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この空色バス、春先行き。【完結】  作者: 猪野いのり
第三章 最終便、発車します《3年生編》
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Ep.53 ぼくは勉強ができない(5・終)「グッド・ボーイ」

 羽鳥からもらったノートと参考書を、カバンに詰め込んだ。

 ったく、重いじゃねぇか。

 そう思う心は、重くなかった。


 家に帰り、玄関扉を開ける。

 するとそこに、母さんの通勤用のパンプスを見つけて小さく驚いた。


 堂本 信広:

(もう帰ってきてるのか……?)


 いつも遅く帰ってくる母さんが、先に帰宅している。

 俺は靴を脱いで、そのままリビングへと入った。



❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀


 ぼくは勉強ができない

(5)「グッド・ボーイ」


❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀



 母さんはキッチンに立っていた。

 部屋着に着替えて、水道水をコップに注いでいる。


 母さん:

「……おかえり」


 そう言った母さんの声は、掠れていた。顔も少しぼぉっとしている。


 堂本 信広:

「風邪?」


 母さん:

「……みたい。早退してきたの。ちょっと寝てるわね」


 母さんは水をゴクゴクと飲み、ふぅと小さく息を吐くと、こちらへ来てリビングから出て行こうとする。


 俺の近くを通る母さん。

 その体はいつからか、俺にとって小さく見えていた。


 堂本 信広:

「……大丈夫か?」


 母さん:

「うん。ご飯作れなくて、ごめんね」


 堂本 信広:

「そんなんいいって」


 すると母さんは少しだけ微笑んで、リビングから出ていった。

 それを見送って、俺はキッチンへと近づく。

 冷蔵庫を開けて、卵や野菜があることを確認しうなずく。

 仕方ねぇ、と小さくつぶやいた。



 ・   ・   ・



 コンコン、と母さんの部屋をノックした。

 返事も待たずに中に入ると、ベッドの中で寝込む母さんが、のっそりと顔を上げてこちらを見る。


 母さん:

「ノブ……?」


 堂本 信広:

「飯作ってきた。食える?」


 片手に小さなトレイを持って、母さんのそばに寄った。

 ベッドサイドの棚の上に置いたそれには、小鍋に作られた粥が乗っている。


 ネギと鮭をたっぷり入れた卵粥だ。

 少し入れたショウガが、体を温めてくれるだろう。


 母さん:

「ありがとう」


 母さんは嬉しそうに笑って、上半身を起こした。

 俺はフタを開けて、一緒に持ってきたお椀にそれをつぐ。


 堂本 信広:

「ん」


 ずいっとそれを渡すと、母さんは。


 母さん:

「……ふふ、まさかの至れり尽くせり」


 掠れた声で、小さくつぶやいた。

 お椀とスプーンを受け取って、俺を見上げる。


 母さん:

「料理上手くなったね、ノブ」


 堂本 信広:

「まぁな」


 少しだけ笑った俺に、母さんは目を瞬く。

 お粥はまだ熱いのか手をつけずに、そっと小さく言った。


 母さん:

「……志望校を変えたのは、克弘から聞いたから?」


 堂本 信広:

「!」


 驚いて母さんを見た。

 ただうなずくしかない俺に、母さんは「やっぱり」と苦笑する。


 母さん:

「ごめんね。内緒にしてたわけじゃないの」


 母さん:

「ノブには、ノブが選んだところへ行ってほしかったから」


 母さん:

「……だから」


 堂本 信広:

「……」


 母さん。

 小さい頃から、ずっと一緒に住んでた母さん。

 父さんとケンカになると、あんたはたびたび暴力を受けていた。

 基本ビビりな父さんは、大きな暴力はしない。

 ただカッとなったとき、加減のできない拳を衝動的にふるっていた。


 ああ──まるで、今の俺みたいじゃないか。

 グッと唇を噛みしめた。


 堂本 信広:

「……俺、ああなりたくなくて」


 噛みしめた唇は、そのまま震えた。


 堂本 信広:

「俺、父さんみたいになりたくない……」


 堂本 信広:

「……バカな乱暴者で、いたくないんだ……」


 母さん:

「……ノブ」


 堂本 信広:

「でもまだバカだから……ごめん」


 ごめん。

 でも、これから勉強頑張るから。

 遅いかもしれないけど、頑張るから。

 だから。

 ごめん。

 きっとまだまだ、心配をかける。


 母さん:

「……謝らなくていいのよ」


 母さんは笑う。そして。


 母さん:

「ノブはバカじゃない。いい子よ」


 堂本 信広:

「!」


 母さん:

「ご飯も作ってくれて。こんな迷惑かけてばかりの母親に優しくしてくれる」


 母さん:

「……とってもいい子」


 堂本 信広:

「……っ」


 ああ。

 今日はきっと厄日なんだ。


 森に嫌味を言われて。

 羽鳥に情けない部分を見せちまって。

 母さんに──……涙を見せるなんて。


 ちくしょう。

 泣きたくなんかないのに。

 でももう、止められない。

 止まらないんだ。


 堂本 信広:

「……っう、……っ」


 母さん:

「ノブ、本当に今までごめんね。小さかったあんたに、たくさん嫌なもの見せたよね。ごめんね」


 堂本 信広:

「……んなこと……ない!」


 母さんはいつだって、父さんの暴力が俺たちに向かないように体を張っていた。

 克弘は俺にそれを見せないように前に立って、耳を塞いでくれた。


 俺だけだ。

 俺だけが何もせずにただ、みんなに文句を言って不満をまき散らしていた。


 家族だけじゃ物足りなかったそれを。

 クラスメイトや友人たちにも、当たり散らして毒を吐いた。


 くたばれよ。

 いなくなっちまえ。

 バカじゃねーの。

 吐いた分だけ、その毒が自分に回るとも知らずに。


 ああ──ああ、俺は本当にバカなガキだった。


 堂本 信広:

「母さんは……悪くない」


 母さん:

「……ふふ」


 母さん:

「ほらやっぱり……いい子だ」


 母さんは笑う。

 まるで、長年背負っていた積荷を下ろしたかのように。

 何度もこんな俺を「いい子」だと、小さな子どもに向けるように言う。

 その微笑みを受けながら、遠くに聞こえる優しい声。



「堂本くんは大丈夫」


「大丈夫……大丈夫だよ!」



 ノー天気女の、バカに明るい声。

 それに俺は「ああ、そうだな」と。

 聞こえない返事を、心の中でしたんだ。



 ・   ・   ・



 もうすぐ冬休みになる、12月の教室。

 2学期末のテスト結果が返ってきた。


 福原先生:

「堂本、今回頑張ったな! これなら三者面談で言ってたところも目指せそうだ」


 堂本 信広:

「!」


 担任の福原が、テストを返すときにそう告げる。

 俺は少しだけ緩みそうになる頬をおさえ「ん」と答えたら「そこは『はい』だ!」と叱られた。


 結局、志望校を変えた。

 志望先は共学の普通科だが、調理科もあるその学校は調理検定が受けられたり、その方面への大学や専門学校の進学率も高いらしい。

 まだ、料理を本気でやっていこうなんて考えちゃいないが、行ける道もあるなら増やしてもいい。

 そう考えて選んだそこは、いつしか行きたいかなと思える場所になっていた。


 福原先生:

「ま、このまま頑張れ。冬休みに気を抜くなよ」


 堂本 信広:

「うぃっす」


 少し機嫌よく答えてやると、福原がちょっと目を丸くしたので面白かった。


 休み時間になると、羽鳥と中曽根が俺の元にくる。


 中曽根 悠:

「堂本、褒められてたじゃん!」


 羽鳥 梢:

「堂本くん、頑張ってたもんね!」


 明るい幼馴染みコンビだ。

 まぁ、とうていこいつらの成績には敵わないが、俺は笑って言ってやる。


 堂本 信広:

「へっ、当たり前だろ」


 羽鳥 梢:

「あ、またそういう笑い方する」


 うるせぇ。


 唇を尖らせた俺はふと、教室の扉に立つ戸田るりを見つけた。

 教室に入りづらそうに、こちらを見ている。


 堂本 信広:

「おい、戸田が来てるぞ」


 中曽根 悠:

「へ、るり?」


 中曽根は振り向き彼女を見ると、風のように去っていった。

 羽鳥は、とくに動かず俺の元に残る。


 堂本 信広:

「お前は行かねぇの?」


 羽鳥 梢:

「あれは中曽根に用事がある顔だから。2人の邪魔しちゃダメでしょ」


 堂本 信広:

「へぇ」


 昔からの仲になると、表情だけでわかるもんなのかね。

 頬杖をつく俺に、羽鳥はさらに話しかけた。


 羽鳥 梢:

「私があげた参考書とノート、役に立った?」


 堂本 信広:

「ん? まぁ……」


 羽鳥 梢:

「それならよかった!」


 正直、羽鳥からもらった参考書は、俺にはわからない部分も多かった。

 でも、そこかしこに書き込まれた彼女のメモ書きに助けられ、何とか勉強を進められた。

 まるで、羽鳥と勉強ができたみたいな。

 そんなむず痒さもあったけど。


 堂本 信広:

「……助かったよ」


 そう言うと、羽鳥の目がクリッと丸くなる。


 羽鳥 梢:

「堂本くん、柔らかくなったねぇ」


 堂本 信広:

「は?」


 羽鳥 梢:

「いい感じじゃん。そっちの方が、私は好きだな!」


 堂本 信広:

「……!」


 にこにこしてそう言った羽鳥は、教室の扉から戸田たちに呼ばれて返事をする。


 羽鳥 梢:

「え、何なにー」


 パタパタと駆けていく羽鳥。

 こっちの気も知らねぇで、今日もバカに明るい。

 俺はそれを見送ることもできずに、机に顔を伏せた。




 堂本 信広:

「……」


 堂本 信広:

「好きとか言うんじゃねぇよ……」


 羽鳥に見せられない表情で、小さくつぶやいた。




 ◇ 終わり ◇

❀次エピソードへ続く

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