第11話 水に守られた王都
夜明け前。
三人は、山間の古い道を使ってルミナス領へ入った。
国境を示す石柱は、すでに背後にある。
夜のうちに人の通らない斜面を越え、ルミナス軍の正規検問を避けることには成功した。
だが、これで安全になったわけではない。
国境沿いの村や街道へ入るには、ルミナス軍が設けた臨時の難民登録所を通る必要があった。
登録を受けていない者が領内を歩けば、巡回兵に呼び止められる。
その登録所の前には、長い人の列ができていた。
荷物を背負った老人。
幼い子どもの手を引く母親。
壊れかけた荷車を押す家族。
布を巻いた足を引きずる負傷者。
皆、ガルディア側の村や、戦場に近い緩衝地帯から逃れてきた人々だった。
その列の中に、リナたち三人も紛れている。
リナは短弓を布で包み、荷物の下へ隠していた。
フィオナは銀白色の髪を頭巾の中へ収め、顔の半分を布で覆っている。
最も目立つアルトは、外套のフードを深くかぶっていた。
無銘の剣も鞘ごと古布で包み、壊れた農具のように背負っている。
「顔を上げないで」
リナは小声で言った。
「分かってる」
「前ばかり見ても駄目。周囲を警戒しているように見えるから」
「難しいな」
「普通に歩いて」
「普通に歩いているつもりだ」
「アルトの普通は目立つの」
「どうしてだ?」
「今それを聞く?」
リナが睨むと、アルトはようやく黙った。
隣では、フィオナが小さく息を吐く。
「この調子で、よく今まで捕まらなかったわね」
「フィオナまで言うのか?」
「二人とも静かにして」
前方に、ルミナス軍が設けた臨時の難民登録所が見えてきた。
街道の両側へ木製の柵を並べ、中央に数張りの天幕が設けられている。
青白い旗には、水鳥の紋章が刻まれていた。
正規兵たちは難民の名前や出身地を記録し、危険な武器を持っていないか確認している。
国境門ほど厳重ではない。
それでも安心はできなかった。
受付の横には、一枚の人相書きが貼られていた。
黒髪の青年。
銀白色の髪の女性。
弓を持つ十代半ばの少女。
三人の特徴だ。
絵は実物とあまり似ていない。
だが、三人で並べば疑われる可能性は十分にある。
「本当に通れるの?」
フィオナが尋ねた。
「分からない」
リナは答えた。
「でも、登録なしで街道へ出るよりはまし」
「随分と頼もしいな」
「私は一度、こういう場所を通ってるから」
フェルナが滅びたあと。
リナも難民としてルミナスへ入った。
あのときは、家族が生きているかもしれないという希望が、まだ残っていた。
同じ兵士の制服。
同じ、疲れ切った人々の列。
違うのは、自分が追われる側になっていることだった。
「次!」
受付の兵士が声を上げた。
前にいた家族が進む。
母親と、十歳ほどの少年。
荷車には毛布と食器が積まれている。
「出身は?」
「南のカレド村です」
「家族は二人だけか?」
「夫は徴兵されました」
「ルミナス領に親族は?」
「いません」
兵士は書類へ何かを書き込んだ。
「東の避難区画へ行け。三日分の食料札を渡す。働ける者は到着後、職業登録を受けること」
「ありがとうございます」
母親は深く頭を下げた。
「次!」
少しずつ列が進む。
リナの胸の鼓動が速くなった。
外套の内側へ手を入れ、古い木札へ触れる。
ルミナス軍の補助部隊で働いていたときに支給された登録札だ。
名前。
年齢。
出身地。
所属していた部隊。
すべてが記されている。
本来なら、軍を離れる際に返却するものだった。
だが、あの戦場では返す相手すらいなかった。
この札を見せれば、リナが一度ルミナスへ受け入れられた難民だと証明できる。
同時に、壊滅した部隊から帰還していない人間だとも知られる。
「次!」
三人の番が来た。
リナが先頭へ立つ。
机の向こうに座る兵士は、四十歳ほどの女性だった。
短く切った髪。
左頬には古い傷がある。
その後ろには、槍を持った若い兵士が二人立っていた。
「出身は?」
「フェルナです」
女性兵士の手が止まった。
「フェルナ?」
「はい」
「滅びたのは少し前だろう。今までどこにいた?」
「ルミナス軍の補助部隊にいました」
「所属札は?」
リナは木札を差し出した。
女性兵士は刻まれた内容を読む。
「リナ・フェルゼン。第七補助隊」
「はい」
「第七補助隊は、国境で壊滅したと報告されている」
「襲撃を受けました」
「お前は生き残ったのか?」
「はい」
「なぜ帰還報告をしなかった?」
「戻れる状況ではありませんでした」
嘘ではない。
正規兵は負傷者と補助兵を残して撤退した。
戻るための道も、指揮官も失っていた。
女性兵士は、しばらくリナの顔を見た。
「後ろの二人は?」
「一緒に逃げてきた親族です」
「名前は?」
「彼女はフィアです」
フィオナがわずかに頭を下げる。
「彼はアレン」
アルトが答えた。
女性兵士の視線がアルトへ向く。
「顔を見せろ」
リナの背筋が固まった。
アルトがゆっくりとフードを持ち上げる。
黒髪は額へ垂れ、顔の一部を隠していた。
女性兵士は掲示板の人相書きとアルトを見比べる。
「随分と顔色が悪いな」
「昨日、避難の途中で崖から落ちたんです」
リナが先に答えた。
「脇腹を打って、熱も出ています」
アルトが口を開きかける。
リナは外套の陰で、彼の腕をつねった。
「そうなのか?」
「……ああ」
女性兵士がアルトへ手を伸ばす。
「伝染病ではないだろうな」
「打撲と疲労です」
フィオナがアルトの腕を取った。
「私は治療の知識があります。咳や発疹もありません」
女性兵士はアルトの額と呼吸を確認する。
「その背中の荷物は?」
「壊れた農具です」
リナが答えた。
「見せろ」
後ろの兵士が、布に包まれた無銘の剣へ手を伸ばす。
そのときだった。
列の後方から、叫び声が上がった。
「誰か!」
「倒れたぞ!」
老人が地面へ崩れ落ちていた。
周囲の難民が騒ぎ始める。
リナは考えるより先に駆け出した。
「おい、待て!」
兵士の声が飛ぶ。
それでも足を止めなかった。
倒れた老人のそばへ膝をつく。
目を閉じている。
呼吸は浅い。
額は熱いが、皮膚は乾いていた。
リナは母から受け継いだ薬草袋を開き、老人の首筋へ指を当てる。
「水分が足りていません」
周囲の人々へ声をかけた。
「水を持っている人は? 一度に飲ませないで。布を濡らして、口元へ少しずつ」
「これを!」
一人の女性が水筒を差し出す。
リナは布へ水を含ませ、老人の唇を濡らした。
「身体を起こしすぎないでください。日陰へ移します」
補助兵だった頃、何度も同じ症状を見た。
負傷者。
長く歩いた難民。
水を飲む余裕もなく運搬を続けた兵士。
リナの手は迷わず動いた。
やがて、老人が小さく息を吐く。
「水……」
「ゆっくりです」
リナは水筒を傾け、一口分だけ飲ませた。
後ろから足音が近づいてくる。
先ほどの女性兵士だった。
「手当ての経験があるのか?」
「補助隊で負傷者の世話をしていました」
「そうか」
女性兵士は老人の状態を確かめ、部下へ命じる。
「治療所へ運べ。担架を持ってこい」
「はい!」
若い兵士たちが走っていく。
女性兵士はリナへ向き直った。
「第七補助隊の生存者として記録しておく」
木札を返す。
「部隊が壊滅した状況なら、帰還報告が遅れたことを脱走とは扱わない。東区画で生存者登録を受けろ」
「ありがとうございます」
女性兵士は、アルトの背負う布包みへ視線を戻した。
「その農具を下ろせ」
アルトが包みを地面へ置く。
女性兵士は布の上から形を確かめた。
「柄のようなものがあるな」
「折れた草刈り具です」
リナが答える。
「刃は?」
「錆びていて使えません」
「布の端を開けろ」
アルトはフィオナを見る。
フィオナが小さくうなずいた。
アルトは結び目を少しだけ緩め、古布の端を開く。
傷んだ鞘。
装飾のない柄。
外から見える範囲では、価値のある武器には見えない。
無銘の剣は、百年前の古い鉄剣と精霊樹の枝から作られている。
豪華な紋章も、聖剣のような輝きもない。
女性兵士は鞘へ手を当てた。
「古い剣か」
「護身用です」
アルトが答えた。
リナは慌てて口を挟む。
「錆びていて、まともには使えません」
女性兵士はアルトと鞘を見比べた。
「王都へ入る際、門の兵へ申告しろ。難民区画の中で抜くな」
「分かりました」
リナが答えた。
女性兵士は三枚の札を差し出す。
「親族の二人も一緒でいい。ただし、男は治療所で診てもらえ」
「ありがとうございます」
「行け。後ろが詰まっている」
リナは頭を下げる。
三人は登録所を抜け、ルミナス領内へ続く街道を歩き始めた。
走らない。
振り返らない。
怪しまれないよう、一定の速さで歩き続ける。
登録所から十分に離れたところで、リナはようやく息を吐いた。
「どうして途中で何か言おうとしたの?」
アルトへ詰め寄る。
「崖から落ちた覚えがなかったからだ」
「嘘をついてるんだから当然でしょ!」
「名前は変えたぞ」
「そこだけじゃ足りないの!」
「今回は、リナのおかげで通れたわね」
フィオナが言った。
「補助隊での経験が役に立った」
「老人が無事でよかった」
リナは登録所の方を振り返る。
老人は担架に乗せられ、治療所へ運ばれていた。
「でも、次からは勝手に本当のことを話さないで」
「努力する」
「その答えはもう信用できない」
「奇遇ね。私もよ」
リナとフィオナの声が重なった。
アルトが困ったように笑う。
「息が合ってきたな」
「誰のせいだと思ってるの?」
◇
登録所を越えた先に広がっていたのは、昨日までとは別の世界だった。
道の両側には、青々とした麦畑が続いている。
細い水路には、透き通った水が勢いよく流れていた。
水車が回り、その力で穀物を挽いている。
牛や馬も痩せていない。
畑で働く人々の頬には、国境の村人たちよりも明らかに血色があった。
ほんの数時間前。
水の壁の反対側では、子どもが空の椀を抱えて泣いていた。
川底はひび割れ、井戸は底を見せていた。
だが、ルミナス側では、水は当たり前のように流れている。
「こんなに違うんだ」
リナは水路を見つめた。
「同じ川の水なのに」
「流れを選別しているのね」
フィオナが答えた。
「ルミナス側の水量を維持しながら、ガルディア方面へ流れる分を止めている」
「そんな細かいことまで、聖剣でできるの?」
「使い手が、水の流れを細かく制御しているのでしょうね」
フィオナは水路へ手を近づける。
触れる寸前で指を止めた。
「水の精霊力が、不自然なほど均等に配られている」
「均等なら、悪いことじゃないんじゃない?」
「本来、水は土地や季節によって流れ方が変わるものよ」
雨が多ければ増える。
乾けば減る。
土へ染み込み、植物へ吸われ、やがて空へ戻る。
「でも、ここでは聖剣が必要な量を決め、必要な場所へ押し流している」
水路の流れは美しかった。
濁りもない。
一定の深さ。
一定の速さ。
まるで、誰かが作った透明な道のようだった。
「精霊たちは苦しんでるの?」
「今すぐ消えそうなほどではないわ」
「なら――」
「でも、自分たちの意思で流れているわけでもない」
リナは答えられなかった。
水路の脇では、子どもたちが水を掛け合っている。
笑い声。
濡れた服。
母親は注意しているが、その表情は穏やかだった。
昨日、空の椀を抱えていた少女がこの光景を見たら、どう思うだろう。
「リナ」
アルトに呼ばれ、顔を上げる。
「どうした?」
「何でもない」
「水路ばかり見てるぞ」
「考えてたの」
「何を?」
「まだ分からない」
水を独占するのは間違っている。
だが、こちら側の水まで失われれば、今度はこの畑が枯れるかもしれない。
アクアレギアを壊せば、王都の人々まで危険にさらされるかもしれない。
フレイムベルグとは違う。
あの剣は、町を焼いた。
人を焼いた。
家族を奪った。
壊すべきだと、迷わず思えた。
だが、アクアレギアは違う。
少なくとも、ルミナスの人々にとっては。
◇
昼を過ぎた頃。
丘を越えた先に、ルミナス王国の王都が見えた。
最初に目へ入ったのは、城壁ではなかった。
水だった。
巨大な透明の膜が、王都全体を覆っている。
青空の下で、薄い水の層が半球状に広がっていた。
表面には絶えず流れが走り、日の光を受けて青白く輝いている。
一羽の鳥が結界へ近づいた。
水の表面がわずかに波打つ。
それでも鳥は弾かれず、そのまま内側へ入っていった。
「結界なの?」
リナが足を止めた。
「ええ」
フィオナが王都を見上げる。
「水の精霊力で作られた防壁ね」
「鳥は通れたぞ」
アルトが言った。
「外側から加わる強い衝撃や、高密度に凝縮された精霊力へ反応するのでしょう」
フィオナは結界の流れを目で追う。
「普通に出入りする人や鳥には、ただの水の膜と変わらないよう調整されているのね」
「町を丸ごと覆うなんて……」
城壁。
王城。
住宅地。
農地の一部。
そのすべてが、巨大な水の結界に包まれている。
「アクアレギアは、ずっとあれを支えてるの?」
「おそらくは」
「それなら、聖剣がなくなったら……」
結界も消える。
敵の攻撃を防げなくなる。
王都に暮らす人々が危険にさらされる。
「壊すの?」
リナはアルトへ尋ねた。
「まだ決めてない」
「三本とも壊すって言ってた」
「言った」
「じゃあ――」
「何に使われているか確かめるとも言っただろ」
アルトは王都へ続く道を見る。
「昨日見たものだけで、すべてを決めるつもりはない」
リナは王都を見た。
水の結界が空の上で揺れている。
美しかった。
だからこそ、その向こう側で干上がっている川を忘れそうになる。
◇
王都の東門では、多くの人々が行き交っていた。
避難民。
荷馬車。
商人。
補給部隊。
農村から作物を運んできた人々。
門の上では、水の結界が薄く開き、人や荷物を通している。
三人は登録所で渡された札を兵士へ見せた。
東門でも荷物の確認を受ける。
リナは布で包んだ弓を、補助兵時代に使っていた護身用の道具だと説明した。
アルトの長い包みも調べられた。
兵士は古布の端から傷んだ鞘を確認し、登録所の書き込みへ目を通す。
「難民区画の中では抜くな」
「分かりました」
リナが答える。
登録札とリナの補助隊所属札があったため、それ以上深く追及されることはなかった。
三人は東門を通り、避難区画へ入った。
大きな木造の建物が何棟も並んでいる。
共同の寝床。
炊き出し所。
治療所。
職業登録所。
かつてリナが最初に暮らした場所と同じだった。
大きな鍋から、薄い麦粥が配られている。
子どもたちは木椀を持って列に並び、空腹そうに鍋を見つめていた。
十分に豊かとは言えない。
難民全員が満足に食べられるほど、物資があるわけでもない。
それでも、水だけは豊富だった。
区画の中央には、何本もの水汲み場がある。
石造りの注ぎ口から、絶えず清水が流れていた。
誰も奪い合っていない。
必要な分だけ汲み、残った水は排水路へ流されている。
「もったいない」
リナがつぶやいた。
一人の女性が振り返った。
水瓶を抱えた、避難民らしき女性だった。
「水が?」
「はい」
「ここへ来たばかり?」
「そうです」
女性は少し笑った。
「私も最初はそう思ったわ。故郷では井戸が枯れかけていたから」
「今は思わないんですか?」
「王都の水は、聖剣が守ってくださっているものだから」
女性は、水汲み場の奥にある小さな祠へ顔を向けた。
青い石で作られた祠。
中央には、水の剣を持つ女性の像が置かれている。
「必要な人へ、必要なだけ与えられる。アクアレギアがある限り、この国で水に困ることはないって聞いたわ」
「国の外では困っていても?」
口にしてから、言い方が強かったと気づいた。
女性の表情が曇る。
「ガルディアのこと?」
「……はい」
「あの国は、何度もルミナスへ攻めてきた」
女性は水瓶を抱き直した。
「私の夫も国境で戦っている。水を戻して帝国軍が進んできたら、次に焼かれるのはこの町かもしれない」
「でも、軍人じゃない人まで――」
「分かっているわ」
女性は苦しそうに答えた。
「向こうにも普通の人がいることくらい」
水瓶へ目を落とす。
「でも、自分の子どもを危険にさらしてまで敵国を助けられるかと聞かれたら、私にはできない」
女性はそれ以上話さず、建物の方へ去っていった。
リナは流れ続ける水を見た。
女性の言葉を責めることができなかった。
もしフェルナがまだ残っていて。
水を止めなければ、グレンの軍が町へ攻め込んでくると言われたら。
自分は、敵国の村へ水を流してほしいと言えただろうか。
「リナ」
フィオナが隣に立つ。
「大丈夫?」
「分からない」
「そう」
フィオナは、それ以上答えを求めなかった。
少し離れたところでは、アルトが炊き出しの麦粥を受け取っていた。
椀を持ったまま、二人のもとへ戻ってくる。
「何の話だ?」
「アクアレギアのこと」
「そうか」
「その前に食べて」
フィオナが麦粥を指さした。
「まだ何も言ってないだろ」
「残すつもりでしょう」
「食欲はある」
「満腹にならないだけでしょう」
「なら、いくらでも食べられるな」
「冗談にしないで」
リナはアルトから椀を奪い、匙を差し出した。
「全部食べて」
「最近、二人とも厳しくないか?」
「アルトが言うことを聞かないから」
アルトは諦めたように匙を受け取った。
一口。
また一口。
表情は変わらない。
味を感じていないのだろう。
リナは、昨日一瞬だけ透けた右手を見る。
今は普通に見える。
椀を持ち、匙を動かしている。
それでも、フレイムベルグを壊す前と同じではない。
もう一本壊せば、次はどうなるのか。
「リナ?」
「早く食べて」
「食べてる」
◇
避難区画で少し休んだあと、三人は王都の市場へ向かった。
目的は情報だった。
中央通りには、石造りの建物が並んでいる。
道路の両側には水路が通り、透き通った水が流れていた。
一定の間隔で噴水が設けられ、水しぶきが日の光を受けて輝いている。
露店には、川魚や水草、青い殻を持つ小さな貝が並んでいた。
国境の干上がった川を見たあとでは、すべてが別の世界のものに思える。
「号外だ!」
市場の入口で、少年が紙束を掲げていた。
「聖剣破壊者、ルミナス国境へ接近! 王国軍が警戒を強化!」
通行人たちが足を止める。
「帝国の聖剣を壊した男だろ?」
「よくやったと思っていたが、次はうちの聖剣を狙っているらしいぞ」
「勇者アルトを名乗っているそうだ」
「本物の勇者が、守りの聖剣を壊すものか」
「ガルディアでは国家の敵になっているらしい」
「なら、セルディアの人間か?」
「セルディアも異端者だと非難している」
「結局、何者なんだ?」
「何者でもいい。アクアレギアを壊そうとしているなら敵だ」
最後の言葉に、周囲の人々がうなずく。
リナは反射的にアルトを見た。
アルトはフードを深くかぶったまま、声の方へ顔を向けている。
何か言い出す前に、リナは外套の袖を引いた。
「行こう」
「まだ何も言ってないぞ」
「言おうとしてたでしょ」
「少し話を――」
「駄目」
フィオナも同時に答えた。
「市場の真ん中で正体を明かすつもり?」
「誤解は解いた方がいい」
「今ここで?」
「話せば――」
「聞いてもらえる状況じゃないでしょ」
リナはアルトを人通りの少ない路地へ引っ張った。
「それに、まだ何をするか決めてないんでしょ」
「ああ」
「だったら今出ていっても、何も説明できない」
「それはそうだな」
アルトは素直にうなずいた。
「今日は聞き分けがいいのね」
フィオナが言った。
「いつも聞き分けはいい」
「それは違う」
「違うよ」
二人の声が重なる。
アルトは何も言わず、路地の奥へ歩いた。
◇
市場の外れには、小さな水の神殿があった。
白い石で作られた建物。
入口には、水瓶を抱える女性の像が立っている。
人々は神殿へ入り、アクアレギアと王家へ祈りを捧げていた。
正面の祭壇には、青い宝石で飾られた剣の模型が置かれている。
その背後には、大きな壁画が描かれていた。
川の源流。
岩山の中に沈む古い神殿。
そこから一筋の水が流れ出し、平原と王都を潤している。
壁画の中央には、剣を掲げる一人の騎士がいた。
「あれは……」
アルトが壁画を見上げる。
「知ってるの?」
リナが尋ねた。
「場所には見覚えがある」
「王都?」
「違う。あの山だ」
アルトは壁画に描かれた岩山を指した。
「百年前、アクアレギアを封印した場所に似ている」
神殿の隅には、寄付を受け付ける老司祭が座っていた。
三人が壁画を見ていることに気づき、穏やかな顔で近づいてくる。
「旅の方ですか?」
「はい」
リナが答えた。
「この壁画は、何を描いているんですか?」
「王国の始まりです」
司祭は壁画を見上げた。
「かつて、この地は水害と干ばつを繰り返す、不安定な土地でした」
「今は違うんですか?」
「アクアレギアがあるからです」
司祭は誇らしげに言った。
「百年前、勇者アルト様が水の聖剣を源流の神殿へ残されました。その後、王家の祖先が剣を見つけ、国を救うために力を解放したのです」
アルトの肩がわずかに動く。
「見つけた?」
「ええ」
「封印を解いたのでは?」
司祭がアルトを見る。
「随分と古い言い方をご存じですね」
「旅の途中で聞いた」
「確かに、古い記録では封印と表現されています。しかし、勇者様が本当に剣を隠すつもりだったとは考えられていません」
「なぜ?」
「必要なときに、正しい者が使うためです」
司祭は祭壇の剣へ手を合わせた。
「そうでなければ、なぜ王国の源流へ残したのでしょう」
アルトは答えなかった。
百年前、再び大きな脅威が現れた場合に備え、聖剣を残した。
司祭の言葉も、完全な間違いではない。
「源流の神殿は、今も残っているんですか?」
リナが尋ねた。
「水没神殿のことですね」
「水没?」
「アクアレギアの封印が解かれたあと、周囲の水位が上がりました。今では神殿の下層は水の中です」
「中へ入れますか?」
「一般の方には無理でしょう」
司祭は首を振る。
「源流は王家の管理地です。周辺には兵士もおります」
「記録は残っている?」
フィオナが尋ねた。
「封印当時の記録は、神殿の書庫にあると言われています」
「王都には写しがないの?」
「王宮の記録庫には、いくらかあるかもしれません」
「一般人は見られない?」
「難しいでしょうね」
司祭は不思議そうな顔をした。
「なぜ、そのような古い記録を?」
「勇者の伝説を調べているんです」
リナは答えた。
「最近、勇者を名乗る人がいると聞いたから」
「なるほど」
司祭の表情が曇る。
「嘆かわしいことです」
「偽物だと思いますか?」
「当然でしょう」
即答だった。
「本物の勇者様は、百年前に人々を救い、静かに眠りにつかれました」
司祭は壁画の勇者を見上げる。
「今さら蘇り、自ら残した聖剣を壊そうとするはずがありません」
「残した判断が間違っていたとしたら?」
アルトが尋ねた。
司祭の目が、フードの奥へ向く。
「勇者様の判断が間違っていたと?」
「ああ」
「あり得ません」
「どうして?」
「勇者だからです」
司祭は迷わなかった。
「魔王を倒し、世界を救った英雄です。私たちよりも遠くを見通し、正しい道を選んだに決まっています」
アルトがわずかに顔を伏せた。
リナは司祭の言葉へ反論できなかった。
自分も以前は、勇者なら何でも分かると思っていた。
迷わない。
間違わない。
誰かを救うための答えを持っている。
だが、実際のアルトは何度も迷う。
正解が分からないと言う。
それでも、目の前の人を助けようとする。
「ありがとうございました」
リナは司祭へ頭を下げた。
三人は神殿を出た。
◇
日が傾き始めていた。
王都の水の結界が夕日を反射し、空全体を薄い青と橙色に染めている。
三人は、人の少ない水路沿いを歩いた。
「水没神殿を調べる必要がありそうね」
フィオナが言った。
「封印当時の記録が残っているなら、アクアレギアの構造が分かるかもしれない」
「王宮の記録庫にも、写しがあるかもしれないんだよね」
リナが尋ねた。
「ええ。ただ、簡単には見せてもらえないでしょうね」
「使い手とも話す必要がある」
アルトは水の結界を見上げた。
「聖剣をどうするにしても、本人の話を聞かずには決められない」
「正体を明かして王宮へ行くつもり?」
「一つの方法ではある」
「すぐ捕まるよ」
「だが、王女に会える可能性もある」
「捕まる前提で考えないで」
アルトは少し考えた。
「水没神殿と王宮の記録庫。どちらから調べるべきだと思う?」
「避難区画へ戻って決めましょう」
フィオナが答えた。
「今日は身体も休ませること」
「分かってる」
「珍しく素直だね」
「俺はいつも約束を守る」
「今日だけで何回破ったと思ってるの?」
「数えてない」
「私は数えているわ」
フィオナが冷たく言った。
「次に無理をしたら、剣を取り上げる」
「それは困る」
「なら休んで」
「分かった」
「旅のお方」
背後から声がした。
三人が振り返る。
水路沿いの道に、青銀色の鎧を着た騎士が立っていた。
胸には、水鳥の紋章。
その後ろには、数人の王都警備兵が並んでいる。
少し離れた場所には、先ほどの老司祭もいた。
リナの手が、外套の下に隠した弓へ伸びる。
「動かないで」
フィオナが小さく言った。
騎士は三人から一定の距離を保ったまま名乗る。
「王都警備隊の者です」
「何の用だ?」
アルトが尋ねた。
「市場で、聖剣破壊者の話へ不自然な反応を示した三人がいると報告を受けました」
「それだけで?」
リナが尋ねる。
「王都では、あなた方の特徴に合う旅人を見つけた場合、拘束を急がず、監視を続けるよう命じられています」
騎士は神殿へ目を向ける。
「市場の監視兵から報告を受け、こちらの神殿へ入ったことを確認しました」
「それなら、どうしてすぐに声をかけなかった?」
「神殿や市場で騒ぎを起こせば、民衆が混乱します」
騎士は周囲の人気が少ないことを確かめる。
「神殿から出たところを確認し、人通りが減るまで後を追いました」
市場から、ずっと追われていたのだ。
リナは自分の不注意に唇をかむ。
「この方は、百年前の水没神殿を実際に見たかのような発言をしたそうです」
騎士がアルトを見る。
「話を聞いただけだ」
「そして、勇者の判断も間違うことがあると口にした」
「それは誰にでも言えることだ」
「そうでしょう」
騎士は認めた。
「ですが、第一王女セレス殿下は、あなた方と思われる者を発見した場合、傷つけずに王宮へ案内するよう、あらかじめ命じておられます」
「王女が?」
「殿下は、フレイムベルグを破壊した人物と直接話すことを望んでおられます」
兵士たちが退路を塞いでいる。
戦えば逃げられるかもしれない。
だが、ここは王都の中だ。
しかも、アルトの身体は弱っている。
「アルト」
フィオナが呼ぶ。
「分かってる」
アルトはフードへ手をかけた。
「待って」
リナが止めようとする。
だが、アルトはゆっくりとフードを下ろした。
黒髪。
灰青色の瞳。
人相書きの顔とは、あまり似ていない。
それでもリナには、アルトが隠れることをやめた瞬間、周囲の空気が変わったように感じられた。
騎士が息をのむ。
「俺が、アルト・レイヴァンだ」
老司祭の顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「勇者の名を騙る危険人物として、拘束しますか?」
「命令は違います」
騎士は答えた。
「王都で問題を起こさず、我々の指示に従う限り、客人として王宮へお連れします」
「武器は?」
「王宮へ入る前に、近衛兵の武器庫へ預けていただきます」
「この剣は預けられない」
「アルト」
フィオナが低い声で呼ぶ。
「だが――」
「王宮の門までは、持っていただいて構いません」
騎士はアルトの背負う布包みを見る。
「ただし、鞘と柄を縄で封じさせていただきます。王宮到着後は、会談が終わるまで近衛兵の武器庫で保管します」
「俺たちの目の届く場所に置けるか?」
「武器庫の管理責任者を立ち会わせます。勝手に布を解いたり、剣へ触れたりはしないと約束しましょう」
アルトはフィオナを見る。
「剣そのものを、ここで取り上げられるよりはましね」
「分かった」
アルトは背中から布包みを下ろした。
騎士が太い縄を取り出す。
古布の上から鞘と柄を固く縛り、結び目へ青い封蝋を垂らした。
水鳥の紋章が刻まれた印章を押しつける。
「この封印を破れば、同行の条件を破ったものと見なします」
「分かった」
アルトは封じられた剣を再び背負った。
リナも布に包んだ弓を差し出す。
「弓は、こちらで預かります」
騎士の部下が受け取り、リナの目の届く場所で保持した。
フィオナには、預ける武器がない。
「三人とも同行していただきます」
騎士が道を空けた。
「こちらへ」
アルトたちは、王宮へ向かって歩き始める。
頭上では、水の結界が静かに揺れていた。
水没神殿へ向かう前に、避けて通れない相手がいる。
第二聖剣アクアレギアの使い手。
この水に守られた国のすべてを背負う者。
ルミナス第一王女、セレス。
三人は王都警備隊に導かれ、水の結界の中心へ向かった。




