第七話 D-day——発生から1日目
俺は月岡達規。今日で引っ越しを終わらせる男だ。
5時、台所のテーブルに、咲乃が記録カードを扇のように広げた。スマホはスピーカーで、倉庫に泊まり込んだ義父母とつないである。
母さんの部屋の戸は、閉まったままだ。
「常温の荷物、110立方」
「全部、4階に上がってる」
「冷凍」
「庫の中で回ってる。夜中に温度も見た」
「猫砂、750キロ」
「閣下の分ね。……閣下、そっちは入口じゃないの。そう、そっち。入った」
受話口の向こうで、携行箱の扉がカチリと鳴る。俺は車の鍵を二本、カードの横へ滑らせた。
「車は2台とも、鍵がここ」
最後のカードで、咲乃の指が止まった。
「お義母さんのこと」
「今日、話す」
咲乃はうなずいて、カードの束に輪ゴムをかけた。
6時、家じゅうの電気を一つずつ切っていく。冷蔵庫が唸るのをやめて、犬がその前に座り込んだ。
「冷蔵庫は、もう開かないよ」
咲乃に言われても、犬は扉の前から動かない。
7時、母さんが布バッグを提げて起きてきた。小花の模様は色が抜けて、地の布とほとんど見分けがつかない。
「道久さんが迎えに来てくれるんでしょう。先に行ってるね」
玄関でバッグを受け取った義父と、目が合う。義父は小さく顎を引いた。
9時、義父が冷凍車で戻ってきて、引っ越し屋が家電と段ボールを積み込んでいく。
「お届け先は、この伝票の住所で?」
「そこでお願いします。積むところまでで大丈夫です」
10時12分、代金を払って家の鍵をかける。義父は高速をわざと半周回ってから、工業団地へ下りた。
「時間は」
「11時48分です」
守衛室は空っぽで、門番の爺さんの自転車もない。前の時と同じだ。
12時20分、フォークリフトが最後のパレットを下ろした。
*
借りた冷凍車は、運送屋の倉庫へ返す約束だった。義父が冷凍車を、俺がSUVを出して、助手席に母さんを乗せる。
「あら、もう出発?」
「その前に、返し物がある」
運送屋の倉庫は、うちの倉庫から12キロ離れている。鍵を返すと、駐車場には俺たちの車しか残らなかった。
義父は冷凍車の陰に立って、こっちを見ないようにしている。俺はエンジンを切った。
「母さん。旅行じゃないんだ」
最初から話した。7日前に車の中で目を覚ましたことも、今日から何が起きるかも。
母さんにだけ、今日まで黙っていたことも。母さんは一度も口を挟まず、布バッグの持ち手を指に二回巻きつけていた。
「ここからなら、避難所の場所は分からない。母さん、今なら誰にでも警告していい」
俺のスマホを、母さんの膝に置く。母さんはそれを見下ろして、それから俺の顔を見た。
「言わなくていいよ。黙っていた理由は分かるから」
「電話は、自分のでかけるね」
俺のスマホを俺の膝に戻して、母さんは自分の携帯と手帳を出した。
「ちょっと、降りるよ」
母さんは駐車場の端のフェンスまで歩いて、日陰に立った。手帳を開いて番号を押し、誰もいない方向へ一度頭を下げる。
一本目が終わると、ページをめくって二本目。背中はまっすぐなまま、ほとんど動かない。
車の外に出て、義父の隣に立った。義父が腕時計を見る。
「長いな」
「40年分です」
「そうか」
フェンスの向こうを、軽トラックが一台通り過ぎていく。母さんは、ページをもう一枚めくった。
30分ほどして、母さんは携帯を手帳に挟み、バッグにしまった。こっちへ歩いてきて、俺がドアを開けるより先に、自分で後部座席のドアを引く。
座って、シートベルトを締めて、それきり何も言わない。
義父が助手席に乗り込み、俺は車を出した。最初の信号で、義父がスマホを差し出してくる。
「見ろ」
動画アプリの一番上に、手ぶれのひどい映像があった。駅前らしい交差点で、男が、通りがかった人の肩に後ろから噛みついている。
「何分前だ」
「5分前です」
「急げ」
来た道を、行きの半分の時間で戻った。ルームミラーの中の母さんは、窓の外を見ている。
*
1階のエレベーターの前で、義母と咲乃が待っていた。
「お義母さん、お昼は」
「まだなの。お腹すいた」
母さんの声は、いつもの声だった。義父が荷捌き場の真ん中で、手を一つ叩く。
「車を先に入れる。達規くん、バックで奥まで」
「ミニバンも俺が入れます」
「頼む。囲いは咲乃、脚輪を蹴っとけ」
SUVとミニバンを、頭を外へ向けて並べる。その前に、石膏ボードの仮壁を一枚ずつ立てていった。
最後の一枚の、外せる口の留め具を、義父が自分の指で確かめる。
「フォークの電池は」
「抜きました」
「よし。全員、上がれ」
咲乃が母さんと義母を連れて、エレベーターに乗り込む。閣下の携行箱は義母の腕の中で、犬は咲乃の足もとにくっついている。
扉が閉まる前に、咲乃が手を伸ばして、俺の作業着の袖を一度つまんだ。
「下、頼んだよ」
「頼まれた」
二基のエレベーターを最上階へ送ってから、俺は4階の柱の点検口を開けた。
柱を抱いて、下りる。練習のときより、掌が熱い。
1階で、仮壁の口を内側から確かめる。外からは、ただの壁だ。
「上げるぞ」
上りは、柱の上から義父が垂らしたロープで引き上げてもらった。
4階の居住区に戻ると、閣下はもう携行箱を出て、ソファの真ん中を取っていた。
「閣下、そこは母さんたちの席」
閣下は耳だけこっちへ向けた。犬はその下で、腹を見せて伏せている。
15時過ぎ、監視壁の端に流したニュースに、市街地の交差点が映った。
歩いている人は、一人もいない。歩いているものは、いた。
*
休む暇はなかった。3階の階段室で、義父が作業確認票を咲乃に渡す。
「落とす階段は2か所。ボルトは合わせて220本だ。外したら、一本ずつ線を引け」
「分かった、引く」
レンチの音が二つの階段室に二時間響いて、咲乃の票に短い線が増えていく。
17時。義父がジャッキの前にしゃがみ込み、俺と咲乃は3階の床まで下がった。
「誰か、階段に乗ってるか」
「乗ってない」
咲乃が、首から下げたタブレットで監視画面を確かめる。
「外、誰もいない。園区の中も、道路も」
「下がれ。もっとだ」
義父の背中が、小さく動いた。
ノックのような音、それから階段が落ちた。
足の裏で、床が一度鳴った。踊り場の下に、粉塵が白く立ちのぼった。
もう一つの階段室でも、同じ音がした。誰も、すぐには口を開かない。
「電気」
「電池の側、異常なし。冷凍の庫も回ってる」
「水」
「槽の水位、変わってない」
俺が答えると、義父は懐中電灯で踊り場の下を照らした。2階へ続くはずの段が、そこにない。
「上がってくる道は、もうない」
これで正式に籠城だ。
4階に戻って、地元の掲示板を開いた。霧瀬で、まだ家にいる人いますか。
30分前の書き込みに、返事は一件もない。俺も、返さなかった。
監視壁のどの画面にも、道路に人は映っていなかった。




