第九話 ラジオ——発生から10日目
俺は月岡達規。電気のある部屋で、外のことが分からなくなった男だ。
10日目の朝、外から来ていた水と電気が止まった。
ネットがもったのは、それから20時間だけだ。
夜の監視壁で、園区の街灯だけが太陽電池で点いている。
「車で、電波の入るところまで出てみる?」
咲乃がスマホを振る。圏外のままだ。
「出口は、俺たちが自分で塞いだんだぞ」
義父はもう、屋上の配線図を広げていた。
「テレビなら、まだ電気の来てる中継局がある。屋上にアンテナを立てる」
「立てたら、何が映るんです」
「立てなきゃ分からん」
「待ってる間に、体操ね。毎朝9時、全員」
「おばさんは椅子のままでいいです。義兄さんは床」
二日後、アンテナが国の放送と隣県の局を拾った。どこも同じ文面を繰り返すだけだ。
*
15日目の晩、鍋に入っていたのは、戻した乾燥野菜だった。色だけは、ちゃんと緑だ。
母さんは細い格子柄の座面に浅く腰かけて、一切れつまんでは、皿に戻している。
「お母さん、もう少しどうです? 味、濃くしてみたんですけど」
「ありがとう、千鶴さん。噛んだ気がしなくてね。年寄りの口は、わがままなのよ」
義父の茶碗も、半分残っている。義母は黙って、母さんの皿を自分の側へ引き寄せた。
米も冷凍の肉も、倉庫にはまだ山ほどある。箸の伸びる物だけが、足りない。
テレビの中では、隣県の安全区域に畑ができた、と言っていた。
*
40日目、県の局の画面に、初めて人が映った。
急ごしらえのスタジオで、緑一色の背景が波打っている。
「県南部の演習場に、安全区域が開設されました。備蓄と周囲の状況に応じて、移動するか、ご自宅で救助を待つか、ご判断ください」
「行く?」
「行きません。水も食べ物もあるし、知らない道を走るより、ここのほうが固い」
義父がうなずいたとき、咲乃は膝の上の記録カードと、テレビの画面を見比べていた。
「このニュース、誰に向けて流してるの?」
誰も、すぐには答えなかった。電気もネットもない町で、テレビの映る家が何軒残っているのか。
義父が、自分の額をぴしゃりと叩いた。
「ラジオだ……忘れてた」
「誰も用意してなかった。俺もだ」
倉庫には、猫の砂まで山にして積んである。電池で鳴る小さな箱が一つ、どこにもない。
「ラジオなら、私の」
母さんが寝室へ行って、色の抜けた布バッグを提げて戻ってきた。中から出てきたのは、ダンス教室で使っている再生機だ。
「ラジオも付いてるのよ。でも、ずいぶん前から鳴らないの。踊りの曲しか出なくて」
義父がドライバーで裏蓋を外し、懐中電灯を当てる。
「コンデンサが一つ、膨れてる。よくある部品だ」
「替えは」
「いらない電気製品はないか。小さいのでいい」
俺は、現場の肩こり用に買ったマッサージ器を持ってきた。
義父はそれを割って、同じ形の部品を外した。はんだごての先から、細い煙が上がる。
晩飯のあと、再生機がざらついた音を出した。
「FMとAMと、短波。元から付いてる分は、全部戻った」
ダイヤルを回すと、市のケーブル局まで声が出た。
母さんは、再生機の角を親指で拭っていた。
*
その晩遅く、俺は再生機を短波に合わせた。
前の時、何度か聞いた局がある。東北の海沿いの町の無線好きで、呼び出し符号はDB-7。
周波数の数字だけは、頭に残っていた。
雑音が寄せては引く。その底から、男の声が浮いてきた。
「ゾンビだ。多すぎる。潮のように、北から来る。向こうが見えない」
声はそこで雑音にさらわれて、その夜はもう浮いてこなかった。
「その町、ここからどのくらい」
穂乃実が道路地図を広げ、指で北へたどっていく。
「……500キロ」
「爺さん、日が高いと陰に入ってたでしょ。だから歩くのは朝と夕方、4時間ずつ。速さは時速4キロ」
「町を抜けて、川で回り道して、昼は止まる。それを入れて、約一か月」
「来るって、決まったの?」
義母の声が低い。
「決まってない。これは爺さん一人の歩き方。群れになったらどうなるか、誰も測ってないよ」
*
月の半ばに大雨が降って、外壁の発電パネルが洗われた。
翌日の晩、咲乃が電力の表示を読み上げる。
「雨のあとの一日で、電池に80kWh余った」
「余った分は、育苗の棚の灯りに回す」
「それと、この1か月、外の爺さんは一度もこっちを向いてません。テレビの音、上げていいです」
その週、水耕の棚で初めての収穫があった。
「150平米のうち、刈れたのは端の二列だけ。それでボウルに山盛り」
咲乃がカードに書き込むそばで、母さんがレタスを一枚、手でちぎって口に入れた。しゃく、と音がする。
母さんは、もう一枚ちぎった。
義父が、籠のウズラの産んだ小さな斑の卵を、手のひらで転がす。
「卵はいい。だが、餌はどうする。基本の分しか買ってないんだろう。足りなくなったら、誰の米から出す」
穂乃実が、ノートを開いた。
「餌の減り、ずっと量ってた。全部飼うと、主食の減りが目に見えて早くなる。10羽に減らすなら、雌9羽に雄1羽。卵を抱かせて入れ替えるのは、9か月ごと」
「決めるのは、投票でね」
集めた票の山の横に、閣下が座る。前脚をそろえて、紙を見下ろしている。
「閣下、それは票じゃないからね」
開けてみると、10羽が5票。全部飼うが1票で、書いたのは俺だ。
咲乃はカードに、決まった数と月を書き込んでいく。
*
55日目。
前の時、義実家とうちのマンションは、川を挟んで向かい合っていた。毎晩9時に懐中電灯を三回点ける。
向こうの窓も、三回光る。
55日目の夜、向こうの窓は光らなかった。次の夜も、その次の夜も。
だから今夜は、宴にすると決めていた。
卓上の電気グリルで、義父と俺がラム肉の串を焼く。
「千鶴さん、串の刺し方が上手ねえ」
「お店で、年に一度は焼き鳥の日をやってたんですよ。お母さんこそ、踊りはまだ続けるんですか」
「曲が戻ったからね。ここは床が広いでしょう」
「お母さん、踊るなら、そこの配線はまたいでください」
義父が真顔で言って、母さんが声を出して笑った。
義母が冷凍庫の奥から、アイスの箱を出してくる。
咲乃が焼けた串を一本取って、俺のほうへ差し出した。
「はい。一番焼けてるの」
受け取って、テーブルの頭数を数えた。六つ。
椅子の下では、犬が串の落ちてくるのを待っている。
肉に歯を立てたとき、テレビの「緊急のお知らせ」の画面がちらついた。
画面が、スタジオに切り替わる。続いて、どこかの町の空撮。
安全区域の柵の外で、黒い塊が少しずつ盛り上がっていく。柵と同じ高さまで積み上がって、向こう側へこぼれた。
義母が串を皿に置いた。母さんの箸も、宙で止まる。
咲乃の指から、アイスのへらが落ちた。
「北部の複数の安全区域が突破されました。ゾンビの群れは、時速3〜5キロで南下を続けています」




