第六話 蚊——発生まで5日
俺は月岡達規。寝ている間にも仕事を増やす男だ。
暑い。
靴底越しに、屋上のコンクリートが足の裏を焼く。息を吸うたび、甘く腐った匂いが喉に貼りつく。
こらえきれずに、手すりから身を乗り出して吐いた。
真下に一体だけ立っていて、吐いた物を頭から浴びても顔を上げない。こっちの匂いのほうへ、首を少し傾けただけだ。
外壁の発電ガラスの縁に、ネズミが何匹も取りついている。毛の抜けた体で跳ねては、つるつるの面に爪を滑らせて落ちていく。
上がってこれない。
耳もとで、細い羽音がした。
手の甲がちくりとする。叩いた掌に、潰れた蚊が貼りついていた。
かゆい。掻いた指先が、濡れている。
手の甲の皮膚が裂けて、黒く変わっていた。黒は手首を越え、肘のほうへ這い上がってくる。
指が、半分しか曲がらない。
屋上の扉が開いた。
咲乃だった。麦茶のボトルを二本抱えて、階段室から顔を出している。
羽音が、俺の耳もとを離れていく。扉のほうへ。
「来るな、蚊がいる!」
扉を閉めに踏み出した膝が、折れる。言うことを聞かない腕を振り回して、咲乃のほうへ体ごと倒れ込んだ。
どこかで、猫が鳴いた。
天井。
義実家のリビングの天井だった。胸の上で閣下が四本の足をそろえて、俺の顔を見下ろしている。
「にゃあ」
もう一度鳴いて、台所のほうへ首を振った。朝飯の催促だ。
カーテンの隙間が白い。6月22日の朝。
右手の甲を、目の前に持ってくる。何もついていない。
「ここ、選び間違えたか」
トイレで夢を並べ直す。下にいたのは一体だけで、ネズミは外壁で滑っていた。
蚊だけが、何事もなく飛んでいた。今の倉庫には、虫を止める物が何もない。
どれも夢の中の俺にそう見えただけの話だ。それでも、最後の一つは今日から埋められる。
*
食品の学校の二つ上に、チョコレートの工場をやっている先輩がいる。7時半に電話をかけると、地図が一枚送られてきた。
「虫とネズミ? 口で言うより、見たほうが早い。来いよ」
咲乃を乗せて出ようとしたら、後部座席にもう一人座っていた。
「夢の話なんでしょ。私も聞く」
車の中で、屋上とネズミと蚊の話をした。扉から顔を出したのが誰だったかは、言わなかった。
穂乃実は最後まで聞いて、指を一本立てる。
「義兄さんが見たのは、蚊が飛んでたところまで。蚊がうつすところは、見てないよね」
「見てない」
「じゃあ、そこから先は義兄さんの心配。心配していいの。見たことと、分けて覚えといて」
助手席の咲乃が、窓の外を向いたまま聞いた。
「場所、替えるの? あと5日で」
「……替えない。足りない物を足す」
「それ、決定?」
「決定」
先輩は工場の床と壁の境目を、指でなぞっていく。
「ネズミはここを通る。板を立てて、上に返しをつける。虫は光で寄せて、外で落とす」
搬入口の内側に、細かい網の幕。換気口の奥で、青い光の箱が低く唸っている。
俺は一つずつ写真を撮り、咲乃は取引先の名前を書き取った。
「倉庫の内装だろ。なんでそこまで要るんだ」
「倉庫だから、です」
先輩は首をひねったきり、それ以上は聞かない。帰りがけに、割れたチョコレートの段ボールを二箱積んでくれた。
帰りの車で咲乃が業者に電話をかけ、網と光の箱は注文が通った。板の返しは、自分たちで切る。
*
23日と24日は、ほとんど倉庫で寝た。網を張って板を切り、合間に車をディーラーへ点検に出した。
荷捌き場の奥に、銀色の囲いが二つ並んでいる。脚輪のついた骨組みに、細い板を隙間を空けて打ちつけてあった。
「囲いは」
「二つとも来た。作業のときだけ車にかぶせて、走る前に外す。横の口から、中で外が見える」
義父は囲いの骨を拳で叩いてから、天井を指した。
「踊り場にかぶせる板は、3階に立てかけてある。エレベーターの面板も付けといたぞ。番号を知らなきゃ、4階は出てこない」
「柱は」
「昨日、全員一回ずつ滑った。千鶴が一番速かった。咲乃は二回目で泣きそうな顔をしてたな」
「してない」
荷台の奥から、咲乃の声だけが飛んできた。
助手席の背には、無地のタオルが掛けたままだ。端の縫い目が少し丸まっている。
荷台には、水耕の種と液肥、きのこの菌床。それと、籠が一つ。
ヒメウズラが16羽、砂を浴びている。農機の店のレジ横で、つい手が出た。
「流されたな」
籠を覗き込んだ義父が言った。
「流されました」
「餌は」
「基本の分は、買ってあります」
ウズラの一羽が、砂を浴びるのをやめて、こっちを見上げた。
*
25日の晩、義実家の食卓で、穂乃実がA4の紙を一枚出した。
「常備薬は、処方の出た分と市販薬でそろった。足りないのは、こっち」
消毒薬、生理食塩水、包帯、ガーゼ、テープ。その下に、圧力鍋と蒸留器と、冷蔵庫二台。
閣下が紙の右下に座った。冷蔵庫の行が、ちょうど尻の下に隠れる。
「閣下、そこ大事なとこ」
穂乃実が紙を引くと、閣下は紙ごと半回転して、今度は左下に収まった。
「圧力鍋と蒸留器は分かる。冷蔵庫二台は、なんでだ。冷凍車から外した冷凍庫もあるぞ」
「薬は、保存する温度がそれぞれ違うの。食品の出し入れでも温度が動くから、できれば冷蔵庫を分けたい」
「圧力鍋も蒸留器も、家の道具だからね。病院の滅菌の代わりにはならない。そこは当てにしないで」
台所から、義母が顔を出した。
「冷蔵庫なら、うちのを一台持っていけばいいじゃない」
「お母さん、それ野菜室に味噌が入ってるやつでしょ」
「分かった、降参。専用を一台にして、その条件で保管できる物を選んでくれ」
穂乃実はペンを取って、何行かに線を引いた。残った行の横に、小さく温度を書き足していく。
「一台なら、これだけ。あとは常温で置ける物に替える」
閣下が前脚を伸ばして、ペン先を追いかけた。
*
26日の夜、倉庫の4階で、咲乃が記録カードを一枚ずつめくっていった。
「網」
「搬入口と換気口、張った」
「ネズミの返し」
「1か所だけ残ってる。明日の朝やる」
「階段」
義父が懐中電灯で、天井の向こうの階段室のほうを指した。
「まだ繋がってる。明日だ」
咲乃が最後のカードを裏返す。白い面には、日付が一つだけ書いてあった。
明日は6月27日だ。




