5.悪妻マリエル
ショックで小刻みに震えるマリエルにサイラスは、容赦なく続きを口にする。
「君は、セアラのミスを誘発させるために五歳以上が使う教材を夫人に使用させていた。そしてセアラがミスをしたら、容赦なく手の甲を鞭で打つよう指示したそうだ」
「なっ……!」
「夫人は言う通りにしなければ侯爵家より圧力をかけると君に脅されたそうだ。彼女の家はメディウム家傘下の男爵家だから、君の言いなりになるしかなかったのだろう。だが三日前に罪悪感にかられ、教育係を辞退したいと申し出があった。そこで初めてセアラが虐待に近い教育を受けていたことが発覚したんだ」
淡々とした様子で語られる内容をマリエルは唇を震わせながら聞いていた。
しかし、ショックが大きすぎて細かい情報が上手く頭の中に入ってこない。
だが、一番重要な部分だけは、マリエルの心をえぐるように頭の中で反響する。
この二週間、マリエルは自分の手を汚さず実の娘を虐待していたのだ。
信じたくもない酷い現実を夫から突きつけられたマリエルの瞳に涙が溜まりはじめる。
「う、嘘……嘘よっ!! だって実の娘なのに……お腹を痛めて産んだ子なのに!! なんで……? なんで、そんな酷いことができるの!?」
「私だって、そんな話は信じたくはなかった!!」
その瞬間、マリエルの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
そんな妻からサイラスは、痛みを堪える表情をしながら顔を背けた。
「……その件で君を問い詰めようと、私は外出しようとしていた君を呼び止めた。だが、君は私の呼びかけを無視し、中央の大階段を降りはじめた。再び私が強めに呼び止めると『あんな可愛くない子、鞭で打たれて当然だ』と笑顔で口にした」
「うっ……ふっ……」
「だが、君はそのまま階段を踏み外し転落した。それから三日間ほど意識が戻らず、やっと目を覚ましたのが今の君だ……」
その話にマリエルは口元を抑え、寝台の上で泣き崩れた。
五年前、未成年だった自分は薬まで盛って婚約者を辱め、その時に妊娠した娘を教育係を使って虐待していたのだ。
今の自分では思いつきもしない非道なおこないを、つい最近までのマリエルは周囲に平然とおこなっていた。
そんな受け入れがたい現実を振り払うように両手で顔を覆ったマリエルは、何度も首を振る。
「嘘……嘘よぉー……」
「記憶がない君にとっては受け入れがたい話だと思う。だが夫人から報告を受けた後、セアラの両手を確認すると、うっすらと鞭で打たれた痕が残っていた……。セアラ自身にも確認したが、なかなか口を割らず、夫人がもうここには来ないことを伝えると、やっと鞭で打たれたことを話してくれた。セアラは誰かに話したら、もっとお仕置きをすると脅されていたんだ……。それも君からの指示だったと夫人から確認がとれている」
「い、嫌ぁ……。どうして……? どうして私は、そんな酷いことを娘に……」
嗚咽を漏らしながら寝台に突っ伏すマリエルに、サイラスはなんとも言えない表情を向ける。
「君がセアラを疎んじていた理由は、何となく察しがつく。あの子は……なぜか君が近づくと火がついたように激しく泣き叫んで、まったく君に懐かなかったんだ」
その話にマリエルが恐る恐る顔を上げる。
「君もそんなセアラを可愛く思えなかったのだろう。ずっとあの子のことを『アレ』呼ばわりしていた。そんな状況だったから、君は今まであの子を一度も抱いたことがない」
「一度も……?」
「あの子は生まれた直後から、君が近づくと過剰に泣き叫ぶ状態だったんだ……」
「そん……な……」
その話からマリエルは、ある可能性に思い当たる。
娘はお腹の中にいた頃から、自分を拒絶していたのではないかと。
「サイラス様、こんなことは聞きたくないのですが……妊娠期間中の私は、お腹の子に悪影響が出るような行動をしていませんでしたか?」
「そういえば……君はワインが好きで妊娠中に平然と飲酒をしようとしたと報告を受けた」
「い、飲酒!? 私が!?」
記憶を失う前のマリエルは未成年でもあったが、その頃からアルコールの匂いが苦手だった。
そんな自分がワインを好むなど、まずそこが信じられない。
愕然とするマリエルをよそにサイラスは、再び淡々と続きを口にする。
「だが、妊娠が発覚した直後から、私が王家に頼んで君を監視する影をつけてもらっていた。だからその間、君が酒を口にすることはなかったが……」
「わ、私にはセグレート王家の影の監視がついていたのですか!?」
「ああ……。五年前の私に対する君の行動から、どこの馬の骨ともわからぬ男の子供を孕む可能性もあったので、王家に相談して君に監視をつけることにしたんだ。メディウム家の血が一滴も流れていない子を君が産めば、家督争いにも発展しかねないからな。ちなみに影がどの使用人に扮しているかは私も把握していない。だが、現状でも君には王家の影の監視がついている」
その話でマリエルは、いかに自分が夫に信用されていない人間であったかを思い知る。
それだけこの五年間の自分は、非常識な行動だけでなく異性関係でも信用ならない動きが多かったのだろう。
目覚めた直後、サイラスが『男性には思わせぶりな態度をとってはなびきそうになると盛大に突き放す』と口にしていたことから、体の関係の不貞はなかったようだが、それでも夫がいる身で他の男性に色目を使っていたのだろう。
現在十六歳の頃まで記憶が退行しているマリエルは、浮気どころか恋愛経験すらない状態だ。
だがこの五年間で、自分は男性を手玉にとる悪女になっていた。
それは現在のマリエルの評判が侯爵邸内だけでなく、社交界でも最悪だということを意味する。
「わ、私は……この五年間で一体どれだけの人を傷つけて、どれだけの人を不快にさせてきたの……?」
受け入れがたい自分の現状にマリエルが涙をこぼしながら打ちひしがれていると、サイラスが深いため息がこぼす。
「悪妻マリエル」
「えっ……?」
「今の君は……社交界では陰でそう呼ばれている」
「……っ!」
夫から容赦ない現実を突きつけられたマリエルは、絶望するように両手で顔を覆った。
もう取り返しがつかないところまで自分の世間的評価は落ちている。
ましてや五年間の記憶が一切ない今のマリエルでは、天地がひっくり返るほどの奇跡でも起こらなければ、その信用を回復させることなどできないだろう。
「わ、私は……この先、一体どうしたらいいの……?」
あまりにも救いのない状況から自問するように呟くと、夫から憐れむような視線を向けられた。
「今はまず怪我を治すことを優先したらいい」
「怪我……」
「階段から転落したんだ。頭だけでなく体中打ちつけているはずだ」
そう言われ、先ほどまで感じていた体の痛みの存在をマリエルは思い出す。
「今後のことを考えるのはそれからでいい。どうやら記憶を失った今の君は、ある程度の常識的な考えを持っているようだから、まともな話し合いができそうだからな」
夫からやんわりと嫌味を言われたマリエルは、行き場のない自身への怒りと悔しさで強く唇を噛む。
だが、嫌味な言葉とは裏腹にこれまでのサイラスは、マリエルが記憶を失ったことに対して、かなり配慮してくれていた。
その状況がマリエルにある疑問を抱かせる。
「あの、サイラス様は……私のことが憎くはないのですか?」
すると、サイラスが今日一番の深いため息をこぼした。
「憎いというよりも嫌悪感のほうが強い……。だが君は、この五年間の記憶を失っている状態だ。つまり今の君は、まったく身に覚えのないことで一方的に私から嫌悪感を向けられている状況になる。そんな君を責めても意味はないし、その状態で謝罪をされても誠意なんて感じられない」
感情が抜け落ちた状態で淡々と返された言葉に、マリエルの視界が再び涙で歪みだす。
今のサイラスの言葉は『やったことの責任を取るどころか、自覚もしていない状態で軽々しく謝罪などしてくるな』と訴えているのだ。
深い罪悪感に苛まれていても、今の自分は謝罪することすら許されない。
それだけのことをこの五年間のマリエルは、サイラスにしてしまった。
今の夫の言葉から自分の罪の重さを改めて認識したマリエルは、懺悔するように組んだ両手に額を押し当て涙をこぼす。
すると寝台脇に座っていたサイラスが、ゆっくりと立ち上がった。
「君の世話は、先ほどまでここにいたテレーズに担当させる。だが、彼女はこの屋敷のメイド長だ。午前中は手が回らないことが多いため、朝は別の者が担当することになる。その際は、できるだけ遺恨が少なそうな者を選ぶが……もし問題が発生したらテレーズを通して私に報告してくれ」
そう言ってサイラスは、感情が抜け落ちた表情のまま静かに部屋を出ていった。
記憶を失っているとはいえ、加害者である自分が被害者のように泣く姿が不快だったのだろう。
そのように解釈したマリエルは、唇を噛んで必死で涙を堪えた。
自分には後悔して泣く資格など一切ないのだ。
それでも涙は一向に止まらない。
こんな自分にサイラスは、今の状況に配慮しながら冷静に対応してくれた。
その素晴らしい彼の人間性が、ますますマリエルに罪悪感を与えてくる。
「あんな誠実で優しい人に……私はなんて酷いことを……」
寝台の掛布を握り締めながら、この世の絶望のようにマリエルは嘆き悲しむ。
だが今の自分には、その『酷いこと』の記憶が一欠けらも残っていない。
そんな状態で自身を責め立てても、罪の重さから逃れるための自己陶酔にしかならないだろう。
後悔することすら許されない重すぎる罪に、この日のマリエルは泣き崩れることしか出来なかった。





