33.名前(2)
唇が触れた。
それの意味が分からないほど幼くはいられず、かといって、軽く受け流せるほど辱知もしていない。正しい反応の仕方も知らない。
「お…王様、あのねっ!」
首筋からうなじへ触れられ、レアは心臓の激しい鼓動に後押しされて、必死に言葉を発した。必死さが伝わったのか、男がおかしそうに笑うのが分かる。
「いくら、わたしでも初めての時は、すっごく緊張するのっ」
「うん?」
言葉にすると、さらに緊張してしまう。知らず指先に力が入り、しがみつく男の服にしわを作った。
「初めての出廷も、初陣の時も、口から心臓が出ちゃうかと思ってたんだから」
緊張で震えるレアに気付いたのは、いつも師匠だけ。その背に触れて、大丈夫と背筋を伸ばすことを教えてくれた。
震える声で訴える魔女のうなじへ強くキスをする。びくりと身を震わせたレアへ、男は笑った。いつも背筋を伸ばし続けていたのかと、安心させるように撫でる。
「お前が緊張してるのも、怖がっているのも分かった」
自分を見上げる紅くなった瞳へ、口づけをする。
愛しいと思い、可愛いと思った。
目じりの涙を掬い、頬に、唇にキスをする。
大きな手が身体の輪郭をなぞり、肌の上を這う指の熱にレアは身を捩った。
細い肩と線の細い身体をなぞり、この身体のいかに弱っていたかを男は理解する事になった。同時に、自分の内側から、間に合ったのだと強く安堵する想いが湧く。
これを逃せば、自分達は今度いつめぐり合えるか分からない―――焦りと安堵。
指先へキスをして、負担にならぬように優しく愛撫を繰り返す。
「…レア」
名を呼ばれ、それまで堪えていた涙が堰を切って溢れだした。慌てて拭うが、拭えど拭えど溢れてくる。その意味を理解してか、男がまた名を呼ぶ。
「…名前…どうして…?」
今までずっと「魔女」だった。それで良かった。この人に名前を呼ばれたら、きっと自分は泣いてしまうだろうと感じていた。
「カイザック・フィリカート。…オレの名前」
それと同時に、この人の名がガイディウスではない事も、分かっていた。だから、ずっと名前を呼ばずに、「王様」と呼んできた。
「…カイザック?」
「うん」
もう一度呟くように呼ぶと、安堵したような笑みを浮かべた。
数えきれない口付けを受けて、秘部に触れ、レアは小さな悲鳴を上げた。
名を呼ぶのは、本当に近しい人だけだった。
両親と義兄と、そして、師匠。
いつからそうだったのか分からないけれど、自分の名が特別だったことだけは知っている。
昔、自分の周囲には多くの人があり、多くの者が親しげに名を呼んだ。
それがある時、自分の名は変わってしまった。
今では、生き残った妹だけが、この名を呼んでくれる唯一になった。
名と共に、自分まで違うモノになったようで、いつか本当の名を呼ぶ者が欲しいと渇望した。
何度も打ち寄せる波の中を、ふわふわと浮かんでいるような感覚の中で、幸せな夢を見ていた。
意識さえすれば、どこへでも行けた。
海へ、森へ、荒野へ、―――あの神の元へも。
小さく力もない自分の名を呼ぶ、優しくて幼い神さま。その掌で踊って見せると、彼女は笑ってくれた。それが嬉しくて、永遠の長い時間をこの神の側にいようと決めていた。
幸せだった。
何も怯えるものはなく、たくさんの神々の中心に在る彼女の笑みが、世界の全てを包んでいた。いつも優しく笑む彼女の、本当の悲しみも苦しみも、何も知らなかった。
でも、それは突然、突きつけられる。
彼女は、自らの手で大切なものを壊さなければならなかった。それがどれほどの苦痛か、本当の意味で知っているのは、彼女と同じ神々だけ。
力のない、ただの風でしかなかった自分は、ただただ、吐き出すように泣くその声を、聞いている事しか出来なかった。
どうすれば、大好きな貴女を助けられますか。
貴女のその、重い負担を軽くすることが出来ますか。
何をすればまた、笑ってくれますか…。
泣き叫ぶ彼女の前で、どれだけ長い時間、そう叫んだだろうか。
小さな自分の声は、彼女の声にかき消されて、届かない。
長い長い時間が過ぎて、彼女の半身が弱り切った自分に気付いてくれた。
半身の彼の、大きな手の中で今にも消えていきそうな風の精へ、彼女は謝った。気付けなくてごめんなさいと、大粒の涙を流した。
泣いて欲しいんじゃない。
笑って欲しいの。
そのために、何をすればいいの?
どうすれば、貴女の重荷が軽くなるの?
「己の半身を探して来い」
彼女の半身がそう言った。
神さまが、それは絶対にダメだと、半身に縋り付く。彼の手の中の命を取り返そうと、幼い手を伸ばす。
「だが、それは辛い輪廻の旅だ。何百年、何千年、どれだけ廻って見つけ出せるかも分からない」
ダメだよと泣きじゃくる彼女から、自分を守りながら、彼女の半身は硬い声音で言った。
「お前のように弱い命が、半身を見つけ出せるかどうかも分からない。見つけ出せるまで、辛い輪廻が続いていく。それでも―――」
それでも、願うか?
消え入りそうな命は、その言葉に小さく頷いた。
彼女の大粒の涙を見ていた。拭う事すら出来ない我が身を、どれほど悔しいと思っただろう。
その手の中で、消えていくいのちが微かに光を帯び、半身はそれを空へと放った。
「―――っ」
神さまが、自分を見上げて泣いてた。
泣かないで、神さま。
どれだけ時間がかかっても、必ず還ってくるから。
頬に触れる感覚に目を覚ました。
瞼を上げると、また流れ落ちていくそれを、大きな指先が拭った。
「盛大に泣いてるな」
心配するような笑っているような、穏やかな声が降る。
「…夢を見てたんだけど…忘れちゃった」
ぼんやりとレアは言った。
幸せで、悲しい夢だったことだけは覚えていて、目が覚めるといつも忘れてしまう。
「オレも夢見たな。忘れたけど」
くすくすと笑いながら、男は涙をぬぐうレアの手を引いて口づけをした。
「!」
ぼんやりとしていた意識を急速に覚醒させるには十分な衝撃で、レアは瞬間的に真っ赤になって毛布の中に逃げ込んだ。自分の心臓の音が耳に響く。
「今さら恥ずかしがってるのか?」
毛布越しに聞こえてくる男の声は楽しそうだ。レアは優しいその声音に、動揺した。自分の覚悟していたものと差が大きくて、どう反応していいのか分からない。
「レア」
名を呼ばれ、レアの身は強張った。
夢の中、涙を流す彼女が自分の名を叫んでいた―――。
「―――…」
毛布に逃げ込んだレアが身を強張らせたのを、カイザックは見ていた。名を呼んだら、泣いていた。また泣いているのかと手を伸ばしかけた時、彼女が頭だけ出す。大きな瞳が揺れながら自分を見上げ、そして俯いた。
「…名前を呼ばれて、…優しく触れられる日なんか来ないって、思ってたから」
「…」
どうしたらいいのか、分からないと呟く。
誰が好きだとかカッコいいとか、そんな会話を楽しむはずの年頃で、自分の幸せの想像も出来なかったのかと、いたたまれなくなる。その頭を撫でた。
「オレの側で、オレの名を呼ぶ事。後は、無理と無茶はしない事。それくらいで良いんじゃないか?」
「…名前、呼んでいいの?」
困惑気味に、レアは顔を上げた。ロイヤの皇帝の名を、そう軽々しく呼んで良いものでもない気がするからだったが、カイザックは笑う。
「いいさ。お前の性格なら、そのうちに皆、そんなものだと思うようになる」
それで良いのかなと思ったが、その内心を理解したのか、彼はちょっと嬉しそうにその頬を撫でた。
「オレも、名を呼んでほしいと思える人間が出来るとは思ってなかった」




