【ep.6】実感する先生 1.ユイの変化
「ハセ! おはよう! そろそろ起きて!」
「……ん、もうそんな時間か……ありがとう、ユイ」
昨晩、根を詰めて授業の準備をした長谷川を、この五年で見違えたユイが起こしにやって来た。
彼女は身長もだいぶ伸びたが、クリッとした目鼻立ちはとても可愛らしく整い、その表情が豊かになったことも容姿に現れていた。
髪や瞳の色も相まって、いよいよ日本人の女の子のようにも見えた。
最近のお気に入りは長く伸ばした黒髪をソフィアに結ってもらうことだった。
そして外見以上に中身の変化は大きく、彼に対してそれほど口数は多くないが、以前のような怯えた様子は一切消え去っていた。
良い友達にも恵まれたからか、むしろ元気なほど明るい。
女の子同士で一緒であれば、本当に良く笑うようになった。
それに読み書きや基本的な算術を身に付けて自信も付いたもか、授業もひたむきに受けている。
(本当の彼女はこんなにも明るかったんだな……つくづく実感する)
あらためてそんなふうに考えていたら、朝から少し涙腺が少し緩んでしまった。
そんな彼女は最近とりわけ【世界史】に熱が入っていた。
【社会】で教えた“メモの大切さや取り方”を、セリフィエルの【世界史】でしっかり実践していた。
彼女がこれまで旅した国や地域、人々の話を熱心に語ると、それをお気に入りの鉛筆とメモ帳を使って心も紙面も満たしていた。
セリフィエルは、土地土地の風土や気候によっては、わざわざ精霊を呼び出して暑さや寒さ、風を吹かせるなど臨場感を伝えていた。
奴隷だったこともあり、視野や“世界”が人より狭かったユイにとって、それはまるで本当にその土地に訪れているかのようで、その黒い瞳を揺らしながら聞き入っていた。
長谷川はいつかみんなでそう遠くない場所でも良いから、林間学校のような旅に出るのも悪くないと考えていた。
同時に、そんなユイの成長を感じ始めていた矢先の出来事を、長谷川は思い出した――
* * *
今から三年ほど前、突然村長と町からの使いなる男がやってきた。
そいつは初めて村を訪れた際、帰り際に現れた、ろくな挨拶もせずに意味深な忠告だけしてきた男だった。
(確かこの辺の相談役で領主に近いとか何とか言ってたよな……)
ちょうど授業の準備をしていたレグとアル、三人で彼らを出迎える形になった。
「ハセカーよ、お前はここで奴隷を匿ってるな?」
単刀直入な相談役の男の物言いに、村長は黙って下を向いていた。
「奴隷……? うちにはいないが」
彼はわざとらしくレグとアルの方を見たが、レグは首を傾げ、アルは両肩をすくめた。
「そうか。まぁよそ者のお前が事情を知らんのも分かる……が、ユイと言う黒髪の娘がいるだろう。その娘は奴隷だ」
「……何を言ってるんだ」
長谷川は少し声を低くして相手を睨んだ。
すると男は一枚の紙を取り出し、突きつけてきた。
「これは権利書だ。黒髪の娘は、ここら一帯の領主様、ドラウス公爵家の所有する奴隷だ。それがここに記されている」
長谷川は初めて目にする書類だが、そこに書かれた内容を一読すると、名前や日付を含めて確かにそのようなことが書かれていた。
(いつかブロムが言っていたようにやはり探してたのか……? よりによって貴族……)
「まぁ黙って差し出せば、匿っていたことは見逃さないではないが……。公爵家はこの国の筆頭貴族だ、その意味も分かるな」
「…………」
長谷川は怒りもあったが準備できていなかった事態に沈黙していた。
男はニヤリと下卑た表情を見せ、村長は神妙に様子を伺っていた。
すると――
「この書類、正式な権利書ではないですね?」
横にいたレグが突然口を開いた。
「正式な権利書であれば、奴隷とされる理由が書かれているはず。この書類はそこが書かれていない……最近よく聞く偽造のものでは?」
思わぬところから攻撃を受けた男は露骨に怯んで見えた。
「何だこのガキは!? 見てみろ、ここに印があるだろ! それは公爵家の紋章だぞ!」
確かにそこには溶けた蝋に押し付けられた紋様があった。長谷川に真偽は分からない。
「なるほど、確かに。だが奴隷権利証は本来、不当な偽造を防ぐ上で、この国の法の上では、書類に空白があっては正式なものとして効力が発揮されないのでは? どんな方が発行したものであれ――」
相談役の男は、専門的な指摘をするレグの発言に明らかな動揺も見せた。
が――
「お、お前何者だ……? まぁいい。ならば知っていると思うが……、この場合、本人が認める、またはその意志が示されれば書類以上の効力になる、これだけ証人もいるしな……もちろんこの附則はお前も知っているよな? で、娘はここいるんだろ?」
冷静だったレグも、相手の反論に動揺した。しかし――
「先生……ユイを」
隣にいたアルは躊躇う長谷川に促し……
――大丈夫です。
彼は極々小さな声で囁き、長谷川の目をじっと見た。
長谷川はそれを信じた。
少しして、長谷川はユイを連れて二階から降りてきた。
彼女は彼のシャツを引っ張り、後ろに隠れるようにしていたが、半身をずらしてどうにか相談役の男の前に姿を見せた。
「大人しく出てきたか。お前がユイだな」
ユイは無言で頷いた。
「お前は奴隷だった、間違いないな?」
ユイは今度は怯えて、ゆっくり頷いた。
唐突な物言いに長谷川の心はざわついた。
「よし。ならばお前が奴隷となったいきさつを話してみろ」
あまりにも無思慮に続くことばに長谷川が半歩踏み出すと、アルはおろしたままの左手で軽く制しした。レグも力んでしまっているようだった。
(やっと……やっと笑顔が見れるようになっていたのに……!)
くそっと拳を握りしめたが、今にも泣きそうな瞳を揺らし、長谷川を見上げるユイの姿を見て、我に返った。
心配ない、とその表情をいくらか崩して彼女に頷き返した。
(本当に辛いのはユイなんだ)
ユイは何かを受け取り、静かに、そして時折怯えながらも、その場にいる者たちにありのままを話した。
すると意外にも、相談役の男がじわじわと表情を曇らせていった。
アルは長谷川に、ユイに確認するよう視線を送った。
「……両親が……殺された上に誘拐された……そうなんだな?」
彼は努めてやさしく彼女に問いかけた。
もはや涙が溢れていた瞳は頭を縦に振った。
「そうか……ユイはここにいたいか?」
心を殺して尋ねた長谷川に、ユイは今度こそ力強く頷き、堪らず彼に抱きついた。
「領主様の……いや、侯爵の奴隷……でしたな。これは公爵様がそのようなやり方でこの子を奴隷にしたと? この書類はそれを証明しているのですな?」
今度はアルの鋭い指摘に、男は今度こそたじろいだ。
「な、いや……そんな……お、俺は」
「彼女はそうだと言っている!!」
男の発言を待たずアルはきっぱりと、初めて聞く大きな声を出し、相手を睨みつけた。
「ご存じのとおり、このような経緯では奴隷であったと言えず、むしろ国の法に背いた事件があったとみる……あなたもそれに加担していることになるが、いかがか?」
長谷川はアルの毅然とした態度に驚かされたが、一緒に相手を睨みつけることだけはできた。
ここに至って村長も男に厳しい目線を向けた。
「……くっ! こんな事情は俺も知らなかった! ちっ、邪魔をしたな!」
その男が外に出た直後、「くそ! 聞いてないぞっ!」と、男が喚くのが聞こえた。
そしてそれまで終始無言だった村長も、厄介ごとだけは困るよと、申し訳なさそうに男のあとを追って出て行った。
長谷川は大きく胸を撫でおろした。
しがみついたまま離れないユイの頭を撫でながら、レグとアルに目をやった。
彼らも緊張が解けたのか、表情を緩めて補足をしてくれた。
「この国ではもちろん奴隷制度は合法です。しかしその性質から不当な扱いやそれをするための不正書類も横行しているんです。奴隷本人は書類の存在なんて知らないことだってあります。それこそ書類も本人さえ介さないやり取りも多い……。けれど、今回は本人もいましたから、書類を用意してたんでしょう。迂闊だったのは空白があっても書類さえあればどうにかなると、こちらが無知だと高をくくったことですね……愚かなことです」
まぁあの男も詳細を聞かされていなかったのでしょうと、余裕も見せたアルだが、国の置かれた現状を話す時には憂いを隠さなかった。
「アル、ありがとう。僕だけでは押し切られていたかもしれない……」
感謝を伝えるレグに、アルは黙って会釈をした。
「そうか……それにしても本当に助かった! 君らがいなかったらどうなってたか……」
そんなことは想像もしたくなかった。彼はユイを引き寄せた。
「私にとっても彼女は大事な教え子ですから。そう簡単には渡せませんよ」
アルは普段あまり見せない、やり切ったような笑顔を見せた。
レグも深く頷いた。
レグとアルの教養の高さをそれとなく認識していた長谷川だったが、こんな形で彼らの存在に助けられとは想像もしていなかった。




