64.黒くない王太子
「セアラ……今日はレオンハルト殿下と、どんなお話をしたの?」
メディウム侯爵邸に向かう馬車の中で母に問われたセアラは、キュッと唇を引き結び押し黙る。
婚約者候補として王太子と週末に交流することになったセアラだが、三回目となるこの日は、なぜか暗い表情でマリエルのもとへ戻ってきたのだ。
一回目の面会では簡単なボードゲームをレオンハルトが用意してくれて、とても楽しかったとセアラは話していた。
二回目の面会ではレオンハルトが王族専用の庭を特別に案内してくれたそうで、セアラは大喜びしていた。
だが、三回目の本日はまるで葬儀にでも参列してきたような暗い表情である。
「もしかして今日のことは誰にも話しちゃだめって殿下に言われた?」
すると、娘が大きく首を振る。
「今日はね、絵本について殿下といっぱいお話したの……」
「それって……まさか女神リーベの話じゃ――」
「違うよ。『黒の魔女と聖女』のお話……」
『黒の魔女と聖女』はセアラの大のお気に入りの絵本だ。
その話をしていたのなら楽しい時間になったはずなのだが、今のセアラは不安そうに縮こまっている。
娘がそのような状態に陥っている原因として真っ先に思い浮かぶのが、『黒の魔女と聖女』と対になっている『女神リーベ』の絵本の存在だ。
レオンハルトは黒の魔女の話をする流れで、間接的に女神リーベの話をしたのではないかとマリエルは考える。
「ねぇ、セアラ。その時、殿下は女神リーベのお話もされていなかった?」
「してないよ。でも……」
「でも?」
「黒の魔女のすごく怖いお話を教えてもらったの……」
「怖い話?」
マリエルが聞き返すと、セアラが一瞬だけ押し黙る。
だが、意を決したようにマリエルに真っ直ぐな視線を向けてきた。
「お母様、黒の魔女って聖女様がやっつけても、また元気になっちゃうの?」
「えっ……?」
「今日レオン殿下が言ってたの……。黒の魔女は聖女様に茨で閉じ込められても、また何度もそこから出てきてお野菜とか枯らしちゃうって……。それでセアラたちは食べ物がなくなって、みんな死んじゃうかもしれないって……」
その話にマリエルが唖然とする。
黒の魔女は、あくまでも人間が作り出した架空の存在だとされている。
百年単位で起こる大凶作を黒の魔女が引き起こしていることにし、聖女によって魔女が封印されることで、この苦しい状況には終わりがあると安堵感を民に促すために広められた伝承と言われているのだ。
それをあの利発で聡明な王太子が、黒の魔女を実在している存在としてセアラに話したことが、マリエルは信じられなかった。
「で、殿下は、そんなお話をセアラにされたの!?」
「うん……。でもね、そうならないように聖女様は何度も生まれてきて、魔女を閉じ込めてくれるから大丈夫とも言っていた……。でもセアラ、また魔女が出てきちゃうって思ったら、すごく怖くなっちゃったの……」
そう言ってギュッとドレスワンピースの裾をセアラが握りしめた。
よく見ると小刻みに震えているその小さな手にマリエルが自分の手を重ねる。
「大丈夫よ、セアラ。黒の魔女なんて本当はいないの……。あれは作り話なのよ?」
「そんなことないもん……。黒の魔女、いるもん……」
「もしいてもセアラのところには来ないわ」
「くるもん! 黒の魔女、絶対にセアラのところにくるもん!」
瞳に涙を溜めて叫んだ娘の様子にマリエルが既視感を抱く。
二年前、憑依されたジョアンナを拘束し安全だと伝えても『黒い人は絶対に自分のところにくる!』と泣きながら訴えていた四歳のセアラの姿と重なったからだ。
「ねぇ、セアラ。もしかして昔、意地悪をしにきた黒い人って黒の魔女のような人じゃなかった?」
「黒い人? わかんない……。だって黒い人、お顔が真っ黒で見えなかったから……」
「髪は? 髪の色や長さもわからなかった?」
「髪の色はいつも違ってた……。黒い人、いつも肌のところだけ真っ黒でモヤモヤしてたの」
その娘の返答にマリエルが息をのむ。
「セアラ! もしかして黒い人が、お母様やジョアンナ先生と同じ髪の色の時はあった!?」
「うん……あった。黒い人、髪の色とお洋服がいつも違ってたの……」
「じゃあ昔、お母様が黒い人に噛みつかれて倒れちゃったときのことを覚えてる!? その時の黒い人は、どんな格好をしてた!?」
「えっと……なんかワンちゃんの真似しながら飛びついてきて……でもその時は髪もお洋服もなかった……」
「でも人の形はしていたのよね?」
「うん……。でもワンちゃんみたいに手と足で歩いてた……」
その瞬間、マリエルは四歳の娘が口にしていた『おでかけ』の意味を理解する。
どうやらセアラには、憑依者に憑りつかれた人間の姿が真っ黒な肌でカツラと服を着用している人物のように見えていたらしい。
つまりマリエルが憑依されていた時、黒く塗りつぶされたような肌部分が当時のセアラには、中身のない空洞のように見えていたのだ。
姿形は母親でも中身が真っ黒でなにもないから、今は『おでかけしてる』という表現をしていたのだろう。
セアラが黒い人のことをあまり話したがらないことと、スケッチブックに描かれていた絵の先入観から、全身真っ黒な影のような見た目だと思っていたマリエルだったが、意外にも娘には憑依者の細かい動きがはっきりと見えていたようだ。
だが、不気味な見た目であることには変わりない。
そんな存在が家の中をウロウロしていたのだから、当時のセアラはさぞ怖い思いをしていただろう。
それらを踏まえて気になるのが、今セアラには王太子のレオンハルトがどのように見えているかだ。
「セアラ……その、ちょっと変なことを聞くのだけれど、今日のレオンハルト殿下は、その黒い人みたくなっていなかった?」
「えっ? なってないよ。でも……」
「でも?」
「今日の殿下、ニッコリしているのにすごく怖かったの……」
そう呟く娘の言葉にマリエルは、一瞬だけ言葉を失う。
先ほどジョアンナに憑依された時のことを思い出したからか、二年前にセアラを守るために憑依者と対峙した時の記憶がマリエルの中によみがえってきたのだ。
あの時ジョアンナの顔で向けられた歪んだ笑みは、今でもマリエルに背筋をゾクリとさせるほどの不気味なものだった。
「セアラね、怖いお話は苦手だから殿下にあんまりしないでってお願いしたの。でも殿下の婚約者候補になると、黒の魔女のお勉強はしなきゃいけないことだからって、やめてくれなかったの……。あと次に会う時は、リーベのお話もするって……」
そこまで口にしたセアラは、瞳にジワリと涙を溜めだした。
そんな娘の肩をマリエルが優しく抱き寄せる。
「ねぇ、セアラ。もし大人になって殿下から『お嫁さんになってください』って言われたら、セアラはなってあげられそう?」
「わ、わかんない……。前に会ったときはなってもいいなって思ってたけど、今日の殿下は笑顔なのにすごく意地悪で……」
「そうよね……。苦手だからやめてって言っているのに、そのお話をされたら意地悪されてるって思ってしまうわよね……」
「セアラ、殿下に嫌われるようなことしちゃったのかな? だから殿下、今日は意地悪だったのかな?」
「そんなことはないわ。でも王妃様になるのにリーベのお話をお勉強しなければいけないのは、セアラにはすごく辛いことよね」
「うん……。セアラ、リーベあんまり好きじゃないの……」
涙を零しながら抱きつく娘の頭をマリエルが優しく撫でる。
そして今の話から、早くセアラを王太子から引き離したほうがいいとマリエルは考える。
「じゃあ、お父様に相談して殿下の婚約者候補をやめられないか、国王陛下にお願いしてもらいましょうか?」
「そんなことできるの……?」
「お願いを聞いてくれるかわからないけれど……頼むことはできるから。でももし陛下が『いいよ』って言ったら、セアラは殿下と結婚できなくなっちゃうけれど、それでも平気?」
「そうしたら……もう殿下はお友達じゃなくなっちゃう?」
娘の意外な反応にマリエルが一瞬だけ驚く。
どうやらセアラは、レオンハルトを嫌っているわけではないらしい。
だが『今日の』レオンハルトは、受け入れられなかったようだ。
それがどうしてもジョアンナが憑依されていた時の状況と重なる。
あの時のセアラは、中身はジョアンナでないことをわかっていても体は大好きなジョアンナだったため、拒絶することができなかったのだ。
現状、レオンハルトが憑依されているかはわからない。
そもそもセアラが黒い人ではないと言っている時点で、その可能性は低い。
それでも……マリエルの中のなにかが警戒しろと訴えてくる。
「それは殿下に聞かないとわからないかな。でも殿下なら婚約者候補でなくなっても、きっとセアラとお友達でいてくれると思う。それもお父様に相談しましょう?」
「うん……」
そうやって娘を宥めながら馬車に揺られ帰宅したマリエルは、すぐに夫のもとへと向かい、今日あった出来事を話した。
「レオンハルト殿下が、そんなこと言ってきたのか?」
「はい。ですが、もし王妃教育に女神リーベについて学ぶことが必須であれば、セアラに殿下の婚約者は無理です。それを理由に婚約者候補から外していただくようサイラス様からもう一度、陛下に進言していただけないでしょうか?」
するとサイラスは、眉間に皺を寄せて考え込んでしまう。
「あの……この理由ではセアラの婚約者候補の辞退は難しいでしょうか?」
「難しいというか……リーベ関連の学習については、もともと免除させてもらうことを前提にこちらは王家の申し出を受け入れているんだ。もちろん、殿下にもそのようにご対応いただくようお願いしている」
「で、ではなぜ殿下は、リーベについて学ぶことは王妃教育に必須だなんて……」
すると、サイラスが険しい表情をしながら深く息を吐く。
「今の話で私が真っ先に思い浮かべたのが、二年前のルグレ夫人が憑依されていた状況だ。だが今回セアラには、レオンハルト殿下が黒い人には見えていないんだよな?」
「はい……。ですが、セアラの話から本日の殿下のご様子がどうも私の中で引っ掛かっていて……」
「それは私も同じだ。相手の不快になる行動を禁止されているにもかかわらず、おこなうなんてルグレ夫人のケースと全く一緒じゃないか……。だがセアラには、殿下が普通に見えている。まさかとは思うが、憑依者は憑りつかなくても人を操ることができるんじゃ……」
「そ、そんな! それではもうこちらでは対策の仕様がないではありませんか!」
憑依者が最後にマリエルたちの前に現れたのは、二年前の犬に憑依して襲ってきた時だ。
しかもこの時、確実にセアラの命を狙って襲ってきている。
その証拠にセアラを庇って攻撃を受けたマリエルは、三日間も高熱でうなされた。
しかも憑依された犬は使い捨てられ、命を落としている。
それは五年間も憑依されていたマリエルにも言えることであった。
『使えない子。あのまま死ねばよかったのに』
ジョアンナに憑依した状態で、まるでマリエルを使い捨ての駒のような言い方をしてきた憑依者。
憑りつかれたマリエルは周囲からの評判を地の底まで落とされ、憑依者の不注意で階段から転落させられた。
しかもマリエルが死にかけていると判断した憑依者は、使い捨てるように早々に体から出ていったのだ。
ジョアンナも同じで憑依中は周囲からの信頼を失うような動きを多々されいる。
まるで服でも着替えるように次々と人に憑りつく憑依者は、その人間のことなど一切顧みることなく、人として道理に反することばかりを平然とおこなっている。
まだ幼いセアラの心を深く傷つけ殺そうとしたり、夫のサイラスを性的快楽を満たす道具のように扱ったりと、人としての倫理観を一切持たない憑依者。
その正体は未だ不明のままだが、少なくとも彼女が人を人とも思えなくなるほど心を壊してしまっていることは確実である。
もし黒の魔女が実在し、その正体が八百年前にリーベの化身に王太子を奪われた婚約者の女性だとしたら、それは王太子の裏切りで心を壊してしまったのではないかと考えてしまう。
そんな狂気じみた存在が権力を持つ王家の人間に憑依したとなれば、かなり厄介である。
しかも激しい恨みを抱く王家の人間に憑りつくなど、何か企んでいるとしか思えない。
この二年間、憑依者がまったく動かなかったのは、このための準備をしていた可能性も疑ってしまう。
そう考えると、ますますセアラには憑依されていそうな人間を近づけさせるわけにいかない。
「サイラス様……私たちはどうやってセアラを守ればいいのでしょうか……」
「とりあえず王家には、すぐに婚約者候補の辞退を申し出る。王妃教育に女神リーベについての学びが必須だという部分を突けば、王家も反論しづらいはずだ」
「王家がそんな簡単にこちらの申し出を受け入れてくれますか……?」
「受け入れてもらうのではなく受け入れさせる。こちらも娘の身の安全がかかっているんだ……。憑依者が王族に憑りついている可能性がある以上、手段など選んでいられない。最悪、申し出を受け入れてもらえないのであれば、爵位を捨て一家で隣国に出国すると王家を脅す!」
その夫の覚悟にマリエルが体を強張らせる。
すると、サイラスが真剣な眼差しを向けながらマリエルの手を取った。
「可能性は低いが、もし出国することになれば隣国での爵位は子爵……下手をしたら男爵位くらいまで落ちると思う。それでも君は……私についてきてくれるか?」
「もちろんです!」
即答した妻の手を引き、自分の方へ引き寄せたサイラスはそのままマリエルを抱きしめる。
「ありがとう、マリー……。絶対に二人で子供たちを守ろう……」
「……はい」
その後、すぐにサイラスは王家に娘の婚約の件で早急に相談したいことがあるという内容の手紙を送った。
その際、セアラと王太子の交流は一度、中止にしてほしいという趣旨も書いたそうだ。
すると王家もただ事ではないと判断したようで、すぐに面会日を調整してくれたようだ。
そして四日後――――。
マリエルはセアラを王太子から解放するために夫と娘とともにセグレート城へと向かった。





