第三話 母と知らない番号——発生まで7日
俺は月岡達規。母親に旅行だと言ってしまった男だ。
チャイムが鳴ったのは、トイレの話が始まる前だった。
母さんだった。義母が夕飯に呼んでいたらしい。
肩に掛けた布バッグは、小花の模様がすっかり色褪せている。
「何してるの、みんなで床に這いつくばって。ご飯は?」
義母が「あら」と額を叩いて、台所へ走った。話に夢中で、夕飯のことを全員忘れていた。
咲乃が膝立ちになって、口を開きかける。俺はその前に割り込んだ。
「夏だしさ。みんなで旅行に行こうって話してたんだ」
「いいじゃない。行き先は道久さんたちとよく相談しなさい」
「場所はもう決めてある。母さんは、俺の段取りについてきてくれればいい」
「穂乃実さんも呼んだら? 一人だけ置いていくのは、かわいそうよ」
「……はい。呼びます」
咲乃の返事が、少し遅れた。
母さんは菓子折りを義母に渡すと、バッグの口を覗いた。ダンス教室で使う小さな再生機の角が、手ぬぐいの間から見えている。
「私は公民館に寄るから、ご飯は先にどうぞ。千鶴さん、ごちそうさまの分は今度ね」
玄関の戸が閉まると、咲乃が俺の袖を引いた。
「なんで、お義母さんには本当のこと言わないの」
母さんは、民生委員として40年、役所に報告してきた人だ。知ったら、黙っていられない。
「……飯にしよう」
咲乃は返事をせずに、タブレットに何か打ち込んだ。
*
義母の角煮は、箸で押すと繊維に沿ってほどける。
ひと切れ口に入れたところで、ソファに置いた俺のスマホが短く鳴った。
咲乃が箸を置いて、軽い足取りで取りに行く。
「見られて困るメッセージでもあるの?」
答えるより先に、悲鳴が返ってきた。
振り向くと、目の前にスマホの画面が突き出されていた。
知らない番号。本文は一行だけ。
〈お前が今何をしているか知っている〉
角煮の味が消えた。
元請けか。ノツギ機工の誰かか。
現場のカメラは、まだ誰にも渡していない。
画面が切り替わる。同じ番号からの着信だった。
咲乃がスマホをテーブルに放り出して、俺の背中に回った。シャツの裾を、両手で握りしめている。
通話ボタンを押して、スピーカーにした。
「怖かった? ねえ、びっくりした?」
受話口の向こうで、聞き慣れた笑い声が弾けた。
「……穂乃実か」
「番号変えたって、お姉ちゃんにメッセージ送ったよ。届いてない?」
背中の咲乃が、自分のスマホを確かめて首を振った。
「届いてない。お前の姉ちゃん、腰抜かしてるぞ」
「うそ。あ、こっち電波が悪い……じゃ、私は退散するね」
「待て。明日、咲乃が迎えに行くから、家に置く薬のリストを作っといてくれ」
「薬? 何の」
「明日話す」
通話が切れた。咲乃の握っていたシャツの裾が、ゆっくりほどけていった。
「あの子……」
震えている指で、咲乃は角煮をひと切れ、自分の皿に取った。
*
食べ終わると、全員でまた床に這いつくばった。
義父が湯のみを片手に、配管図を引き寄せる。
「排水は、トイレだけじゃ済まんぞ。管はどこを通して、誰が見る」
「車載トイレは分解剤を使って、黒水箱は倍の数を置きます。処理区画は生活区画と分ける」
溜まった分は、敷地にある浄化槽へ、もとからある汚水の経路で送る。雨水の管には繋がない。
「その浄化槽、もつのか」
「200人規模で設計されてます。うちの人数で割れば、約30年分の余裕がある」
「余裕は余裕だ。送風機も汚泥も、見ないと駄目だぞ」
点検は俺が回ることになった。
義父は配管図の管井を、爪で二度叩いた。
「使わん管井は、発泡材で詰めとけ。上から水を流すと、管の中で音が響く」
「流すのは雨の日にします。外の音に紛れる」
義父がうなずいた。咲乃の指が、画面の上で「発泡」「雨の日」と動く。
「この子たちは?」
義母が、ソファの閣下と、床の犬を順に指さした。
「犬はなんとかなります。猫が厄介で、流せる猫砂ばかりじゃない」
ちょうどそのとき、閣下が起き上がった。
10キロの茶トラが、のしのしと部屋の隅の猫砂の箱に入っていく。4人分の視線を受けたまま、悠然と用を足しはじめた。
ちらりとこっちを見て、また前を向く。見られている自覚はあるらしい。
閣下という名前は伊達じゃない。
「閣下も連れていけるんでしょうね」
義母の声が、少し低かった。俺は砂の箱から目を戻して、口を滑らせた。
「合う砂が見つからなかったら……閣下には、ここで留守番してもらうかもしれません。餌と水を多めに置いて」
義母は湯のみを置いた。
「それは、ちょっと。……あたし、閣下を置いていくなら行かないよ」
ソファのほうから、視線を感じた。
振り向くと、閣下は箱から出て、ソファで前脚を舐めていた。こっちなんか見ていない。
それでも首の後ろが、ちりちりした。
「……今のは取り消します。使った砂は猫砂袋に詰めて、流さずにゴミと同じ部屋で管理する」
咲乃が、ペンの先を俺に向けた。
「それ、決定?」
「決定。閣下の分も、俺が仕入れる」
*
「次はゴミだな。包装はかさばるぞ」
義父が図面の4階の隅を指した。
「破砕機と圧縮機を入れます。砕いて固めて、積めるブロックにする」
俺は台所から大豆をひとつまみもらって、手のひらに広げた。
「砕いたあとは、だいたいこの粒の半分くらいです」
「動かしっぱなしにはできんぞ。電気も食う」
「モーターはどっちも4.8kWなので、交代で昼に回します」
音は、と義父。
「遅い機械を選びました。それでも合板で囲います」
「吸音材も貼れ。予備のモーターは」
予備は二台、余分に置く。
固めたブロックは人の入らない小部屋に積んで、紫外線とオゾンの灯をつけっぱなしにしておく。人が入る前には、灯を切って測ってから。
咲乃がペンを止めた。
「待って。じゃあ、ペットボトルも缶もなし?」
「瓶も缶も箱もなし。決まった形の容器は、潰しても場所を食う」
「非常用の水くらい、ボトルで置こうよ。停電した夜に、浄水器が動くか確かめてから飲むの?」
痛いところを突く。
「……置く。数を決めて、空いたら潰して砕く」
「それと、コーラは?」
咲乃の目が笑っている。俺が一日一本は空けることを、この家の全員が知っていた。
「原液と炭酸のボンベで作る。ボトルは一本を使い回す」
「一番困るのは、あなたじゃない」
閣下が、俺の手のひらから落ちた大豆を前脚で転がしていた。
*
義母が湯のみを両手で包んだまま、首を傾げた。
「でも達規さん、そこはよそ様の建物でしょう。家族で入っていいの?」
「工事が止まっている間の段取りは、俺が任されてます。鍵も図面も、こっちにある」
「それでも、ノツギさんの人は来るんでしょう」
毎日来るなら隠しようがない、と義父も続いた。
俺は壁の時計を見た。19時を回っている。
ノツギ機工の現場の連中は、今夜、駅前の店で集まる。前の時もそうだった。
「来なくなります」
「なぜ分かる」
「今夜、全員が食あたりになる」




