖剣を使い始めた」
「だからといって、こちらだけが手放せば滅ぼされます」
「その考えが、三つの国すべてを縛っている」
「百年前に、その剣を残したあなたが言うのですか?」
セレスの言葉に、アルトは口を閉じた。
リナとフィオナも動かない。
「あなたたちは、魔王を倒したあとも聖剣を破壊しなかった」
セレスは続ける。
「再び脅威が現れたとき、必要になると考えたのでしょう」
「ああ」
「ならば、今がそのときです」
「違う」
「何が違うのですか?」
「聖剣を向けている相手が、人間だからだ」
「魔王軍でなければ、国を守ってはいけないのですか?」
「そうは言っていない」
「では、何を使って守れと?」
セレスは机へ手を置いた。
「兵士の命だけで守れとおっしゃるのですか?」
「別の方法を――」
「どの方法ですか?」
アルトの言葉を遮る。
「城壁を高くする?」
「兵士を増やす?」
「敵国へ使者を送り、話し合いを求める?」
「すべて行いました」
声を荒らげてはいない。
だが、胸の奥に押し込めていたものが、言葉としてこぼれていく。
「和平の使者は二度殺されました」
「停戦協定は三度破られました」
「国境の村を明け渡せば、次の村を要求されました」
「兵士を増やせば、畑を耕す者が減りました」
「城壁を築けば、その外にある農村が焼かれました」
「私たちも、何もせず聖剣へ頼ったわけではありません」
アルトは反論しなかった。
沈黙が、かえってセレスを苦しくさせた。
「百年前のあなたには、今の国民を守る責任はない」
自分でも、冷たい言葉だと思った。
だが、撤回はできない。
「あなたは、この国の一人一人の名を知らない」
「国境で死んだ兵士も」
「避難区画で待つ家族も」
「今夜の食事を減らされる子どもも」
「知らないでしょう」
「ああ」
アルトは認めた。
「知らない」
「なら――」
「でも、知らないから死んでもいいとは思わない」
静かな言葉だった。
「ルミナスの人間も、ガルディアの人間も」
「すべての人間を救えると思っているのですか?」
「思っていない」
「なら、選ばなければなりません」
セレスは胸へ手を当てる。
「私はルミナスの王女です」
「まず、この国の民を守る」
「そのために、敵国への水を止める必要があるなら止めます」
「恨まれることも」
「非情だと呼ばれることも」
「すべて私が背負います」
「本当に、全部背負えるのか?」
アルトが尋ねた。
その一言が、胸の奥へ突き刺さった。
「何を――」
「下流で死んだ人間のことまで、背負えるのか?」
「背負います」
「名前も知らないのに?」
「それでもです」
「死んだことすら、報告されなくても?」
セレスは答えようとした。
だが、声が出なかった。
国境から届く報告書には、ルミナスの被害しか書かれていない。
ガルディア側の村で何人倒れたのか。
何人の子どもが水を失ったのか。
セレスは知らない。
知らないものを、背負っていると言えるのか。
「それでも」
セレスは、ようやく声を絞り出した。
「私はアクアレギアを手放しません」
アルトはしばらくセレスを見ていた。
「水源封鎖をやめるつもりも?」
「敵軍が国境から退くまでは」
「その間に、民間人が死ぬ」
「解除すれば、今度は私の国民が死にます」
二人の間に、答えのない沈黙が落ちた。
フィオナが静かに口を開く。
「アクアレギアは、川の水だけを動かしているわけではない」
セレスは彼女を見る。
「あなたは?」
「フィオナ。精霊よ」
銀白色の女性が頭巾を外した。
露わになった髪が、光を受けて淡く輝く。
人間とは異なる精霊力。
セレスにも、それが感じ取れた。
「上位精霊……」
「アクアレギアは、水脈や川に宿る精霊から力を吸い上げている」
「精霊を傷つけていると?」
「意思を奪っている」
「水の精霊は、王国へ恵みを与えてくださっています」
「自分の意思ではないわ」
「それを証明できますか?」
「源流の神殿を調べれば分かる」
セレスの目が細くなる。
「水没神殿へ入るつもりだったのですね」
「封印当時の記録が必要だ」
アルトが答えた。
「アクアレギアは破壊する」
セレスは無意識に、机の縁を強く握った。
「ですが、結界も水路も失われれば、国民が死にます」
「だから調べる」
「何をですか?」
「壊したあとに、水脈と川がどうなるのかを」
アルトは窓の外の結界を見る。
「聖剣だけを壊し、王都や農地から水まで奪わずに済む方法を見つける」
「そんな都合のよい方法があると?」
「分からない」
「分からないまま、国の命綱を壊すのですか?」
「分からないから、記録が必要なんだ」
アルトはセレスへ視線を戻した。
「アクアレギアの構造と、封印を解いたときに何が起きたのかを知りたい」
「許可できません」
「なぜ?」
「水没神殿は王家の管理地です。アクアレギアの構造と封印記録が残されています」
「だから見せてほしい」
「他国へ漏れれば、我が国の防衛が崩れます」
「俺たちは他国の兵士じゃない」
「それを証明するものはありません」
「フレイムベルグも壊した」
「だからこそ、信用できません」
セレスは机の下で拳を握った。
彼らの話がすべて嘘だとは思っていない。
黒髪の青年が、本物のアルトである可能性もある。
フィオナが上位精霊であることは、ほぼ間違いない。
だが、それと国の秘密を渡すことは別だった。
「会談の目的は果たしました」
セレスは立ち上がった。
「フレイムベルグを破壊したことには、改めて感謝します」
「しかし、アクアレギアは渡しません」
「水源封鎖も解除しません」
「水没神殿への立ち入りも認められません」
アルトも立ち上がる。
「なら、別の方法で調べる」
「許可なく神殿へ近づけば、侵入者として扱います」
「それでも、止められた水を放ってはおけない」
「では、あなたは我が国の敵です」
言葉にした瞬間。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
目の前の男は、ガルディア兵ではない。
セルディアの工作員でもない。
フレイムベルグを破壊し、結果としてルミナスを救った人物だ。
それでも、アクアレギアを狙うなら危険人物として扱わなければならない。
「近衛兵」
セレスが扉へ向かって呼びかける。
扉が開いた。
近衛隊長と兵士たちが入ってくる。
「三名を拘束してください」
リナが立ち上がる。
「最初から、捕まえるつもりだったの?」
「会談で危険がないと判断できれば、王都から退去していただくつもりでした」
セレスは答えた。
「しかし、水没神殿へ侵入する意思を示した以上、見過ごすことはできません」
「俺たちは、まだ侵入していない」
アルトが言う。
「これからするつもりなのでしょう」
「記録を見せてもらえないならな」
「ならば同じです」
近衛兵が三人を囲む。
「抵抗しないでください」
セレスはアルトを見た。
「地下牢へ入れるつもりはありません。監視下の客室で待機していただきます」
「それを拘束と言うんだろ」
「そうですね」
アルトは周囲の兵士を見た。
誰も剣を抜いていない。
セレスの命令を守っている。
「できれば、戦いたくない」
アルトが言った。
「私もです」
「なら、水を戻してくれ」
「できません」
「神殿の記録を見せてくれ」
「できません」
アルトが小さく息を吐いた。
「話は分かった」
両手を下ろさないまま、セレスを見る。
「だが、拘束されるわけにはいかない」
「それは抵抗の意思と受け取ります」
「悪いな」
アルトはリナへ視線を送った。
「伏せろ」
セレスの視界が翠色に染まった。
フィオナが片手を上げている。
窓の隙間から吹き込んだ風が、室内を渦巻いた。
突風ではない。
机の上の書類と、壁際のカーテンだけを巻き上げる、狭く制御された風だった。
「目を閉じろ!」
近衛隊長が叫ぶ。
紙が舞う。
カーテンが兵士たちの視界を塞ぐ。
同時に、会議室と廊下を隔てる扉が風に押され、大きく開いた。
リナが廊下へ飛び出す。
「止まれ!」
保管室を守っていた兵士が腕を伸ばした。
リナは身体を沈めてかわし、その脇をすり抜ける。
兵士の腰へ手を伸ばし、鍵束を引き抜いた。
「返せ!」
鍵束には、保管室の扉と同じ水鳥の印が刻まれた鍵が一本あった。
リナはそれを錠へ差し込む。
金属音とともに、扉が開いた。
「開いた!」
保管室の中には、古布に包まれた無銘の剣と、リナの短弓が置かれていた。
リナは弓を肩へ掛け、長い包みを両腕で抱える。
「アルト、受け取って!」
包みを廊下へ投げた。
フィオナの風が下から支え、アルトの手元まで運ぶ。
アルトが片手で受け止めた。
「同行の条件を破るつもりですか!」
セレスが叫ぶ。
「悪い。だが、ここで捕まるわけにはいかない」
アルトは封蝋ごと縄を引きちぎった。
青い蝋が床へ落ちる。
古布を取り払い、鞘に収まった無銘の剣を構えた。
だが、刃を抜くことはなかった。
迫ってきた近衛兵の剣を、鞘で受け止める。
手首を返し、剣だけを弾き飛ばした。
もう一人が背後から腕を伸ばす。
アルトは身体を入れ替え、兵士の勢いを利用して机の上へ転がした。
「誰も傷つけるな!」
セレスが命じる。
兵士たちの動きが一瞬鈍った。
「窓へ!」
フィオナが叫ぶ。
リナが先に走る。
「ここ、三階だよ!」
「飛び降りろとは言っていないわ」
フィオナが窓の外へ手を向けた。
王宮の庭園に立つ大樹。
その枝葉がざわめいた。
風が幹を包み、太い枝をゆっくりと押し曲げる。
枝が、三階の窓へ近づいてくる。
「大樹が……」
セレスが息をのんだ。
風だけではない。
庭園の大樹そのものが、フィオナの呼びかけへ応じている。
「今よ!」
リナが窓枠を越え、枝へ飛び移る。
太い枝が大きく沈んだ。
フィオナも続く。
アルトは最後まで室内に残り、近衛兵の進路を塞いでいた。
「アルト・レイヴァン!」
セレスが呼ぶ。
彼が振り返る。
「アクアレギアへ手を出せば、私はあなたを止めます」
「ああ」
「この国を危険にさらすことは許しません」
「分かってる」
「何も分かっていません!」
初めて、声を荒らげた。
アルトは少しだけ目を見開く。
「あなたが聖剣を壊せば、私の国民が死ぬ!」
「だから調べる」
アルトは窓枠へ片足をかけた。
「アクアレギアを壊しても、この国の人々から水まで奪わずに済む方法を」
「そのような方法が見つからなかったら?」
アルトはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えは分かった。
「それでも、剣は残せない」
「あなたに、そんな権利はありません」
「ああ」
アルトは認めた。
「でも、残した責任はある」
彼は窓から枝へ飛び移った。
その瞬間だった。
アルトの右手が、薄く透けた。
枝をつかもうとした指が、樹皮の中へ沈みかける。
「アルト!」
フィオナが腕をつかんだ。
風がアルトの身体を下から支える。
枝が大きく揺れた。
「平気だ」
「平気な人の手は透けないわ」
セレスは窓辺で息をのんだ。
見間違いではない。
黒髪の青年の右手は、確かに一瞬、向こう側が見えるほど透けていた。
「何が……」
セレスの声は、誰にも届かなかった。
フィオナが大樹へ手を触れる。
「お願い。少しだけ力を貸して」
枝葉が大きくざわめいた。
しなっていた枝が勢いよく戻る。
三人の身体が、庭園の外壁近くまで運ばれた。
リナが先に低い屋根へ飛び移る。
フィオナが風に乗るように続く。
アルトも着地したが、片膝をついた。
右手はすでに元へ戻っている。
「アルト!」
リナが駆け寄る。
「大丈夫だ。行こう」
「追って!」
セレスの命令と同時に、近衛兵が窓へ集まった。
だが、同じ枝へ飛び移ることはできない。
大樹は役目を終えたように、枝を元の位置へ戻している。
「階段から庭園へ!」
近衛隊長が兵士たちを走らせる。
その間に、三人は屋根から外壁へ移った。
フィオナの風が落下を弱める。
アルトたちは外壁の向こうへ姿を消した。
◇
「城門を閉鎖します!」
近衛隊長が叫んだ。
「王都全域を捜索しなければ――」
「待ってください」
セレスは窓の外を見た。
三人はすでに庭園の壁の向こうへ消えている。
「城門の閉鎖はしません」
「殿下?」
「避難民と補給馬車が混乱します」
「しかし、このままでは逃げられます」
「水没神殿へ向かう可能性が高い」
セレスは机の上に広げられた地図を見る。
王都の北東。
大河の源流。
王家の管理地。
百年前にアクアレギアが封印されていた水没神殿。
「北東街道へ追跡隊を出してください」
「王都内の捜索は?」
「続けます。ただし、市民へ危害を加えない限り、武器の使用は禁止します」
「相手は聖剣を破壊した人物です」
「分かっています」
セレスは窓の外へ視線を戻した。
空を覆う水の結界。
王都を流れる水路。
遠くに広がる農地。
すべて、アクアレギアによって守られている。
この剣を失うわけにはいかない。
たとえ下流の村が苦しんでも。
たとえ敵国の民間人が倒れても。
自分はルミナスの王女だ。
国民を守らなければならない。
そのはずだった。
『本当に、全部背負えるのか?』
アルトの言葉が耳に残っている。
そして、もう一つ。
一瞬だけ透けた、彼の右手。
何らかの精霊術を使ったようには見えなかった。
ただ枝をつかもうとしただけだ。
それなのに、身体そのものが消えかけていた。
「まさか……」
フレイムベルグを破壊した代償なのか。
それとも、百年前の人間が蘇ったことに関係しているのか。
確かなことは分からない。
だが、あの男が何の代償も払わず、聖剣を破壊しているわけではないことだけは理解できた。
「殿下」
侍女長が、足元に落ちた書類を拾った。
「こちらを」
それは今朝届いた国境報告だった。
ガルディア方面へ流れる水を止めた効果。
敵軍の進軍速度低下。
補給路の寸断。
ルミナス側の被害軽減。
必要な判断だったことを示す数字が並んでいる。
その下。
余白に、小さな追記があった。
偵察兵が確認。
下流域の複数の村で住民が避難を開始。
水不足による死者数は不明。
不明。
名前も。
人数も。
年齢も。
何も分からない。
それでも、自分の命令によって水を失った人々がいる。
セレスは書類を閉じた。
「追跡隊へ伝えてください」
「はい」
「アルト・レイヴァンを発見しても、殺してはなりません」
「拘束を優先しますか?」
「はい」
セレスは窓の外の結界を見上げた。
「そして、水没神殿へ入れないでください」
アクアレギアは、この国を守る聖剣だ。
人々へ水を与え、敵の攻撃を防ぐ希望だ。
それを疑うことは、これまでの判断すべてを疑うことになる。
だから、手放せない。
手放すわけにはいかない。
たとえ。
剣を握り続ける自分の手が、すでに誰かの命を奪っているとしても。




