Ep.45 笑う猫にくちづけを(2)「怖くて」
気がつけば、夏休みに近づいていた。
夏休みに入って早々にある修学旅行は、受験生の俺たちにとって、中学校生活最大の思い出となるはずのイベントだ。
だから、るりとも思い出を作りたくて、自由行動に誘ったんだ。
だってその時は、スズがこんなことになるとは思わなかったから。
春までは、いつも通り元気だったスズ。
それなのに。今は。
中曽根 悠:
「スズ!」
スズが聞いたこともない鳴き声を上げて、胃の中のものを吐き出した。
床に広がった吐瀉物が、ツンとした酸っぱい匂いをリビングにまき散らす。
俺は慌てることしかできなくて、一緒にいた姉貴がタオルを持ってきた。
中曽根 悠:
「どうしよう……!」
父さんも母さんも、まだ仕事で帰ってきていない午後6時。
姉貴は、濡れタオルでスズの口元を拭きながら、俺に指示を出した。
中曽根 雫:
「とりあえず、私たちだけで病院に連れていこう! 悠、ケージ持ってきて……あと、お母さんに連絡だけ入れておいて」
中曽根 悠:
「わ、わかった」
姉貴がいてよかった。
スマホで母さんに連絡だけ入れる。
そして、姉貴と一緒に近所の西村動物病院まで、ケージに入れたスズを連れて向かうことにした。
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笑う猫にくちづけを
(2)「怖くて」
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病院に着くと、客は俺たち以外にはおらず、すぐに診てもらうことができた。
スズを連れてきたのが俺たち2人だけなのを知った克己先生が、少しだけ眉をひそめたように見える。
しかし、診察台に乗せたスズを撫ぜるその手が、少しだけ柔らかな動きをしていた。
西村 克己:
「だいぶ衰弱しているね。点滴をするかい」
中曽根 雫:
「それでよくなるなら、お願いします」
姉貴の目は、少し潤んでいた。
いつも強気で傲慢な姉貴も、スズのことになるとどうしたらいいのかわからない迷子のような顔になる。
でもそれは、俺もだ。
俺はスズに対して、どうしたらいいのかわからないでいる。
西村 克己:
「……よくなることはね、ないと思う」
中曽根 悠:
「!」
克己先生の言葉に、ピクリと俺たちは反応した。
そんな俺たちに、克己先生は眼鏡の奥から目を向ける。
西村 克己:
「もうこの子は、看取りの段階にきているよ。治療も延命も、負担になるかもしれない」
中曽根 悠:
「そんな……」
胸が苦しい。
目の前のスズは診察台の上で、ただ静かに呼吸をしていた。
克己先生は、以前の冷たい言葉とはまた違う、どこか柔らかくも苦しそうな表情をして、俺と姉貴に言った。
西村 克己:
「一度、親御さんたちと一緒に話し合ってきてごらん。この子の最期を、どうするのか」
西村 克己:
「家でいつ訪れるかわからない死を見守るか……病院で皆で看取りながら安楽死をさせるか」
中曽根 悠:
「…………」
西村 克己:
「どちらも、メリットとデメリットがある」
西村 克己:
「でも、選ばなければいけない」
西村 克己:
「それが、生き物を飼うということだよ」
中曽根 悠:
「…………」
なぜだろう。
以前よりも克己先生の言葉が、すっと胸に落ちていく。
生き物を飼うということ。
あんなに簡単な気持ちで飼い始めたのに、終わりが近づいている今は、どっしりと重くのしかかる。
家で自然に任せて、いつ息を引き取るかわからない状況で看取ること。
病院で確実に、皆が見守ることのできる環境で安楽死をさせること。
それを、俺たちは決めなければいけない。
だってスズは、話をすることができないから。
だから、俺たちが決めなければいけない。
それが、飼いたいと言った俺たちの責任だから。
中曽根 雫:
「……悠、帰ったら、お母さんたちと話をしよう」
病院を出て、姉貴は俺にそう言った。
俺はただ、小さく「うん」と言うことしかできなかった。
・ ・ ・
そしてその夜、俺たちは家族で話し合う。
スズを今後どうするのか。
どう看取っていくのか。
俺は悩んだけれど、でもやっぱり、安楽死を選ぶことができなかった。
中曽根 悠:
「家で……看てやりたい」
父さん:
「そうか」
仕事で疲れていたはずの父さんも、真剣に俺たちの話を聞いてくれた。
リビングテーブルのまわりで向き合う俺たち家族。
そんな俺たちの少し離れた場所で、スズは定位置のクッションで静かに寝ている。
父さん:
「ならば、そうしよう。家で安心して、スズが最期を迎えるように」
母さん:
「……そうね」
父さんの言葉に、母さんも賛同する。
姉貴も俺と同じで、どうしても安楽死は選べられなかったようだ。
俺たちの意見は、案外スムーズに一致した。でも。
中曽根 悠:
「……俺、修学旅行休む」
俺の中で唯一、気がかりなことがあった。
母さん:
「え?」
中曽根 悠:
「スズのこと、心配だから……俺、休む」
いつどうなるかわからない段階にいる、スズの現状。
そんな中、3日間も離れることは、とても怖いことのように思えた。
しかし目の前の両親は、少し困った顔をして言う。
父さん:
「修学旅行は行ってきなさい、悠」
母さん:
「そうよ。最後の思い出作りじゃない」
中曽根 悠:
「でも……」
そう言いつつも、脳裏では楽しそうに笑うるりの顔が浮かんでいた。
大好きなるりとの京都散策。俺だって、楽しみにしている。
それに、ダチと楽しめる最後の学校での大きなイベント。
本当は、行きたい気持ちだって強い。
でも。
こんなスズを置いてって、俺は後悔しないだろうか──?
中曽根 雫:
「……行ってきなよ、悠」
最後にひと押しをしたのは、姉貴だった。
中曽根 雫:
「大丈夫。スズもきっと、それくらい待ってくれるよ」
中曽根 悠:
「…………」
中曽根 悠:
「……うん」
結局、俺は修学旅行へ行くことを選んだ。
・ ・ ・
そして、修学旅行の前日。
るりから自由行動での打ち合わせをしよう、という連絡がスマホに入った。
そういえば、最近はスズのことばかりを気にして、俺はるりとの自由行動を考えていなかったことに気がつく。
申し訳ない気持ちになって、その日の夕方に近所の公園でるりと待ち合わせた。
るりは京都の情報誌を持って、ベンチでうきうきと楽しそうに付箋を貼る。
戸田 るり:
「やっぱり伏見稲荷は欠かせないよね」
戸田 るり:
「あ、悠って抹茶苦手じゃない? このカフェ、行きたいなぁ」
中曽根 悠:
「うん、大丈夫だよ」
今日のるりは、とてもおしゃべりだ。
でもそれが、今の俺には助かる。
今の俺に、るりを楽しませるような会話ができる余裕は、なかったからだ。
不思議な心地で、おしゃべりをしているるりの横顔を見つめる。
るりと今、こうして一緒にいること。
それも、当たり前のことじゃないんだよな、と考えてしまう。
その時の俺は、変だった。
死に関することばかり考えていたせいか、そばにいる人たちの存在を、あらためて意識するようになっていた。
スズも。
親も。
姉貴も。
友人も。
るりも。
誰だって死ぬ。
当たり前にそこにいる人たちも、いつかは死ぬんだ。
中曽根 悠:
「…………」
そう考えていると、焦燥感が俺の胸をついてくる。
焦りに似た感情が、喉元をせり上がってきて、叫びそうになる。
怖い。
るりがいなくなるのは、怖い。
中曽根 悠:
「るり」
気がついたら、るりの名前を呼んでいた。
戸田 るり:
「うん?」
こちらに顔を向けたるり。
そのるりの唇に、俺はいつか大切にしようと思っていたキスをした。
不安に駆られた勢いのままに──したんだ。
戸田 るり:
「……っ!」
るりが顔を真っ赤にする。
俺はそんなるりの顔をじっと見て、ただ安心していた。
赤い頬。
触れた唇は柔らかかった。
温かくて、ちゃんと生きている証拠を、そこに宿している。
大丈夫──るりは、いなくならない。
中曽根 悠:
「…………」
……って。
俺、何してんだ。
バカなことをした、と頭をかいた。
中曽根 悠:
「行くか」
誤魔化すように、笑って立ち上がる。
後ろで焦ったように、るりがついてくるのがわかったのに、俺はしばらく振り返られずにいた。
中曽根 悠:
「…………」
こんなふうに、ファーストキスをするはずじゃなかった。
でも、仕方ないだろ。
怖いんだ。
この怖さをどうしても、和らげたかったんだ。
振り返って、手を差し出した。
何も知らないるりは、戸惑いつつも手を握ってくれる。
伝わる手のひらの体温。
それが、スズの温もりに似ていて──少しだけ泣きたくなった。
◇ 続く ◇




