14.記憶のままの部屋
案内された母の部屋は今のマリエルにとって、二週間ほど前に訪れたばかりという感覚だ。
ただ一つだけその時と違うのは、いつも笑顔で出迎えてくれる母の姿がないことだ。
それが再びマリエルに深い悲しみと喪失感を与えてきた。
「ふっ……くっ……お、お母様ぁー……」
再び涙が止まらなくなったマリエルは寝台の傍らに膝をつき、母親のぬくもりを求めるように突っ伏した。
すると、寝台から懐かしい母の香りがする。
「ふくっ……うっ……お、お母様……お母様ぁ! ご、ごめんなさい……ごめんなさい!!」
再び号泣しはじめたマリエルの背中をナイジェルが優しく撫でる。
「お嬢様、大丈夫ですよ。奥様にはちゃんと今のお嬢様のお気持ちが届いていますから……」
「で、でも……私……わ、私ぃ……」
「まだこのお部屋に入られるのは早すぎましたね……。とりあえず一度、外へ出ましょうか」
「うっ……くぅ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」
ナイジェルに支えられながら室外に出たマリエルは、しばらく泣き止むことができなかった。
そんなマリエルは慰められるように肩を摩られながら、今度は自分が使っていた部屋へと誘導される。
「お嬢様のお部屋は、侯爵家に嫁がれた後のままの状態です。もしお持ち帰りされたい物があれば、馬車までお運びいたしますので私にお申しつけください」
「わ、わかったわ……」
鼻をスンスン鳴らしながら自室に入ると、まるでそこだけ時間が止まっていたかのように今のマリエルの記憶の状態のままだった。
しかし、よく目を凝らすと壁紙や机は窓からの日差しで焼けたのか、僅かに色味が違う。
それ以外は、家具の配置や使用した形跡までも今の十六歳の記憶のままだった。
その状況にマリエルは僅かに違和感を覚える。
とりあえず最初に目についた机の一番上の引き出しを開けてみると、中から少し色あせた一枚の便箋が出てきた。
表面は書き損じの手紙だが、裏面にはサイラスとやりたいことがビッシリと箇条書きされている。
それは今のマリエルの感覚では、二週間前の就寝前にした走り書きだった。
その便箋をマリエルは内容が見えないように四つに折りたたむ。
次に手を伸ばしたのは机の二番目の引き出しだ。
中には封蝋に使う道具一式とインクとペンが入っていたが、マリエルはそれらの存在を無視し、引き出しの裏側をまさぐった。
すると、手のひらに小さな鍵が落ちてくる。
その鍵を今度は四番目の引き出しにある鍵穴に差し込む。
そこには分厚い本のような日記が三冊入っていた。
その中で一番装丁が新しい日記を開き、中を確認する。
最後に書かれた内容は、サイラスと初めて顔を合わせた日の前日の出来事だった。
実は顔合わせをした日は親友とフェニアに二通も手紙を書いたため、その日の日記は翌日に先延ばしにしたため書いていない。
時間としては五年前の出来事だが、今のマリエルの記憶では半月ほど前の出来事なので鮮明に覚えている。
そんなマリエルが日記をつけはじめたのは十三歳くらいの頃だ。
きっかけは当時、家の事情でクラージュ家を去ることになったフェニアに勧められたからである。
そこから毎日欠かさずにつけていた日記。
だが、最後に書かれた日付はサイラスと顔合わせをした前日。
つまりこの五年間のマリエルは、サイラスと顔合わせをした翌日から日記をつけなくなったということだ。
二年以上、毎日欠かさずにつけていた日記をこの日を境に突如やめてしまった自分。
それが失ってしまった記憶の期間と完全に一致するのは、何か意味があるのだろうか。
もしかしたら、この日記に自分が豹変した原因が隠されているのかもしれない。
そう考えたマリエルは先ほど四つ折りにした便箋を最新の日記に挟み、ナイジェルのほうへと振り返る。
「ナイジェル、この三冊を持ち帰りたいのだけどお願いできる?」
「かしこまりました。他にお持ちになる物はございますか?」
「そうね……他には――――」
マリエルがぐるりと室内を見回すと、壁に飾られた鏡台の鏡くらいの大きさの額縁が目に入る。
それはマリエルが六歳になった頃に描かれた家族との肖像画だった。
この時は母もまだ病を発症しておらず、兄はマリエルを溺愛していた。
だが今もしクラージュ家の肖像画が描かれるとしたら、そこにマリエルの姿はない。
この家族の肖像画は、マリエルがクラージュ家の一員であったことを証明する唯一のものになるかもしれない。
そう思ってしまったマリエルは、この肖像画も持ち帰ることにした。
「お持ちになるのはこれだけでしょうか……。まだクローゼットなどに思い出の品があるのでは?」
持ち帰る品を日記と肖像画だけで終了しようとしているマリエルにナイジェルが困惑気味に尋ねる。
「クローゼット……」
四日前にメディウム侯爵家のクローゼットを整理したことを思い出したマリエルは、扉を開けるのを一瞬だけためらう。
だが、思い切って開けてみるとクローゼットの中身は今のマリエルの記憶に残るドレスや装飾品ばかりだった。
しかし、そのどれもが十代半ばの少女が好む愛らしいデザインの物ばかりだ。
今のマリエルの精神年齢は十六歳だが、実年齢は二十一歳である。
恐らくこの先、マリエルがこれらの品を使う機会はないだろう。
後日、父に売り払ってもらうよう手紙で伝えよう。
そんなことを考えていると、ある宝石箱がマリエルの目を引いた。
吸い込まれるようにその箱を手にとり蓋を開けると、中から二パターンで身に着けることができる首飾りが出てきた。
「そちらは、確かお嬢様が社交界デビューをされた日に奥様が贈られたお品ですよね」
「ナイジェル、覚えているの?」
「ええ。奥様がそちらを購入する際に側に控えていたので。確かお嬢様が成人されても使えるからと、取り外しができるデザインを気に入られてお選びになられていました」
「成人しても……」
そう呟くもこの五年間、マリエルは成人した姿を母に見せてはいないだろう。
そのことが再び母に対する罪悪感を酷く掻き立てる。
「ナイジェル、宝飾品類はなるべく持ち帰らないつもりだったのだけれど、どうしてもこれだけは持ち帰りたいの……。いいかしら?」
「こちらはすべてお嬢様の所持品なのですから、そこは気になさらないでください」
「でもアクセサリーは売却できるから……」
「他にはよろしいですか? 確かレシオン様もかなりお嬢様にお祝いの品を贈られていたと記憶しておりますが」
「それはすべて兄に――――返すのは流石に失礼よね……。後でフリーデお義姉様に引き取っていただくよう私から一筆書いておくわ」
「お兄様が贈られた品は、お持ちにならないのですか?」
「これは贈ってくれたお兄様の所持品とした方がいいと思うの。もちろん、お父様から贈られた品もよ。だって私はもうクラージュ家の人間ではないのだから受け取る資格なんてないもの……」
「お嬢様、それは――――」
「もう決めたの」
マリエルの決意にナイジェルが憐憫の眼差しを向けてきた。
マリエルが口にする『もうクラージュ家の人間ではない』という言葉は、嫁いで出ていったからという意味ではない。
自分には、この家の人間である資格はないという意味だ。
『もうこの家には二度と足を踏み入れない』
先ほど父たちに宣言した言葉をマリエルは撤回するつもりはない。
それは父たちに対する意地ではなく、マリエル自身がこの家に足を踏み入れる資格など自分にはないと思っているからだ。
「持ち帰りたい物はこれだけよ……。馬車まで運ぶのを手伝ってくれる?」
「……かしこまりました」
「ナイジェル、今後もお父様たちのことを……クラージュ家のことをお願いね」
「マリエルお嬢様……」
昔と同じような関係に戻った執事に最後の別れともとれる言葉を告げたマリエルは、実家に対する未練を断ち切るようにしっかりとした足取りでエントランスへと向かった。





