【ep.5】鍛える先生 5.酒に飲まれる
それからさらに、幾つかの季節を繰り返した時、長谷川は待望の酒を手に入れた。
ブロムに製作してもらった真新しい木製のジョッキに注がれたその酒は、長谷川が元の世界で愛したハニーエールに近かった。
華やかな香りと果実のフレーバーが混ざり、それでいてほのかな苦みを感じさせる味わいが絶妙だった。
ソフィアも飲めるものなら、いつか聞き出せなかった希望と言うか、何か報いることはでき無いかを聞くには丁度良い機会だと思い、晩酌に誘った。
快諾した彼女だが、酒には殆ど口をつけず、
「そうなんですね~」
と、いつもの笑顔で、長谷川の話に耳を傾けるばかりだった。
味の懐かしさと、かなり久しぶりとなったこともあってか、彼の酒は進んだ。
その耳と頬がじんわり赤みがかってきたころ、彼が元の世界で塾の教室長として過ごした日々、その苦悩を唐突に切り出した。
「俺は塾の前、接客業なんかをやってたんだ……俺も若かったが、周りの仲間はもっと若かった……それで、たくさんのお客様とも接してきた」
ソフィアにしてみれば彼の世界こそ異世界。
その知識を詳細に理解できるはずもないが、ほろ酔いの彼は補足もせずに続けた。
彼女も黙ってにこにこと相づちを打っていた。
「接客業ってのは目の前のお客様の気持ちを考える仕事なんだ……それはもう塾の仕事にもおおいに役に立ったよ……若い仲間達と一緒に、ちゃんと同じ方向を向いてたんだ」
今の指導方針の原点になっているんだと付け加えた。
「で、ここからが大事なんだが……ちょっとした気配りやひと声で、お客様が笑顔や元気になるんだ。それがもう自分や仲間たちにとっても嬉しくて、こちらも元気を貰った……とても遣り甲斐があったさ! 気が付けば十五年近くも続けられたんだ……」
ソフィアはどこまで理解できているのか、聞き続けていた。
グイっと酒を口に含んだ彼も続けた。
「問題はそのあとさ……俺が初めて勤めた先の塾は、生徒へのスタンスがあまりにもなっていなかったよ。ここでの生徒が言ってみればお客様だな……いや……でも生徒は絶対にお客様になんかしないがな……」
熱を帯び、それで少し酔いが進んだか、後半は矛盾するような言い方で強調した。
「俺が赴任した教室には教室長がいなくなっちゃっててさ、特に保護者なんかお怒りだよ。そんなところにいきなり新しい先生が来たって、そりゃ辞めてしまう子もでるよ……ひと月と待たずに三人も……」
長谷川が少し俯くと、ソフィアの笑顔にも少し影が落ちた。
「初めて一生懸命授業してさ、それなのに帰りを見送った背中が最後に見た背中になった子だっていたんだ! その子が帰り際に振り返って……あの時何か言いたかったのか……そのあと親から連絡があって、辞めますって。……本当に悔しくて、申し訳なくて……あれは忘れられないよ……」
長谷川は底が見え始めたハニーエールの瓶を眺める。
「でだ、どうにか塾が落ち着き始めたころになって、今度は生徒や保護者に対して繰り返し営業を迫る経営者の登場さ! あんたこうなるまで何してたんだよって! 拾ってもらった恩もあるが、流石に……」
握った拳で憤りを示した――。
少しの沈黙のあと自分を抑えたのか、経営者とは言わばその塾での王であり、営業とは国に払う税金を回収するみたいなもんだと、皮肉を交えて彼女に説明した。
「家庭の経済状況で、子どもの学習環境は変わる。それはこの世界と一緒で、幼い彼らにはどうしようもない……塾で学びたいことを親に伝えさせれば、親はなかなか否定できない。あの時の奈緒の家だって、ただでさえ月謝を滞納してたのに……幼い当人はそうとも知らず受講届を無邪気な顔で提出してくる……あの顔だって忘れられない。で、そんな時に限ってあの経営者とくれば……売上がどうだこうだと言いやがって……」
長谷川は語気まで強めた。
急に知らない名前が出てきても、ソフィアはじっと見つめて聞いていた。どこか慈しむような、気遣うような……そんな風に見えた。
「だからこの世界で“教育”って聞いた時、元の世界を思い出したし……子どもたちの顔が重なって見えたんだ――」
ジョッキを強く握り直す。
「……そんなのブチ壊したい……そう、俺が何とかしなきゃ……!」
最後のエールを飲み干した。
「この世界なら売上とかビジネスなんか関係ない……本当の意味で子どもたちのための“教育”ができそうなんだ!」
そう言い切った彼に、「あらあらお酒が空ですね~」と、ソフィアは席を立った。
しかし彼女が戻った時には酔いと疲れのせいか、彼は机に頭を投げ出していた。
「……それに……もっと、もっと俺が強くなきゃ……守らないと……」
ここのところは生徒たちが帰ったあと、彼は自身の鍛錬に夜中まで取り組む日が増えていた。
「もっと……つよ、く……」
まぶたが静かに閉じられようとしていた。
朦朧とする意識の中、その視線の先のソフィアはいつものにこにこ顔でなく、とてつもない発見をしたような、そんな輝きをたたえた瞳で、彼を捉えていた――。
――そうして充実した日々は過ぎ、
光陰矢の如し、気が付けば五年の歳月が経っていった――




