31.憑依する存在
緊張感が漂う中、最初に立ち上がったのはサイラスだった。
チラリとマリエルたちに視線を向けてきた夫は、同じく立ち上がろうとする二人を手で制する。
「とりあえず、ルグレ夫人の話も聞いてみないと、今の話は憶測だけのものになる。私と男爵で確認してくるから、君はセアラとここで――」
だが、サイラスが言い終わる前にセアラが勢いよくマリエルの膝から飛び降り、部屋の出口へと駆けだす。
「――っ! セアラ! 待ちなさい!!」
「シェアラ、ジョアしぇんしぇいに『おかえりなしゃい』いうー」
そして、そのまま部屋を飛び出していってしまった。
その状況に男爵が唖然としながら、サイラスに質問する。
「あ、あの……確か妻はお嬢様を精神的に追い詰めるような酷い指導をおこなったと伺っていたのですが……」
「ええ……。ですが、娘はその時の奥様を別人と認識しております」
「ええっ!?」
「どうやら娘には、先ほど話していた謎の存在に体を乗っ取られてしまった人間が黒く見えるらしくて……。奥様だけでなく、妻も五年間『黒くて怖い人』という認識をしておりました」
「そ、そんなことが……」
「ですので、娘は奥様に酷いことをされたという認識がないのです。とりあえず、実際に見ていただいたほうが早いので、我々も奥様のもとへ向かいましょう」
「は、はい!」」
サイラスに促されながらジョアンナのいる部屋に向かうと、開けっ放しになった扉の前に困惑気味のオネストの姿があった。
室内からはセアラの元気な声が聴こえてくる。
「あのねー、シェアラねー、しぇんしぇいのおでかけおわるの、がんばってまってたのよー」
「お、おでかけ……? わたくしは、おでかけしていたのですか……?」
聞き覚えのある会話展開にマリエルは慌てながら室内へ駆け込む。
「セ、セアラ! ちょっと待って! いきなりそんなお話をされたら、先生が混乱しちゃうから!」
「おかしゃま、きたー。『こんらん』って、なぁーに?」
ジョアンナが使っている寝台に両手で頬杖をついたセアラが、キョトンとした表情を向けてきた。
だが、ジョアンナのほうはマリエルの姿を見るなり、悲痛な表情で瞳に涙を溜めだす。
「お、奥様……大変申し訳ございません!! 先ほど執事のオネストさんより、自分が今どういう状況なのか教えていただきました……。ですが、自分でもなぜそのような酷いことをしたのか……まったく覚えていないのです!!」
両手で顔を覆ったジョアンナはポロポロと涙をこぼしはじめた。
するとセアラも泣きそうな表情で「しぇんしぇ、泣かないで……」と慰めだす。
そんなジョアンナの姿が少し前の自分と重なり、マリエルの胸を酷く締めつけた。
「ジョアンナ先生……そんなにご自身を責めないでください」
「ですが、わたくしは……お嬢様に酷いことを……」
泣きながら自分を責めはじめたジョアンナの背中を優しくさすっていたマリエルは、遅れて入室してきた夫に目配せをする。
すると、サイラスが片手を上げて、オネストと呪術の専門家らしき男性以外の人間を下がらせた。
そのことを確認したマリエルは、再びジョアンナに向き合う。
「先生、実は私も最近、同じような経験をしました……」
「えっ……?」
「初めての顔合わせの時に前任者が力を入れすぎて娘に過剰な指導をおこなったことをお話ししましたが……実は、その指導は私が前任者に指示したものです」
「奥……様が……? な、なぜそんなことを!?」
「わかりません。その後、私は階段から転落し、その影響で五年間分の記憶を失ったので……。ですが夫の話では、私はもっと酷いことをその五年間でおこなっていたそうです。出産してから娘を抱くことは一度もなく、ずっと『アレ』呼ばわりをして育児放棄をしていたと……」
「お、奥様がですか!?」
「ええ……」
気まずそうに答えたマリエルは、心配そうにジョアンナを見つめるセアラの頭を優しく撫でる。
「今の私からは、想像がつきませんよね……。ですが、私はこの五年間、そのような行動をしていたそうです。でも私はそのことを一切覚えておりません。記憶を失った直後の私は、まだ夫とは婚約状態だったのに一晩で五年の歳月が流れ、いつの間にか子供まで出産していたという感覚でした」
「そ、そんなことって……」
「今のジョアンナ先生と同じです。『目覚めたら、いきなり一週間も時間が経過していて、その間に普段の自分では考えられないような酷いことをしていた』……今、そんな感覚になられていませんか?」
「そ、その通りです!」
食いつくように同意してきたジョアンナにマリエルは、少し前の自分を見ているようで思わず憐憫の眼差しを向けてしまう。
すると、後ろで王家より派遣された呪術の専門家らしき男性と話をしていたサイラスが、片手を上げて会話に入ってきた。
「ルグレ夫人、実は今あなたが陥っている不可解な状態について、私たちは誰が引き起こしているのか調べている最中なのです。なんせ、妻が五年間も同じ状態に陥っていたので」
「『誰が』ということは……この状況は人為的に引き起こされているのですか?」
「まだはっきりと断言はできませんが、その可能性が非常に高いです。今からその詳細をお話しいたしますが、他言無用でお願いできますか?」
すると、ジョアンナはサイラスの後ろに控えている自分の夫へと目を向けた。
そんな妻に応えるように男爵が深くうなずく。
「どうやら夫は、すでにその話を聞いているようですね……。わかりました。決して口外しないとお約束いたします」
力強く承諾してくれたジョアンナの体調を確認後、五人は先ほどの応接室に移動する。
そしてサイラスは、男爵に話した内容を再びジョアンナに語った。
その話を初めは半信半疑で聞いていたジョアンナだが、記憶を失ったあとのマリエルの話に入ると瞳に涙を溜めはじめた。
恐らく自身の今の状況と重なってしまい、その辛さに同情的してくれたのだろう。
今この世界でマリエルの辛さを一番理解してくれる人間は、恐らくジョアンナだけである。
そんなジョアンナは、話が終わると瞳に溜まった涙を拭い、凛とした表情を二人に向けた。
「では、わたくしはカレンお嬢様と接触した際、その謎の存在に憑りつかれた可能性が高いのですね」
「ええ。もしその日のカレン嬢から、なにか気がついたことがあれば教えていただきたいのですが……。例えば、その時の彼女はやけに黒っぽかったとか……」
「そうですね……見た目で気になったのは、彼女の服装でしょうか。流行に敏感なカレンお嬢様が、その日は四十年ほど前に流行していた派手なデザインのドレスを着ていらしたので……。あとは所作? 外見にこだわりが強い方なので、マナーに関しては人一倍努力をされていたはずなのに、あの日は平民のようなお茶の飲み方をされて、ケーキを召し上がる時もフォークで音を立てていらっしゃいました」
その話にサイラスは顎に手をあて考え込む仕草をする。
「そういえば……生前の母が、マリエルが好んで着るドレスは祖母が若い頃に流行っていたドレスのようだと言っていた気がする……。もしや謎の存在は、今よりも古い時代の感覚を持っているのか?」
「その可能性はありますね。あとお茶の飲み方からは、淑女教育を受けていないようなので貴族の生まれではなさそうです」
「そもそも女性なのか?」
サイラスがこぼした疑問に今度はマリエルが答える。
「先ほど私にかけてきた言葉から判断すると、恐らく女性だと思います」
「確かに男性なら『使えない子』ではなく、『使えない奴』と言うからな」
男爵邸に現れたカレンの様子から、少しでも謎の存在の人物像が掴めないかと三人で考察し合う。
ちなみにセアラは、いつの間にかマリエルの膝を枕にして眠っていた。
そんな中、ジョアンナの夫が遠慮がちに手を上げる。
「あの……お話の腰を折るようで大変申し訳ないのですが……今回お嬢様へ過剰な教育指導をおこなってしまった妻の非礼に関して、我が家は侯爵家にどのようにお詫び申し上げればよいでしょうか……」
「「えっ?」」
予想外な申し出をされたマリエルとサイラスが、同時に声を上げた。
すると、ジョアンナが深刻そうな表情をしながら口を開く。
「たとえ自分の意志ではなかったとはいえ、お嬢様の心に傷を残すような指導をしてしまったことは事実です……。この件は真摯に受け止めさせていただきます。お嬢様の教育係に関しては、このまま継続することは難しいと思いますので、どうぞ解雇という処置をとっていただければと思います……」
ジョアンナにしてみれば、解雇されても仕方のないことをしたという思いなのだろうが、マリエルは違った。
「それは、再びご自身が体を乗っ取られてしまうことを懸念されてのお考えでしょうか……」
「その懸念ももちろんございますが……それ以上にわたくしから指導を受けるお嬢様の心の負担を思っての判断です」
「娘には先ほどの先生は、別人に見えているため酷いことをされたという認識がありません。そして今でも先生をとても慕っております。私としては引き続き先生にご指導いただきたいです」
「ですが――」
「それに先生でしたら、謎の存在に体を乗っ取られることは二度とないと思うので、安心して娘をお任せできます」
「えっ?」
マリエルの言い分にジョアンナだけでなく、サイラスと男爵も驚きの反応を見せる。
「これは推測ですが……あの存在が体を乗っ取ることができるのは、一人に対して一度だけだと思います。もし何度も同じ人間に憑りつけるのなら、もう一度私に憑りつけばいいはずです。でも、そうしなかった。それは何らかの理由で、私に憑りつくことができなかったからではないでしょうか」
マリエルの考えを聞いたサイラスが「なるほど」と納得しはじめる。
「確かにそうだな……。なぜかわからないが、あの存在はこのメディウム邸に居座ることに強く執着している様子だ。ならば、もう一度君に憑りつけばいいのにわざわざカレン嬢に憑りつき、新たに侯爵邸に通うことが決まったルグレ夫人を外部で見つけ、ここに戻ってきている。そう考えると、同じ人間には二度と――」
そこまで考察したサイラスだが、なぜか急に顔色を変える。
「待ってくれ……。その考えだと先ほどまでルグレ夫人に憑りついていたその存在は、今どういう状態になっているんだ?」
「そ、そういえば! ま、まさかまた誰かに憑りついたということですか!?」
「わからない……。ただ先ほど呪術の専門家から聞いた話だと、部屋に駆けつけた時点で夫人は正気に戻っていたようで、体の中に異物が入っているような感じも、呪術をかけられた形跡もなかったそうだ。そうなると……」
そう言ってサイラスは足早に部屋を出て、外で待機しているオネスト声をかける。
「オネスト! 先ほど部屋に夫人を運んだ際、監視役としてつけていたメイドは今どこにいる!?」
「デイジーのことでしょうか? そういえば……私たちが夫人の部屋に到着した際には姿がありませんでしたね……」
「しまった……。また逃げられたか!」
「旦那様?」
「オネスト、そのデイジーを探しだし、身柄を確保してほしい。ただ彼女は、もうこの屋敷内にはいないと思われる……。捜索には屋敷の者ではなく、人探しに特化した機関に依頼し、すぐに彼女を見つけてほしい」
「かしこまりました。すぐに手配を!」
それらのやりとりを聞いていたマリエルは、恐る恐るサイラスに声をかける。
「サイラス様、あの……」
「すまない……取り逃がした。憑依の可能性が出た時点で、早々に夫人の部屋に行くべきだった……」
すると、男爵夫妻が互いを庇い合うように謝罪してきた。
「も、申し訳ございません! 私がもう少し早く到着していれば!」
「夫のせいではございません! 憑りつかれてしまったわたくしの責任です!」
「お二人のせいではありません。そもそもあの存在は、我がメディウム侯爵家に対してなんらかの遺恨があるようですから……。むしろ巻き込んでしまい、こちらが謝罪しなけれなならない立場です」
サイラスの考えにマリエルが、ビクリと肩を震わせる。
侯爵家を恨んでいるということは、現侯爵であるサイラスだけでなく娘のセアラも恨みの対象になるということだ。
しかも、最初にその元凶をこの屋敷に連れこんでしまったのは他でもないマリエルである。
「サイラス様……」
「大丈夫だ……。先ほどの君の考察では、少なくとも君とルグレ夫人は、もう憑りつかれることはないのだろう? ならば君が、この侯爵邸にいてくれるのが一番の防衛になる」
すると、その言葉を聞いたジョアンナがなにかを決意するように真っ直ぐな視線をマリエルに向けてきた。
「奥様、先ほどの解雇の件は、一度保留にしていただけませんでしょうか……。もしお許しいただけるのであれば、今回の真相が解明されるまで、わたくしは奥様とともにセアラお嬢様をお守りしたいのです!」
「ジョアンナ先生……」
ジョアンナからの申し出に安堵したからか、マリエルの瞳に涙が溜まりだす。
すると、マリエルの膝を枕にして眠っていたセアラが目を覚ました。
「しぇんしぇ……またシェアラにおべんきょう、おしえてくれる?」
「はい。お嬢様がお望みであれば」
「シェアラ、ジョアしぇんしぇいにおべんきょう、みてもらう!」
力強く主張する娘の様子にマリエルの涙が次第に引いていく。
『セアラが側にいるだけで、自分はどこまでも強くなれる』
先ほど自分が口にした言葉の意味を改めて実感したマリエルは、五年の歳月を奪った正体不明の忌々しい存在に心の中で宣戦布告をした。





