第八話 最初の一体——発生から1日目
俺は月岡達規。外へ出ずに夜勤をする男だ。
晩飯は、贅沢にすると決めていた。葉物は、どうせ何日も持たない。
義母が残りの野菜を全部使って鍋と炒め物を並べ、俺は炭酸のボンベを原液のボトルにつないで、一本きりのボトルにコーラを作った。
「乾杯って、そのボトル一本を回すの?」
「回す。ボトルは一本しかない」
「言い出した人が一番飲むくせに」
咲乃にグラスを取られる前に、一口目を流し込む。七日分の段取りが、やっと胃の底に落ちた。
母さんは黙って、二杯目のご飯をよそっている。
「この唐揚げ、千鶴さんが揚げたの?」
「冷凍のをね。揚げたのはあたし」
義母の金属の浅皿には、唐揚げが山になっていた。縁の細かい擦り傷に、油が光っている。
「閣下、あんたのはこっち。食べたら口拭くよ」
閣下は自分の皿を平らげると、猫用のシートを持った義母の手から、顔をそむけた。
テレビは国の放送をつけっぱなしにしてある。
「原因は、まだ分かっていません。外出を控え、救助をお待ちください。国は、一人も見捨てません」
誰かのスマホが短く鳴った。自治会の連絡グループに、世帯ごとの人数を知らせてください、と上がっている。
「……返す?」
「返さない」
咲乃は画面を伏せた。
食べ終わると、母さんと義母が先に寝室へ引き上げた。
「最初の晩は、俺が見ます」
「若いのが寝とけ。年寄りは夜が長いんだ」
「お義父さんは、朝の配電を見てください。あれは俺じゃ分からない」
義父は鼻を鳴らして、それでも腰を上げた。
*
監視室は、もとはトイレにするはずだった小部屋だ。画面は8面で、園区の外と中、建物の外と中を映しているが、音はない。
一つしかない椅子に、閣下が先に座っていた。
「閣下、交代だ」
床に下ろすと、閣下は椅子の脚に背中をこすりつけてから出ていった。
園区は工業団地のいちばん端で、裏は刈り取ったあとの麦畑だ。いちばん近い住宅は3キロ先の露佐野団地で、まだ誰も入居していない。
前の時の今夜、俺は家族の誰とも同じ部屋にいなかった。母さんのことは、咲乃に一度話した。
二度目はいらない。画面の中では、朝まで何も動かなかった。
6時、穂乃実が交代に来た。
「異常なし?」
「なし。それと、10時半ごろ、門番の爺さんが戻ってくる」
「この状況で? 出勤?」
「前の時も戻ってきた。途中で噛まれて、それでも園区まで帰ってきた」
穂乃実はノートを開いて、ペンのキャップを外した。
*
10時前に起きると、義母が取っておいたお粥を蒸し器から出してくれた。
「昨日の残り、どうしました」
「朝でほとんど片付いたわよ。味のついてない菜っ葉の端だけ、この子にあげたの。ご飯はいつもどおり、おやつは少し減らすからね」
足もとで振れていた犬の尻尾が、止まった。生ゴミ係に任命された上に、手当を削られている。
お粥をかき込んで、監視室へ入った。
「来たよ。10時38分」
穂乃実の指す画面で、門の外に自転車が一台現れた。門番の爺さんが右手でハンドルを握り、左手を、ときどき肘から振っている。
爺さんは自転車を守衛室の横に停めて、中に入った。壁の外の室外機が回りはじめる。
「5分」
穂乃実が数える。
「7分。……出てきた」
爺さんが足をもつれさせて、守衛室から出てくる。二歩で、前のめりに倒れた。
穂乃実の指が、俺の袖をつかんだ。
「死んだの?」
「死んだ。でも、死にきってない。ほら、動いた」
両脚が二度、地面を蹴る。仰向けのまま背中が弓なりに反って、頭と踵だけで体が持ち上がった。
そこから、ねじれるように立ち上がる。寄せたカメラの中で、首筋の皮膚は灰色にくすみ、黒っぽい筋が浮いていた。
袖から指が離れた。穂乃実がノートに、倒れた時刻と起き上がった時刻を書きつける。
「義兄さん。この画面、しばらく私が見てていい?」
「頼む」
*
3日目の昼、黒水箱が三つ埋まった。三つとも、分解剤の量を変えて入れてある。
マスクをして、義父と中身を見比べた。
「一番溶けて、臭いも残ってないのはこれだな」
「次からは、1.5倍で揃えます」
義父が箱の側面に、油性ペンで「1.5」と書く。中身をもとからある汚水の経路へ流し、洗い物の水の槽から水を回して管を洗った。
インカムから、咲乃の声がした。
「作業中、外の一体は向きを変えてない。守衛室の陰に立ったまま」
「音は届いてないな。続けるぞ」
搬入口の網の外側には小さな蛾が何匹も止まっていて、内側には一匹もいない。
居住区に戻ると、穂乃実がノートを開いて待っていた。
「二日見て、分かったことだけ言うね。目はたぶん、ほとんど見えてない。明るいか暗いかは分かる」
「日が当たると、陰に移る。音がすると、そっちを向く。昼の暑いときのほうが、動きが速い」
「匂いは?」
「まだ分からない。分からないことは、分からないって書いとく」
国の放送によると、自衛隊が感染者に向けて撃ち始めた。安全区域は、まず小さな町から作るという。
自治会の連絡グループでは、米と缶詰を交換しませんか、という書き込みに返事が三つついていた。
*
5日目の昼、穂乃実のノートに五行目が増えていた。低いところを、くぐらない。
半開きの通用口に、爺さんは何度も肩からぶつかっては向きを変えている。頭を下げれば通れる高さだ。
「達規、車」
インカムの咲乃の声で、監視室に飛び込んだ。
白いSUVが一台、ふらつきながら道を来る。交差点の手前で止まって、運転手が左の前輪を覗き込んだ。
「パンク?」
「空気が抜けかけてる。……入ってくる気だ」
門はナンバーを読んで開く。記録が残るだけで、どの車でも通してしまう。
SUVが中へ入り、門が閉まった。奥の画面で、爺さんが首を回して歩き出す。
「気づかれた」
「車の人は、気づいてない」
運転手は守衛室のほうへ二歩歩いて止まり、車を振り返った。助手席に誰かいるらしい。
車に戻って荷室から出したのは、小さなスプレー缶だった。タイヤの補修剤だ。
運転手が、左の前輪にしゃがみ込む。爺さんは、まっすぐな道をまっすぐ来る。
「呼べないの」
「呼べない」
咲乃の手が、俺の手首をつかんだ。爺さんが、SUVと同じ画面に入ってくる。
運転手が立ち上がって、車の中の誰かと話す。それから、振り向いた。
爺さんまで、10メートル。
「乗って」
咲乃の声は、画面の向こうには届かない。運転手は補修剤の缶を放り出して、運転席に転がり込んだ。
SUVが後ろ向きに飛び出し、門の前で止まる。開くまでの二秒が長い。
開いた隙間から、SUVが道路へ抜けていく。門が閉まって、爺さんは閉じた門に一度ぶつかり、向きを変えた。
画面の端に、補修剤の缶だけが転がっている。
「……行った」
咲乃の指が、俺の手首から離れた。
逃げるのはいい。ゾンビも連れて行けよ。
手のひらが、汗だった。




