42.心の傷
先ほどの柔らかい雰囲気を一瞬で消したシュルトをマリエルは警戒する。
「ええ……。記憶を失った直後にサイラス様から伺ったわ……」
「そうでしたか。それで何事もなかったように我が主に接することができるとは奥様は、かなり強靭な心をお持ちなのですね」
さらに挑発的なことを口にするシュルトにマリエルは応戦することにした。
「なにが言いたいの? 私、遠回しな言い方をされるのは好きではないのだけれど」
「失礼いたしました。では率直に申し上げます」
そこで一度、言葉を切ったシュルトは完全に笑みを消した表情でマリエルを見据えた。
「何者かに憑依されていたとはいえ、よく平然と罪悪感も抱かずに自分が襲った相手と接することができるなと思いまして」
その言葉を聞いた瞬間、マリエルの体が一気に冷える。
そんなマリエルを畳みかけるようにシュルトは、さらに話を続けた。
「奥様はご存じですか? 五年前、あなたに薬を盛られ襲われた我が主は、その後二週間近くまともに食事ができなくなったという状況を。好意的な女性に近づかれると体が硬直してしまい、一カ月ほど主が社交場に参加できなくなっていた時期があることを」
シュルトの話に衝撃を受けたマリエルが息をのむように言葉を失う。
「そんな……サイラス様はそんなこと、一言も……」
「言えるわけないではありませんか。本人にはその記憶が一切ないのだから……。ですが、私はこの五年間、あなたの姿をした何者かにずっと苦しめられている主を目にしてきました」
口調は穏やかだが、その瞳には明らかに怒りの色が見える。
「もちろん、あなたも被害者だということは重々理解はしております。ですが、あまりにも主が受けた現実が酷すぎて、私はあなたに対して寛大な気持ちになることができません。主があんなにも苦しんだのに……あなたは、その記憶がないから先ほどのように平然と主と接することができる。それどころか、被害者にした夫に気遣われ、娘にまで慕われて幸せそうではありませんか」
「わ、私……そんなつもりじゃ――」
「ドロシー様のこともそうです」
突然、予想外の人物の名前が挙げられたことでマリエルが大きく目を見開く。
「ドロシー様……? サイラス様の従妹であるオディウム伯爵夫人のこと?」
「もしやお会いになったことがあるのですか? でしたらおわかりですよね? あの方は穏やかな物腰で淑女としても素晴らしい方です。あなたと主の婚約が決まらなければ、このメディウム侯爵家に嫁ぐお話もございました。サイラス様も妹のように可愛がられていたのです」
その話にマリエルが城で声をかけられた時のことを思い出す。
あの時は、瞬時にサイラスを狙っている女性と判断したが、よくよく思い返してみると、自分はかなり偏見に満ちた目で彼女の人間性を見てしまっていたと。
その可能性に気づいたマリエルを畳みかけるように、さらにシュルトは話を続けた。
「ですが、あなたとの婚約が決まり、例の被害に遭われてから主はドロシー様をあからさまに避けるようになりました」
「ど、どうして!?」
「理由はお話しいただけなかったのでわかりません……。ですが、主が婚約期間中にあなたに襲われたことは、前侯爵夫人がお兄様であるクリシス伯爵に相談されていたようなので、ドロシー様のお耳にも入ってしまったかと思われます。実際に主がドロシー様をどう思われていたかは私にもわかりませんが、もし主がドロシー様に恋愛感情を抱いていたとしたら、ご自身に起こったことをどう感じると思いますか?」
「……っ!」
シュルトの言い分では、もしサイラスがドロシーに恋心を抱いていた場合、意中の相手に別の女性から襲われたことを知られてしまったことになる。
ただでさえ男性の尊厳を踏みような屈辱的な体験であるのに、自分が穢されたことを思いを寄せていた相手に知られてしまうことは、信じがたい苦痛だろう。
そしてその苦痛を与えたのは、外でもないマリエルである。
たとえ自分の意志ではなかったとしても、それを与えた体はマリエルのものなのだ。
同時に自分が無意識で、その出来事から目を背けていたことにも気づいてしまう。
マリエルに罪悪感がなかったからではない。
罪悪感があったからこそ、その出来事から目を背けてしまっていたのだ。
もし向き合ってしまえばこの先一生、自分を最低な人間としか思えなくなる。
それが怖くて……サイラスが普通に接してくれることをいいことに、なるべくセアラを妊娠した経緯については考えないようにしていたのだ。
それを見透かすようにシュルトの言葉は、まだ続く。
「非礼を承知で敢えて言わせていただきますが、奥様はあまりにも無神経な方です……。いくら自分の意志ではなかったとはいえ、主に酷い屈辱と絶望を与えたのは、奥様のお体なのです。そのことを一度でも考えたことはございますか? 自分に屈辱を与えた姿をした人間のために動いている主になにか思うことはないのですか?」
「それは……」
シュルトの言い分が正論過ぎて、なにも言い返せないマリエルは押し黙る。
「奥様も大変な被害に遭われているので、その件については心中お察しいたします。ですが、記憶がない自分には関係ないとは思わないでいただきたい。奥様も多くのものを壊されたと思いますが、主も多くのものを壊されたのです……。そしてそれを壊した人物は、あなたの姿をしていたのです」
その言葉にマリエルがビクリと肩を震わせた。
「あなたは記憶を持っていなくても、主の記憶にはこの五年間の出来事がしっかりと刻み込まれているのです。恐れ入りますが、そのことをお心に留めて今後は主と接していただくようお願い申し上げます」
そう言って深々と一礼をしたシュルトは踵を返し、執務室のほうへ戻っていった。
その姿が見えなくなった瞬間、マリエルは膝から崩れ落ちるようにその場に座り込む。
記憶を失くしたばかりの頃はテレーズをはじめ、自分の周りにいる使用人たちは皆、マリエルに対して理解を示してくれる者ばかりだった。
夫のサイラスでさえ、身の覚えのないことで周囲から非難されるマリエルに対して同情的でいてくれた。
その状況からマリエルは、いつの間にか自分が被害者だという認識になっていたのだ。
だが、事情を知らない者にとってはそんなことは関係ない。
彼らからすれば、『マリエル』という人間に酷いことをされたという認識なのだ。
それをマリエルはいつの間にか忘れてしまっていた。
そのことを自覚した瞬間、姉フリーデに泣きながら訴えた言葉がよみがえる。
『自分がやってしまったことなのに覚えていないなんて、あまりにも無責任だ』
たとえ中身の意識がマリエルでなかったとしても、誰かを傷つける行為をしたのは、まぎれもなくこの顔と体なのだ。
傷つけられた相手にしてみれば、できれば近寄りたくないと思うのは当然だ。
ましてやサイラスのような目に遭えば、その姿を目にするだけでも不快だったはずだ。
記憶を失った直後は、マリエルもそのことに深い罪悪感抱き、自分を責めていた。
だが、セアラの誕生日会で自分に理解を示してくれる使用人が多い状況から、その感覚は少しずつ薄れていった。
特に夫のサイラスに対しては自分を気遣ってくれることが多かったので、すっかり加害者であることを忘れてしまっていた。
だが、もし自分がサイラスの立場だったら、そう簡単に許せることではない。
いくら憑依していた別の人間がやったことだと言われても、危害を加えてきたのはその体と顔の人間なのだ。
それらはおぞましい記憶と共に脳内に刷り込まれているはずだ。
「どうして……私は今までそのことをすっかり忘れてしまっていたの……?」
一人呟いてみるが、誰も通らない廊下では返事など返ってこない。
だが、マリエルは自分がそうなってしまった原因に気づいていた。
だってサイラス様が、私のことをとても遣ってくれるから……。
そう勘違いしてしまった瞬間から、マリエルの中でサイラスに対する罪悪感は消えてしまったのだ。
サイラスは別にマリエルを気遣っていたわけではない。
現状を客観的に考えた結果、マリエルが被害者だったと認識してくれたから配慮ある接し方をしてくれているだけだ。
さらに娘のセアラが今のマリエルをとても慕ってくれているという要因もある。
つまりその経緯には、サイラスの気持ち的な要因は少しもない。
自分の妻だからという義務感と、娘が慕っているからというセアラの気持ちを優先した結果、マリエルに対して気遣いある行動をしているだけである。
その現実が見えた瞬間、マリエルは酷く胸が痛むのを感じた。
自分のことを思っての気遣いではない。
サイラスにとってマリエルは、戸籍上の妻だから守らなければならないという義務感が強く働いているだけなのだ。
それを自分は違う方向で大きく勘違いしていたのでは……?
例えば……少しでも自分に好意的に思ってくれている可能性などを考えなかったか?
それは自問自答するまでもなく、ストンとマリエルの中に落ちてきた。
初めて顔合わせをした際に大興奮するほど心惹かれた相手である。
サイラスにとっては義務だったとしても、あんなにも親身になって自分のために行動をされたら、心惹かれてしまうのは当たり前だ。
だが、マリエルにはサイラスに好意を抱く権利はない。
意識を奪われていたとはいえ、五年前にマリエルはこの体でサイラスに耐え難い屈辱を与え、心に大きな傷を負わせてしまっている。
それとは別に気になるのがドロシーの存在だ。
先ほどのシュルトの話では、マリエルとの婚約が決まる前までの二人は、かなり親しい間柄だったと思われる。
今思えば、夜会でドロシーに話しかけられた際、すでにマリエルは無自覚でサイラスに好意を抱いていたのだろう。
その状態でドロシーと遭遇すれば、夫を狙う女性という偏見に満ちた見方しかできなくなる。
自分とは正反対の控えめな雰囲気を持ち、夫のことを『お兄様』と呼んで慕う女性。
現在は別の男性と結婚してしまっているが、五年前までは侯爵令息であったサイラスの婚約者として有力視されるほどの令嬢だった。
そんな二人の仲を王令で組まれた婚約とはいえ、マリエルの存在が引き裂いた。
挙句の果てにまだ婚約者であった夫を辱め、ドロシーに顔向けができない状態まで追い込んでしまった可能性がある。
実際にサイラスがドロシーのことをどう思っていたかは、確認しなければわからない。
だが、それ以前にマリエルは、五年前の夫に深いトラウマを植えつけているのだ。
そんな残酷な現実に呆然としていると、記憶を失くしたばかりの頃に抱いたある目標が頭の中をかすめた。
『娘の物心がつく前に、できるだけ早くサイラスとの離縁を実現させなければならない』
現状ではセアラの記憶からマリエルの存在をうやむやにすることは難しいだろう。
だが、サイラスに離縁できる選択肢を与えることは、まだできる。
ちょうどいいことに一週間後、その権限を与えられる可能性を持つ人物と面会する。
実際にサイラスがマリエルのことをどう感じているのか、またドロシーとはどういう関係だったのかはわからない。
だが、ドロシーの件はこの一週間のどこかで確認できる機会がきっとある。
その結果によっては、王妃へ夫に離縁できる権利を与えてもらえないか打診したほうがいいとマリエルは考える。
それが夫と娘との決別を意味することなのは、マリエルも十分わかっている。
今の自分にとって、それがとても辛い決断だということも理解している。
だが、今後も自分の存在が原因で夫が苦しむ状況を強いることは耐えられないのだ。
同時にその状況をもたらした憑依者には、並々ならぬ怒りが込み上げてくる。
今後もしサイラスから離縁を言い渡される機会が訪れたとしても、その前までにはなにがなんでもその正体を暴き、二度とこの世界に存在できないようにしてやりたい。
そう強く思ったマリエルは、一週間後に控えている王妃の招待に対して違う意味で覚悟を決めた。





