16.別邸生活
実家のクラージュ伯爵家から戻ったマリエルは、フェニアの雇用許可を貰うため、すぐにサイラスの執務室に向った。
メイドの引き抜きは絶望的だと思っていたサイラスは驚いていたが、フェニアがこの五年間マリエルと面識がなかったことを話すと納得し、すぐに雇用手続きをおこなってくれた。
だが、その際にフェニアが、うっかりマリエルが実家で過呼吸に陥ったことをサイラスに話してしまい、執務室はちょっとした騒ぎになった。
サイラスの指示でマリエルは、すぐにグレードルの診察を受けさせられたが、今回の過呼吸は過度なストレスによる一時的なものだそうだ。
その結果にフェニアは安堵していたが、サイラスは母親の話をしておかなかったことに責任を感じ、うなだれていた。
しかし前もってマリエルが母の死を知っていたら、父と兄は記憶喪失であることを信じてくれなかっただろう。
あそこまで取り乱したからこそ、二人はマリエルが記憶を失っていることを信じてくれたのだ。
それだけマリエルは、この五年間で父親たちの信頼をかなり失っていた。
なにはともあれ、無事に別邸に住む条件を満たしたマリエルは、この二日後に移住した。
別邸は一階に前侯爵が使用していた書斎と仮眠室があり、さらに地下室は書庫として使われていた。
また夫人も趣味のお菓子作りをする場として利用していたようで、小さいながらも充実した調理場もあった。
今後はここでフェニアと一緒にお菓子作りなど楽しめそうだと、マリエルは密かに心躍らせている。
二階は客室として使える部屋が三部屋もあり、そのうちの二部屋をマリエルが自室と寝室兼衣裳部屋で使い、残りの一部屋をフェニアに使わせることにした。
どの部屋も日当たりがよく、本邸の重厚感や豪華さはないが居心地の良さが感じられる。
家具類はそのまま使える物ばかりなので、マリエルが本邸から持ち込むのは、少し前にクローゼットの中を整理した際に生き残った衣装や装飾品くらいである。
鏡台も机も寝台もキャビネットも全て揃っているので、運び入れる必要はない。
そもそも本邸で使っていた自室は趣味が合わない五年前の自分が内装を決めたため、今のマリエルには未練などなかった。
そんな快適な別邸ライフが始まってから一週間目にある問題が発生する。
なぜか別邸に移住してからマリエルに出される朝食の質が一気に下がったのだ。
一日目は本邸の頃と同じで見た目も味も素晴らしい朝食だったが、三日目以降からパンが固くなり、スープや玉子料理の味付けも薄れていった。
そして一週間目の本日、ついに痛んだ食材で調理されたと思われる朝食がマリエルに用意されていた。
朝食はいつもフェニアが本邸の厨房から受け取り別邸に運んでくるのだが、今日に関してはマリエルの前に並べようとした際に明らかに異臭を放つメニューがあった。
その状況にマリエルがパンを割ってみると、なんと断面にはホクロくらいの小さな黒い斑点があった。
それを目にした二人は、ぼそりと呟く。
「確実にカビてるわよね、このパン……」
「確実にカビていますね、このパン……」
互いにそう呟くと一瞬だけ静寂が訪れた。
だが次の瞬間、フェニアが怒りを爆発させる。
「何なんですか、この朝食は! 明らかにお嬢様に対する嫌がらせではありませんか! これまでの冷めていたり、味が薄かったりしたのも許せませんが……今回は明らかに体に悪影響を及ぼす食事です! もう我慢できません!! お嬢様、厨房に怒鳴りこんでもよろしいですか……?」
怒りの感情を一気に爆発させたフェニアは未だにマリエルを奥様呼びするのが慣れないらしく、感情が高ぶるとお嬢様呼びに戻ってしまう。
そのことに苦笑しながら、とりあえずフェニアを落ち着かせようとマリエルは宥めはじめる。
「確かに今回は酷いわね……。でも怒鳴りこむのはやめて? せめて抗議すると言って?」
「いいえ! 全力で怒鳴り込んできます!」
力強く宣言したフェニアは、ドスドスと音がしそうな勢いで部屋を出ていった。
残されたマリエルは深いため息をつきながら、明らかに腐った食材で作られたワゴンの上の料理に銀色のフードカバーを被せる。
本邸で過ごしていた時は一度もなかったが、別邸に移動してからは朝食だけまともに用意してもらえなくなったのだ。
なぜ朝食だけなのか……。
朝食以外は、メイド長のテレーズやレスリーの本邸付きのメイドが、厨房から料理を受け取り運んでくる。
しかし朝食だけは、マリエルが実家から引き抜いたフェニアが受け取る。
もしマリエルたちが抗議の声を上げても、周囲からは「今度は自分のお気に入りのメイドと共謀して使用人いびりをはじめた」と軽視されることを狙ったのだろう。
だが、抗議の声を上げに行ったフェニアはマリエル以上に気が強い。
しかも真面目な性格なので、今回のような職務怠慢な態度は絶対に許せないのだろう。
早くに父親を亡くし、弟のために母とともに家を守って婚期を大幅に逃している忠実なメイドの将来がマリエルは心配になってきた。
もしサイラスと離縁が成立してもフェニアは、引き続き雇って貰えるように頼んでみよう。
そんなことを考えながら深いため息をついたマリエルは、ふと誰かにジッと見られているような感覚を受け、慌てて周囲を見回した。
だが、その視線の主らしき人物は見当たらない。
代わりにやけに目についたのが中庭側にある窓だ。
中庭の植え込みには人が隠れるのに適した場所がある。
もしやあそこに隠れて誰かがこちらを覗いていた?
そんな想像をしてしまったマリエルは、不安な気持ちをふり払うように大きな声で独り言を呟く。
「い、嫌だわー。私ったら最近ショックなことが多すぎて、すっかり弱気になっているみたい」
当然だが、その独り言には誰も反応しない。
静まり返っている室内がますますマリエルの不安な気持ちを煽ってくる。
早くフェニアが戻らないかとヤキモキしていると、今度は扉の向こう側から言い争う男女の声が聴こえてきた。
「だから! 料理長はちゃんとした朝食を用意してたって言ってんだろう!? 俺がワゴンに料理が乗る直前まで見ていたから間違いない!!」
「ではあなたの目は節穴なのでしょうね! 奥様のもとへ届けられたのは、しっかりとカビが生えたパンだったので!」
「侯爵家の料理長が、そんなふざけた物を出すわけないだろう!? 大体うちの厨房には、そんなガキみたいな嫌がらせをする程度の低い人間なんていない!!」
「実際にいたから奥様のもとにカビたパンと腐った牛乳で作られたスープが届いたのでは!?」
「パンはともかく、スープもだと!?」
言い合いをしながら部屋にはいってきたのはフェニアと、彼女より少し年上らしき青年だった。
「お嬢様、今は元凶の料理長が不在ということだったので、代理で副料理長をお連れいたしました!」
「元凶って言い方はやめろ! 勝手に料理長を犯人にするな!!」
「犯人でなくてもこのような食事が奥様のもとへ届いたのですから、確実に部下の管理がなっていない料理長の責任です!」
「大体、どこのバカがそんなあからさまな嫌がらせを……」
不満を口にしながらワゴンの上の料理を確認した青年が一瞬で言葉を失う。
「嘘だろ……。だって直前まで完璧に仕上がった朝食が載っていたはずなのに……」
「これが完璧な朝食ですか? でしたらあなたは料理人をやめたほうがよろしいですよ?」
「ああもう! 悪かったよ! これはどう見てもこちらの落ち度だ!」
フェニアの嫌味に悪態をついた青年が勢いよくマリエルに向き直り、コック帽を取って深々と頭を下げる。
「奥様、私はこの屋敷の副料理長を任されておりますクラムと申します。本日はこのような物をお出ししてしまい、大変申し訳ございませんでした……。厨房を代表して深くお詫び申し上げます」
「本日だけではなく、奥様が別邸に移動されてからの一週間、ずっと冷めていたり、味が極端に薄い料理ばかりでしたけれどね」
フェニアの追加情報でクラムと名乗った青年が再び声を失う。
「はぁ!? 一週間も前からそんな食事が!? お、奥様! なぜすぐに声を上げてくださらなかったのですか!?」
「その……冷めてはいたけれど、食べられはしたから……」
「いや、でも!」
「はっきり申し上げますが、使用人の賄い以下の酷い味付けの朝食でした! どうやら三大侯爵家と誉高いメディウム侯爵家でも料理人の質は最低のようですね!」
「フェニ!」
ここ一週間分の鬱憤を晴らすように話を少し盛って強烈な嫌味を口にするフェニアをマリエルが窘める。
一方、青年は信じがたい現実を突きつけられガックリと肩を落としていた。
「そのような言葉を浴びせられても仕方がないほどの失態です……。本当に申し訳ない! この後すぐに料理長に報告し、今後二度とこのようなことが起らぬよう尽力いたします! もちろん、旦那様にもこの件は報告いたしますので!」
「今後しっかり改善してくれるのであれば、旦那様への報告はしなくてもいいわ」
「ですが……」
「サイラス様は大変お忙しいご様子だから、お手を煩わせたくないの……。犯人に関しても処分はあなたと料理長の判断に任せ――――」
そう言いかけたマリエルだが……。
ふと中庭側の窓に目をやると、ジッと自分を見つめる大きな目と視線がぶつかる。
その瞬間、全身からサーっと血の気が引いた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」
「奥様!?」
「お、お嬢様! どうされたのです!?」
「ま、窓! 人形……窓の外に人間くらいのサイズの人形が!! こ、こっちをジッと見てて……」
「「人形……?」」
「シ、シルクみたいな光沢のある髪に水色の大きな瞳をした人形よ! さ、さっきまでジッとこちらを見ていたの!」
その話になぜかフェニアとクラムが呆れるような表情を見せる。
「メイドちゃん……確か君、奥様が子供だった頃から仕えていたんだよな? もしかして奥様って怪奇現象とか苦手なタイプ?」
「変な呼び方をしないでください。私の名前はフェニアです」
「じゃあフェニアちゃん、奥様って昔からものすごく怖がり?」
「ちゃん付けもやめてください。失礼です。奥様は亡霊などの類は平気ですが、精巧に作られた人形に対しては、幼少期にお兄様のご友人から怖い話を聞かされ酷いトラウマをお持ちです」
「なるほど。それじゃあ、怖がるのも仕方がないか……。奥様、ちょっと私が外を確認してきますので、お待ちいただけますか?」
「ダ、ダメよ! もし遭遇したら斧を何度も打ちつけられて殺されてしまうわ!」
「一体どんな残虐な話をされたんだ……。もしそんな人形がいたらボコボコにしてやりますよ!」
物騒なことを口にしながら部屋を出ていくクラムを見送ると、マリエルは傍らに控えているフェニアの腕に縋りつく。
「本当よ!? すごくきれいな顔立ちの人形が、まったく感情のない瞳で私のことを見ていたの! さっきフェニが厨房に怒鳴りこみに行っていた時にもその視線を感じたわ! きっとあの人形のものだったのよ!」
「お嬢様……それは人形ではなく生きた人間では?」
「違うわ! だって全体がすごく小さかったし、人間離れしたきれいな顔立ちをしていたのよ!? あれは絶対に人の手によって作ら――――」
マリエルが必死で人形説を主張していたら突然、部屋の扉がノックされた。
「ひぃ! 絶対にさっきの人形よ! フェニ、助けて!」
「落ち着いてください。人形は扉をノックなどいたしません……」
「する人形もいるのよ!!」
完全に取り乱している主にフェニアが白い目を向けていると、扉がゆっくりと開いた。
だが、猫が通れるくらいの隙間の先には誰もいない。
「フェニ! フェニぃー!!」
「お嬢様! 少し落ち着いて!」
恐怖でおかしくなっている主を呆れた様子のフェニアが宥めはじめる。
だが次の瞬間、扉の隙間からピョコンと三歳くらいの少女が顔を出した。
その拍子抜けしてしまう状況にマリエルとフェニアが目を丸くする。
「えっ……? こ、子供!?」
「やはり人形ではなかったではありませんか……」
「え、ええ……そうね。で、でもあの子って……」
動揺しているマリエルを尻目に少女は扉を大きく開け、トテトテと部屋の中に入ってきた。
髪は夫のサイラスと同じく真っ直ぐでサラサラのプラチナブロンド。
それを肩につくくらいに切りそろえ、小花の装飾が二個ついた白いカチューシャをしている。
白色のワンピースの胸元には、大きな水色のリボンがほどこされていた。
だが、一番目を引いたのはリボンと同じ色の少女の瞳だ。
それはまぎれもなくマリエルから受け継がれた部分だった。
この子が娘のセアラ……。
そう確信した瞬間、マリエルは焦りと動揺で冷や汗が止まらなくなる。
だが、そんな母親の心境などお構いなしな少女は、ギリギリ届くドアノブを回しながら扉をしっかり閉めた。
少女の背負っているリボンとレースがついた巾着式の袋バックから顔だけだしている金色のクマのぬいぐるみと目が合う。
すると、少女はくるりと二人に向き直った。
そして白いワンピースの両端をちょこん摘まみ、頭だけをペコリと下げる。
「ごきげんよう!」
恐らくカーテシーをしているつもりなのだろう。
だが、そのあまりにも愛らしい動きにマリエルが叫んだ。
「天使!」





