第十一話 10日後——発生から220日目
俺は月岡達規。まだこの倉庫で暮らしている男だ。
220日目の朝、穂乃実が監視壁の隅の温度表示を読み上げた。
「外、0度。守衛室の軒の水たまり、白くなってる」
義父と二人で、水の通り道を端から確かめて歩く。槽から居住区へ下りる管、屋上へ上がる管、育苗の棚へ回る細い枝。
「止まってる区間はあるか」
「育苗の奥の枝が、三日使ってません」
「そこから割れる。回すか、閉じて抜くかだ」
「回します。ポンプで、細く流し続ける」
義父が枝管に手のひらを当てて、しばらく動かない。
「捨てる水じゃないな」
「槽に戻します。回すだけです」
棚の前では、義母と穂乃実が、もう籠を手にしていた。
「棚を全部温めとくのは無理でしょう。どうするの、達規さん」
「全部残したいです。空けたら、春にまた一から……」
「一からでいいじゃない。冷やして全部だめにするより」
「刈れるものは今日刈る。苗だけ一つの棚に寄せて、そこにだけ水を回す」
穂乃実が言い終える前に、義母はもうレタスの根元に鋏を入れていた。
「それ、決定?」
カードを構えた咲乃に、俺はうなずくしかなかった。
夕方には、苗の箱が一つの棚に寄せられて、細い管の中を水が回りつづけていた。
*
道路地図を、霧瀬市のページで開いた。
国の放送は、毎晩少しずつ地名を増やしていく。
「北部の町では、電気と水道の復旧が始まりました。南の平野では、川で分断された群れの一掃が進んでいます」
「一掃って、どうやるの」
義母の問いに、誰も答えなかった。放送も、そこまでは言わない。
義父が、地図の上で川を指でたどる。霧瀬の市街地は、本流と二本の支流に挟まれた、細長い輪の中にあった。
「うちの園区も、輪の内側だね」
咲乃が、輪の東の端を指先で押さえる。
「端っこだがな。それに、低い」
義父は鉛筆を取って、輪の外の川に架かる橋の印へ、小さくバツを付けていった。放送で、落ちたと聞いた橋だ。
母さんが身を乗り出して、輪の真ん中あたりに指を置いた。
「私の受け持ってた地区は、ここ。川の土手から、三本目の通りまで」
「あの辺り、古い家が多いですよね」
「多いのよ。耳の遠い人も、足の悪い人もね」
母さんはそれ以上言わずに、指を地図から離した。
「北はもう、建て直してるんだって。じゃあ、こっちもそのうちね」
義母が言って、地図のページの角を折った。
穂乃実が、その折り目を指でならした。
*
雪の時期は、長かった。
朝の体操と水耕の棚の世話の合間に、月に一度の仕事がある。柱を伝って1階へ下り、仮壁の内側で車のエンジンを両方回す。
「エンジン、二台とも一発」
「バッテリーは」
「足りてます。タイヤの空気も、記録どおり」
咲乃のカードに、一行ずつ増えていく。
ある晩、咲乃が古いほうの箱から一枚抜いて、読み上げた。
「去年の夏。ウズラの卵が11個。お義母さん、レタスおかわり。お父さん、指にはんだの火傷」
「そんなことまで書いてたのか」
「書いてるよ。決まったことも、決まらなかったことも」
義父が、火傷の跡の消えた指を眺めた。
母さんは、広い床で再生機を鳴らして、毎朝ひとりで踊っている。曲は、いつも同じ三曲だ。
「おばさん、膝の曲げ方、それで合ってます」
「穂乃実さんに言われると、安心ね」
俺は細かい格子柄の椅子に座って、監視壁を眺める。膝の上には、閣下がいる。
この冬、閣下はなぜか俺の膝を選ぶようになった。
「達規、重くない?」
「重い。でも、どくと怒る」
「救助って、どっちから来るのかしらね。南から? 北から?」
義母が、編み棒を止めて聞いた。
「来る方に、まず道が要る」
義父が答えて、新聞の代わりに読み古した取扱説明書をめくった。
春と梅雨が過ぎて、また暑くなった。
*
435日目は、朝から風が強かった。
監視壁の中で、麦畑の跡に伸びた草が、一方向に寝ている。台風が近いらしい。
国の放送が、今日も一掃の終わった町の名前を読み上げていく。
「県北部の各地区では、一掃が完了し、住民の帰宅が始まりました」
画面の端に、片付いた商店街が映った。シャッターを押し上げる手は、厚い手袋をしている。
「次は、どこかしらね」
「霧瀬の名前、まだ一回も出てないね」
穂乃実が、指を折って数えるのをやめた。
「出るときは、順番が来たときだ」
義父が言う。咲乃はカードの箱を膝に載せて、角をそろえていた。
箱は四つ目になる。
「帰れるようになったら、まず店の冷蔵庫ね。開けたくないけど」
義母の声に、穂乃実が笑って顔をしかめた。
母さんは、乾いたタオルを畳む手を止めずに言った。
「私は、公民館に顔を出さないと。皆さんがどうしてるか、聞いて回らなきゃ」
畳み終えたタオルが、膝の上で四角く重なっていく。
米は、半分も減らなかった。電池も水も、カードの数字どおりに持った。
435日、誰にも見つからなかった。
俺は月岡達規。準備に無駄は一つもなかった。
「霧瀬市では100日間、生存者からの信号を確認できていません。10日後、周辺の河川に囲まれた区域で、放水による一掃を実施します」
10日後。隠れすぎたせいで、俺たちは水に沈められる。




