32.名前(1)
「お…王様、わたし、お腹すきました」
「後で食べさせてやる」
じりじりと後退しながら話を逸らそうとしたレアの試みは、あっさりと跳ね返された。
「わたし、また痩せちゃうし…」
往生際悪く足掻く言葉に何の説得力もないのは分かる。分かっているけど、楽しそうに自分を見下ろす男の笑みから、なんとか逃げ出さなければ。
蛇に睨まれたカエルと言う訳にはいかないのだと、レアは震える自分の身体を叱咤する。
「お前、覚悟して降伏したんじゃないのか? こういう事も折りこみ済みだと分からなかったとでも?」
レアの覚悟を問いながら、その顔は楽しそうだ。
「…嫌いな相手ととか、捕虜として辱めを受けるとか…そういう覚悟は、ずっと昔からありますけど…」
なんとなく安心していた。
丁寧に世話を焼かれて、優しく触れられて、なんだか大丈夫だと勝手に思っていた自分に、レアは紅くなった。昔に植えつけられた恐怖が脳裏を過って、震える。
「無理矢理は…初めてじゃないし」
魔女の小さく呟いた言葉に、男の眉がピクリと動いた。一瞬で間を詰めて、その腕を掴んで引き寄せる。
「なんだそれは」
恐ろしい程低い声で言われ、レアは泣きたくなって俯いた。
しかし、レアは自分がマリーノの国と引き換えになっていることを思い出す。ここで皇帝である男に、汚れ物と判断されて切り捨てられたら、故郷はなくなるかもしれない。
表を上げて、何でもないように笑って見せた。
「昔、囲まれて。師匠が助けに来てくれたから、何もなかったですよ」
見上げた男の目の奥に、凍るような炎が揺れている事に、レアは身を強張らせた。
「誰に?」
それは有無を言わせぬ力を持っていた。
「…婚約者に…」
声が震えた。掴まれたままの腕に力が込められたのが分かった。
「また、婚約者か」
男が奥歯を噛んだ。レアが何かを言うより先に、視界が突然宙に舞う。驚いてしがみ付くと男が笑った。
「まぁいい。ターゲットは絞ってた方が楽だからな」
楽しげな言葉に、暗い怒りが滲んでいて、レアは冷や汗をかいた。
「王様、楽しそう」
「むかつく奴は叩きのめしたくなるだろう」
「…」
一体何を考えているのか分からなくて、―――分かりたくなくて、レアは押し黙った。この人は怖い人だと思った。
太陽だから、そこに出来た闇が良く見える。闇に潜んでいるものを、焼き尽くす。
でも、ずっと太陽の下では、生き物は生きてはいけない。夜の闇が潜むものを中和し、疲れたものを癒す。
大人しくなったレアが、自分に少し怯えているのだと理解して、男は小さく笑う。自分の中にある本質を知れば、いくら魔女とて恐れるだろうと分かっていた。それでも、他でもないこの魔女に怖がられるのは本意ではない。
「オレが怖い?」
しがみつく肩のシャツ越しにキスをする。微かに強張ったのを知って、また小さく笑う。
「…王様は怖い人だけど、意味もなく怒ったりしないもの。だから、怖くないよ」
囁くような答えは、まるで安心させるみたいな響きがあって、男は素直に喜んで、その首筋にキスをした。
「で、でもね」
さらに強張ったレアが、少し緊張したような声を出す。
「陛下にも婚約者にも、…意地悪は、ほどほどにしてね」
なんだ、お見通しなのかと、男は本当に笑った。耳に息がかかって、レアはくすぐったそうに身じろいだ。
「ん?」
唐突に、男は首を傾げた。
「師匠が助けに…って、それ、いつの話だ?」
ガバッと身を離し、抱いたレアを見上げて男は聞いた。良く考えてみたら、何かすごくおかしな事ではないだろうか。
男の指摘に、レアはすごく困ったような顔をした。
「四年くらい前の話だね」
返答に、ぽかんとした男の顔を見て、レアはますます困惑した。意地悪はほどほどにしてほしいと願ったが、ほどほどでは済まないかもしれないと思った。
四年前―――つまり、レアが12の時の話なのだ。
案の定、男の眉間に嫌悪による深いしわが刻まれていく様子を見つめながら、レアは匙を投げだしたいような気分になった。
「未遂だったから良かったって問題でもないだろう」
集団で囲まれて、12の少女が怯えないわけがない。そう思うと同時に、レアの言った言葉の覚悟の重みが分かる。
数日前のあの時、この少女は本当に、蹂躙される覚悟さえ持って自分の前に立ったのだ。
「ルイーグスに感謝するよ」
怒りも一緒に吐き出すような深く長い息を吐き出して、男は呟いた。
「師匠も喜ぶよ。王様の事、すごいってずっと言ってたから」
花が綻ぶような笑みを浮かべるレアの肩に額を押し付ける。深々と息を吐きながら、本当に感謝した。
「じゃぁ、オレが食っても文句は言われないな」
死人がいくら文句を言っても気にしないが、太鼓判ならありがたく受け取っておこうと男は低く笑った。




