第十二話 ウズラとエレベーター——発生から435日目
俺は月岡達規。自分で塞いだ出口を開ける男だ。
放送が次の町の名前に移っても、居間の誰も動かなかった。
最初に口を開いたのは、咲乃だった。
「ここ、水に耐えられる?」
「建物が残っても、車と出口が沈む。荷物をまとめろ。逃げる準備だ」
義父はもう立ち上がって、壁の鍵掛けから車の鍵を二本外していた。
「あの人たちは泳げないから、沈んで終わり。……私たちは、4階に閉じ込められて終わりか」
穂乃実が、自分の言葉の続きを飲み込むみたいに唇を結んだ。
階段を落としたのは俺だ。仮壁を立てたのも、俺だ。
出口を一つずつ潰して、最後の一つを、水が潰しに来る。
「車、走れるの」
「走れる。月に一度回して、記録もある」
咲乃が、カードの箱を開けて一枚抜いた。先月の、エンジンの欄だ。
「……ほんとだ。二台とも、一発でかかってる」
「10日あるなら、慌てて飛び出すことはない」
義父が、鍵を二本、テーブルに並べた。
「達規くん。出る前に、何を決めとく」
*
「四つあります」
咲乃が、新しいカードを一枚、表にした。
「一つ目。出たあとも、ここは閉めていきます。上の階は水をかぶらない。いつか戻れたら、拾える物がある」
「二つ目は」
「出るまでの間、ちゃんと食べて、ちゃんと寝る。途中で誰かが倒れたら、何を積んでいても意味がない」
「三つ目」
「向こうは配給でしょうけど、持ち込んだ物まで取り上げるとは、放送は言ってません」
「言ってないだけだ」
「だから、聞くまでは決めつけません。四つ目。現金は嵩張るだけです。電池と電気の道具を積む。向こうでも、たぶん使い道がある」
咲乃のペンが、四行目で止まった。
「それ、決定?」
「決定」
その場で、荷造りが始まった。
台車の把手の、四角い糊の跡を握って、物資の棚を往復する。咲乃がカードを読み、俺が積む。
「乾燥野菜、レトルト、調味料。合わせて120キロ」
「種は全部。豆は、種にする分を一種類ずつ」
「ウズラは」
「全部連れていく。卵は、ゆでて持つ」
籠の中で、ウズラが砂を浴びる音がした。
米は、義父が袋を一つずつ担いで、二台の荷室に一袋ずつ入れた。
「薬は、この箱一つにする。飲んでる人の分と、傷の手当ての分だけ」
穂乃実が、箱のふたに油性ペンで中身を書いていく。義母は無地のポーチに、裁縫道具と輪ゴムを詰めていた。
口から、細い縞の裏地がのぞく。
「携行缶は」
「中身は見た。色も匂いも変わってない。満タンの車に足すだけで、当てにはしない」
義父が言って、俺の顔を見た。
「1台ずつ、だぞ」
「分かってます」
*
出る前に、片付けておくことが一つある。
監視壁の中で、門番の爺さんが、今日も守衛室と門の間を往復していた。
「荷物を運ぶ横を、うろうろされたらかなわん」
義父が、エレベーターの面板の前に立った。俺は籠から1羽を出して、小さな虫かごに移す。
二基のうち、家族の使わないほうの1基に、虫かごを置いた。
扉を閉め、1階へ送る。
監視壁の中で、1階のエレベーターの扉が開いた。爺さんの頭が、こっちを向く。
義父の指は、面板の上で止まったままだ。誰も、何も言わない。
爺さんの背中が箱の中に消えたところで、義父の指が面板を押した。扉が閉まって、表示の数字が上がってくる。
ウズラの声が一度だけ聞こえた。監視画面では、老人がエレベーターの中をうろついていた。
4階と3階の間で、義父がそのエレベーターの電源を落とす。表示の数字が消えた。
母さんが、守衛室の映った画面に向かって、小さく頭を下げる。
咲乃は、カードに何も書かなかった。
「まだ、安全って言わないで」
穂乃実が、監視壁から目を離さずに言った。
「ほかにいないか、外を見てから。一体いなくなっただけ」
*
昼過ぎ、4階の搬入口から、ウズラの籠をロープで地面まで下ろした。
籠の口を開けると、3羽が順に出て、麦畑の跡のほうへ歩いていく。
それから一昼夜、監視壁の前に誰かが座っていた。斜面の下の暗がりにも、カメラを一台向けておく。
何も上がってこない。
436日目の昼過ぎ、穂乃実がノートを閉じた。
「3羽、1昼夜。3羽とも、まだ歩いてる」
「じゃあ」
「分かったのは、鳥が平気だったってことだけ。私たちが平気かどうかは、分からない。だから全部着て、網もして」
防護服を着込み、袖口と首を蚊よけの網でもう一度絞った。
「洗濯機と乾燥機、止めとけ。エレベーターに電気を回す」
義父の声で、家族の使うほうのエレベーターが動き出す。閣下は携行箱の中で、扉の隙間の外の匂いに鼻を寄せていた。
1階に着いた。仮壁の板を、留め具から一枚ずつ外していく。
外せる口の留め具は、あの日義父が指で確かめたままだ。
板の向こうから、白く埃をかぶったSUVとミニバンが現れる。
義父がミニバンの運転席に座って、キーを回した。少し咳き込んでから、エンジンが回る。
荷捌き場の隅に、細長い箱が一つ、埃をかぶって残っていた。農業用ドローンの箱だ。
操縦の人は、あの日来なかった。
「機体は、お前が出せるのか」
「説明書なら、435日ぶん読みました」
「読んだだけか」
「出します。俺が」
仮壁の口から、灰色の空が四角く見えている。その端から、低い唸りが近づいてきた。
空に、自衛隊の無人機がいた。




