【ep.7】葛藤する先生 2.ヴェラと
「うぅ……ひっく……」
目の前でヴェラが泣いていた。
その右頬が赤く腫れあがっているように見えた。
長谷川は何も言えず、ただただ彼女が泣き止むのを待った。
――三十分ほど前。
「うちはただ! ……お金を稼げるようになれば、弟や妹……家族が今より楽になったらいいなって、そう思って言ったただけなのに!」
自慢の紫の髪は乱れ、それを可愛らしくまとめていた髪留めも本来の位置には収まっていなかった。
彼女が夜に長谷川を訪れてきたときにはそんな状態で、唐突に訴えてきた。
事情を呑み込めずにいた長谷川は、彼女に落ち着いて説明してごらんと促した。
「うちはママと弟、妹の四人で暮らしてるの。それで狭いけど畑で野菜なんかを作ってるんだよ。パパはいたけど、いつも飲んだくれてて……妹が生まれて少ししたらいなくなった。ママは何も言わないけど、たぶんもう帰ってこない……」
長谷川は大きく息を吸い、吐き出した。
そのまま彼女のことばを黙って聞き続けた。
「それで前の授業で思いついたの。野菜を直接町に売りに行ったらもっと売れるかもって、ママに話したんだ……そしたらふざけないでって。勉強だかなんだか知らないけど、外をほっつき歩いてるあんたに何ができるのって……酷いよね、うちだって朝早く起きて、畑仕事の準備とか全部やって、帰ったら食事だって……時々だけど作って……」
長谷川はヴェラがいつも眠たそうにしていたのを思い出し、急に胸が締め付けられた。
「……お母さんはもっとヴェラに手伝って欲しいんじゃないのかい?」
少しだけ間を置いて、慎重に、柔らかく尋ねた。
「そうかもしれないけど、今は弟だって畑を手伝えるようになったし……【商売】の授業が始まったら、これだ! って思ったんだもん……これで稼げるようになればって」
「そうか……ヴェラが【算術】をとても頑張ってたから、何か役に立てばと思って【商売】も教えたんだが……それがヴェラを苦しめることになってしまった……」
「そんなことない! ハセ先生は悪くない! ママにだって、先生に教わったなんて言わなかった! ひけらかさなかった! うちが考えたんだって……それなのに……口答えするなって……叩いて」
頬をさするヴェラの言葉に涙が混じり出し、静かに嗚咽し出した。
そうして彼女は、途切れ途切れひとり言のように続けた。
昔は貧しくても、どうにか父親と家族でやってきたこと、弟が生まれた頃から畑の不作が続き父親が酒に頼り始めたこと、それから自分が父親に叩かれるようになったこと、そして今度は初めて母親にも叩かれ、飛び出すように夢中で塾に駆けてきたことを。
彼はそこまで聞いて天を仰いだ。
彼女の母親にも相当の苦悩があり、またヴェラのこれまでの態度や、彼女にとって塾がどんな存在だったかを想像し、いたたまれなくなった。
(【真理眼】なんてゲームみたいにあてにしていたが、子どもの“強がり”も見抜けないなんて糞の役にも立たない……)
自分の不甲斐なさを強く責めた。
「ヴェラ、君はこれからどうしたい?」
「…………」
泣き止んだ彼女は遠く一点を見つめて沈黙していたが、やがて彼にその決意を語った。
「……うちはもっと勉強する……でも家も今まで通り手伝う。塾もさぼりたくない……! だから……ハセ先生、うちにもっともっと商売のことを教えて欲しい」
どこの世界でも親を想う心、子を案じる想いは同じなのだろうかと考えた。
みんながそうではないかもしれないが、少なくとも彼は、目の前で心からの救いを求め、願う彼女を見過ごすことなどできなかった。
「あぁ、もちろんだ! ならノートもメモもたくさん取るんだ。ユイにも負けるなよ」
「うん、わかった……うち、頑張るっ! ありがと、先生っ!」
それで元気を取り戻した彼女は、長谷川に勢いよく抱きついた。
成長していた彼女の力は子どもの頃より圧倒的に強く、その勢いに彼は思い切りよろめいた。
落ち着いた彼女を帰す際、ちょっと待ってろよと、玄関で呼び止めた。
「えっと……これと、これ……よし、こんなもんだろ」
彼が玄関に戻ると、ソフィアがヴェラの髪と髪留めを整えていた。
「はい。これでいつものヴェラちゃんですね~」と、にこにこ顔で手鏡を見せた。
「わぁ、ありがとぉソフィ! ソフィも大好き!」
鮮やかな紫の花弁が広がったような笑顔でソフィアにまで抱きついた。
(みんな大きくなって、心も成長していて……ソフィアが本当に小さく見えてくるな)
「よし、あとはこれだな!」と、長谷川は彼女に数冊のノートと鉛筆を何本か手渡した。
「これなぁに?」
「これでお前も弟と妹の先生ができるだろ? 家の手伝いもできる弟なら、きっと何かすぐにママの役に立てるんじゃないか? ママにもヴェラの気持ちをちゃんと話して……」
彼は最後に母親のことを敢えて切り出した。
ヴェラは少しだけ俯き頬を擦ったが……、
「……うん、私もすぐに怒らないで話してみる……! でも先生、妹はまだ三歳だよぉ」
へへっと笑った彼女はようやくいつもの調子も取り戻した。
彼の心配は杞憂に見えた。
「それじゃぁ気をつけてな」
「え、先生ぇー、こんな時間にうちをひとりで帰すの?」
「!」
「貴之さんの負けですねぇ。お家までお願いします~」
そう言ってソフィアに押し出されるように外に出た長谷川はロビンを召喚した。
「やったぁーーーー!」
ヴェラが年相応にはしゃぐのを見て、
「もう、おまけだ! 【ロッキー】来い!」
キャンキャンキャン!
ロッキーが現れると彼女はそのもふもふを抱き抱え、嬉しそうに頬を摺り寄せた。




