29.豹変した教育係
部屋に押し入ったマリエルは、室内の状況を目にして言葉を失った。
セアラが『女神リーベ』の絵本で読み書きの練習をさせられている可能性は、マリエルも予想していた。
だが状況はもっと酷く、ジョアンナの使用している教卓の上には大人向けの女神リーベ関連の専門書が五冊以上も積み上げられていたのだ。
中でも一番マリエルを驚愕させたのが、ジョアンナが手にしている鞭だ。
特定の絵本を使用禁止にしたサイラスなので、もちろん鞭などの使用も禁止しているはずだ。
「どうして……こんな……」
「ふぇっ……お、おかしゃま……」
呆然としていたマリエルだったが、娘の悲痛な声で我に返る。
「セアラ!! 早くこっちへいらっしゃい!!」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!! お、おかしゃまぁぁぁぁ!!」
マリエルの呼びかけでセアラが勉強用の椅子から飛び降り、抱きついてきた。
「ふぅっ……うぅー……お、おかしゃまぁー……」
「大丈夫、もう大丈夫よ……。ジョアンナ先生、これは一体どういうことですか!?」
セアラを庇うように抱きしめながらマリエルが睨みつけると、なぜかジョアンナがフワリと微笑んだ。
「奥様こそ困ります。今は授業中ですよ? お母様がいらっしゃるとセアラお嬢様が集中できないと先ほど申し上げたではありませんか」
「授業中? では、なぜ娘は泣いているの!? 雇用規約では教材に『女神リーベ』の絵本は使用しないでほしいと夫が頼んでいたはずよ! それに……その手にしている物は、なに? 体罰的な指導も夫は禁止していたはずです!!」
「まぁ! 奥様がそれをおっしゃるのですか? 少し前まで前任者にお嬢様を鞭で打たせていたのに?」
「なぜ……それを……」
前任の教育係の件はサイラスが箝口令を敷き、退職した使用人にも守秘義務を守るよう書類に署名をさせている。
そのためジョアンナが知ることなどできないはずなのだ。
そんな予想外の反撃をされたマリエルが言葉を失っていると、ジョアンナの顔からスッと笑みが抜け落ちる。
「奥様、このセグレート国は女神リーベの加護によって豊かな土地を維持しております。それなのにその化身と言われた女性の血を濃く受け継ぐ侯爵家のお嬢様が、女神を忌み嫌っているなど許されるとお思いですか?」
「なにを言っているの? この国でのリーベ信仰は、そこまで国民に強要されてはいないわ! 私のような豊穣の乙女でも隣国の加護神を信仰している人だっているのだから、泣くほど嫌がる子供に無理矢理信仰心を植えつけようとする必要なんてないでしょう!? もしかして……あなたは女神リーベを狂信的に崇拝している信者なの!?」
この国には、女神リーベを狂信的に崇拝している団体がいくつか存在する。
独自に決められたルールで女神リーベを崇拝する彼らは、過去に豊穣の巫女の誘拐事件などを起こし、世間から危険視されている存在であった。
ジョアンナもそんな狂信者の一人ではないかとマリエルは思ったのだ。
だが、それはすぐに間違いだと気づく。
もしジョアンナが女神リーベの狂信者であれば、リーベの娘の血を引く家に生まれたセアラを傷つけるようなことはしない。
女神リーベを盲信する者にとって三大侯爵家の人間は、神の使いのような尊い存在になるはずだ。
だが、この二日間でジョアンナは必要以上にセアラを精神的に追い込んでいる。
教卓の上の本も、わざわざ王立図書館で女神リーベに関する本を集め、今回の授業に使おうとしていた様子だ。
もしリーベの熱狂的信者であれば、セアラを傷つけるなどありえないことだ。
「ジョアンナ先生……あなたは、なぜ不必要にセアラを傷つけようとしたの?」
娘を追い込んでいた犯人が分かっても、その動機がまったく見えてこない。
なによりも今のジョアンナは、先週までセアラが慕っていた彼女とはまるで別人のようなのだ。
そう思った瞬間、マリエルの頭の中が恐怖で真っ白になった。
一週間前とでは、まるで別人のようなジョアンナ。
それは五年前、突然豹変してしまったマリエル自身と同じ状況なのだ。
そのことに気づいたマリエルは、今目の前にいるジョアンナが恐ろしい存在にしか見えなくなる。
「あなたは……一体、誰なの……?」
震える唇で問うと、目の前のジョアンナらしき女性が歪んだ笑みを浮かべる。
そしてゆっくりと、マリエルたちに近づいてきた。
「嫌ぁ……来ないでぇぇぇー!!」
不気味すぎるジョアンナから、マリエルはセアラを守るように深く抱き込み、叫ぶ。
すると、勢いよく扉が開け放たれ、サイラスが護衛二名とともに部屋になだれ込んできた。
だが、室内を見渡したサイラスは驚きの表情を浮かべる。
「ルグレ夫人……これは一体どういうことでしょうか。なぜ教材として絶対に使用しないようお願いしていた女神リーベに関する本が、こんなにもたくさん娘の勉強部屋に持ち込まれているのですか?」
「申し訳ございません……。ですが、女神リーベの化身の血を濃く受け継がれている三大侯爵家のご令嬢が、豊穣の女神を忌み嫌う状況は早急に対処しなければならないと危機感を抱きまして、少々荒療治を決行してしまいました……」
「荒療治とは、その手にしている鞭もですか?」
「……はい。ですが、一度も使用しておりません」
「だが、雇用契約書には鞭などの体罰的な指導に使用される道具は、一切部屋に持ち込まないよう記載していたはずですが?」
「申し訳ございません……。お嬢様が、我が国の加護神を酷く拒絶される状況に焦ってしまい、強行手段に出てしまいました……」
先ほどとは打って変わって、まともな受け答えをするジョアンナにマリエルが唖然としていると、サイラスがジョアンナに刺すような視線を向ける。
「夫人……もし先ほど妻がこの部屋に押し入らなければ、あなたは娘の心をえぐるような指導をずっと続けていましたよね?」
「それは……」
「あなたには大変失望しました……。今すぐに解雇手続きをしたいので、私の執務室までお越しいただけますか?」
「はい……」
大人しく部屋を出ていこうとしたジョアンナは、マリエルたちの横を通り過ぎる際、チラリと視線を向けてきた。
だが目が合った瞬間、耳を疑うようなことを口にする。
「使えない子。あのまま死ねばよかったのに」
その言葉でマリエルは大きく目を見開く。
同時に全身を一気に冷やすほどの恐怖が駆け巡り、動けなくなった。
そんなマリエルの反応を楽しむようにジョアンナは、意地の悪い笑みを浮かべたかと思うと、不意をつくように護衛二人を押しのけ、部屋を飛び出す。
「なっ……誰か!! 夫人を捕まえ――――っ」
サイラスも慌ててジョアンナの後を追おうするが、すぐにドサリという音がしたため足を止めた。
すると、外で待機していたオネストが部屋の入口から顔を覗かせる。
「申し訳ございません……。捕縛が難しかったので咄嗟に手刀を打ち込み、夫人を気絶させてしまいました……」
「いや、危うく取り逃がすところだったので助かった……」
「この後、いかがいたしますか?」
「先ほどテレーズから報告を受けた際、ご主人である男爵を呼ぶよう遣いを出している。それまで夫人は鍵のかかる部屋に拘束しておいてくれ。念のため室内には護身術が使えるメイドと警備の者を一名ずつ、外にも監視役を一名つけておいてほしい」
「かしこまりました」
オネストに指示を出したサイラスは、すぐにマリエルたちに駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
「はい……大丈夫です」
「大丈夫そうではないんだが? 顔色が真っ青だぞ」
「…………」
「セアラは? 怪我はないかい?」
先ほどから一言も発さず、ブルブルと震えながらマリエルにしがみついていたセアラが、やっと顔を上げる。
「うぅっ……ふぅぇっ……お、おとしゃまぁー……」
そして涙と鼻水でグチャグチャの顔をしながら両手を広げ、父親にしがみついた。
そんな娘をサイラスは抱き上げ、あやすように背中をトントンと優しく叩く。
「怖かったよな? でももう大丈夫だから……」
「ふっ……うぅっ……シェ、シェアラ、こわかった……。すごくこわかったの……。で、でも、すぐおかしゃま、きてくれたぁー……」
大粒の涙をボタボタとこぼしながら、セアラはさらに父親にしがみつく。
「マリエル、助かった……。セアラを守ってくれて、ありがとう」
「いえ、そんな……。それよりもジョアンナ先生は、これからどうなるのですか?」
「この後、ご亭主であるルグレ男爵にきてもらうので彼に引き渡す。もちろん、今回の件について猛抗議をしながら、話し合いをするつもりだが……それは夫人が目を覚ましてからになるな」
「その件で、お伝えしなければならないことがあります」
「なんだ、急に改まって」
「今回の件でのジョアンナ先生は……被害者になります」
すると、サイラスが大きく目を見開く。
「君は……なにを言っているんだ!? どう考えても今回の被害者は、うちのセアラだろう!!」
「セアラもですが、ジョアンナ先生も被害者です」
「だから、君はなにを言って――」
「先ほどジョアンナ先生に言われたのです。『使えない子。あのまま死ねばよかったのに』……と」
「あのまま?」
「恐らく私が階段から落ちて意識が戻らなかった時のことを言っているのだと……。さらに先生は、私が前任者にセアラに対して虐待に近い指導を強要していたことも、なぜかご存じでした」
「なん……だと……? ま、待ってくれ! それでは先ほどのルグレ夫人は……」
「これはあくまでも推測にすぎませんが……今の先生の中には『先生でない者』が存在している可能性があります」
「なっ……!」
「そしてその者は、少し前まで私の中に五年間も居座っていた存在と同一の可能性が……」
その瞬間、サイラスは護衛たちに指示を出しているオネストに向かって叫ぶ。
「オネスト!! 今すぐ王家に、火急の事態ゆえ呪術に詳しい人間を手配していただくよう遣いをだしてくれ!!」
「か、かしこまりました!」
珍しく取り乱している主の様子にオネストは、すぐに動いた。





