第十話 泥板——発生から70日目
俺は月岡達規。今日も倉庫の後始末をする男だ。
70日目の朝、義父と3階の階段室へ下りた。
懐中電灯の輪の中に、踊り場を塞いだ板がある。宴の三日後、その上に余ったモルタルで傾きをつけた。
「あの空撮が、まだ目に残ってる」
義父が板の縁にしゃがみ込み、コテの先で表面をなぞる。ひびは一本もない。
「積み上がったら、それが足場になる。平らなままだと、そこに立たれます」
「だから斜めにした。立てるかどうか、確かめろ」
作業着のポケットに、階段を落とした日のナットが一つ残っていた。斜面の上に置くと、止まらずに転がって、縁から下の暗がりへ落ちていく。
かつん、と遠い音がした。
インカムから、穂乃実の声がする。
「義兄さん、そこ、頭を下げれば通れる隙間ってある?」
「ない。板と壁の間は、指も入らない」
「なら、記録と合う。あの人たち、低いところはくぐらない。……重なったら別だけど。そう書いとく」
その声に、義母の声が割り込んだ。
「孵ったよ。籠の隅で、三つ」
義父がコテを置いて、先に立ち上がった。
「見に行くぞ」
90日目、県の局のアナウンサーが、背後の地図を指した。
「南下していた群れの先頭は、本県から北へおよそ400キロ、北部の大きな川の北岸で止まっています。県内で最も近い安全区域は、霧瀬市の南、50キロの町に開設されました」
あの町の柵が何メートルあるのか、俺は知らない。
*
同じ日の午後、雨になった。屋上を叩く音が、4階の天井まで降りてくる。
「やるか」
義父が防護服の袋を開けた。汚水の槽は使いはじめて三か月で、底に溜まった物を、いつか出さなきゃいけない。
雨の音が、こっちの音を隠してくれる。
「外は」
「爺さん、守衛室の軒下で雨宿りしてる。こっちは向いてない」
監視壁の前の咲乃は、膝に閣下、足もとに犬を置いている。閣下は画面よりも、咲乃のペンの先を見ていた。
「閣下と犬は私が見てる。そっちの扉、二枚とも閉めてからにしてね」
処理区と生活区の間の扉を、二枚とも閉める。穂乃実が、処理の部屋の表示を指でたどった。
「オゾンは切ってから時間がたってる。数字も下がった。入っていいよ」
台車に、150Lのステンレスのタンクを載せた。把手には、剥がしたラベルの糊の跡が四角く残っている。
「お母さん、バルブはあたしでいいの?」
「千鶴さんが開けて。垂れたら、私が下で受けるからね」
母さんは小さなたらいを抱えて、タンクの口の下にしゃがんだ。
「開けるよ」
義母がバルブを回す。溶けかけたチョコレートみたいな物が、重たい音を立ててタンクに落ちてきた。
呼吸器のフィルター越しでも、臭いは入ってくる。義父の目尻に、皺が寄った。
「止めて」
「止めたよ。……一滴も垂れてない」
たらいを抱えたまま、母さんが報告する。
義父と二人で、重くなった台車を固形物の部屋まで押していった。圧縮機の槽に布を何重にも敷いて、中身をおたまで移していく。
布をかぶせ、板をゆっくり下ろした。
機械が唸るのをやめたとき、槽の底にあったのは、平たい一枚の板だった。泥の板だ。
義父がそれを持ち上げて、懐中電灯の光にかざした。
「これに字を刻んだら、何百年か後には史料になるか?」
「中身を調べて吐いた人が、文化財を壊した罪に問われますね」
呼吸器の中で、義父がくぐもった音を立てた。笑っているらしい。
泥板は、全部で14枚になった。壁際に積んで、電気のオイルヒーターを二台向ける。
電気が余っているうちに、乾かしてしまう。
*
150日目、国の放送の終わりに、天気予報が戻ってきた。
「明日は、北の山沿いで雪の見込みです」
咲乃が記録カードを指で押さえて、穂乃実のノートと並べる。
「天気、戻ったね。電気より先」
「最初に戻すのが天気なんだ。外に出る人が、また出てきたってことだよ」
倉庫の中は、季節が分からない。断熱の壁は、寒さも暑さも外に置いてくる。
水耕の棚ではレタスが棚の縁からはみ出して、ニラは三度目の刈り取りを待っていた。
「寒くなるなら、鍋の日を増やそうか。ニラ、どうするの」
「刈って、半分は卵とじ」
義母と穂乃実の献立の相談に、母さんが「お粥にも」と付け足した。
*
その晩、インカムで穂乃実が呼んだ。
「義兄さん、来て。あの声」
居間の再生機から、雑音の割れ目を縫って、聞き覚えのある声が出ていた。
「また来た。前より多い。北に残ってた連中が、まとめて下りてくる。道に収まりきってない」
それから一週間、俺たちは夜ごと再生機の前に座った。
「今日は、窓から数えるのをやめた」
「米は、あと二週間分ある。缶詰は、一日一つにした」
「隣の家の戸が、昨日から開いたままだ」
声は毎晩、少しずつ短くなる。
「こっちから、何か言えないの」
咲乃が、再生機のダイヤルに手を伸ばして、引っ込めた。
「聞くだけの機械だ。送る側の口がない」
答えた俺の声は、自分で思ったより硬い。
その夜、物資の棚を端から数え直す。数は、咲乃のカードと一つも違わなかった。
一週間目の晩、国の放送が、DB-7の声のあとに割り込む。
「自衛隊は、群れの南下を止めるため、北部の川に架かる橋を順次落としています」
放送の向こうで、橋の落ちる音がした。




