第10話 渇いた国境
山道を下り始めてから、風の匂いはさらに乾いていった。
湿り気がない。
草木の青い匂いも、川辺にあるはずの水の気配も感じられない。
あるのは、日に焼かれた土と、枯れた草の匂いだけだった。
アルトは立ち止まり、眼下に広がる国境地帯を見渡した。
山の麓には、一本の川が通っている。
少なくとも、地図の上ではそうなっていた。
百年前にも存在した大河の支流。
ルミナス王国からガルディア方面へ流れ、国境沿いの村々と農地を潤していたはずだった。
だが、今見えている川には、ほとんど水がない。
ひび割れた川底の中央を、細い流れが申し訳程度に進んでいるだけだ。
岸辺の草は茶色く変色し、畑も乾いていた。
「雨が降っていないの?」
リナが尋ねた。
「それだけではないわ」
フィオナは目を閉じた。
風に混じる精霊の気配を探っているらしい。
しばらくして、彼女は眉を寄せた。
「水の精霊たちが、上流へ引かれている」
「引かれている?」
「本来なら、川の流れに沿ってこの辺りまで来るはずの力が、途中で止められているの」
アルトは川の上流へ目を向けた。
山間を抜けた先は、ルミナス領だ。
「自然に干上がったわけじゃないな」
「ええ。大きな力で、水の流れそのものが固定されている」
「アクアレギア?」
リナの声が小さくなる。
「可能性は高いわ」
三人は斜面を下りた。
この辺りは、地図の上ではガルディア領になっている。
だが、前線が何度も移動したことで、今はどちらの国も完全には支配できていない。
ガルディア軍もルミナス軍も巡回する、国境の緩衝地帯だった。
川へ近づくほど、被害の深刻さが見えてくる。
岸辺には、壊れた水車が残されていた。
羽根の一部が外れ、泥の中へ倒れている。
川沿いの水路も干上がっていた。
石を組んで作られた細い溝には、乾いた泥と枯れ葉が詰まっている。
畑では、人々が土を掘り返していた。
だが、どれだけ掘っても乾いた土しか出てこない。
一人の老人が鍬を杖代わりにしながら、畑の端へ座り込んだ。
近くでは、痩せた牛が力なく地面へ伏せている。
「村がある」
リナが指さした。
川沿いに、小さな集落が見えた。
土壁の家が十数軒。
中央には井戸らしきものがある。
そこへ集まっている人々の表情は暗かった。
三人が近づくと、村人たちが警戒するように振り返る。
老人。
女性。
子ども。
働き盛りの男は少なかった。
兵に取られたのか。
それとも、水を求めて別の土地へ移ったのか。
「旅人か?」
一人の男性が声をかけてきた。
四十歳ほど。
頬がこけ、片腕には汚れた布が巻かれている。
「ああ」
アルトは答えた。
「水を分けてほしいなら無理だ」
男性は井戸を見る。
「もう底が見えてる」
「水をもらいに来たわけじゃない。川のことを聞きたい」
男性の表情が硬くなる。
「見れば分かるだろ」
「いつからこうなった?」
「二か月前から少しずつだ」
男性は乾いた川へ顔を向けた。
「最初は水位が下がっただけだった。雨が少ないせいだと思っていた」
「違ったの?」
リナが尋ねる。
「上流へ行った者が見た」
男性は声を低くした。
「川が、ルミナス側で止められている」
「堰を作ったのか?」
アルトが尋ねる。
「普通の堰じゃない」
男性は首を振った。
「岩も木も積まれていない。水だけが、壁にぶつかったみたいに止まっているらしい」
「聖剣の力か」
男性はアルトを見た。
「ルミナスは、帝国軍を進ませないためだと言っている」
「軍を?」
「ああ。水を止めれば、川沿いの道も使えない。兵も馬も食料も運べなくなる」
「でも、村まで水が来なくなる」
リナが言った。
「そんなこと、向こうも分かってるはずでしょ」
「分かっているさ」
男性の声には、怒りよりも疲れがあった。
「ここはガルディア領だ」
その一言で、すべてを説明したようだった。
敵国の村。
敵国の農民。
敵国の子ども。
軍を止めるためなら、巻き込んでも構わない。
「帝国は何もしてくれないの?」
リナが尋ねた。
「軍は、戦える者と食料を持っていった」
男性が答える。
「水を取り戻すと言ってな」
「戻ったのか?」
「戻るどころか、フレイムベルグが壊れた」
村人たちの間に小さなざわめきが起きた。
男性はアルトを見ている。
「帝国の聖剣を壊した男がいるそうだ」
「ああ」
「村じゃ、その男を恨む者もいる」
男性は淡々と言う。
「フレイムベルグが残っていれば、ルミナスへ攻め込み、水を取り戻せたかもしれないからな」
リナの表情が曇った。
アルトは否定しなかった。
フレイムベルグは町を焼き、多くの命を奪った。
だが、それを帝国の希望と信じていた者もいる。
剣を壊したことで救われた者がいる。
同時に、追い詰められたと感じる者もいる。
「その男をどう思う?」
アルトが尋ねた。
男性は乾いた畑を見る。
「知らん」
「知らない?」
「会ったこともない人間を、噂だけで決められるか」
男性はアルトへ視線を戻した。
「ただ、剣が壊れたところで、ここの水は戻らなかった」
「そうだな」
「だから今は、誰が正しいかより、水が欲しい」
子どもの泣き声が聞こえた。
井戸のそばで、幼い少女が空の木椀を抱えている。
母親らしき女性が、その背中をさすっていた。
「今日、配れる水はもうないの」
「喉が渇いた」
「少し我慢して」
「いつまで?」
母親は答えられなかった。
アルトは乾いた水路を見る。
川から村の畑へ水を引くために作られたものだろう。
だが、上流側が崩れ、石と土で塞がれている。
川にわずかな水が残っていても、村まで届かない。
「この水路は使えないのか?」
男性は首を振った。
「先月の土砂崩れで壊れた」
「直さないのか?」
「直す人手がない。それに、直しても川の水が少なすぎる」
「少しは残っている」
「村全体へ回すには足りない」
「全部は無理でも、井戸が回復するまでの水にはなる」
男性がアルトを見る。
「直せるのか?」
「やってみる」
アルトは水路の方へ歩き出した。
「アルト」
フィオナが呼び止める。
「身体のことを忘れていないでしょうね」
「忘れてない」
「昨日も同じことを言っていたわ」
「水路を直すだけだ」
「あなたの言う『だけ』は信用できないの」
アルトは崩れた水路を見る。
土砂に埋まっているのは十数メートルほど。
石を取り除き、流れを作り直せばいい。
「精霊術は最低限にする」
「少しでも異変が出たら止めること」
「分かった」
「私が止めろと言ったら止める」
「努力する」
「分かったとは何だったの?」
リナがため息をついた。
「私も手伝う」
村人たちも顔を見合わせる。
先ほどの男性が鍬を手にした。
「使える者を集める」
「無理はするな」
「それはこっちの台詞だ」
男性はアルトの左腕へ目を向けた。
服の下には、まだ火傷の傷が残っている。
「怪我人に言われたくない」
「俺は動ける」
「なら、村の者も同じだ」
アルトは小さく笑った。
「そうだな」
◇
水路の修復は、すぐには終わらなかった。
崩れた土砂の中には、大きな石が混じっている。
乾いて固まった土は、鍬を入れても簡単には崩れない。
村人たちは数人ずつ交代しながら作業した。
リナも石や土を籠へ入れ、運び出す。
フィオナは周囲の土の精霊へ呼びかけた。
石を無理に動かすのではない。
崩れやすい場所を教えてもらい、余計な崩落を防いでいる。
アルトは水路の中心に立ち、剣の柄を使って固い土を砕いていった。
無銘の剣は抜かない。
亀裂を増やす必要はないからだ。
「この石は動かせない」
村人の一人が言った。
水路を塞いでいる大岩。
人の背丈ほどもあり、半分が地面へ埋まっている。
避けて水路を掘り直すには時間がかかる。
アルトは岩の下へ手を差し入れた。
「下に隙間がある」
フィオナも近づく。
「土の精霊が教えてくれているわ。右側の土を崩せば、動かせるはずよ」
「ロープは?」
「家畜用のものならある!」
村人たちが太い縄を運んできた。
大岩へ巻きつけ、何人も並んで引く。
「せーの!」
岩は動かない。
もう一度。
わずかに揺れる。
「木材を持ってきてくれ」
アルトは岩の下へ太い木材を差し込んだ。
梃子にして、浮かせるつもりだった。
リナも隣へ立つ。
「押せばいいの?」
「ああ。俺が合図する」
村人たちが縄を握り直す。
「もう一度!」
掛け声とともに、全員が縄を引いた。
アルトとリナは木材を押し下げる。
岩がわずかに持ち上がった。
「そのまま!」
縄を引く力が強まる。
岩が傾く。
地面が崩れ、低い音を立てながら横へ転がった。
村人たちから歓声が上がる。
「動いた!」
「水路が見えたぞ!」
岩の下には、古い石組みが残っていた。
見覚えのある並べ方だった。
ただし、自分たちが百年前に置いたものとは違う石も混じっている。
何度も補修されながら、今日まで使われてきたのだろう。
「勇者様が作った水路だって、昔から言われてる」
一人の老人がつぶやいた。
アルトは手を止めた。
「勇者が?」
「ああ。百年前、この辺りを通った勇者一行が、魔王軍に壊された水路を直したそうだ」
アルトは石組みを見た。
覚えがあった。
魔王軍との戦いの途中。
この地方で、水を奪われた村があった。
仲間たちと一日かけて川から水を引いた。
当時は急いで作っただけだと思っていた。
それが百年後まで残り、何度も直され、村を支えていた。
「本当に勇者が作ったのかな」
リナがアルトを見る。
「さあな」
「覚えてないの?」
「似たようなことを何度もした」
「たくさんの村で?」
「ああ」
老人が笑った。
「伝説の勇者様は、大層な剣で岩を真っ二つにしたらしいぞ」
「そんなことしたか?」
アルトは首をかしげる。
「してないの?」
「たぶん、みんなで引いた」
リナが小さく笑った。
「噂って、百年経っても同じなんだね」
「今回も、そのうち山を斬ったことになるかもしれないな」
「もうなってるかも」
アルトも笑った。
その直後。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
一瞬だけ呼吸が止まる。
「アルト?」
フィオナがすぐに近づいてきた。
「何でもない」
「約束」
「少し息が詰まっただけだ」
フィオナはアルトの胸へ手を当てる。
「心音が弱い」
「昨日と同じだ」
「同じだから問題ないとは限らない」
「作業はほとんど終わってる」
「なら休んで」
アルトは水路を見る。
土砂は取り除かれた。
だが、川から水路へ水を導く入口が崩れている。
石の間から、わずかな水が流れ込んでいるだけだ。
「入口だけ直す」
「アルト」
「ここまでやって、流れないままにはできない」
フィオナは止めようとする。
だが、村の方から少女の声が聞こえた。
「水、来る?」
先ほど空の椀を持っていた子どもだった。
母親に手を引かれ、遠くから作業を見ている。
アルトは視線を戻した。
「少しだけ力を借りる」
「私から?」
「いや」
アルトは水路の入口へしゃがんだ。
川底に残る細い流れへ手を入れる。
水はぬるい。
流れも弱い。
その中にいる小さな水の精霊へ呼びかける。
「無理をさせるつもりはない」
青白い光が、水の中で揺れた。
「この水路へ入る分だけ、流れを変えるのを手伝ってくれ」
光が一つ。
二つ。
小さく明滅する。
応じてくれた。
アルトは無銘の剣を抜いた。
刀身には、修復された木の繊維と、消えない亀裂が残っている。
刃へ水の力をまとわせる。
大量の水を生み出すことはできない。
水の精霊は、何もない場所から川を作る存在ではない。
今ある流れを、少しだけ導く。
アルトは剣先を水路の入口へ向けた。
細い水の筋が、石組みの間を抜ける。
最初は指一本ほど。
やがて、腕ほどの太さになる。
乾いた水路へ水が入り込んだ。
「流れた!」
村人たちが声を上げる。
水はゆっくりと水路を進む。
途中のひび割れへ吸い込まれながら、それでも村の方角へ流れていく。
「もう少しだけ」
アルトは精霊力を強めた。
左手首の契約印が光る。
フィオナの表情が変わった。
「それ以上は駄目!」
「まだ足りない」
「アルト!」
水は水路の半分まで進んだ。
だが、乾ききった土が吸い取ってしまう。
村の井戸へ届かせるには、もう少し勢いが必要だ。
アルトは無銘の剣へ力を流した。
水の精霊たちが集まる。
その数は少ない。
上流へ引かれ、国境地帯にはほとんど残っていない。
それでも、小さな光が剣を包む。
「力を貸してくれ」
アルトが剣を振るう。
水路の流れが一段強くなった。
水が乾いた土を越えて進む。
一つ目の分岐。
二つ目の分岐。
村の入口へ近づく。
その瞬間。
胸の奥へ鋭い痛みが走った。
心臓が一拍、抜け落ちたような感覚。
息が漏れ、刀身を支える腕から力が抜ける。
「アルト!」
フィオナが腕をつかんだ。
水の流れが弱まる。
「もう止めて!」
「あと少しだ」
「身体がもたない!」
「水路がつながれば、後は自然に流れる」
アルトはもう一度剣を構えようとした。
だが、村の見張り台から鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
「兵だ!」
村人が叫ぶ。
「ルミナス兵が来る!」
川の上流側。
国境へ続く道から、青と白の軍旗が見えた。
十数人の騎兵と歩兵。
先頭には、銀色の鎧を着た指揮官がいる。
ルミナス軍の国境巡回隊だろう。
川の封鎖を破ろうとする者がいないか、緩衝地帯を定期的に偵察しているらしい。
「全員、水路から離れろ!」
指揮官の声が響いた。
「その作業を直ちに中止せよ!」
村人たちの表情が凍る。
「どうしてだ!」
先ほどの男性が叫ぶ。
「水路を直してるだけだ!」
「その水は、軍事目的で封鎖されている!」
「俺たちは農民だ!」
「ガルディア領へ水を流せば、帝国軍の補給を助けることになる!」
ルミナス兵たちが水路を取り囲むように進んでくる。
リナが弓へ手をかけた。
「村の人たちまで敵扱いするの?」
「落ち着け」
アルトが言う。
「でも」
「まず話す」
フィオナはアルトの顔を見る。
「今の状態で戦うつもりではないでしょうね」
「話すと言っただろ」
「その後は?」
「話が通じれば問題ない」
「通じなかったら?」
アルトは答えなかった。
「アルト」
「努力する」
「信用できないわ」
ルミナス軍の指揮官が近づいてくる。
三十歳前後の男だった。
鎧には、王国軍の水鳥の紋章が刻まれている。
「代表者は誰だ」
村人たちは黙る。
アルトが前へ出た。
「俺だ」
指揮官はアルトの姿を見る。
外套。
黒髪。
布を巻いた剣。
その目が鋭くなった。
「名前は?」
「旅人だ」
「名を聞いている」
「水路を直した者でいい」
指揮官は部下へ合図した。
兵士たちが槍を構える。
「黒髪の青年。銀白色の髪の女。弓を持つ少女」
リナが息をのむ。
「聖剣を破壊した一行の特徴と一致する。その剣を見せろ」
「断る」
「水路を止めろ」
「それも断る」
「これは王国の軍事作戦だ」
「村人が死んでいる」
「水を戻せば、ガルディア軍も進めるようになる」
「ここにいるのは兵士じゃない」
「敵国の民だ」
「人間だ」
指揮官の顔が険しくなった。
「少数を切り捨てなければ、より多くが死ぬこともある」
「切り捨てられる側に、自分が入っていないから言える」
「貴様に、王国の事情が分かるのか」
「分からない」
アルトは答えた。
「だから話している」
「王都には、多くの民がいる」
「ここにもいる」
「話は終わりだ」
指揮官が剣を抜いた。
青い光が刀身へ宿る。
「水路を壊せ。三人は拘束する!」
数人の兵士が水路へ向かう。
村人たちが立ちはだかった。
「やめろ!」
「子どもが死ぬ!」
「命令だ。退け!」
兵士が村人を押しのける。
男性が転倒した。
リナが弓を抜く。
「やめて!」
矢をつがえる。
アルトは手を上げた。
「人には向けるな」
「でも!」
「武器だけ狙え」
アルトは無銘の剣を抜いた。
指揮官が叫ぶ。
「捕らえろ!」
兵士たちが一斉に動いた。
最初の槍がアルトへ突き出される。
アルトは半身になって避けた。
剣の腹を槍の柄へ当てる。
乾いた音。
槍が兵士の手から離れた。
二人目。
横から剣が迫る。
受け止めず、刀身の側面を滑らせる。
相手の力を流し、柄頭を手首へ当てた。
兵士が剣を落とす。
三人目が盾を構えて突進してくる。
アルトは地面を蹴った。
盾へ足をかけ、そのまま上を越える。
着地した瞬間、背後から剣が振り下ろされた。
無銘の剣で受ける。
衝撃。
刀身の内部に残る亀裂が軋んだ。
アルトの腕にも痛みが走る。
以前なら難なく避けられた攻撃だった。
身体が重い。
動こうと考えてから、実際に筋肉が反応するまでに、わずかな遅れがある。
「アルト!」
フィオナが風を放った。
兵士を傷つけるほどではない。
足元だけを崩し、体勢を乱す。
リナの矢が飛ぶ。
兵士の剣を握る革紐を射抜き、武器を地面へ落とした。
「人は狙ってない!」
「分かってる」
アルトは答えながら、次の兵士を退けた。
指揮官が踏み込んでくる。
剣へ水の精霊力をまとわせていた。
「王国の敵め!」
「まだ何もしてない」
「聖剣を壊した!」
「それは帝国の剣だ」
「次はアクアレギアを狙うつもりだろう!」
鋭い斬撃。
アルトは無銘の剣で受け流す。
水が弾けた。
足元の土がぬかるみ、体勢が崩れる。
指揮官の蹴りが腹へ入った。
アルトの身体が後ろへ飛ぶ。
地面を転がる。
右脇腹に痛みが広がった。
「アルト!」
リナの声が聞こえた。
すぐに起き上がろうとする。
右腕に力が入りにくい。
指揮官が追撃してくる。
アルトは左手で剣を持ち替えた。
迫る刀身へ風をぶつける。
剣先が横へ逸れた。
懐へ入り、無銘の剣の柄を指揮官の胸当てへ叩き込む。
指揮官がよろめいた。
アルトは剣を奪わず、その手首へ刃を当てる。
「終わりにしよう」
「まだだ!」
指揮官が水の術を放った。
足元から水の縄が伸び、アルトの右足へ絡みつく。
強く引かれる。
アルトは地面へ倒れた。
別の兵士が槍を向ける。
リナの矢が飛び、槍の穂先へ当たった。
軌道が外れる。
フィオナが風でアルトを引き寄せた。
「退いて!」
「水路が壊される」
「今はあなたの身体の方が先よ!」
アルトは水路を見る。
兵士の一人が鍬を振り上げていた。
入口の石組みを壊すつもりだ。
水が止まれば、ここまでの作業が無駄になる。
アルトは左手首の契約印へ力を込めた。
「フィオナ、少し借りる」
「駄目!」
「一度だけだ」
「今の身体で――」
アルトは無銘の剣を地面へ突き立てた。
風の精霊力を広げる。
人を傷つけるためではない。
兵士たちの武器。
盾。
足元。
それだけを狙う。
「力を貸してくれ」
周囲の風が渦を巻く。
兵士たちの外套が大きく揺れた。
「何だ!」
次の瞬間。
強い突風が水路に沿って吹き抜けた。
槍が手から離れる。
剣が弾かれる。
盾が倒れる。
兵士たちは土の上へ転がった。
指揮官も片膝をつく。
誰も斬られていない。
だが、すぐに武器を構えられる者はいなかった。
アルトは剣を引き抜く。
視界が揺れた。
右脇腹に熱い痛みが走る。
膝が折れそうになる。
それでも、指揮官の前へ歩いた。
「水路は壊させない」
「敵国を助けるのか」
「目の前で渇いている人を助ける」
「それでルミナス兵が死んだらどうする!」
「軍が動けば、今度は軍を止める」
アルトは指揮官を見た。
「民間人を渇かせる理由にはならない」
「自分の力で何でも変えられると思っているのか」
「思ってない」
アルトは乾いた村を見る。
「川全部を戻すことはできない」
細い水路。
わずかな水。
これで救えるのは、この村の数日分かもしれない。
「それでも、今できることはある」
背後から、水の流れる音が聞こえた。
細かった流れが、修復された水路を進んでいる。
村の入口へ到達した。
「来た!」
子どもの声が上がる。
村人たちが水路へ駆け寄った。
水を手ですくう者。
椀を差し出す者。
家畜へ運ぶ者。
水は多くない。
先ほどの男性が声を張った。
「子どもと病人からだ!」
「家畜には一杯ずつ!」
「畑へ流すのは後だ!」
村人たちは順番を作り始めた。
指揮官は、その光景を見た。
それから、倒れた部下たちを見渡す。
「この人数では、お前を拘束できない」
指揮官はゆっくり立ち上がった。
「負傷者を連れて退く。だが、水路の件も、お前たちのことも上へ報告する」
「水路は壊さないのか?」
指揮官は、水を飲む子どもへ一度だけ目を向けた。
「次の部隊が来るまではな」
「助かる」
「勘違いするな」
指揮官は剣を鞘へ戻した。
「次は、もっと多くの兵を連れてくる」
「そのときも、まず話そう」
「話が通じる相手に見えるか?」
「少しは」
指揮官は苦い顔をした。
「部隊をまとめろ!」
ルミナス兵たちは武器を拾い始める。
手首を痛めた者。
転倒して足を引きずっている者。
重傷者はいない。
部下を支えながら、兵士たちは上流へ引き返していった。
◇
兵士たちの姿が見えなくなった直後。
アルトの身体から力が抜けた。
無銘の剣を地面へ突き、何とか立とうとする。
だが、右腕が支えられない。
膝をついた。
「アルト!」
フィオナが駆け寄る。
「平気だ」
「その言葉は禁止されたでしょう!」
「忘れてた」
「冗談を言わないで!」
フィオナがアルトの外套を開き、右脇腹へ手を当てる。
服の下には、青黒い痣が広がっていた。
地面を転がった際に擦ったのか、皮膚の一部も切れている。
「骨は?」
リナが尋ねる。
「折れてはいないわ」
フィオナは精霊力を流し込む。
傷口が淡い翠色の光に包まれた。
裂けた皮膚が少しずつ塞がる。
「痛みは?」
「減ってきた」
「右腕を動かして」
アルトは指を動かした。
少し遅い。
だが、動く。
傷口を覆う翠色の光が弱まった、その瞬間。
アルトの右手の輪郭が、かすかに揺らいだ。
光越しに地面が見えた気がした。
だが、瞬きをしたときには元へ戻っている。
「今のは……」
リナが息をのんだ。
フィオナは答えず、アルトの手首を強く握った。
「見間違いか?」
「私も見た」
リナが答える。
フィオナの表情は強張ったままだった。
「精霊術を使ったせいか?」
「可能性はあるわ」
「今は戻ってる」
「今までとは違う異変が出たのよ」
フィオナの声が低くなる。
「今日はもう精霊術を使わないで」
「分かった」
「剣も振らない」
「分かった」
「重い物も持たない」
「それは――」
「分かったと言って」
「分かった」
フィオナはようやく手を離した。
傷口は塞がっている。
だが、左手首の契約印の光は以前よりも弱かった。
「昨日より悪くなっているのか?」
アルトが尋ねる。
「今分かったのは、無理をすれば身体が不安定になるということだけよ」
「それだけか?」
フィオナは答えなかった。
ただ、アルトの右腕を見つめている。
「また何か隠してる顔だぞ」
「それ以上は、アクアレギアを調べなければ分からない」
アルトは自分の右手を開いた。
今は、いつもと変わらない。
動かすこともできる。
それでも、先ほど見えた揺らぎが気のせいだとは思えなかった。
「どうして無理したの?」
リナが尋ねた。
「水が必要だった」
「だからって――」
リナは水路へ目を向けた。
水を飲んだ少女が、小さく笑っている。
リナは何かを言いかけたが、結局、唇を結んだ。
「少し休む」
アルトが言う。
「少しでは足りない」
フィオナは答えた。
「今日はここから動かさないわ」
「巡回隊の報告が国境中へ回れば、正規の検問は通れなくなる」
アルトは薄暗くなり始めた道を見る。
「今夜のうちに、別の場所からルミナス側へ入った方がいい」
「だからといって、無理はさせないわ」
フィオナはきっぱりと言った。
「日が沈むまでは休む。それから歩くだけよ。戦闘も精霊術も禁止」
「それなら――」
「反論は禁止」
「禁止が増えてないか?」
「あなたが守らないからよ」
◇
夕方まで、三人は村に残った。
アルトは木陰で休むよう命じられた。
リナは村人たちと一緒に水を運んでいる。
フィオナは水路の流れを調整し、土が再び崩れないよう、小さな精霊たちへ協力を頼んでいた。
流れてくる水は多くない。
井戸を満たすほどでもない。
それでも、村人たちの表情は朝より明るくなっていた。
先ほどの男性が、アルトのもとへ来た。
手には木の椀がある。
「水だ」
「村の人に回してくれ」
「お前の分だ」
「俺は持っている」
「飲め」
男性は椀を押しつけた。
「お前が流した水だろ」
「精霊たちと、村の人が直した水路だ」
「そういう言い方をする人間が、聖剣を壊したのか」
アルトは男性を見る。
「いつから気づいていた?」
「ルミナス兵が騒ぐ前から、少し怪しいとは思ってた」
男性は無銘の剣へ視線を向ける。
「普通の旅人は、あんな戦い方をしない」
「誰にも言わない方がいい」
「言って得をする相手もいない」
男性は乾いた畑を見る。
「帝国は水を取り戻せなかった。ルミナスは水を止めた」
そして、水路を見る。
「お前は少しだけ流した」
「少しだけだ」
「今はそれでいい」
男性はアルトの隣へ腰を下ろした。
「フレイムベルグを壊したことを、恨んでいる者はいる」
「ああ」
「俺も、昨日までは分からなかった」
「今は?」
「まだ分からん」
男性は正直に答えた。
「だが、少なくとも今日、村を助けたことは忘れない」
アルトは木椀の水を見た。
透明ではない。
少し土が混じっている。
それでも、村人にとっては貴重な水だった。
一口飲む。
冷たさは感じる。
だが、味は分からない。
「どうだ?」
男性が尋ねる。
「うまい」
以前と同じ言葉が口から出た。
自分でも少し可笑しくなる。
「嘘が下手だな」
「分かるのか?」
「今の顔で、うまいとは思えん」
アルトは苦笑した。
「味がしないんだ」
男性の表情が変わる。
「病気か?」
「少し身体の調子が悪い」
「それで戦ったのか」
「必要だった」
「馬鹿だな」
「よく言われる」
「だろうな」
男性は立ち上がった。
「明日の朝には、ルミナス軍の増援が来るかもしれない」
「水路を壊しに?」
「お前たちを捕まえるためでもあるだろう」
「それまで水路は守れるか?」
「分からん」
男性は村を見る。
「ガルディア軍が来れば、水を全部奪うかもしれない。ルミナス軍が来れば、また止められるかもしれない」
それでも、今は水が流れている。
「今日一日を越えられた」
男性が言った。
今日を越える。
それだけで精いっぱいの人々がいる。
国の勝利。
軍の進路。
聖剣の正しさ。
そんな大きな言葉の下で、今日飲む水を求めている者がいる。
「ルミナスへ行くのか?」
「ああ」
「アクアレギアも壊すのか」
「まだ決めていない」
「フレイムベルグは壊したのに?」
「何に使われているか確かめる」
「もう見ただろ」
男性は乾いた川を指した。
「これが、アクアレギアの使い方だ」
アルトは答えなかった。
守るための剣。
ルミナス王都と国民を守る力。
同時に、敵国の川を止め、農民と子どもを渇かせる力。
一つの剣が、片方では希望と呼ばれ、もう片方では災厄になっている。
「話を聞く」
アルトは言った。
「使っている相手の」
「話せば、水が戻ると思うか?」
「思ってはいない」
「なら、どうする」
アルトは水路を見つめた。
「話しても戻らないなら、そのとき決める」
男性はしばらくアルトを見ていた。
「勇者ってのは、もっと迷わない人間だと思ってた」
「俺も百年前は、そう思われていたらしい」
「実際は?」
「いつも迷ってた」
「伝説とは違うな」
「伝説は、都合の悪いところを残さないからな」
男性は小さく笑った。
◇
日が沈む頃。
三人は村を離れた。
村人たちは、水路の周囲をさらに補強している。
子どもたちは、小さな桶を抱えて順番を待っていた。
すべてが解決したわけではない。
上流の封鎖が続けば、いずれ水は再び減る。
ガルディア軍が来れば、水を奪われるかもしれない。
ルミナス軍も、より多くの兵を連れて戻ってくる。
それでも、今は水が流れていた。
「報告が国境中へ回る前に、ルミナスへ入ろう」
アルトが歩き出す。
フィオナが隣へ並んだ。
「今日はもう無理をしないで」
「分かってる」
「精霊術は禁止」
「もう日が暮れるぞ」
「明日の朝まで禁止」
「戦闘になったら?」
「逃げる」
「追いつかれたら?」
「私とリナが何とかする」
「不安だな」
「何か言った?」
「何も」
リナが二人の後ろを歩いていた。
しばらく進んだところで、川の上流が見えた。
そこだけ、異様だった。
山の間に、大量の水が浮かんでいる。
透明な壁。
川幅いっぱいに広がる水の塊が、見えない力によって固定されていた。
上流には豊かな流れがある。
水は失われたわけではない。
そこにあるのに、下流へ進むことを許されていない。
水の壁の向こうでは、ルミナス側の木々が青々と茂っている。
こちら側では、川底がひび割れている。
「これが……」
リナが言葉を失った。
「アクアレギアの力よ」
フィオナが答える。
膨大な水の精霊力。
川の流れを丸ごと押さえ込むほどの力。
フレイムベルグの炎とは違う。
焼かない。
破壊しない。
静かに止める。
誰かを守るために止められた水が、その下流では別の命を追い詰めている。
アルトは水の壁へ近づいた。
無数の水の精霊たちが、その内側へ縛りつけられている。
暴れているわけではない。
それでも、本来進むべき流れから切り離され、アクアレギアの力によって同じ場所へ留められ続けていた。
「守るための剣か」
アルトがつぶやく。
フィオナは答えなかった。
水の壁の向こう。
ルミナス王国。
第二聖剣アクアレギア。
その持ち主が、何を守ろうとしているのか。
何を切り捨てようとしているのか。
確かめなければならない。
アルトは水の流れを見上げた。
「まずは話そう」
「それで駄目だったら?」
リナが尋ねる。
アルトはすぐには答えなかった。
乾いた村。
空の井戸。
水を求めて泣いていた子ども。
一方で、水を戻せば進軍を始めるかもしれないガルディア軍。
どちらも無視することはできない。
「そのとき、もう一度考える」
アルトは言った。
三人は、水の壁に沿ってルミナス領へ入る道を探し始めた。
背後では、わずかに取り戻された水が、乾いた村へ向かって流れている。
前方では、国一つを守るほどの水が、巨大な壁となって行く手を塞いでいた。




