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魔女と王様  作者: 新条れいら
ザッカ前線
33/117

33.名前(2)

 唇が触れた。


 それの意味が分からないほど幼くはいられず、かといって、軽く受け流せるほど辱知もしていない。正しい反応の仕方も知らない。


「お…王様、あのねっ!」


 首筋からうなじへ触れられ、レアは心臓の激しい鼓動に後押しされて、必死に言葉を発した。必死さが伝わったのか、男がおかしそうに笑うのが分かる。


「いくら、わたしでも初めての時は、すっごく緊張するのっ」


「うん?」


 言葉にすると、さらに緊張してしまう。知らず指先に力が入り、しがみつく男の服にしわを作った。


「初めての出廷も、初陣の時も、口から心臓が出ちゃうかと思ってたんだから」


 緊張で震えるレアに気付いたのは、いつも師匠だけ。その背に触れて、大丈夫と背筋を伸ばすことを教えてくれた。


 震える声で訴える魔女のうなじへ強くキスをする。びくりと身を震わせたレアへ、男は笑った。いつも背筋を伸ばし続けていたのかと、安心させるように撫でる。


「お前が緊張してるのも、怖がっているのも分かった」


 自分を見上げる紅くなった瞳へ、口づけをする。


 愛しいと思い、可愛いと思った。


 目じりの涙を掬い、頬に、唇にキスをする。




 大きな手が身体の輪郭をなぞり、肌の上を這う指の熱にレアは身を捩った。


 細い肩と線の細い身体をなぞり、この身体のいかに弱っていたかを男は理解する事になった。同時に、自分の内側から、間に合ったのだと強く安堵する想いが湧く。


 これを逃せば、自分達は今度いつめぐり合えるか分からない―――焦りと安堵。


 指先へキスをして、負担にならぬように優しく愛撫を繰り返す。


「…レア」


 名を呼ばれ、それまで堪えていた涙が堰を切って溢れだした。慌てて拭うが、拭えど拭えど溢れてくる。その意味を理解してか、男がまた名を呼ぶ。


「…名前…どうして…?」


 今までずっと「魔女」だった。それで良かった。この人に名前を呼ばれたら、きっと自分は泣いてしまうだろうと感じていた。


「カイザック・フィリカート。…オレの名前」


 それと同時に、この人の名がガイディウスではない事も、分かっていた。だから、ずっと名前を呼ばずに、「王様」と呼んできた。


「…カイザック?」


「うん」


 もう一度呟くように呼ぶと、安堵したような笑みを浮かべた。


 数えきれない口付けを受けて、秘部に触れ、レアは小さな悲鳴を上げた。




 名を呼ぶのは、本当に近しい人だけだった。


 両親と義兄と、そして、師匠。


 いつからそうだったのか分からないけれど、自分の名が特別だったことだけは知っている。




 昔、自分の周囲には多くの人があり、多くの者が親しげに名を呼んだ。


 それがある時、自分の名は変わってしまった。


 今では、生き残った妹だけが、この名を呼んでくれる唯一になった。


 名と共に、自分まで違うモノになったようで、いつか本当の名を呼ぶ者が欲しいと渇望した。




 何度も打ち寄せる波の中を、ふわふわと浮かんでいるような感覚の中で、幸せな夢を見ていた。


 意識さえすれば、どこへでも行けた。


 海へ、森へ、荒野へ、―――あのひとの元へも。


 小さく力もない自分の名を呼ぶ、優しくて幼い神さま。その掌で踊って見せると、彼女は笑ってくれた。それが嬉しくて、永遠の長い時間をこの神の側にいようと決めていた。


 幸せだった。


 何も怯えるものはなく、たくさんの神々の中心に在る彼女の笑みが、世界の全てを包んでいた。いつも優しく笑む彼女の、本当の悲しみも苦しみも、何も知らなかった。


 でも、それは突然、突きつけられる。


 彼女は、自らの手で大切なものを壊さなければならなかった。それがどれほどの苦痛か、本当の意味で知っているのは、彼女と同じ神々だけ。


 力のない、ただの風でしかなかった自分は、ただただ、吐き出すように泣くその声を、聞いている事しか出来なかった。


 どうすれば、大好きな貴女を助けられますか。


 貴女のその、重い負担を軽くすることが出来ますか。


 何をすればまた、笑ってくれますか…。


 泣き叫ぶ彼女の前で、どれだけ長い時間、そう叫んだだろうか。


 小さな自分の声は、彼女の声にかき消されて、届かない。


 長い長い時間が過ぎて、彼女の半身が弱り切った自分に気付いてくれた。


 半身の彼の、大きな手の中で今にも消えていきそうな風の精へ、彼女は謝った。気付けなくてごめんなさいと、大粒の涙を流した。


 泣いて欲しいんじゃない。


 笑って欲しいの。


 そのために、何をすればいいの?


 どうすれば、貴女の重荷が軽くなるの?


「己の半身を探して来い」


 彼女の半身がそう言った。


 神さまが、それは絶対にダメだと、半身に縋り付く。彼の手の中の命を取り返そうと、幼い手を伸ばす。


「だが、それは辛い輪廻の旅だ。何百年、何千年、どれだけ廻って見つけ出せるかも分からない」


 ダメだよと泣きじゃくる彼女から、自分を守りながら、彼女の半身は硬い声音で言った。


「お前のように弱い命が、半身を見つけ出せるかどうかも分からない。見つけ出せるまで、辛い輪廻が続いていく。それでも―――」


 それでも、願うか?


 消え入りそうな命は、その言葉に小さく頷いた。


 彼女の大粒の涙を見ていた。拭う事すら出来ない我が身を、どれほど悔しいと思っただろう。


 その手の中で、消えていくいのちが微かに光を帯び、半身はそれを空へと放った。


「―――っ」


 神さまが、自分を見上げて泣いてた。


 泣かないで、神さま。


 どれだけ時間がかかっても、必ず還ってくるから。




 頬に触れる感覚に目を覚ました。


 瞼を上げると、また流れ落ちていくそれを、大きな指先が拭った。


「盛大に泣いてるな」


 心配するような笑っているような、穏やかな声が降る。


「…夢を見てたんだけど…忘れちゃった」


 ぼんやりとレアは言った。


 幸せで、悲しい夢だったことだけは覚えていて、目が覚めるといつも忘れてしまう。


「オレも夢見たな。忘れたけど」


 くすくすと笑いながら、男は涙をぬぐうレアの手を引いて口づけをした。


「!」


 ぼんやりとしていた意識を急速に覚醒させるには十分な衝撃で、レアは瞬間的に真っ赤になって毛布の中に逃げ込んだ。自分の心臓の音が耳に響く。


「今さら恥ずかしがってるのか?」


 毛布越しに聞こえてくる男の声は楽しそうだ。レアは優しいその声音に、動揺した。自分の覚悟していたものと差が大きくて、どう反応していいのか分からない。


「レア」


 名を呼ばれ、レアの身は強張った。


 夢の中、涙を流す彼女が自分の名を叫んでいた―――。


「―――…」


 毛布に逃げ込んだレアが身を強張らせたのを、カイザックは見ていた。名を呼んだら、泣いていた。また泣いているのかと手を伸ばしかけた時、彼女が頭だけ出す。大きな瞳が揺れながら自分を見上げ、そして俯いた。


「…名前を呼ばれて、…優しく触れられる日なんか来ないって、思ってたから」


「…」


 どうしたらいいのか、分からないと呟く。


 誰が好きだとかカッコいいとか、そんな会話を楽しむはずの年頃で、自分の幸せの想像も出来なかったのかと、いたたまれなくなる。その頭を撫でた。


「オレの側で、オレの名を呼ぶ事。後は、無理と無茶はしない事。それくらいで良いんじゃないか?」


「…名前、呼んでいいの?」


 困惑気味に、レアは顔を上げた。ロイヤの皇帝の名を、そう軽々しく呼んで良いものでもない気がするからだったが、カイザックは笑う。


「いいさ。お前の性格なら、そのうちに皆、そんなものだと思うようになる」


 それで良いのかなと思ったが、その内心を理解したのか、彼はちょっと嬉しそうにその頬を撫でた。


「オレも、名を呼んでほしいと思える人間が出来るとは思ってなかった」


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