57.体調不良
マリエルが領内の田畑に豊穣の祈りをおこないはじめてから一カ月が経った。
その間も怖いくらい憑依者の動きはなかった。
もし再び誰かに憑りついて侯爵邸に入り込んでいたら、すぐにセアラが気づくはずだが……この三カ月間セアラがなにかに怯えるような反応を見せることは一度もなかった。
しかしマリエルのもとには、憑依者と同じくらい厄介なものが届いていた。
それらをテーブルの上に並べ眉間に皺を寄せていると、部屋の扉がノックされる。
「マリー、少しいいか? 実は今度の豊穣の祈りの日程について変更の相談――」
この三カ月ですっかり妻を愛称で呼ぶことが当たり前となったサイラスだが、マリエルの手元にある十通以上の手紙を目にした瞬間、訝しげな表情を浮かべる。
「なんだ、その大量の手紙は……」
「社交界のご夫人方からのお茶のお誘いだと思われます」
苦笑しながらマリエルが答えると、サイラスが無言でそれらの手紙を二つのグループに一瞬で仕分けする。
「こちら側の招待状は受けても問題ないだろう。だが、こっちはやめたほうがいい。あまりいい噂を聞かない家名ばかりだ」
「ありがとうございます。現状の社交界の状況がわからず、どうしたものかと困っていたので助かりました!」
そう言って断りの返事をしなければならない手紙の束に手を伸ばすと、急にサイラスが顔をのぞき込んできた。
「マリー、今日は少し顔色が悪くないか?」
「今朝フェニにもそう言われました。でも自分では特に不調は感じないのですが……」
「フェニアにも? だったら一度、グレードル先生に診てもらったほうがいい。フェニア、オネストに先生をお呼びするよう頼んできてくれ」
「かしこまりました」
壁際に控えていたフェニアが足早に部屋を出ていくのを見送ったマリエルは、やや呆れ気味な表情を浮かべた。
「サイラス様……少し大げさでは?」
「用心するに越したことはないだろう? それと次の豊穣の祈りは延期しようと思う」
「えっ! でも!」
「君の体調のこともあるが、実は先方から今育てている作物よりも、次に植える作物に祈りを捧げてほしいと相談があったんだ。二カ月ほど先延ばしになるので、君に相談しようとしていた矢先だった。だから気にしなくていい」
「そういうことでしたら……」
「これを機に体をしっかり休めてくれ」
そういってサイラスは、なぜかマリエルの顔に手を伸ばしてきた。
「やはり顔色が青白いぞ? 本当に具合は悪くないのか?」
「はい……。そんなに血の気がないですか?」
「ああ。唇の色も少し白くなっている気がする……。今日は屋敷のことは気にせず、自室でゆっくりしていたほうがいい」
「はい。お気遣い、ありがとうございます」
すると、サイラスはマリエルの頬をねぎらうように軽く撫で、部屋を出ていこうした。
だが手紙とは別にテーブルの上にあった本に反応し、それを手に取る。
「これは……黒の魔女と聖女について書かれた本か?」
「はい。この三カ月間、憑依者がまったく動きを見せないので不安になってしまって……。少しでも正体に繋がる手がかりがないかと考えていたら、黒の魔女の絵本にはあまり注目していなかったことを思い出しまして」
「この封筒は?」
「それは例の歴史学者が黒の魔女に関する考察を記した物が入っている封筒です。リアが婚約者の方から借りてきてくれました」
「読ませてもらってもいいか?」
「ええ、もちろん」
そう言ってサイラスは封筒の中から紙の束を取り出し、目を通す。
その間、マリエルは先ほど仕訳けてもらった手紙の宛名を再度確認した。
サイラスが参加を控えたほうがいいと判断した手紙の差出人の名は、馴染みのない家名ばかりだった。
恐らくこの五年間で急速に社交界をのし上がってきた家なのだろう。
改めて憑依者に奪われた時間の損失をマリエルが痛感していると、一読した様子のサイラスが顔を上げる。
「黒の魔女に関する考察は、わりと一般的に認識していることしか書かれていないな。まぁ、伝承自体が『聖女が不思議な力を使って魔女を倒す』という流れなので、歴史学というよりも民俗学の分野になりそうだが」
「この学者の考えでは、数百年間隔で起こる凶作の原因を架空の存在である『黒の魔女』のせいにすることで、理不尽な自然災害で受ける国民の憤りを緩和させようとした可能性があると書かかれていましたね」
「人為的に起こされているのであれば、その元凶を取り除けばすぐに状況は改善される。凶作の年が何度来ても、豊穣の巫女の救いが、必ずあるという考えを国民に植えつけ、終わりのある状況だと安心させるために広められた伝承ではないかと、この学者は考えているようだな」
そう言ってサイラスは、年表のようなものが書かれているページを紙束の一番上に持ってくる。
「確かに時代背景で見てみると酷い凶作だった年には、必ず異例の力を持つ豊穣の乙女が誕生しているな……。だが、これは本当に偶然なのか?」
「どうでしょうか? もしかしたら実際に黒の魔女は存在していて、定期的に凶作を起こしていたのかもしれませんよ? それで神が聖女のように力の強い豊穣の乙女を故意に誕生させていたとか」
「君は意外と空想好きなタイプなんだな」
「私も豊穣の乙女の一人なので。もし自分に国を救えるほどの聖女のような力があるかもしれないと想像すると、少しワクワクします! でもその立場で考えると、一つ気になることがあるんですよね……」
急に真面目な顔を浮かべた妻にサイラスが怪訝そうな表情を返す。
「なにが気になるんだ?」
「伝承では黒の魔女は、魂は永遠でも肉体は朽ちてしまうので他の生き物から生命力を奪って、自身の肉体を復活させていたのですよね? そのせいで周囲から嫌われ、世界を恨んで滅ぼそうとするという流れだったと思いますが……『復活させていた』ということは、伝承では黒の魔女は何度も復活しているという設定なんでしょうか?」
「なぜ、そこが気になるんだ?」
「もし何度も復活しているのであれば、その度に聖女が封印しているということですよね? そうなると、今の力が強くなった私にも聖女のお役目が回ってくるのではと思いまして!」
「……君は聖女として黒の魔女と戦いたいのか?」
「世界を救うために戦う聖女だなんて、かっこいいではありませんか! セアラではありませんが、同じ女性として憧れ――」
ノリノリで冗談を口にしていたマリエルだったが、急に調理中の昼食の匂いを強く感じてしまい、慌てて口元を押さえた。
いつもなら空腹を刺激される良い香りなのだが、なぜか今のマリエルは吐き気を誘発させられ、そのまま勢いよく手洗い場に駆けこむ。
そんな妻の異変にサイラスも慌てて立ち上がり、勢いよく閉められた扉の前で叫ぶように呼びかけた。
「マリー! 大丈夫か!?」
すると、中からゴホゴホと咳き込むような声が返ってくる。
それからサイラスは、何度かマリエルに呼びかけたが返事はなかった。
だが、しばらくするとゆっくりと扉が開き、先ほど以上に青白い顔色をしたマリエルがのろのろと顔を出す。
「申し訳ございません……。なんだか急に吐き気が……」
「だから何度も具合は平気なのかと確認したんだ……」
呆れながらもサイラスは、マリエルの腰に手を回して体を支えてくれた。
「少し横になったほうがいいんじゃないか?」
「はい……」
マリエルがぐったりしながら返事をすると、サイラスは妻の膝裏に腕を差し入れ横抱きにした。
「サ、サイラス様! 重いので結構です! 自分で歩けます!」
「そんなフラフラな状態でなにを言っているんだ……。それに小柄な君が重かったら、殆どの女性が重いことになる」
「その基準は世の女性たちに対して、かなり失礼です……」
妻の抗議を華麗に聞き流した夫は、すぐさま部屋の寝台にマリエルを寝かせ何度も頭を撫でる。
「大丈夫か? 吐いたのなら、少し水分をとった方がいい」
「サイラス様……私への接し方がセアラに対する接し方になっています」
「君は体調不良で弱っていても口だけは回るんだな……」
呆れ気味でそうこぼしたサイラスは、グラスに水を注ぎ手渡してきた。
それをマリエルはゆっくりと飲み干す。
「先ほどフェニアにグレードル先生を呼ぶように指示を出しておいて正解だったな。先生が到着するまで、少し眠ったらどうだ?」
「はい……。ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
「今さらそんな他人行儀なことを言う仲でもないだろう?」
苦笑したサイラスは、再びマリエルの頭に手を伸ばしてきた。
そのまま優しく頭を撫でられはじめたマリエルは、その心地よさに瞼が重くなる。
しばらく夫に見守られながらウトウトしていると、室内に扉のノック音が響く。
サイラスが入室を許可すると、グレードルを連れ立ったフェニアが部屋に入ってきた。
「旦那様、グレードル先生をお連れ……って、奥様!? どうされましたか!?」
「先ほど気分が悪くなって、少し吐いた。先生、急にお呼びして申し訳ない。すぐに妻を診てもらえますか?」
「かしこまりました。奥様、上半身だけ起こすことは可能ですか?」
「はい」
マリエルが体を起こすと体温を測られ、脈拍数と目や口の中の状態も軽く確認される。
その後いくつかの問診に答えると、グレードルは少し考え込む仕草をした。
「奥様、失礼ですが……前回、月の物があったのはいつぐらいでしょうか?」
「えっ? 月の物ですか? そ、そういえば……ここ二カ月間はなかったような……」
すると、グレードルが満面の笑みをマリエルに向けてきた。
「おめでとうございます、奥様。ご懐妊でございます」
その瞬間、マリエルの診察を静かに見守っていいたフェニアが、ものすごい勢いで部屋を飛び出していった。





