46.夫婦喧嘩
予定よりも早く終了した王妃とのお茶会の後、マリエルとサイラスは互いに無言のまま馬車に揺られていた。
先ほどの気まずい雰囲気から夫と目が合わせられないマリエルは、その腕の中で穏やかな表情で眠っている娘に視線を固定する。
だが、それをサイラスは許さなかった。
「マリエル。先ほど陛下が口にされていた『離縁の権利』とは、どういう意味だ……」
口調はいつも通りの淡々としたものだが、声音がかなり低い。
その状況から夫が、かなり怒っていることを察したマリエルは身構える。
「特に意味はございません。世間話をしていただけです」
「では質問を変えよう。『誰』の離縁の権利について話していたんだ?」
「…………」
押し黙る妻にサイラスの視線が鋭くなる。
「君は……そんなに私と離縁したいのか?」
「ち、違います! 今回お話してたのはサイラス様の――」
反射的に否定しようとしたマリエルは、思わず失言してしまった自分を戒めるように唇を噛む。
「なるほど? 君は、私が離縁できる権利を得られないか陛下に相談したのか……。だが、なぜ君がそんなことをするんだ? その権利を主張するかどうかは私が決めることだ」
「…………」
「君は私じゃない。いつ私が君と離縁したいと口にした? 勝手に人の気持ちを憶測だけ決めつけないでくれ!」
「申し訳……ございません……。出過ぎた真似をいたしました」
最後は語気を強められて抗議されたマリエルが謝罪後に押し黙る。
すると、サイラスが深いため息をついた。
「大体……なぜ今さらそんなことを言いだそうと思ったんだ? 君が自我を取り戻してから、私たちはそれなりに上手く関係を築けていたはずだ」
サイラスのその言葉にマリエルが大きく反応する。
「本当に……そうでしょうか……」
「どういう意味だ?」
「サイラス様はこの先、私と上手くやっていけると思えるのですか?」
「それは君のほうが上手くやれないということか?」
「違います! むしろ私は無神経なほど、この生活に満足しております!」
「ならば問題な――」
「私はどうでもいいのです! それよりもサイラス様は私と上手くやっていけるのですか!? 私は……私はあなたを辱めた女なんですよ!?」
その瞬間、サイラスが大きく目を見開く。
「なにを……言っているんだ? 私を辱めたのは君じゃなくて、君に憑依していた存在だろう!」
「ですが、あなたの心を深く傷つけたのは、この顔と体です!」
「確かに当時は酷くショックを受けたが……もう五年も前のことだ!」
「それでもしばらくの間、食事が喉を通らなくなるほどの精神的苦痛だったのではありませんか!?」
すると、サイラスが怪訝そうな表情を浮かべる。
「誰がそんなことを……ああ、なるほど。シュルトか」
「そんな女とこの先、一生夫婦としての関係を強いられるのですよ……? サイラス様は苦しくないのですか!?」
「だから、なぜ君がそれを勝手に決めつけるんだ! 苦しいか苦しくないかを判断するのは私だ!」
サイラスの言い分に一瞬だけマリエルが怯む。
確かに今のサイラスは、会話だけでなくエスコートなどでマリエルと接することができるまでトラウマを克服できたのかもしれない。
だが、今でもサイラスがその傷を引きずっていると思われることがある。
「ではドロシー様の件は? その件がきっかけでサイラス様は、ドロシー様と距離をとられるようになったのではないのですか!?」
「そんなわけないだろう! 大体、なぜそこで彼女が出てくるんだ!」
「サイラス様がドロシー様を避けはじめたのは、私に襲われた時期だと耳にしました」
「彼女を遠ざけたのは、その件とは関係ない!」
「ではなぜドロシー様を避けはじめたのですか!?」
「それを君に話す必要性はない!!」
サイラスが珍しく語気を荒げて反論した瞬間、セアラが声を上げた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁーん……」
娘の泣き声でサイラスとマリエルが我に返る。
「シェアラ……けんか、やーんなの……。おとしゃま、おかしゃま、けんかしないでぇぇぇぇぇ……」
言い争う両親の声で目を覚ましてしまったセアラが、ボロボロ泣きながら父親の服を握りしめる。
すると、サイラスが謝罪するように娘の背中を優しく撫ではじめた。
「セアラ、大丈夫だよ……。お父様たちは喧嘩をしていたわけじゃないから……」
「で、でも……おとしゃま、こわいお顔してた……。おかしゃまも……泣きそうなお顔してた……」
先ほどまでの自分たちの様子を娘から訴えられた二人は、顔を見合わせたあと気まずそうに視線を逸らす。
「そうだね。セアラをびっくりさせてしまったね。でも本当に喧嘩じゃないんだ……。ただちょっと……お話をしていたら声が大きくなってしまっただけなんだよ」
「けんか、ちがう……?」
「うん。喧嘩じゃない」
「おとしゃまとおかしゃま、なかよし?」
「うん……。仲良しだ」
「もう大きなお声ださない?」
「出さない」
「じゃあ、シェアラと、おやくそくして!」
「わかった。約束する」
そう言ってサイラスがあやすように背中を優しく叩くと、安心したのかセアラは夢の世界に落ちていった。
再び重苦しい沈黙に陥った馬車は、二十分ほどかけて一家を侯爵邸まで運んでいく。
マリエルたちは互いに窓の外を眺めながら、その沈黙をやり過ごす。
すると、やっと目的地である侯爵邸の門が見えてきた。
そのことにホッとしたマリエルは降車後、すぐ別邸へと逃げ帰ろうとする。
だが、セアラをテレーズに預けていたサイラスに呼び止められてしまった。
「マリエル、待ってくれ! 先ほどの話の続きをしたい……。すまないが、これから本邸に来てもらえないか?」
「申し訳ございません。本日は気を張りつめすぎたせいか、早く休ませていただきたいです……」
「そうか……。では明日の午後、本邸の執務室に来てくれないか? そこでちゃんと話をしたい」
「……かしこまりました。必ずお伺いいたします」
そう言って一礼したマリエルは足早に別邸へと向う。
別邸に足を踏み入れるとフェニアが出迎えてくれたが、マリエルの表情を目にした途端、心配そうな顔に変わる。
「奥様……どうされましたか? なにやらお顔の色が優れないご様子ですが……」
「ちょっと気合いを入れすぎて気疲れしたみたい……。フェニ、今日はもう休みたいから、夕食は不要と料理長に伝えてもらえる?」
「もしやお熱が!? 熱は……ないようですね」
「本当に疲れてしまっただけよ。多分、ぐっすり寝たら明日には調子を取り戻してると思うから、そんなに心配しないで?」
「……かしこまりました。ですが、もし食欲が戻りましたら、夜中でも構いませんのでベルを鳴らしてくださいね」
「ええ、ありがとう」
そんな会話をしながら寝間着に着替えたマリエルは、窓の外の空に目を向けたあとため息をつく。
うっすらと残る夕焼けの赤と夜の青のグラデーションが、まるで今のマリエルの心情を表しているようだった。
自分とサイラスの夫婦関係は、セアラという娘の存在があるからこそ成り立っている。
セアラが今のマリエルを慕っているから、娘の母親としてサイラスは元悪妻を受け入れられたのだろう。
夫としての義務と娘にとっての母親の必要性を考えた結果、この決断をしたはずだ。
そこには当然マリエルに対して特別な感情があるわけではない。
もし何らかの感情があるとしたら、自分を辱めた顔と体のマリエルに対する複雑な思いだろう。
だが、サイラスはそんなマリエルに対して、完璧すぎるほどの紳士的な配慮ある接し方をしてくれた。
そんな接し方をされて相手に好意を抱くなというのは無理な話である。
今のマリエルは、サイラスを好きなってはいけないという自分と、サイラスに好きになってもらいたい自分が頭の中でせめぎ合っている状態なのだ。
そんなことを考えながら空を眺めていると、夕焼けの赤を飲み込んでいく夜の青がマリエルに『自分の立場をわきまえて冷静になれ』と助言しているように見えてきた。
余計な助言をしてきた空を視界から排除したくなったマリエルは、勢いよくカーテンを閉める。
それはマリエル自身が一番よくわかっていることだ。
サイラスがマリエルに求めているものは、セアラの母親という役割のみだ。
この先、夫から特別な感情を抱かれることは絶望的にない状況だ。
逆に自分もその特別な感情を抱いてほしいと夫に求めてはいけないと、マリエルは重々理解している。
自分は『母親』という立場に徹するのが一番の正解なのだ。
だが、このまま離縁ができない状態を夫に強いるのは心苦しい。
夫には、もっと心穏やかに過ごせる女性と幸せになれる可能性を少しでも持っていてほしいのだ。
もし夫にそういう素敵な女性が現れた場合、まずマリエルとの離縁が必須となる。
だから今日、夫に離縁の権利を与えてもらえるよう国王に打診してもらえないかと王妃に相談した。
しかしマリエルたちの婚姻は、そう簡単には覆すことができないほどの意味があるようだ。
しかも、王家の意志とは関係なく……。
それでも夫には、もっとふさわしい女性と幸せになる資格があったはずだとマリエルは思ってしまう。
そしてその女性が、ドロシーでないことだけは確かだ。
先ほどのサイラスの反応からだと、『遠ざけた』というよりも『拒絶』というほうがしっくりする。
ドロシーが恋心を抱いていたのは確実だろうが、サイラスからはその可能性がまったく感じられなかった。
そのためマリエルは、シュルトの言い分をまったく信じていない。
それでもドロシーを避けはじめた理由をサイラスに話してもらいたかった。
恋愛的な感情を抱かれることは絶望的でも、サイラスが何でも話せる存在に自分がなりたいとマリエルは思ってしまうのだ。
「嫌だわ、私……。ドロシー様よりもシュルトと張り合ってるじゃない……」
自嘲するように独り言をこぼしたマリエルは、憂鬱な気持ちで寝台に潜り込む。
明日は嫌でも夫から王妃に離縁の権利を要求した理由を追及される。
しかもドロシーの話をふってしまったせいで、勘の鋭い夫はマリエルの気持ちに気づいてしまったかもしれない。
もしそのことを指摘されたら、マリエルは平常心でいられる自信がなかった。
「明日なんてこなければいいのに……」
そう愚痴ったマリエルだが、一日中気を張りつめる状況だったため一瞬で深い眠りに落ちていった。





