75.皇帝、ハイドを語る
少女の瑠璃色の瞳が、まっすぐに自分を見上げていた。
闇に輝く光を渇望する己の腕が、虚空を掻いて沈む事を、常に気付かないようにしてきた。それがなぜ、あの男の連れてきた者が知っている?
「得体が知れない…」
言葉は空気を震わせ、己の耳に届いた。
それなのに、その音は少しも自分を言い聞かせてはくれない。
得体が知れないと、気味が悪いと、言い聞かせようとすればするほど、少女の言葉は自分を捕らえた。
「よりにもよって、あいつの…」
これが自分の認知しない遠い『誰か』であれば良かったのだ。そうであれば、素直に今の自分の感情も受け入れられた。
(よりにもよって…)
ハイドは深々と肺に溜まった空気を吐き出した。
「ハイド殿の部署に、例の小娘が配属になったと言う話は本当ですかな?」
低い問いかけに、ハイドは我に返った。声の方へ視線を動かしていると、別の誰かが愉快そうに笑うのが聞こえた。
「しかも、その娘、貴方に色気を使ったとか」
ほんの二時間前の知る者の限定される室内の会話が耳に届いていることに、ハイドはうんざりした。どこの会話を切り取って、そう言うのかもハイドには理解できた。アレは勘違いされても文句は言えないセリフである。
「陛下に気に入られているからと、大胆な小娘だ」
吊られたように低く笑うその音に、ハイドは不愉快そうに眉をひそめた。
「アレは紛らわしい言い方をしただけで、他意はありませんよ」
「良いではないですか。そのまま、陛下の寵妃を落とせばいい。そうすれば、少しは貴方の遺恨も晴れるというもの」
違うと言っているのに、聞き入れる気がないらしい男の言葉に、ハイドは不快感を息と共に吐いた。
「遺恨を晴らしたくて、ここにいるのではありません。私はロイヤの事を思えば、この場にいるのです」
そうだ。自分がこの場に甘んじているのは、ロイヤのため。このまま、現皇帝にこの国を任せておくわけにはいかないと思うからだ。決して、私念で動くわけにはいかない。
(扉など、開かない)
どれほど渇望しようとも、その扉に手をかけることは、今の自分が足元から崩れることになる。それは何があっても避けなければならない。
(…彼女を、解放するまでは…)
夕食代わりの果物を摘まみながら、他愛ない話から近隣諸国との情勢までをソファに座って緊張感もなく話す事が日常化しつつあった。
もはやロイヤの国策は、会議室ではなく、この場で枠組みが決まっていると言っても過言ではない。少なくとも、皇帝は議会に上げる前に、自らの考えや方針をレアに語った。
レアはレアで、それに対して構えることもなく、素直に意見を言う。もちろん、ロイヤの情勢などほとんど理解していない彼女の言葉が常に的を射ている事はないのだが、だからこそ、斬新な見解も出ることを、カイザックは楽しんでいた。
「ねぇ、ハイドの事、教えてくれる?」
一通りの話を終えたところで、レアが思い出したように言った。
「他所の男の話とは、妬けるな」
その話が出ることを理解していたカイザックは、ワインを傾けながら笑った。言葉通りになど感じていない事を理解しているレアは、頬を膨らませる。
「カイザックがわたしを反対勢力の頭領の部署に配属したんでしょ」
「まさか、あいつがレアの言ってた人間だとは思わなかったがな」
盃をテーブルに置くと、カイザックは腕を組んでフムっと唸った。
「オレよりもミヤに聞いた方が、当然ながら詳しいのだろうが、いかせん、あいつはのんびり帰路を楽しんでいるようだしな」
自分から話せるのは基本的な事だけだと前置きをして、カイザックは口を開いた。
「ミヤの二つ上で、29歳だな。ミヤと親しくなった頃からの付き合いだから、こちらも二十年来の付き合いはあるが、何せ初めからオレの事を気に食わなかったのか、まともな会話をした記憶がない」
そこまで聞いて、レアは呆れた。
それと同時に、本人から伝わって来た印象から、本当に向こうの一方的な拒絶による関係の不構築なのだという事は間違いなさそうだった。
「二十年って事は、後継者争い前から嫌われてたんだね? 心当たりはないの?」
「…そう言われてもなぁ…」
関わり自体が少なかったために、思い当る節がない。年も四つ離れていれば、教育課程で被る事もない。関わると言えば、ミヤをを通して僅かばかりだ。
「…ミヤ(弟)を取られて嫌だったとか?」
「そんなにブラコン?」
「…う~ん」
ミヤの言を借りるなら、有能なカイザックに嫌悪したと言うが、それもカイザックにはしっくりこなかった。嫉妬や嫌悪されるほどの才を自分が持っているのかという疑念もあるが、そもそも本当に関わりがなかったのだから、嫉妬されるような状況にない。
自分とハイドとの関係を端から思い出していたカイザックは、不意に糸に触れた様な気がした。
「アレビアは、五年前までハイドの婚約者だったな」
「小さい頃から嫌ってた人間に、婚約者取られちゃったら、…まぁ、いい気はしないよね」
「オレが好き好んで取ったみたいな言い方するな」
もうそれぐらいしかないとでも言いたげに、カイザックは息を吐き出した。
「アレビアは西に位置するユリミア国の第二王女だ。十一歳の時に、ユリミアとの間で交わされた条約の人質として、名目上は、宰相の嫡男のハイドの婚約者と言う事でロイヤに来たんだ」
そこまで話を聞いて、レアは首を傾げた。
「普通、王子様の婚約者とかじゃないの?」
レアの疑問ももっともで、カイザックは苦笑した。
「当時の第一皇子は、すでに四十を超えていたし正妃はいるし、第五ぐらいまでは皆同じ状況だった。それ以下にあてがった所で、ユリミアとしてもロイヤに影響力を及ぼせないだろうって事で、宰相の嫡男の婚約者に落ち着いたわけだ」
「政治的ですね~」
レアの感想に、カイザックはますます苦笑を濃くした。
「ロイヤで後継者争いが起きて、オレが王座に就いたら、これ幸いとオレの正妃にくっつけた。ユリミアに近い官吏もいるしな。混乱に乗じたところもある」
「ハイドとアレビアって仲良かったの? けっこう年の差があるような気がするけど…」
確かアレビアは今年二十歳。という事は、ハイドとは十近く違う事になる。
「ミヤの話だと…」
ミヤは何と言っていたか。当時から自分の事情に興味が薄いのに、他人の事などさらに興味がない。二人の関係の話を聞いたような気がするが、覚えていない。
「…覚えてないんだね」
「悪いと聞いた覚えはないな」
「あんまり参考にならないよ」
レアはカイザックから情報を得ることを諦めた。ルイスに聞いた方が、確実に正確な事が分かるだろう。
「当てにされてないな」
「当てにしてみたけど、ダメだったんだよ」
自分が当てにならない事を理解しながら、こんなことをいうカイザックにレアは苦笑した。食事もそこそこにワインばかり傾けている男へ、クラッカーを突き出す。
「でも、ハイドがカイザックを嫌いなのは、アレビアとは別の理由だよね」
アレビアがロイヤに来る以前から、ハイドはカイザックを嫌っていたのだから、理由は別だ。
「カイザックが皇帝である事に反発してる理由は、ちょっとくらいアレビアが関係してるかもしれないけど」
「そんなこと言われても、妃達は王座の付属品だったからな」
言外に望んでたわけじゃないと語っている。むしろ拒絶してきたカイザックとしては、意図しないところで恨みを買っているのは心外だ。
「もしかしたら…」
むっつりとしているカイザックの横顔を眺めながら、ふっとレアは呟いた。
「『糸引く者』として、嫌悪してたのかもね」
「?」
理解できないというように首を傾げたカイザックへ、レアはちょっと困ったように笑みを返した。
「だって、カイザックはわたし達が張った糸を握る力があるんだもの」
あけましておめでとうございます~☆
本年もよろしくお願いいたします!




