43.夫の権利
一週間後、マリエルは以前使っていた本邸の衣裳部屋にて、テレーズが用意してくれていた外出用のドレスに着替えていた。
するとテレーズが満足そうに着替え終わったマリエルの全身を眺める。
「奥様には絶対に若草色のドレスがお似合いになると思っておりましたが、やはり私の目に狂いはございませんでした!」
「そ、そう? あまり着たことのない色だったから、少し心配だったのだけれど」
「心配なさることなど何一つございません! この上品な色合いが奥様のこげ茶色の髪と、とても相性がよろしいかと思いますよ」
「あ、ありがとう……」
自分が用意したドレスが予想以上にマリエルに似合っていたことが嬉しいのか、テレーズがニコニコ顔で髪を結いをはじめる。
その後ろではフェニアも同じような笑みを浮かべていた。
マリエルに対して好意的に接してくれる二人の様子から、ふと一週間前のシュルトを思い出す。
シュルトの場合、マリエルの事情を知っていても、五年も大切な人が傷つけられたら、そう簡単に受け入れることなどできないだろう。
早い段階でマリエルに献身的になってくれた使用人たちは、記憶にない自分自身の行動で苦しむマリエルの様子を実際に目にしたことのある者たちばかりだ。
テレーズとオネストは、記憶を失っていることを知らなかったサイラスに責められるマリエルの様子を目にしている。
レスリーは、カレンに嫌味を浴びせられていたマリエルを知っている。
クラムは、マリエルが一週間も朝食で嫌がらせを受けていたことを実際に確認している。
フェニアに関しては、この五年間マリエルと接点がなかったことと、実家でマリエルが過呼吸に陥った時にその場にいた。
中でも一番マリエルの辛い状況を察してくれたのは、夫のサイラスである。
屋敷の主でもあるサイラスが、すぐにマリエルの状況に配慮する姿勢を見せてくれたからこそ、寛大な気持ちでマリエルに接してくれる使用人が多かったのだと、今ではわかる。
だが、シュルトは違う。
この三カ月間、彼は領地視察で屋敷にはいなかった。
しかもこの五年間マリエルが侯爵夫人としての役割を放棄していたせいで、視察に行かされていたのだ。
その為、シュルトには憑依状態だったマリエルの印象が深く残っているのだろう。
そして彼は、この三カ月間マリエルが過去の自分のせいで苦しんでいた詳細までは、把握できていない。
サイラスが手紙でマリエルのことを伝えたといっても、この五年間マリエルは何者かに体を乗っ取られ別人であったことと、現在はその憑依が解けているので、これまでのことで偏見を持たず初対面という体で接して欲しいというくらいしか書かれていなかったはずだ。
だが、そんな説明をされても自分の主が苦しめらていたことを思うと、すぐには受け入れられないだろう。実際にマリエルの事情を説明されても、別の職場を希望する人間が未だにこの屋敷には存在している。
だが、シュルトはサイラスにとって一番心を許せる存在であることも、この間の二人のやり取りから感じられた。
だからこそ上手く主従関係を築きたかったマリエルだが、現状では難しいようだ。
そんな憂鬱な気持ちで顔を上げると、テレーズによって美しいまとめ髪にされた鏡の中と自分と目が合う。
「いかがでしょうか? 本日は編み込みを入れたまとめ髪に仕上げてみました」
「すごくいいわね。ありがとう」
「では、そろそろ一階に移動いたしましょう。旦那様もお待ちだと思いますので」
「ええ、そうね」
そうして二人で一階のエントランスに向かうと、テレーズの予想通り身支度を終えたサイラスの姿があった。
「サイラス様、お待たせいたしました」
「いや、そこまで待ってはいない。それにセアラがまだだ」
「セアラが? 一番早く身支度が終わっていそうなのに……」
すると、二階からジョアンナとレスリーに付き添われたセアラが姿を見せる。
今日のセアラは、瞳と同じ水色のドレスワンピースにマリエルから貰った蝶のカチューシャをつけていた。
その愛らしい姿にマリエルがニコニコしていると、二人の目の前までやってきたセアラが、滑らかな流れで膝を曲げる。
「おとうしゃま、おかあしゃま、ごきげんよう!」
まるで妖精が舞い降りたかのような娘の愛らしいカーテシーに、マリエルとサイラスが同時に口元を抑える。
「サイラス様! ご覧になりましたか! やはり私の娘は天使です!」
「いや、その前にもっと注目するところがあるだろう! セアラ、もう一度お父様のことを呼んでみてくれないか?」
「おとうしゃま」
「サ、サイラス様! セアラが……セアラが『おとしゃま』ではなくなっています!」
「君、興奮しすぎじゃないか……? 語彙力がものすごく下がっているぞ?」
「だって! 今はっきりと『おとうしゃま』って!」
「おかしゃま、だいこうふん!」
「「えっ……?」」
すぐにいつもの呼び方に戻ってしまった娘をマリエルとサイラスが同時に見やる。
すると、その背後で控えていたジョアンナが苦笑しながら補足してきた。
「申し訳ございません。お二人の呼び方に関しては、まだセアラお嬢様は特訓中でして……。日常会話になると、元の呼び方に戻ってしまうのです」
「そ、そうでしたか……」
「ま、まぁ、そんなすぐには直らないよな……」
「シェアラ、まだとっくんちゅうなのー」
恐らく意味がわかっていない状態で特訓中宣言をする娘に二人が苦笑する。
「だが、最初の挨拶があれだけしっかりできれば上出来だな。ルグレ夫人、ご指導のほど感謝する」
「わたくしではなく、今回はお嬢様がとても頑張ってくださいました」
「シェアラ、がんばったのー。おとしゃま、シェアラ、えらい?」
全力で褒めてほしいと主張してくる娘をサイラスは苦笑しながら抱き上げる。
「ああ、偉い。よく頑張ったね」
「えへへー」
「王妃様の前でも今のご挨拶を上手にできるかい?」
「うん! シェアラにおまかせあれー」
褒められてご機嫌なセアラの様子にその場にいた全員の口元が緩む。
「では、そろそろ出発しよう」
「はい」
サイラスに促され、マリエルが馬車に乗り込もうとすると、控えていたテレーズが絵本を二冊差し出してきた。
「奥様、道中お嬢様が飽きてしまわれる可能がございますので、よろしければこちらを」
「ありがとう。あら? 今回は『黒の魔女と聖女』の絵本ではないのね」
「最近のお嬢様のお気に入りは、ジョアンナ先生からいただいたこの二冊になります」
「そうなの? ジョアンナ先生、良い本を娘に紹介してくださり、ありがとうございます」
「セアラお嬢様は好奇心が旺盛なので、色々な絵本をお読みいただいたほうがよろしいかと思いまして。こんなにも気に入っていただけて、わたくしも紹介した甲斐がございました」
そんな会話をしながらマリエルが受け取った絵本の一冊には、赤いリボンをつけた金色のクマと少女の絵が描かれていた。
どこかで見たことがあるようなクマだと思っていると、その答えをセアラが口にする。
「それ、アベルのおはなしなのー」
「アベル? そういえば色味も赤いリボンもアベルと同じね」
「おかしゃま、アベルのおはなし、しってる?」
「うーん、このお話はまだお母様、読んだことがないかなー」
「じゃあ、シェアラがおはなし、おしえてあげるね!」
「ほんと? じゃあ、お願いしようかなー」
セアラの隣に腰をおろし、マリエルが絵本を開くと馬車が走りだす。
セグレート城まで片道四十分ほどかかるが、その殆どはセアラの絵本語りで時間が過ぎていく。
だが、三十分ほど経過したあたりでセグレート城が見えはじめた。
「おかしゃま! みて! おしろ! しゅごい!」
「今からセアラは、あそこに行くのよ」
「シェアラ、おしろいくの!? じゃあ、おしめさまになれる?」
「ふふ! そうね。今日のセアラはお姫様にみたいに可愛らしいお洋服を着てるから、なれちゃうかもね!」
「わぁ~! シェアラ、おしめさま~」
そう言って窓枠に手をかけ、城を眺めはじめたセアラにマリエルが苦笑する。
すると、先ほどまでセアラの絵本語りを静かに聞いていたサイラスが話しかけてきた。
「セアラは二年も早く登城することになってしまったな……」
「二年後に登城ですか?」
「女の子は六歳になると豊穣の乙女の鑑定を受けるため登城するだろう?」
「そういえば……私も昔、父に連れられ、城の敷地内にある大聖堂でその鑑定を受けました」
「それはどのように鑑定するんだ?」
「ええと……国内にある三大聖堂の司祭様方の前で鑑定用の水晶に触れるんです。豊穣の力がある子供が触れると、その水晶が光ります。その光の強さによって、その年の豊穣の巫女が決まるという流れですね」
「豊穣の巫女に選ばれると将来的に有利だと聞くが……実際はどうなんだ?」
「どうでしょうか……。確かに嫁ぎ先が決まるのは早いと思いますが、王族の婚約者候補にも選ばれやすいので、のびのびと子育てしたい親にとっては、一概に良いとは言えないかと思います」
「セアラの時は、できれば控えめな光り方をしてほしいな……」
「三大侯爵家に生を受けた時点で、それは無理なのでは?」
「そうなんだが……王族の婚約者になど選ばれたら面倒じゃないか」
「確かに王妃教育なども大変だと聞きますし」
そんな会話をしながら、二人は窓の外をキラキラした目で眺めている娘に目を向ける。
今は自由奔放に幼少期を謳歌しているセアラだが、もし王妃候補などになったら、この純粋さを失ってしまうかもしれない。
セアラの代の令嬢たちは、ちょうど王太子と二歳差になるので婚約者候補として名が挙がる可能性が高いのだ。
「そういえば、サイラス様のお母様も豊穣の巫女の称号をお持ちだったのでは?」
「確かに母は持っていたが……その話は私自身が興味がなくて詳しく聞いていないんだ」
「では、従妹のドロシー様からお聞きになったことは?」
その瞬間、サイラスの表情が一瞬で険しいものに変わった。
「なぜ君が従妹のドロシーを知っているんだ?」
「ええと……その、この間の夜会でお声がけをいただいて……」
「彼女が? そうか……」
「あの……ドロシー様とは、現在も親族付き合いはあるの――」
「すまない、マリエル。彼女の話は今後一切、私にしないでもらえないか?」
問いかけた瞬間、被せるようにサイラスの言葉が飛んできたためマリエルが動きを止まる。
「えっ……?」
「理由は……申し訳ないのだが、話したくない。だが、彼女とは現在、親族付き合いは一切していない。だから君も今後、彼女のことは気にしなくていい」
そう言ってサイラスは、眉間に皺を刻んだまま押し黙ってしまった。
そんな夫の様子からマリエルは、シュルトの言葉を思い出してしまう。
『あなたと主の婚約が決まらなければ、このメディウム侯爵家に嫁ぐお話もございました』
『もし主がドロシー様に恋愛感情を抱いていたとしたら――』
今のサイラスの反応だけで、シュルトの言葉を鵜呑みにするのは軽率すぎる。
だが、ドロシーの名を出した途端、サイラスの表情が険しくなった状況では、どうしてもある可能性を考えてしまう。
自分の婚約が二人の仲を裂いたのでは……。
サイラスの性格では、仮にドロシーに恋心を抱いていた時期があったとしても、別の女性と婚約が決まれば、そこはきっちりと割り切って現実を受け止めるタイプである。
現状ドロシーとの親族づき合いを断っているのも、サイラスなりのけじめだと感じてしまう。
またドロシーのほうも現在は別の男性と結婚していることから、早々にサイラスのことを諦め、両親が用意した縁談話を受け入れたと思われる。
だが、断腸の思いで諦めた想い人の婚約者がマリエルのような悪妻であったら、ドロシーはどんな気持ちになるだろうか。
この間の夜会で話しかけてきたのも、もしかしたらマリエルの性格が変わったという噂を耳にし、サイラスが今どういう状況なのか確認したかったのかもしれない。
考えれば考えるほど、悪い方向にしか考えられなくなっている自分にマリエル自身も嫌気がさしてくる。
その負の思考から抜け出すには、サイラスからドロシーとの関係を確認するのが一番なのだが、『話したくない』と言われてしまえば、それ以上は追及できない。
仮に今の考えが正しかった場合、ドロシーは悪妻と呼ばれるマリエルが想い人の妻でいることに、ずっと心を痛め続けるだろう。
またサイラスも、自身の気持ちを押し殺す覚悟を決め、迎えた妻がマリエルであることにやるせない気持ちになるのではないだろうか。
現状、自分がサイラスの妻である必要性がマリエルには見えてこない。
最悪な状態で夫婦生活がはじまった自分たちは、今はその原因となった憑依者の対策と娘のセアラを守るため共に奮闘している。
だが、その謎が解明されればマリエルが妻でいる必要性はない。
酷いトラウマを植えつけてきた人間の顔を見ながら、サイラスが無理に生活する必要などないのだ。
それを不可能にしているのが、二人の結婚が王令で組まれたものだからだ。
ならば、せめてサイラスが自分の判断で離縁できる権利を王家からもぎ取りたい。
この一週間、サイラスは領地視察の報告処理で多忙だったため、ドロシーのことを確認できず、王妃にその申し出をするかどうかをマリエルは悩んでいた。
だが、先ほどの夫の態度から、過去にドロシーとなにかあったことは確実だ。
そんな状態で、このままマリエルと結婚生活を続ける選択肢しかないサイラスは、あまりにもやるせない状況だ。
ならば、せめて夫には自分と離縁できる権利を持っていてほしい。
そう考えたマリエルは、王妃にその打診をすることをこの場で決めた。





