48.『じょわじょわ』の正体
他家の番犬らしき犬に噛みつかれたマリエルは高熱を出し、三日間も意識が混濁した状態が続いた。
その間、うっすらと娘の泣き声や、夫と使用人たちの呼びかけなども聞こえたが、なぜか視界がぼやけ周囲の状況をしっかりとは確認できなかった。
意識はあるのに体が思うように動かない。
しかし節々の痛みや、体中のだるさはしっかり感じられる。
高熱で大量の汗をかいているせいで体は冷えるが、頭はぼぉーっとするほど熱い。
気がつけば深い眠りに陥っているような感覚が何度も訪れた。
そんな状態を繰り返した四日目の朝、マリエルはやっと周囲の状況が認識できる状態で目覚める。
「ここ……は……」
すると、すぐ横でガタンとなにかが音を立てた。
「マリ……エル? マリエル!!」
「サイラス様……? 私、一体……」
虚ろな瞳で声をかけると、一度立ち上がったサイラスが額に手を当て、脱力するように椅子にドサリと腰をおろした。
「よかった……意識が戻って……」
「あの……私、今どういう状況なのでしょうか……」
すると、目の下に酷いクマをつくっている夫が盛大なため息をこぼす。
「君は中庭で犬に襲われた後、三日間も高熱を出して意識が混濁した状態を繰り返していたんだ……」
「三日間も……?」
マリエルが聞き返すと、室内に扉のノック音が響いた。
サイラスが入室許可をすると、水差しを手にしたフェニアが現れる。
だが、マリエルの姿を目にした途端、口元を押さえ涙ぐんだ。
「お嬢……様……? マリエルお嬢様ぁぁぁぁ!!」
入室すると同時に水差しを乱暴にテーブルに置いたフェニアが、寝台に沈んでいるマリエルに駆け寄り縋りつく。
「よかった……本当によかった……」
「フェニ、ごめんなさい……。心配をかけたわね……」
「本当です! もしこのまま、お嬢様がお目覚めにならなかったら私は……私は……」
ボロボロと涙を零すメイドの頭をまだ本調子でないマリエルが、ぎこちなく撫でる。
「あなたは動揺すると、未だに私のことをお嬢様と呼んでしまうのね……」
「私の中でマリエルお嬢様は、この先どんなに立派な大人になられても一生、少女のままです!」
「私……これでも一応、夫と子供がいる身なのだけれど……」
涙をこぼしながら訴えてきたフェニアを宥めていると、苦笑顔のサイラスが会話に入ってきた。
「そんな返しができるのであれば大分回復したみたいだな……。フェニア、グレードル先生を呼んでくるから、マリエルのことを頼む」
「い、いえ! 私が先生を呼んでまいります! 旦那様は奥様のお傍に!」
そう言って素早く涙を拭ったフェニアは、慌ただしく部屋を出ていった。
すると、急に部屋は静まり返る。
「サイラス様……三日前、お話を伺いにいくことができず、申し訳ございませんでした……」
「目覚めて最初に気にすることが、それなのか?」
「………………」
「話はいつでもできる。まずは体調を回復させることを優先――」
サイラスがそう言いかけると、今度はノックもなく部屋の扉が盛大に開かれる。
「おかしゃまぁぁぁぁぁー!!」
叫び声とともに部屋に入ってきたのは、涙と鼻水で顔をグチャグチャにさせたセアラだった。
そのまま寝台に横たわっている母親に飛びつこうとしたセアラだが、その直前で父親に掬い上げられてしまう。
「やぁーん! おとしゃま、はなしてぇぇぇー!! おかしゃまぁぁぁぁー!!」
「セアラ、お母様は今目覚めたばかりで、とても疲れているんだ……。飛びつくのはやめなさい」
「シェアラ、とびつかない!! だからおりるのぉぉぉー!!」
泣き叫びながらジタバタと暴れる娘をサイラスが向き合うように抱きかかえる。
「わかった。じゃあ、今から下に降ろすけれど……お母様にバッて飛びつかないって約束できるかい?」
「……おやくそくする」
「いい子だ」
そういってサイラスが下に降ろした途端、セアラは寝台に上半身だけを乗り上げ、小さな手でマリエルの手をギュッと握ってきた。
「おかしゃまー……もうげんき……?」
「うん。もう元気。ごめんね、セアラ……心配かけて」
「シェアラ、おかしゃまが、おめめ開けるまでまってたの……。ずっと、ずっと、ここにいたのよ……?」
娘の言い分にマリエルは、夫に視線を向けて詳細を求めた。
すると、サイラスから苦笑が返ってくる。
「セアラは昨夜まで、ずっと君に張りついて離れなかったんだ……。だが体力の限界もきていたから、昨日はなんとか言い聞かせて自室で休ませたんだ」
「そうでしたか……」
「シェアラね、いい子でまってたの……」
「ごめんね、セアラ……本当にごめんね……」
マリエルが両手を広げると、セアラが寝台をよじ登って抱きついてきた。
耳元でグズグズ鼻を鳴らしながら泣く娘の頭をマリエルが何度も優しく撫でる。
すると、扉がノックされフェニアとともに医師のグレードルが部屋に入ってきた。
「奥様……お加減はいかがですか?」
「たくさん汗をかいたから、今はなんだかスッキリしています」
「それはよかった……。ですが、かなり体力を消耗されているので、しばらくは安静にしていただくことになります」
「はい」
「それでは、まだ体内に毒素が残っていないか確認させていただきますね?」
「えっ……?」
採血の準備をはじめながらグレードルが口にした言葉にマリエルが驚く。
すると、サイラスが深いため息をついたあと、今回の経緯を説明しはじめた。
「君を襲った犬は、王家がフジューム侯爵家に依頼した警備犬の一匹だったんだ。それが移送中に逃げ出してしまったらしい」
「フジューム侯爵家? 三大侯爵家の一つのですか?」
「ああ。フジューム侯爵家は国防を担っているだけあって、軍馬の育成でも有名だろう。その一環として警備犬の育成にも力を注いでいるんだ」
「警備犬……ではあの首輪の紋章はフジューム侯爵家の……」
一瞬ではあったが目にした首輪をマリエルが思い出していると、サイラスが険しい表情で話の続きを口にする。
「だが、今回移送中だった犬は城に到着後、すぐに警備犬として配置できるよう準備されていたらしい。牙に強力な麻酔薬が仕込んであったそうだ。君が噛まれた後に意識を失ったのは、その麻酔薬のせいだ」
「なるほど……では高熱はその後遺症でしょうか?」
「いや、違う」
急に声を鋭くした夫にマリエルが、少しだけ肩を震わせた。
すると、今度は注射器を手にしたグレードルが補足するように口を開く。
「実は今回、奥様の体内から有毒成分が検出されました」
「有毒成分っ!?」
「一時的に体の免疫力を低下させるだけでなく、体内の温度調整を狂わす症状を引き起こす毒です……。大人が接種した場合、奥様のように酷い高熱を発症する程度で留まることが多いですが……子供が接種した場合、確実に死に至ります。四百年前までは家督争いなどで幼い子供に使われることが多く、痕跡も残らないので病死を装って暗殺などに用いられることが多かった毒です」
「そ、そんな……で、ではあの時、もしセアラが噛みつかれていたら……」
思わず想像してしまったマリエルの顔色が一瞬で青くなる。
同時にそんな犬を王家に差し出そうとしていたフジューム侯爵家の動向も気になってくる。
だが、その懸念はこの後のサイラスの話で必要なくなった。
「このような状況では真っ先に疑いたくなるのが、フジューム侯爵家の謀反の可能性だ。だが、ここでおかしなことが判明した……。あの後、回収された犬の死骸を解剖させた結果、毒は犬の牙だけでなく体内からも検出されたんだ」
「体内から?」
「ようするに君たちに襲い掛かった際、あの犬も毒に侵されていたということだ」
「えっ……?」
「もっと言うと、うちの敷地内に侵入してきた時点で、犬は毒の影響で衰弱していなければおかしいという状況だったんだ」
「なっ……!」
今の話が本当であれば、犬は毒のせいでマリエルたちに襲い掛かる気力などなかったことになる。
だが、実際はそんな症状など微塵も感じさせないほどの獰猛さで襲ってきた。
その状況から、マリエルはとても恐ろしい仮説を立ててしまう。
それを裏づけるようにサイラスから、さらに衝撃的なことが告げられた。
「ちなみにあの犬だが、セアラには別のものに見えていたそうだ……」
「まさか……それって……」
「『黒い人』」
「……っ!」
「もしかしたら憑依者は、人だけでなく生物全般に憑依できるのかもしれない……」
「そ、そんな……それではもうどんな生き物に憑りついているか判断できないではありませんか……」
「そうだな。だが一つ気になることがある。憑依者はなぜ対象によって憑りつく期間が違うんだ? 君やルグレ夫人の中には長く居座ろうとしていたのに対して、カレンやデイジーに対しては一時的にしか憑りついていない。今回の犬など使い捨ての駒のように扱っている。この違いはなんだ……?」
そんな会話をしていたら、採血の準備が終わったグレードルが「失礼します」と言いながら、マリエルの腕を取り、消毒後に注射器を押し当ててきた。
いつの間にか眠ってしまっているセアラが万が一その様子を目にしないように、マリエルは空いているほうの腕で、そっと娘を自分のほうへと抱き寄せる。
よほど腕がいいのか、グレードルの採血はまったく痛みを感じないまま一瞬で終わった。
そして抜き取られたマリエルの血液は試験管に入れられ、サイドテーブルに用意されていた薬品を数滴たらされる。
だが、試験管の中身には、なんの変化もなかった。
その状況にグレードルが安堵の表情を見せる。
「ご安心ください。奥様の体内からは完全に毒素は抜けきっております」
「よかった……。ちなみに毒素が残っていると、どんな反応をしますか?」
「一般的には色が赤紫色に変化いたします。ですが奥様の場合、青紫色でした。恐らく豊穣の乙女でいらっしゃるので、薬物に対する反応が過剰に出たのだと思われます」
「豊穣の乙女……」
そう呟いたマリエルは、少し前にサイラスが立てた仮説を思い出す。
憑依者は、なぜか豊穣の力を持つ人間ばかりに憑りついていた。
だが、今回の場合は憑依されたのは犬だったため、その法則にはまったく当てはまらない。
仮に憑依者が人に限らず生物全般に憑りつけるとしても、なぜ豊穣の力を持つ者に優先的に憑りつくのだろうか。
そして同じ豊穣の乙女でも憑りつく期間に差があるのは、なぜか。
そう考えた際、マリエルが真っ先に気になったのが自分とジョアンナが持つ豊穣の力の強さだった。
「サイラス様、もしかしたら憑依者は、似通った力の豊穣の乙女に優先的に憑りついているのではないでしょうか?」
「それは君とルグレ夫人の豊穣の力は同じくらいの強さだが、カレンとでデイジーはそれ以下だったということか?」
「はい。これはあくまでも私の想像ですが……憑依者にとって理想的な力の強さが私とジョアンナ先生だった可能性があります。逆にカレンやデイジーでは力が弱すぎたため、長期間は憑りつけなかった、あるいは憑りつきたくなかったとか……。そう考えると、夜会などで私以上に力の強い豊穣の乙女と接触をしているのに憑りつかなかったことも説明がつきます」
「なるほど……。力が強すぎると憑依自体ができない。逆に弱い場合は、憑依はできるが長期間は難しいということか……」
「一度、私とジョアンナ先生、そしてカレンとデイジーの豊穣の力の強さを調べれば、なにか新しい発見があるかもしれません。確か王家には豊穣の乙女の鑑定記録が――」
「わかった。その情報を開示してもらえないか、私から王家にかけ合ってみよう」
そう言ってサイラスは泣き疲れて眠っている娘をマリエルから、そっと引き離す。
「だから君は、まず体力を回復させることに専念してくれ。憑依者関連の調査はその後だ」
「はい」
「まぁ、その前にまず私と夫婦間でのすれ違いを改善するための話し合いをしてもらいたいが……」
「はい……」
サイラスの一言で、少し前まで自分たちの関係が気まずくなっていたことを思い出したマリエルは、自然と視線が手元に落ちる。
そんな反応を見せる妻に苦笑したサイラスは、今度はグレードルとフェニアにセアラを抱きかかえたまま向き合う。
「グレードル先生。申し訳ないが、あと一週間は我が家にご滞在いただけますか?」
「ええ、もちろん」
「あとフェニア、しばらくマリエルは本邸で休養させる。身の回り品などをオネストとテレーズと協力して、こちらに移動させておいてくれ」
「かしこまりました」
「そしてマリエル、君はあと二日間は絶対に安静だ。私もセアラを寝台に運んだあと、仮眠をとらせてもらう。お互い万全な状態で話し合いができるよう体調を整えておいてくれ」
「はい」
そう言ってサイラスは、娘を抱きかかえたまま部屋を出ていった。
そんなサイラスの後姿を見ていたフェニアが苦笑を浮かべながら、マリエルにある報告をする。
「旦那様はセアラお嬢様以上に奥様に張りつかれていたので、この三日間まともに睡眠をとっていらっしゃらないのです……」
「そ、そうなの?」
「はい。ですので奥様は、旦那様にとても大切にされていらっしゃいますよ」
まるで心の中を見透かされたようなことを言われたマリエルは、思わず苦笑する。
「フェニのそういうお節介なところは相変わらずなのね……」
「奥様がそのことに気づかれていないようなので、どうしても一言申し上げたくなりました。ご安心ください。旦那様は、その昔まだご令嬢だった奥様が、便箋十三枚にも渡る熱い想いを抱かれた素晴らしい方です。生涯、奥様とセアラお嬢様のことを大切になさってくれると思いますよ」
その話にマリエルがビシリと固まる。
「待って……。まさかフェニも、あの手紙をまだ持っているの……?」
「はい。マリエルお嬢様の数少ない甘酸っぱい記録なので大切に保管しております」
「嫌ぁぁぁぁぁー!! お願いだから捨ててぇぇぇぇー!!」
熱が引き、すっかり体が軽くなったマリエルは、思った以上に元気な様子で自分の過去をよく知るメイドに抗議の声を上げた。





