47.『じょわじょわ』
翌日、朝食を済ませたマリエルは、別邸に突撃してきた娘を中庭に連れ立って遊び相手をしていた。
サイラスは午後に本邸にきてほしいと言っていたが、もし仕事が早く終われば時間を前倒ししてくる可能性がある。
少しでも夫との話し合いの時間を先延ばしにしたかったマリエルは、時間稼ぎのために敢えて中庭で遊ぶことを娘に提案したのだ。。
そんな対策に利用されたことなど知らないセアラは、いつもと違う場所で遊んでもらえることに大はしゃぎしていた。
今はガゼボのテーブル席に自分が摘んできた雑草の花と、庭師が手入れの際に剪定した花を何度も往復しながら運んできて、お店屋さんを開いている。
「いらっしゃいませ~。シェアラ工房へようこそ~」
「まぁ! 今日は素敵なアクセサリーが入っているのね!」
「シェアラのおすすめは、このおっきいバラです! とうてんの目玉しょうひんです!」
恐らくプリエール工房で目にしたブリジットの接客を真似ているのだろう。
言葉の意味もわからないのに一生懸命セールストークをしてくる娘にマリエルの口元は緩みっぱなしである。
そんな娘の無邪気で愛らしい様子は、この後に待ち構えている夫との話し合いの存在を一瞬だけ忘れさせてくれた。
「このバラ、本当に立派できれいねー」
「これねー、ロブがどうぞ~ってくれたのー」
ロブというのは、この中庭の管理責任者である初老の庭師だ。
マリエルも散歩をしている時によく声をかけられ、何本か切り花をもらったことがある。
執事のオネストとは同期で、マリエルへの誤解を早い段階で捨て去ってくれた一人だ。
「でもね、シェアラ、もっとかわいいお花、ちいさいのでみつけたの! もってくるから、おかしゃま、まっててね!」
「そうなの? それは楽しみ!」
レスリーを引き連れながら駆けていった娘を見送ると、フェニアがお茶を入れ直してくれた。
「奥様、どうぞ」
「ありがとう、フェニ」
「朝食時は少し浮かないお顔をされていましたが、今はすっかり元気なご様子ですね。これもセアラお嬢様のお陰でしょうか?」
フェニアの言葉にマリエルが気まずそうに苦笑を返す。
「そうね……。セアラは私にとって万能薬みたいな存在だから」
「奥様だけではございませんよ? セアラお嬢様は屋敷の者すべてにとっての癒しという名の万能薬です!」
「ふふっ! 確かにそうね!」
そんな会話をしていたら、セアラがものすごい勢いで戻ってきた。
だが小さな花どころか、なにも手にしていない。
その状況をマリエルが不思議に思っていると、セアラは今にも泣き出しそうな表情でマリエルの膝にしがみついてきた。
「おかしゃまぁぁぁぁー!」
「ど、どうしたの!? なにかあった?」
「あっち……あっちにじょわじょわするのいたの……」
「じょわじょわ?」
泣きつく娘に目線を合わせようとマリエルがしゃがみ込むと、セアラが首にしがみつくように抱きついてきた。
ふとセアラがやって来た方向に目を向けると、レスリーが息を切らしながらこちらに小走りしてくる。
「レスリー! なにがあったの!?」
「それが……お嬢様がお目当てのお花を摘みとろうとした際に急に怯えだして……私にもよくわからないのです……」
二人で首をかしげながらセアラを見やると、マリエルにしがみついていたセアラが眉間に小さな皺を作り、涙をポロポロこぼしながら訴えてきた。
「あっち、じょわじょわするのいるの! あぶないの!」
その瞬間、マリエルたちの顔色がサッと変わる。
「フェニ! すぐに本邸に行って警備の者を呼んできて!」
「はい!」
すぐにフェニアに指示を出したマリエルだが、視界を戻すとセアラが怖がっている方向へ駆けだすレスリーの姿に驚く。
「ダメよ、レスリー! 危ないわ! 戻って!」
「こう見えても私は、少しは護身術を身につけております! 少し周辺の安全を確認してまいりますので、奥様とお嬢様はここを動かないでください!」
「レスリー!」
セアラとともに取り残されたマリエルは、どう動けば正解なのかがわからず焦りだす。
「ど、どうしたらいいの!? もし危険な侵入者だったらレスリーが……」
マリエルもその現場の状況を確認したいという気持ちがあるが、自分のもとにはブルブルと震えて涙している娘がいる。
「セアラ……大丈夫よ。フェニがすぐに護衛さんを連れてきてくれるし、もしかしたらその『じょわじょわ』は、レスリーが追い払ってくれるかもしれないから……」
とりえず酷く怯えている娘を少しでも落ち着かせようと、マリエルは深く抱きしめ何度も背中を摩ってやる。
だが突然、腕の中のセアラがビクンと肩を跳ね上げ、真っ青な顔色で硬直する。
「セアラ……?」
「いる……うしろ……じょわじょわ……」
さらに震えだしたセアラの言葉で、マリエルは慌てて娘の背後に目を向けた。
だが、それとほぼ同時に生い茂る木々の間から黒いなにかが、素早い動きでマリエルたちに向かって襲い掛かってきた。
「くっ――!」
咄嗟に腕の中のセアラを庇いながら、マリエルが座り込んだままの状態で体をひねる。
その黒いなにかはセアラを庇っていたマリエルの右腕に四カ所ほどの出血を伴う噛み痕をつけ、さらに服の片袖を引きちぎって地面に着地した。
「い、犬……?」
間合いを取りながら、ジリジリと二人に近づこうとしてくる黒い犬にマリエルが唖然となる。
それはただの犬ではなく、屋敷の番犬として訓練されたかなり獰猛な犬種であった。
だが首輪はメディウム侯爵家の番犬の物ではない。
「ど、どうして他の屋敷の番犬がこんなところに!?」
「いやぁー……おかしゃま、こわいぃー……」
「だ、大丈夫! 大丈夫だから!」
まったく大丈夫ではない状況なのだが、今マリエルにできることは娘を安心させることしかできない。
そんなマリエルを嘲笑うかのように黒い犬は、低い唸り声をあげながら二人との距離を詰めてきた。
その緊迫した状況の中で、マリエルは少しでもセアラが犬の視界に入らないようにギュッと深く抱きしめる。
すると犬は勢いよく地面を蹴り、再び二人に襲いかかってきた。
「――――っ!」
なにも防御する術がないマリエルはギュッと目をつぶり、背中を丸めてさらに深くセアラを抱き込む。
だが次の瞬間――――。
「キャイン!!」
悲痛な鳴き声とともにマリエルたちの目の前でなにかがドスンと落下した。
すぐに目を開くと、腹部に二本の投げナイフが刺さった犬が地面を転げまわっていた。
状況がのみ込めないマリエルは、すぐにそのナイフが放たれたと思われる方向に目を向ける。
そこには膝を折って座り込むような体勢でナイフを投げ放った様子のレスリーの姿があった。
その瞬間、マリエルはレスリーが何者なのかを察してしまう。
「奥様!! ご無事ですか!?」
「レスリー……。あなただったのね……王家の影は……」
駆け寄ってきたレスリーにそう呟くと、レスリーがスッと地面に視線を落とす。
「申し訳ございません……」
「なぜ、謝るの? あなたがいてくれなかったら私たちは今頃、大変なことに――」
そう言いかけたマリエルだが、先ほど自分たちを襲ってきた犬の存在を思い出し、慌ててそちらに目を向ける。
だが、その場所にはすでに犬の姿はなく、血痕しか残されていなかった。
「かわいそうですが……今回は加減ができなかったので、かなり深手を負わせました。恐らくこの後、別動の影がすぐにあの犬を回収するかと思います」
「あなた以外にも、まだこの屋敷には影がいるの?」
「……はい」
出血した腕をレスリーから応急処置されながら、マリエルは現在この屋敷に勤務している使用人たちの顔をザっと思い浮かべた。
すると、一人だけ異色だった使用人がいたことに気づく。
気さくな話し方でフェニアに『失礼な人』と称されながらも、やけに姿勢が美しく、伯爵家以上の生まれであることを彷彿させた副料理長を。
「クラムも……そうなの?」
「はい……。彼は私とは従兄関係になります」
「そう……」
どうやらクラムが別邸によく顔を出していたのは、セアラにデザートの試食をさせるためだけではなかったようだ。
彼はレスリー同様にマリエルとセアラを監視しながら護衛していたのだ。
襲われた直後に色んな情報が一気に流れ込んできたマリエルは、頭の中を一度整理しようと深く息を吸い込む。
だが次の瞬間、体がグラリと傾いた。
「奥様!?」
慌てて体を支えてくれたレスリーの顔が目の前でぐにゃりと歪む。
そのことを認識した瞬間、マリエルの意識はゆっくりと暗闇の中に落ちていく。
「奥様!! しっかり!!」
「いやぁぁぁぁぁぁー! おかしゃま! おかしゃまぁぁぁぁー!!」
珍しく動揺するレスリーの声と泣き叫ぶ娘の声が、うっすらと耳に入る。
「マリエル!!」
「お嬢様ぁぁぁぁ!!」
その後に夫とフェニアらしき声が聞こえたかと思うと、マリエルの意識は突然ブツンと切れ、目の前が一瞬で真っ暗になった。





